快から不快に転じるとき

自分の感情がわからないときに使う、
「快」か「不快」か?という問いかけですが、
これは、対人にも言えることで、
自分にとっていい感じの人なのか、そうではない人なのか?
と直観的にざっくり分けられていたりします。

自分にとって「快」と感じていた人が、
一転して「不快」に感じてしまう・・・ということがあるのですが、
それは、ほとんどの場合、相手が(状況が)自分の思い通りにいかなかったときです。
そもそも、人は、
自分の思い通りにいかないことに対して、
怒ったり、悲しんだり、寂しがったり、もやもやしたりしているんだと思います。

かたや思い通りにいかなくても、
まったく気にならないということもあります。
それは、相手に何の期待もしていないとき、しなくてもいいときかもしれません。

人に何かしらこうなってほしい、こうなるだろう、
という思惑はすべて、
そうでないと自分が困るようなことがあるからです。
そして、ひそかにどこか人に対して期待をしているのです。
人間関係を不快なものにしたくないというより、
自分の気分がよいようにしたい(自分を不快にさせたくない)。
だから、自分の思い通りであってほしいのだ。

人がどんなパターンを持ち、どんな選択をしていくのか、
そこにもちゃんと自由意思があります。
その意思を否定し、自分のパターンで、こうあるべきだと、
コントロールしようとしていた自分がいたんだなあと思いました。
これも、感情が動かなければ気づけないことでした。

いくら、その人を理解しているとか、
その人を尊重してきたとか思っていても、
自分のパターンに触れたとたん、感情が暴れだすということは、
ただ単に、今までは、
その人が自分のパターンにたまたま引っかかるようなことをしなかった、
だけなのかもしれません。
感情は正直なので、他人には気づかれなくても「私」はちゃんと冷静に観察しています。

●自分の思い通りにしたい
というのは、黒パターンの王様。
このパターンが、人としての苦しみの根源としてあり、
これがいろいろ、パターンの名前を変え、すがた形を変えて現れるのです。

でも、この王様パターンのとなりには、
〇自分の思い通りでなくても、もういいのかもしれない
もあります(相反するものがある)。
もしも、思い通りでなくても自分が大丈夫であるのなら、
そこには自由があり、すがすがしい関係性がきっと築けていけるのだと思います。

語りかけをていねいに。
そして、「私」が選ぶものは、
自分の思い通りでなくても、もう十分やっていけるというところ。
このすがすがしい感覚を浴びながら、またやっていこうと思います。


電球の使い方がgood!







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