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ちょうどよく

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普段まめに掃除をしない自分は、 お客さんが来るときと、 これはもうやった方がいいだろうという自分独自の限界がきたときと、 そして、今まさに重い腰があがるとき・・・年末の掃除をしています。 心身の調子もここでわかるような感じがあって、 いつの年だったかは、全く何一つ掃除をせずに正月を迎えたということもあったなあと思い出します。 今年はというと、水回りだけですが普段よりちょっと念入りにやったのでもう満足。 調子もまずまずいいのかなあと感じています。 掃除の後は、娘と久しぶりに鉈屋町までお出かけしました。 気になっている 古着屋さん へ行き、 娘は、古着もさることながら、町家の風情を残したいい具合の建物構造を関心してみていました。 娘と自分は建物をみることが大好きで、娘は仕事柄、どうやってリノベーションするかを想像し、 自分は実際に昔ここに住んでいた人たちの暮らしを想像し、 お互いが古さを共通に、違ったお店の楽しみ方をしているんだなあと思いました。 途中歩いているとだんだん小降りだった雪が猛吹雪へと変わり、 たまたま見つけたお店で一休みすることにしました。 いい匂いに誘われて注文したのは、ミニうどんとおいなりさんのセット。 娘が「わ~、これ、ちょうどいいねえ」 お~、確かにちょうどいいかも・・・。 量も、組み合わせも、味付けも、 食べる時間的にも夕飯に影響しないグットタイミングでの軽食。 ちょうどいいって言葉、 なんだかピタッと今の自分にはまりました。 ピタッとすると気持ちがよくて、この気持ちよさの積み重ねが大事なのだと思えました。 自分の身の丈にあったこと、その分量、内容、心身への影響、そして時期は今なのかもう少しゆっくり先なのか。 今の自分に見合うものが、元々用意されているのに、 自分で背伸びをしてしまったり、怖気ついてしまったり、無理なやり方でそれをやろうとしていないだろうか。 そういうアンバランスなことをやっている自分をしばし感じた師走でした。 きっと白パターンを選び行動していけるようになると、 そのあたりが本当に「ちょうどいい感じ」に流れていくのではないかと思います。 楽に生きられるようになる、というのはまずはそういう実感なのだと思います。 そうやって少しづつ、これでちょうどいい?と世間一般的にはそう見えないようなことであっても、 すべてを、「ちょどよくやってい...

ゆがんだ目

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自分のパターンとして嫌いだと思う人のことを、 自分は随分と長い間、 『ゆがんだ目』で見続けていたんだなあと気づかされるようなことがありました。 パターンがいつも訴えてくることは、 そのひどい言い方はやめてほしい、上からものを言うのをやめてほしい、 もう自分をバカにしないでほしいのです。 とにかく自分を軽蔑しているような、さげすむような、完全に上から目線の態度に、 いつも怒り、悲しみ、怯え、大嫌いだーーー!と叫びたい気持ちで長い間います。 そんな結構大きなパターンだったのですが・・・ 自分っていままで何を見ていたのだろうって、 何かすごくゆがんだ見方しかしてこなかったんじゃないか、 と思いました(パターンってそういうものなのだが)。 自分もその人に対して、 あれ?同じことしていたかもしれない、とハッとしました。 もちろん、その人のようなひどい態度はとっていないつもりだったし、 されて嫌なことはしていないつもりでしたが、そうじゃなかったんだなあ・・・と。 あることをきっかけに、その人からにじみ出る『孤独』を感じたとき、 その寂しさは、ものすごく悲しく冷たさを感じるもので、 でもなぜか、とてもよくその孤独がわかるような気がしました。 自分だったら本当にむなしく思うだろうな・・・ だからがんばってきた。 だから虚勢を張ってきた。 それは自分の中にもあるものでした。 そういうことが実は今まで、全くわからないわけでもなかったのですが、 でも、だからといって、ああいう言い方はよくないと自分のパターンはゆるせなかったのです。 その孤独とやらも自業自得なんだと、パターンは振り払うのです。 自分の心に確かに何度か感じていたものをないものにして、 またゆがんだ目でその人を見続けようとする自分がいました。 憎しみって、一度そう感じてしまうと、 憎しみにふさわしくないものは許さないかのように、何か強烈な力が働くように思います。 これは、完全にパターンにのみ込まれている状態です。 だから、好きの感情も嫌いの感情も、 そこから憎しみに変わってしまうところへは、野放しにしない方がいいと思いました。 憎しみには、今起きていることを正確に見る力はないんですね。 自分はかなりの時間を要して、 そのゆがんだ見方で何が見えるのかを体験をしていたと思います。 そのあたり前に思っていた(それが正しい見方だと思っ...

現状維持よりは

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先日、来年は現状維持でいこうか、それともステップアップ目指そうか、 という話題がでました。 現状維持・・・ステップアップ・・・ 今ある状態をどう捉えるかによって、どちらも正しいのだと思います。 でも、自分のパターンとしては、 現状維持でいたいって本音ではないんじゃないか、って思い胸がざわざわしてしまいました。 毎日、変わりばえのない生活で、仕事もそんな困ったこともないし、 人間関係も表面的にやれてはいる・・・それで(無難な方で)いいかなという思い。 問題が起きなければとても平和に暮らせると感じるのかもしれません。 でも少し物足りない感じというか、 本当のところは何の成長もしていない自分を見るのはどこか寂しい、とは感じないのだろうか・・・ と思ってしまいます(これもパターンだが)。 かといって、ステップアップを目指すというと、 何かしらの挑戦や新しいことをするということでもあるので、それがどういう結果になるのかを考えると、 現状維持の方がハードル低そうだし、ちょっと安心って思うのかもしれません。 今自分の置かれてある状態をよーーーーく見てみると、 決して何も変わらずにいることって現実にはないんじゃないかと思います。 実際に何か大きな変化はなかったなあと思っていても、 全く自分の内面が変わっていないということはないし。 結果的に、現状維持のままだったなあって思うことはあっても、 はじめからこのままでいい、というのは逆に今いる現実を見ないようにしているのかな。 今のままで充分幸せだと思うときであっても、 今のままでずっと誰も何も変わらないでほしいと願っていても、 やはり月日は流れ、同じ毎日はないです。 変わっていないと思うことも、変われないと思うことも、変わっては困ると思うことも、 全部パターンが思っていることだから・・・ 現状維持(変わらないこと)を目指すにも、結局はステップアップ(変わること)が必要なのだと思います。 今の状態をちゃんと理解し、見極め、受け容れることができたらいいなあと感じます。 今自分がどこに立っていて、どっちの方向を向いているのか、 自分のいる場所を把握していないと、目指す方向もわからなくなってしまいそうです。 何を変えて何を変えないのか・・・ 自分であれば、「変えない」ということの中に、 自分を観察すること、ケアすること、「私」が選択をする、など...

幸せなケーキ

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クリスマスは、やはりケーキを食べたくなってしまいます。 今年はショートケーキを買って食べ比べしようということになり、 夫がいろいろ買ってきてくれました。 子どもが小さい頃は、わたしたちも当然まだ若いですから、甘いものに対する食欲もはんぱなく・・・ ひとり1ホールまるごと食べる!という贅沢をしたことがありました。 ホールを何等分かにカットするのではなく、そのままスプーンで穴を掘って食べます(または、かぶりつく)。 娘も大喜びですが、大人の私たちこそ楽しんでいたかもしれません。 自分だけのホールケーキですからね。 今は・・・というと、ショートケーキ1〜2個食べたらもうお腹いっぱいです。 それよりも、家族みんなが元気でクリスマスのご馳走を食べられる、 ということがとても嬉しいなあと思いました。 何か本当に小さな幸せですが、今年も一緒にこのときを過ごせたことに感謝です。 そして職場でもケーキのプレゼントがありましたが、 何かのご縁で知り合えた方々と、この時間を共に過ごし、わいわい言いながらケーキを分け合って食べる。 この、同じものを分け合って食べるって、これだけのことなのに、 とても嬉しい気持ちになってしまいました。 みんなが笑って美味しそうにケーキを食べている。 その光景を見ている自分。 この仕事をしてきて本当に良かったなあと、じーんときてしまいました。 こうして、毎年クリスマスから年末年始に向けて、 結構なんだかんだで食べてしまいます。 今年こそは体をたくさん動かしながら、あえてジーンズをはき、 お腹具合を調整して、すっきりと健やかなお正月を迎えたいです。

飲み会って

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忘年会の季節ですが今年も自粛しているところは多いようです。 普段の飲み会も歓送迎会も、 とかく大勢でお酒を飲むという機会は、この2年で激減したのではないでしょうか。 自分はお酒が大好きなのですが(特に日本酒が)、 過去に経験した『飲み会』と名の付くものには、 ただただ気疲れしてしまったとか、 気が合わない人(パターンに引っかかる人)と一緒でつまらなかったとか、 にがい思い出のものが結構あったように思います。 そのため、一人でつまみを作って家飲みするのが一番好きかもしれません。 お酒の力を借りて親睦を深める。 それは、しらふでは親睦が図れないから・・・ということなんでしょうか。 経験上、親睦というほど心を開示し合うというわけではないし、 お酒を一緒に飲んだから信頼感が増したとかいうのもなかったように思うし、 何か本音でじっくりとお話ができてよかったと思うことは、お酒の力とは関係なかったように思います。 そんな感じの飲み会をたくさん経験し、 今はというと・・・気持ちのよいお酒しか飲まない(よい時間しか過ごさない)、になっている感じがします。 外で飲む機会はそんなに多くはないのですが、 本当に会いたい人、話したい人とだけ時間を作るようになったので、 その時間は以前よりもゆったりとしていて、純粋に料理を味わい、お酒を味わい、 何よりそういう時間をとても楽しめるようになりました。 コロナで良かったことの一つなのかなと思いましたが、 そもそもそういう飲み方を自分が今まで選択してこなかったんだなあと気づかされた思いがします。 飲み会とは、はめを外すおもしろさはあるかもしれませんが、 なぜか楽しまなければ損したように思ってしまう・・・そういうパターンが自分にはありました。 別に楽しくない時間などあってもいいのに、 飲み会には、そういう時間であってほしくないと思うパターンがいるのです・・・不思議。 そして、断りたいけど断れない、断ったらなんだか悪いというのも、飲み会にはあるように思いました。 何かの用事は断れるのに、飲み会ありますよ!と言われると、 嫌われたくないとか、つきあいが悪いと思われたくないとか、 暗い性格だと思われたくないとか、自分の知らないところで盛り上がってほしくないとか、 そういう他人を気にするパターンが出てきてしまうようでした。 もし、今、飲み会があったとしたら(行...

今にある

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12月に入り、去年の今頃はどうだったかな?とふと思いました。 いつ雪が降ったのか、寒さがどうで何を着ていたのか、体調はどうだったのかなとか、 仕事は確か年末に向けて大変なことがあったはずだったけど、結局どんなふうに自分が過ごしていたのか・・・ 何かとっても一生懸命だったことだけはわかるのですが、 もう随分昔に起きたことのように感じて、思い出せないことの方が圧倒的に多いなあと思いました。 『今にある』という生き方が、 ちょっと前まではそうありたいと思ってもなかなかできなかったように思うのです。 いつも過去のデータの範囲で、できるできないを判断し、 未来を想像しては不安で動けなくて、まだ起きてもいないことを心配していた・・・。 それが、最近はむしろ今しかないくらい、今やることで一日が終わるような気がします。 今日やろうと思っていること、今日電話しようと思っていること、今日はこれ食べよう、 今日はあの人にこの話をしよう、今日はこの本を読もう・・・ というように今という時間だけのことを考えるより、感じ取って動いている気がしています。 それと伴って、年々記憶力も低下していることを実感しています。 大事なこととか、興味のあることとか、必要なこと以外は本当に驚くほど抜けていって、覚えていられない・・・。 でも、その抜けたスペースに今見ているものが入っている感じもあり。 こんなに抜けて、忘れてしまって大丈夫かなと思うところもありますが、 それがないとまた自分が新しいものを入れられなくなっていることも感じるのです。 先日、母親が「若いときのようにいろんなことを考えられなくなったのよね」 といっていたことを思い出しました。 それは、年を取ってよくない意味で言っていたと思うのですが、 そうやって、考えることが少なくなっていくって、 そのときどきの感情(たのしい、うれしい、さみしい、かなしい)を大切にして生きていくことのように見えました。 それって、自分をどんどん楽にしていくっていうことでしょうか。 自分の身の周りの世界(考えなくなっている分だけ)がどんどん縮小されていくようなイメージもあります。 世界が小さくなるというより、しぼられてくるような感じもあって、 それは、見えるものが狭くなっていくということではないと思うし、 見なくてもいいもの(関わらなくていいこと)への区別がついてくるよう...

ちょっとずつがんばる

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マスター級の白を選ぶというのは、今の自分には現実的ではないです。 中には、小さな引っかかりならば、真逆の白を選べるときもなきにしもあらずですが、 そういうパターンはまだまだ自分は少ないと思います。 日常的にモヤモヤしたりイライラしたりということはあり、 語りかけの回数も選んだ白の種類も、根が深いパターンほど丁寧に関わっていくことが大事なのだと思います。 嫌なことを嫌じゃないとはなかなか思えないし、 してほしかったことに対して、してくれなくても全然平気~ にはならないことの方が多いのです(「私」ではなく、パターンが思っていることにすぎないのだが)。 『マスター級ではない白を選ぼう』と思っても、 どういう白だったらしっくりくるのかという点は、本当に白の選択肢はいろいろありますので、 一生懸命に言葉をつなげてあれこれ考え抜いたとしても、結局は「私」の感覚がたよりなんだと思います。 実際に今の自分が今すぐにでもこれなら選べそう、というところで判断するということでもあります。 実践が難しい白ではもちろん作った時点で、ちょっと違和感があって、これではないとわかるのですが、 実践が可能なのかどうか微妙なものを作ることもあります。 そこには、いずれそうなっていきたい、そう成りつつある自分でありたい、 という気持ちを持っているからだなのだと思います。 それは、黒はもう選ばないという選択がまずはじめにあって、選ぶなら白だと(ここは明確にわかる)。 その白を可能なものにしたいという願望が、 白パターンの言葉の中にではなく、言葉の裏に隠されているものとして、 『ちょっとずつがんばっていこう』というものがあるように思いました。 言葉として白の中に『がんばる』が入ってしまうと、 そうなっていない自分を否定するような、そしてがんばる方向へ無理をして向かうような感じがありますが、 言葉には使わないけれど気持ちとして、そうだということ。 自分がこの先に何を得られるかなどということも考えず(期待せず)、 まずできるかどうかわからないけれど、 ちょっとずつやってみたいというところは大事にしていいのではないかと思いました。 ガチでやろう!ではなく、 もっとやわらかに、力を入れずに、楽しむように、広がりを感じながらやれるものです。 よく、成長したことを確認しないようにと言われるのですが、 気持ちが軽くおだや...

寂聴さんとわたしの師

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瀬戸内寂聴さんの本をはじめて読んだのは、 母親を亡くした友人がとても寂しそうに見え、 何かなぐさめになるものはないかと本屋さんの中を歩いては、探し見つけたものでした。 まだ自分も若かったので、 家族を失うという想像を絶する深い悲しみを救ってあげられるのは、もうお坊さんの話しかないと、 今思うと単純な発想ですがそこから寂聴さんの本を読むようになりました。 浄法寺町(現在の岩手県二戸市)にある、みちのくの霊山と言われる天台寺に、 寂聴さんは名誉住職を務めていました。 30年ほど続いた青空法話に何度か自分も足を運んだことがあり、 反戦運動や脱原発のときに見せた勇気あるお姿や、 被災地を見舞う優しく力強く、いつもユーモアを絶やさない寂聴さんをとても身近に感じていたように思います。 そんな寂聴さんが書いた歴史小説は、今まで読んだことがなく・・・ 先月悲報があったとき、はじめて読んでみようと手にしたものが、 『釈迦』~新潮文庫~でした。 お釈迦様と実際に存在した弟子たちの名前が登場し、 全てが小説であるのにもかかわらず、ここはこの部分は真実ではないかと思ってしまうほど、 あまりにも面白くて一晩で一気に読んでしまいました。 その面白さに反してわき起こる静かな緊張感・・・もありました。 死が近づいてもなお人々にお教えを説くお釈迦様。 世尊と呼ぶ弟子のアーナンダの抑えきれない悲しみと自分を律する気持ち。 それが自分と重なるような、自分がいずれ経験するであろうことのように思ってしまいました。 本を読まれた方ならば、釈迦の弟子と自分を重ねてみるとは、 なんて恐れ多いことを思うのだろうと思うかもしれません。 でも、自分がこの現世で師と仰ぐ、学びの先生との別れがいつか来たときに、 同じような思いをするのではないかと思わずにはいられませんでした。 この小説の中で描かれている生老病死。 死に向き合うことの対象者を、 恋人、家族、無二の親友、お世話になった方、可愛がっている家族同然のペット・・・ これまで自分が生きてきた中で想像できる対象はそれだけだったのですが、 『師』という存在への別れを考える機会となったのは、はじめてのことだったと思います。 人生のそのときどきに、 自分にとっての恩師という存在は少なからずいたのかもしれません。 学校の先生や習い事の先生、人生の岐路に立たされたときに自分を導い...

白の感覚いろいろ

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自分ではないもの『パターン』が理想を語っていたんだ、ということを知ってからは、 『自分』という言葉の意味も一般的に使うそれとは別なものに変わっていきました。 自分の理想は? なりたい自分は? などと考えるときに、一般的に使っている『自分』ではなく、 本当の「私」が自分であるというところで考えます。 パターンが言っている理想は、本当の自分「私」ではないところでの話です。 ですから、パターンの理想が叶ったとしても、 本当の意味では、心が軽くなることも晴れることもないので(一時的には満たされるけれど)、 いつまでたっても見る世界は変化せず、これが(今パターンで見ているものが)現実か・・・ と思ってしまっている方は多いと思うのです。 この晴れることがない気持ちの悪さを、 思考という便利な機能を使って、根拠を見つけて納得させていくこともできます。 でも、思考はパターンですので、自分の中に嘘があることに気づいてしまうのだと思います。 そこが気持ちの悪さがぬぐえないところなんだと思う。 白の気持ちのよい感覚というものは、 人によっては感じ方もその表現も違うと思うので、初めはわかりにくいかもしれません。 自分がパターンの存在を知った後も、 なかなか白を選べなかったとき(いろいろその為のワークはありますが)、 こんな感じでいいのだろうか?と思ったことがありました。 やっていく中で、この白はわかりやすいかも、と思ったものを思い出すと、 「もう期待をしなくてもいいのかもしれない」という白を選んだときのことです。 思考100%人間だった自分が、そうじゃなくなっていく過程として、 もしも「期待をしない」とどうなるかを想像しました。 期待を持たないということは楽しみや喜び、希望を持たないということではないです。 一見、ポジティブなことの中にも、パターンがやっていることはあって、 でもそうならなくてもいいのかもしれない、 そうならなくても平気でいられたらきっと心は軽いだろう!と思えたのだと思います。 期待しない、願わない、そうなっていく自分を想像するだけで、肩の力が抜けるような、 そこのこだわりから解放されるような、本当の安心感が得られたような気がしました。 だから自然と、考え方としてだけではなく、 そのほっとする感覚はまさしく白なんだな~と実感しやすかったのを覚えています。 白というのは、うれ...

会議で質問

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とてもお堅い会議に出席しました。 予定が入ったときから、嫌だなあ~って思っていたので、 行くまでやる気ゼロでした・・・。 決まりきった挨拶からはじまり、各担当者からの資料に沿ったお堅い話がつづきます。 ここで思ったことがありました。 このまま、だるい~と思いながら2時間過ごすのか、 白に入ったときのあの軽くすがすがしい感覚を持ちながら過ごすのか、 この場をどう使うか、というのは自分次第だということ。 今回自分はどうしたかというと、 「ちゃんと聞いてみる」という部屋と「適当に聞く」という部屋に入ります。 すると、じっくりと全部一通りちゃんと話を聞いてみよう・・・を選びたくなったのです。 渡された資料をちゃんと読み、 説明中もしっかりとその言葉の意味を理解しながら聞いてみました。 不明なところはメモを取り、 意見が出たときは、それってどういうことなんだろう?と考えてみました。 最後に質問や意見がありますかと聞かれたときに、 聞いてみたいことが頭に浮かび、思い切って質問してみることに・・・ 結果、自分の考えたことはすでに実行済みということで、 「あ~そうでしたか・・・知らないでいてすみませんでした」 と言ってあっけなく終わりました。 いつもだと、言わなきゃよかったなあと後悔するようなことだったと思うのですが、 自分が納得するために聞くということが、こんなにあたり前なことだったのか・・・ と、本当にあっさりと思いました。 そして、これは兎にも角にも、 話しをちゃんと聞いていたから、自分は聞けたのかもしれません。 たとえ間違ったことや知らなかったことを言ったとしても、 この話は自分がはじめから最後までちゃんと聞いていた、と思えたから、 堂々としている感じというか、 自然体でいられるものなんだと発見でした。 人は間違うこともあれば、知らないこともあり、 また勘違いしていることもあれば、よく理解できていることもたまにある。 だから、何か質問したり意見を言ったりということは、 思ったよりも大したことじゃないんだなと、 人としてそういうことってたくさんあるよと、あらためて経験させてもらった気がしました。 お堅そうな会議であればあるほど、黙っていた方が無難と思っていたのですが、 無難じゃなくてもいいということも経験できたような気がしました。 興味はないけれど、やらねばならないということ...

親へのパターン

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久しぶりに父親に会いに行ってきました。 コロナ中も会えるときがありましたが、玄関で数分間のビニール越しでしたので、 距離間があると父も自分に会いにきているということがわからないようで、 話しかけてもうわの空状態でした。 だんだん娘だということも忘れさられてしまっている・・・ 自分に関心を示さない父を見るのがつらかったりして、 コロナを理由に足が遠のいていたのが正直なところでした。 この数か月間のうちに、大好きな叔母が亡くなったり、 昨日まで言葉を交わしていたご近所の方が亡くなったりということがあって、 やはり人との別れに思うのは、もっと会いに行けばよかったという思いです。 たとえ自分のことがわからなくなってしまったとしても、 わたしが会いたいのだから、それでいいと思い父に会いに行きました。 手を握ると思ったよりも温かく、ずーっとわたしの手を握ったまま何か話しています。 また一本歯が抜けてしまったみたいで(もう前歯は数本しか残っていない)、 「歯が無くなっちゃったね~」と笑うと、 笑われて恥ずかしいと思ったのか、父は口を真一文字に閉じてしまいました。 元気そうでほっとしました。 まだこうして会話にならない会話ではあるけれど、話しかけると聞いているような感じもあります。 そんなやり取りをしていると、スタッフの方たちが集まってきて、 こんなことあんなことがあったと、いろいろエピソードを教えてくれました。 話すこともままならないのに、まさか今ギャグを言おうとした? というときがあったそう。 スタッフさんたちは、まさか!と思い、耳を澄ます・・・ ああ、そう言えば、よくおやじギャグを言っていたっけ・・・と家にいた頃を思い出しました。 本当に頑固なところはあったけれど、落語も漫才も好きな楽しい父だったのです。 母に対する●自分をおいていかないでほしい、というパターン。 父にも同じようにあるのだと思いました。 パターンは、 もう無条件に自分を愛してくれる人がこの世からいなくなってしまうことに耐えられないと思っています。 どんなときも自分を一番に思ってくれた人を失うという怖さ、悲しさ、 本当にたった一人になってしまうんだという寂しさ。 ここから本当の「私」が白を選択していくとしたら、 ○自分は一人で生きていけるのかもしれない ○もしかしたら一人で生きていける準備ができているのかもしれ...

思い込みのコミュニケーション

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コミュニケーションはお互いの思い込みによって作られる・・・という話を聞きました。 どういうことかというと、 例えば、聞かれたことがなんだか難しくてちゃんと答えられず、 ズレた話をしてしまったということがあったとします。 相手は相手で、そのズレた話を理解しようと考えるのですが、 そのズレた感じが何か自分の考えが及ばないところで実はすごいことを言っているのではないか、 と思ってしまうのです。 自分にしてみれば、「こんな難しい話をするなんて、かなり頭がいい人なんだろうなあ」 という思い込みの元に、 がんばって答えようとしたんだけど、うまく答えられなかったということだったのですが、 相手は相手で、 返ってきた答えが理解に苦しむ表現だったがゆえに、 「頭のいい人は言うことが違うんだなあ」 と相手も勝手にすごい人なのかもしれないと思い込んでしまったということなんです。 お互いが想像したものと事実は違っている(それが思い込み)という話でした。 こんなふうに、コミュニケーションを取ろうとするときは、 少なからず、いろんな意味で相手のレベルに合わせるということを考えると思うのですが、 その相手とはどんな人間であるのか・・・ 自分の想像の中で人物像をつくりだし、 その架空の人物にむかって聞いたり話したりしている、ということなのだそうです。 この話を聞いたとき、 学びでいうところの『パターンで人を見ている』ということに似ているなあと思いました。 想像の中で人物像をつくりだす、というのもパターンであるし、 自分にはかなわない相手なのだと受け取っておいた方が、理解できなくてもしかたない、 後から傷つかなくてすむ、などと思うのもパターンです。 思い込みがよくないということではないですが、 それが白の感覚での思い込みであったとしたら、 きっと相手の反応は気にならないのではないかと思いました。 白の気持ちのよい感覚の元で、行動を選択していけたら、 どんな反応をされたとしても、相手を過剰にすごい人と捉えることもないでしょうし、 自分より劣っている人だと捉えることもないかもしれないです。 心をいかに軽くしたままコミュニケーションを取っていけるか・・・ というところが大事なんだと感じます。 相手が勝手に自分という人間を美化することもありますし、よく思われていないということもあります。 どちらにしても、 ...

季節外れ

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最近、トマト(中くらいの大きさのもの)をなにかと料理に使っています。 夏に植えたトマトが雑草の中に埋もれ、姿を消し、 先日の庭の片付けのときに、雑草とともに引き抜いて捨てるはずでした。 が、しかし~ 何の罪もない青いトマトたちを見ていたら申し訳ない気持ちになり、全部は捨てきれませんでした。 赤くなりそこなった青々としたトマト30~40個くらい?収穫し、 ざるに広げて日光浴をさせること数週間。 太陽の力ってすごいですね。 一つ、二つとだんだん赤く色づいていくではありませんか・・・ この時間差がまた料理に使うにはちょうどよく、毎日食べております。 おでんやロールキャベツ、ポトフなど、汁物に入れて煮込むとうま味がとっても増します。 トマトそのもので食べるよりも、こっちの方が自分は好きかもしれません。 料理人の知人から、 トマトには旨味の成分と言われるグルタミン酸が多く含まれているから、 煮炊きするものに入れると食材のおいしさがぐっと引き出されるんだよ~ という話を聞いたのは数年前のこと。 この話は、自分にとっては初耳だったのですが、 知っている人はおでんにトマトって意外ではないみたいですね。 料理人が言っている側から、おでんには合わないでしょと言い張り、 まったく試す気がなく来たのですが、 お弁当に毎日一個入れても食べきれないトマトの量に、やっと挑戦してみようと思ったのでした。 そして・・・ こんなに美味しいのなら、早く試せばよかったと思いました。 トマトは夏野菜(陰性)なので体を冷やす作用がありますが、 こうして火(陽性)をじっくり通すことで、陰陽のバランスがとれ、 季節外れの野菜も体を冷やすことなくしかも美味しく食べることができます。 それにしても、こんな緑色のトマトがこんな赤くなっていけるんだからなあ〜 とても感慨深いです。 地面の上ではちゃんとお世話できませんでしたが、 ざるの上では育ってくれてありがとう。

インナーチャイルドと話す

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 話の中に多く登場したのは『インナーチャイルド』のことでした。 小さい頃につらい経験をした当時の子どもの自分。 その子が癒されることなくそのまま長い年月が過ぎ、心の内に今もなお取り残されているのです。 その子は、過去の自分自身でもあるため、どんなことに傷つき悲しい思いをしたのか、 おおよそのところは思い出すことができます。 ただ、あまりにも深く傷つき、悲しみ、怖がっているために、 その子は今もひとりぼっちで泣いていたり、震えていたり、 不安なまま、息をひそめ、何も言えず、時が止まったまま『そこにいる』のです。 そういう子たちに、今の自分が会いに行ってあげるのですが・・・ はじめてインナーチャイルドの話を聞いたときは、 会いに行くってどういうこと? と、とても戸惑いました。 生身の人間に会うわけではないので、どうやってその子の側にいけばいいのか。 またその子と(やはり生身の人間ではないので)何の話をしたらいいのか、 またその子は、大人になっているわたしへ本心を話してくれるのだろうか・・・ その子は自分、自分はその子?と混乱するような感じがしました。 でも、そんな理屈理論とは全く関係のないところで、 思い出の中のその子(自分)は確かに、その当時のまんま、 寂しそうに一人ぽつんとただそこにいて、 その姿を見たら、 そばにいてあげたいという気持ちに自然になっていきました。 当時の自分よりいろんなことを経験し、失敗もし、 それでも何とか今日までやってこれた大人の自分が今はいます。 優しさも強さもユーモアも、いろんな要素がまじりあってあの頃よりはたくましくなっている自分。 今にも壊れてしまいそうな心もとないその子を助けたい。 どんな話も聞いてあげたい。 今の自分ならばわかってあげられる。 氷が溶けるように本当に少しずつ少しずつ、 焦らずゆっくりと何が怖かったのか、何が不安だったのか、本当はどうしてもらいたかった? 少しずつ理解を深めていく。 安心してもらえると、こちらもほっとするような感覚が生まれてきます。 そしてその感覚とともに、 その子の見ている情景が変わり、表情が変わり、心は澄み渡るように広がっていくのでした。 インナーチャイルドのケアは、とても大事なものなんだと思います。 いろいろなパターンに引っかかるときに、 その核心にあるものが子ども...

風通しよく

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風通しのいい関係って、いいなあ~と思います。 思ったことを何でも言い合える、嘘のない関係? 思ったことが言えてないというのは、 誰かに遠慮しているとか、悪く思われたくないとか、勘違いされたくないとか、 どう思われるかが気になって何も言えなくなるということ。 だから、そういうことを考えずに話せるというのは、 お互いに理解し合いたいという気持ちが根底にあってそうなるものかもしれません。 また、嘘があるとかないとかいうところに焦点がいくのは、 関係性を築くときに、 正直でありたいという、心と発する言葉を一致させたいという気持ちがあるように思います。 また、正直さはあった方がいいとは思うけれど、 嘘をつかなくて済むような関係というのは、 どう思われるか自分が心配しないで済む関係のことを言っているのかもしれません。 なんだかそっちは、保身的だし相手にゆだねすぎているように思います(自分ではなく相手次第)。 思ったことを言えないというとき、とても息苦しさを感じます。 言ってしまったら何かよくない状況になると思っているので、そうなることを恐れ我慢するので苦しい。 自分が言った言葉で相手を傷つけたらどうしよう、 相手を不快にさせたらどうしよう、 相手が自分を嫌ったら、自分から離れていったら・・・ これは、我慢させられる相手がいるからそうなるように聞こえますが、 全て自分の(自分が起こしている、創り出している)話なんだと思います。 相手が傷ついたら、自分が悪者になるのが怖い。 相手が不快に思ったら、自分が責められているようで辛い。 嫌われたらもう生きていけない、離れていったらひとりぼっちになってしまう、もう安心できないなどなど。 自分が怖い思いをしたくなくて辛い思いをしたくなくて、 孤独で不安にならないことを望んでいるからなのだ。 または、その望んだ状態があることが幸せなんだ(それ以外はダメ)と思っている。 だから風通しよくしたい、と思ってみても、 先頭をきってそうするには勇気がいるし、 もしかしたらリスクがあるかも、大変な思いをするかも、 今のままの方が傷つかないで済むし~って、ちょっとひるむときがあります。 そう思うこと自体がパターンであるのですが、 人って、大変なことはできるだけ避けて生きたいと思ってしまうのだ。 ただ・・・ その『大変なこと』を越えて吹く風は、このうえなく爽や...

期待はずれ

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夫婦のかたちはいろいろあります。 これからあと何年何十年一緒に暮らすのだろう~と思うと、 どんな夫婦でありたいか? わたしたち、もそうですが、 まずわたしはどうありたいのか?を考えてしまいます。 先日、たぶん自分では夫の返ってくる言葉がなんとなく想像できていたので、 その返ってくる答えをどこか期待して話していたのだと思いました。 それが・・・ 期待外れの、まったくもってわたしの気持ちを理解していない、 パターンに引っかかりまくる答えしか返って来ませんでした。 わたしはあまりにも腹が立って無言になる。 でも、無言(無視ともいう)状態のわたしに対して夫は食い下がります。 なんで黙ってんの? 図星だから腹が立つんじゃないの? ず・ぼ・し・だ・か・ら・・・ という夫の言葉が胸にささりました。 ●わかったようなことを言われたくない ●そんなふうな言い方をされたくない ●(図星と言われた内容を)自分はそんな人間ではない というあたりのパターンが大暴れです。 「わかってもらえないと思ったら悲しくなった!」 と伝えると、 「もっと話してくれないとわかんない」 と言われました。 もしかしたら、結果的に自分の望む答えが得られなかったとしても、 自分がここまで話せたのだからと思えれば、それでOKだったのかもしれません。 言えた・・・ということがとても大事だった。 「そうじゃないよ~」「こう思ってるんだってば~」「こう言ってくれー」 などなど口にしながら、あきらめずにたくさん話せばよかったんだと思いました。 またのチャンスのときは、 相手にわかるように、正直なそのときの自分の気持ちも伝えながら話そうと思います。 ひとつ屋根の下で暮らすもの同士、 話せないでいることがあるというのは、気持ちが晴れないものですね。 とことん話し合える夫婦、 理解し合おうとする夫婦、 究極は~、お互いがそのままでいいと思える夫婦に、少しでも近づけたらいいなあと思います。

愛を学ぶ

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ネガティブさが人とのつながりを強いものにするといいます。 ポジティブなことよりも、 悲しいこと、つらいこと、寂しいこと、傷ついたこと、腹が立ったことなどの方が、 共感しあえるものの深さが違うのだと思います。 ネガティブなことをひとりで抱えるのはそれだけつらく、共感で救われるような気持ちになるからかもしれません。 どれくらいの悲しさであるのか、つらさであるのかは、 人によって言葉で計れないもののはずなのですが、 共感してもらった、と感じると、 自分のそれを理解してもらったような気持ちになってしまいます。 そして、話を聞いた方も相手のその痛みに寄り添いたい、優しくしたい、 という思いがわいてくるような気がします。 もし、その人と同じことをされたら・・・と想像しました(愛されていないという話を聞いた)。 とても寂しく、悲しく、どうして愛してくれないんだという怒りがあるのだろうなと思った。 自分を愛されるに値しない価値のない人間だと思ってしまうかもしれない。 事実はどうなのかわからないけれど(本当は愛されていたかもしれないし)、 少なくとも自分がしてほしいこと、ささやかな望みさえも全く叶えられなかったとしたら、 これからどうやって生きていったらいいのだろう・・・と、 深い悲しみの果てに、生きる気力さえも失ってしまうかもしれないと想像してしまいました。 同じ体験をしていなくても、 その人のそのときの気持ちと同じような気持ちになってしまうことがあります。 たとえ想像での共感であっても、 そう感じた瞬間に、これまでのその人のやってきたことや口にしてきた過去のことさえも、 少し理解できたような、 体験がその人を作ったのだと思ったのです(これもその人のパターンではあったが)。 そして、とても小さな子どものように見えました。 きっとその人のインナーチャイルドは、 ずーっとそこにいたまま同じ情景をいまだに見続けているのかもしれない。 助けに行く方法をその人が知っていたら、 自分が教えてあげられたら・・・ 「つらかったんですね」と言うのが精一杯でした。 でも、 自分には、心と体と魂をいつも見守ってくれているものたちがいます。 だからきっと、その人にもどんなときもずーっと見守っていてくれる方々がついている。 どうか、その方たちへ、 あまり悲しい思いをさせないでくださいと心の中で祈らずにはいら...

白で変身

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パターンには黒と白があります。 ※あらためて、パターン(黒)とは、 こちら をご覧ください 今日たった一日の中でも、 あきらかに黒パターンだなこれは、と思ったものは、 ~すべき、~してほしくない、~さんが嫌い・・・ というものがありました(パターンは一つだけというわけではない)。 こだわりが強くって、自分のことしか考えていなくって、決めつけにかかり、執着しているのが黒パターン。 もやもや、ムカッ、イライラ、がーん・・・ 違和感、怒り、憎しみ、落胆、そして寂しさなどを感じているのは、黒パターンに反応している証拠です。 一方、白を選べたな、と思った行動もありました。 「もしかしたら、○○ができる自分になってきているのかもしれない」 「もうそこにこだわらなくてもいいのかもしれない」 といった考え方ができて、 そこには広がり、柔らかさ、明るさ、軽さを感じられたときです。 白には黒のような心の引っかかりは一切ありません。 白を選んではいても、数時間後にはまた黒と迷う・・・ということが繰り返しされます。 どちらも『自分』で、どちらがいい悪いではないのですが、 どうして黒ではなく、白を選ぶ練習をしていくのかというと、 白を使っていくことは、断然今までと違った自分の可能性を広げられるからなんだと思いました。 黒のように、自分ってこういう人間なんだから~という決まりきったものではなく、 こんな選択だってできる、こんな自分もいるんだ、 という『新しい自分』に変身することが白にはできるのだと思います。 しかも、ごく自然に無理がなく変われるもの。 黒では変われないのです。 自分の黒の部分、真っ黒な部分というのものは、 いつも同様の課題や壁にぶちあたり、 なんて自分はいつも同じようなことで悩み苦しむのだろうか・・・と思うもの。 あまりにも人生の中で何度もそれが起きるので、 それが自分らしさでもあるのか?と思ってしまうほどでした。 性格は変えられない・・・と誰が言ったのかわかりませんが、 そういうものだから、人生そんなものだからと、 開き直っていた時期もありました(そうやって巧妙に納得させる力が黒にはある)。 でも今は、 「私」が何を選ぶのか、いつでも変えられるのだと知っているので、 性格は変わる、人生も変わる・・・それは白パターンを選んでいるからだとわかります。 自分らしさというものは、黒パ...

したいことをする

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我が家の小さな庭は、夏から手つかずになっていました。 ひたすら枯れるのを待っての庭掃除をしました。 まじまじと伸びた雑草をみつめ、久しぶりに土をさわり、枯れ草の匂いをかぎ、 ときどきお尻をついて休憩し・・・見上げると快晴の秋晴れでした。 こういう瞬間に幸せ感じます。 気が向いて雑草をむしるように・・・ おもむくままに、本当にしたいことだけして暮らせたらどんなにいいだろうか~ と思いました。 と同時に、 そうやって暮らしていけばいいさ!という心の声が聞こえたような気がします。 やりたくないことをやらない・・・というのもあるけれど、 したいことをしていこう・・・なんだと思います。 なぜならば、 やりたくないと思ってもやらねばならないことも多少はあるからです。 例えば掃除洗濯とか、仕事に行くとか。 毎日の生活のところで考えると、 これはやりたくないことで、これはやりたいこと、 というように特に意識をしなくても、自然にしていることはさほど嫌なことではないのかもしれません。 今縁あってやっている福祉の仕事も、したいことの一つではあります。 正確にいえば、その中の相談業務が好きなのだと思う。 でも、一番したいことはやはり、 カウンセラーとしてのカウンセリングの仕事。 自分自身へのカウンセリングと、 それを使っての他者へのカウンセリングです。 相談とは違う、ひたすら自分の内面を探求していくのがカウンセリング。 他人のための時間であって、自分の時間が流れているかのよう。 先日の合宿でのテーマ『勇気』が、ずーっと頭から離れません。 それほど、自分って勇気を意識して使っていなかったのかも・・・。 そして、それに見合う自信もない・・・ でも、自信なんて、 いつまで経っても、どのレベルになっても持てないものなのかもしれない。 自信があろうがなかろうが勇気を持つ、と教わりました。 「私」の意志で何かを選ぶことは、勇気そのものかもしれません。 今週もハードな業務内容が多く(パターンのケアが必須です~)、 こういう時こそ、起きていること、人、に惑わされずに自分を見ていこう。 それが自分のしたいこと!

枠にとらわれない勇気

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岩手クラスの合宿後半。 今朝は少し早めにスタートし、大人の社会科見学をしてきました。 色鮮やかな紅葉に魅せられながら、盛岡の歴史にふれることができ、 みんなで行けたこともとても嬉しかったです。 地元に住んでいて知らないことって多いですね。 燈台下暗し・・・報恩寺というこんな由緒ある美しいお寺があったとは。 今日来れて本当によかった。 五百羅漢のお堂を拝観しました。 座禅を組んで静かに瞑想しているような一般的な羅漢像とは違い、 それぞれ表情もしぐさも座り方もみんな違う個性豊かな羅漢たち(仏ではなく生身の人間だそう)。 どこか魅かれてしまう気になる羅漢像を直感で三体ほど探し、 その特徴や雰囲気、印象から今の自分へのメッセージを受け取りました。 羅漢の姿は自分の鏡。 自分にだけ感じ取れるものがぞれぞれにあり手本となってくれているようでした。 自分が選んだものは、修行僧なのに、これってどうなの?と思うようなお方たち。 個性的な洋服を着こなす人、片膝立てた行儀の悪い人、口をあけてのけぞって笑う人。 どれも『枠にとらわれるな』と言われているような気がしました。 そして、そこに関連して・・・ 今回の合宿の(自分の)テーマは『勇気』だったように思います。 枠にとらわれない勇気。 他人に言えていないことを言う勇気、核心をつく黒パターンに向き合う勇気、 白で行動する勇気、自信が持てないことへの勇気、などなどこの学びをする上でも欠かせない資質です。 そして個人的には、 母を失う寂しさに向き合う勇気、 そしてどんな不安とも共にいられる勇気が必要だと感じました。 本当の勇気を使ってこなかったことに、愕然とします。 こんなにやっていないんだ、自分・・・ そこにはなんとまあたくさんの言い訳があったことでしょう(焼肉食べながら、言い訳のオンパレード)。 ーーー勇気は汝を正しい道に導くーーー (ベートーベンの言葉) 本当の「私」が選ぶにしても、それを行動に移すにしても大きな勇気がいるのです。 でもそれを持たずして、何一つ叶えられるものはないのだと思いました。 とても怖い・・・けれど、やるしかない。 だって、そこに行きたいという魂の声を知っているから。 至らない平凡な自分であることを知り、 そんな平凡な自分だからこそ勇気を出してがんばっていこうと思いました。 先生、クラスのみなさん2日間ありがとうござ...

過去は終わっていない

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今日は岩手クラスの合宿1日目でした。 普段よりもじっくりと一人一人の近況について話しましたが、 先生からするどい問いかけが入ったり、新しく聞く話があったり、自身の成長を感じられる言葉があったりと、 いずれにしても、どんな話も今の自分に突き刺さるような内容でした。 今回わたしは先日出てきたインナーチャイルドの話をしました。 チャイルドと言っても20代の子です。 その子の背中をさすり、 「大丈夫だよ。ひとりぽっちではないからね」 「本当に大丈夫?」 「本当に大丈夫だよ、わたしがついているよ」 そんなやり取りをしていましたが、 この話しているときに涙が出そうになってしまいました。 このじーんとこみ上げてくるもの。 もう大丈夫と何度も何度も言ってあげたと思っていたけれど、 もしかしたらもう少しこの子の側にいてあげてもいいのかもしれない、って思いました。 移りゆく秋の空を眺めながら(そういう風景の中にいる子)、 元気になったその子が「もういいよ」と言ってちょっぴりたくましさを感じるくらいまで、 あと少しだけ側にいてあげたいと思いました。 過去のことだけれど、終わっていなかった。 ずーっと長い間、病気を克服したから?今は元気な体だから? だからもう過ぎ去ったこととして、単なる思い出として終わっていた。 あの頃、誰にも自分の寂しさ、怖さ、不安な気持ちを言わず、 一人ぽつんと真っ暗なところにいる自分を助けてあげることなく、時が流れていった。 この子は取り残されたまんま、何も変わらず何十年経ってもそこにいたんですね。 むしろ、あの頃よりももっと寂しい思いをしたまま、そこにいたような気がしました。 インナーチャイルドというと、 一人では生きていけないような本当に小さな小さな子どもというイメージがあるかもしれません。 実際に助けを求めてきた子はそうでした。 でも、もっと大人になってからのインナーチャイルドも出てくることがあるそう。 そういう時は、体が大人だからと躊躇せずに、 過去に閉じ込められている自分がいたら、ちゃんと今の自分が助けに行きたいと思います。 明日は、どんなワークがあるのか、 先生から仲間からどんな言葉が自分の魂に届くのか・・・ とっても楽しみです!

過信する

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自分のことを過信していました。 自分の実力を過大に評価していたのだと思いました。 この自分が判断したことなのだから、大丈夫・・・という、 こ・の・じ・ぶ・ん、というところ。 自分自身を信用して疑わないという、決めつけといったらいいでしょうか。 なぜ、自分を過信するようなことになったのか? これまで、充分努力してきたことであったし、正直にやってきたことだったし、 結果を出して少しずつ自信がついてきたものだったと思います。 そうやって積み上げてきたものが確かにあったのかもしれませんが、 いつの間にかその仕事に対して、 「自分」を信じてやるというより、 「やってきたこと(やり方)」が正しかったと信じてやる自分、になっていたのだと思います。 今目の前にある現実を受け入れると、 どこかに本当に小さなものだったけれどやはりすっきりしないものがあったのです。 それを、打ち消したいがために根拠を絞り出していたように思います(間違っていない理由を探すため)。 今までうまくやってこれたからといって、 そのやり方がこれからもずっと正解とは限らない・・・ という単純なことに全然気がついていなかった。 自分を信じてやっていこう、というときの「自分」とは、 それが間違っているかもしれないと思える、 今までのことをゼロにできる、 いつでも方向転換できる、そういう「柔軟な自分」でした。 その柔軟さがなくなったとき、 うまくやってこれたことに固執してしまったのだと思います。 暗示をかけるように、自分がやってきたことを信じて大丈夫と、 今までのうまくやってきた自分から、どうなるかわからない自分に変わっていくことが、 ちょっと怖かったのかもしれません。 そして心の深いところで、過信している自分自身に気づいていたからこそ、怖かった、 そうじゃない住み慣れた自分の位置ばかり見ていたかった・・・のかもしれません。 信じることと過信することの違い。 ありたい自分となりたい自分の違い。 今まで必要だった経験から、異なる経験へと変化するとき、 覚悟しての勇気がいります。

コンディションを整える

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朝起きたとき、自分のコンディションがわかります。 ラジオ体操の歌で ♪新しい朝が来た。希望の朝だ~喜びに胸をひろげ大空あおげ~ っていう歌詞がありましたが、 まさにそんな気分の目覚め方であると、いい一日がはじまるなあと思います。 いい一日、というのは自分が幸せであって平和であって健康で不安のない一日。 身体的には、睡眠時間の長さ(7~8Hくらい寝た)とか、 食欲があって美味しく食べれていて、しかも食べ過ぎずにいるかどうか。 体が冷えていないかどうか。 歩くこと動くことに疲れを感じないかどうか、息切れはどうか? などなど特に呼吸の状態からも自分のコンディションがわかります。 精神的な部分でいうと、 ひとりになる時間を持てているかというのも、 自分を振り返る時間があるかどうかという点で大事です。 たくさんの人の中でも、自分を大切にしているか、 自分のままにいることに無理がないか、 相手ではなくて自分がどう感じているか・・・をちゃんとみれているか。 このあたりもポイントです。 そもそもコンディションとは、 自分で整えられるもの、作れるものであるようです。 でも、整えたくても整えられない、どうしようもない状況もある、と思うこともあります。 そういうときは往々にして、 環境、状況、相手という自分以外のところで原因を探っていることが多いよう・・・ そして、自分以外に原因があると思うと、そこの部分が拡大し、また抵抗が生じ、 本来進んでいこうとする流れから大きくそれていくように思います。 それが、言い知れぬ不安とまだ起きぬ恐怖に支配されてしまうということでもある。 いえ、全て自分に原因があるんです・・・ とわかっている方もいます。 原因は周囲ではなく自分の内側にある。 と思うところまでは同じであっても、 だから変えていこう、変わっていけると希望を持つのか、 だから自分はダメなんだ、何も変われないと下を向くのか、 この感じ方の分かれ道はその後の選択に天と地との差が出てくるように思います。 そして、自分を変えていこうとする前に一つ大事なことがあって、 そのコンディションの悪い自分、思い通りにいかない自分にそのままOKを出せるかどうかということ。 ここを飛ばして「変わる」のはちょっと違うかもしれません。 この違い、この違和感を何度も何度も経験していくうちに、 思考での理解だけでは本当に前...

冷蔵庫がきた

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ようやく冷蔵庫がうちにやってきました! ちょうど暑くもなく寒くもないこの季節だからこそ、 常温でなんとか過ごせていましたが(意外なほど困らなかったが)、 でもやっぱり、新品冷蔵庫が届いたときはテンションあがりました~ 電化製品の進化ってすごいですね。 センサーで反応して触れると開くとびらが、ちょっと感動しまして、 用もないのに何度も開けたり閉めたりしてしまいます。 手がふさがっているときすごく便利ですし、何よりベタッと触らないので清潔。 そして驚いたのは野菜室です。 袋から出して、そのまま入れておいても野菜の鮮度がしっかりと保たれているんです。 すご~~い!信じられない・・・ はじめてのチルド室も、冷蔵室との違いがまだよくわかっていませんが、 お刺身を買ったらこちらで待機ですね。 届いたら、あれも買ってこれも買ってといろいろ適材適所に食材を配置したいと思っていましたが、 一週間経過した今も、中はガラ空き。 少しの間、今調理すれば食べられる、そういう食材を買う毎日を経験し、 本当に食べたいもの、本当にこの2~3日で食べきれるもの、そういうものでけっこう充分かもと思いました。 以前より一回り大きいサイズを買ったのに、この中がいっぱいになるって相当の量。 今までいかに買い過ぎていたか・・・気付いてしまいました。 この冷蔵庫のすっきり感は、 さぞかしボディへのすっきり感へと比例するのではないかと思いましたが、 そこは大して変化無し(過大妄想だった)。 食材の買い過ぎがなくなったとしても、食べることが大好きな自分は、 やはり美味しいものを食べるってことには変りないのだなあ、と思いました。 家の中のものが一つ新しくなると、それを機に使い方、暮らし方をとても考えますね。 最近、食材にかけるラップを、何度でも使える ミツロウでできたエコラップ を使うようになりました。 これ、カラフルな柄が冷蔵庫の中で目立つので、 残ったものを忘れてしまう(又は見て見ぬふりをする)自分にはぴったりのしろものです。 進化した冷蔵庫と食材を捨てずに食べるためのエコラップに、なんか楽しいなあと思ってしまいます。 本当に必要なもの、自分の心がときめくものだけに囲まれて生活していくって、 これからますます自分にとって大事なテーマとなりそうです。

変わらないこと

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26年前に出会った方から思いがけず手紙をもらいました。 秋田の玉川温泉というところで出会った方でした。 当時わたしは、その温泉地でひと月ほど一人で湯治をしていました。 湯治というのは、病気療養のために自炊して泊まりながら温泉に入り体を癒していくというもの。 ガンが治癒した方の話が有名になり、全国からたくさんの人がその温泉旅館や周辺の湯治場に訪れていました。 藁をもすがりたい気持ちというのはこのこと。 その頃の自分 は体力もない体調もよくないそんな状態ではありましたが、 退院と同時に山に向かったのです(今思えば、よく親が行かせてくれたなと思う)。 桟橋を渡るしかそこに行けない湯治場は、宿というより小屋みたいなお粗末な造りで、 4畳半の部屋にはまるで外のように虫が普通に歩き、窓はすきま風でガタガタいい、 ちょうど今くらいの季節でしたので、それこそ夜は温泉に入らないと眠れないような寒さでした。 そこで毎日、夜明けとともに起きては山を歩きました。 日中は岩盤浴ができる岩肌で寝転がったり、 病気に効くと言われる源泉に何度も入りに行ったり、 大自然の力で治療をしているような感じでした。 食事は質素な玄米菜食。 歩く、よく噛んで食べる、温まる、山の気をめいっぱい吸う・・・ テレビも何も娯楽はなく、 そんな、浮世離れしたような生活がとても楽しかったです。 首にタオルをかけ、ござ(岩盤に敷くためのもの)を抱えて歩く20代女子はほぼ見かけませんでした。 病気を治したいという真剣さ、必死さはあの場所では恥ずかしいことではなかったような気がします。 ここでは格好つけなくていい、じたばたしてもいい、そういう場所だったように思います。 そこで出会った人たちとの交流は、普段の暮らしでは考えられないほど濃いものでした。 いつも会うとおもしろい話をしてくれた人、岩盤浴の場所を譲ってくれた人、汗をぬぐっているとお水を分けてくれた人、おにぎりや温泉卵を差し入れしてくれた人、隣り町に買いだしに連れていってくれた人、のぼせたわたしを介助してくれた人、ヒーリングやスピリチュアルなことを教えてくれた人、いつも遠くから手をふって笑ってくれた人、などなど。 わずかひと月にも満たない期間で、 自分がしてもらったことばかりが思い出されます。 手紙をいただいたその方も、とてもとてもお世話になった方。 でも実のところ、ほと...

大事なお友達

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以前、 突然いなくなった母の友達のこと を日記に書いたことがありましたが、 なんと、その方と母が先日再会を果たしました。 あれから、なかなかあきらめきれなかった母は、 どうして何も言わずにいなくなってしまったのか、どうしても納得がいかなかったのでしょう、 何度も同じ話を繰り返し、 その度にわたしの気持ちもゆれ動き・・・ もしかしたら、いつかご本人かご家族が気づくかもしれないと、 誰も住んでいない家のポストに手紙を入れたのでした。 お別れであったのならこれまでのお礼を言いたかったということ、 もし可能ならば一報いただきたいです・・・ということを書いた。 そして、5か月が過ぎたある日、 母のお友達のご家族から連絡をいただいたのです。 意外にも近くにお友達は暮らしていました。 面会時間は10分という制限がありましたが、 玄関先で待っていた母はお友達の姿を見るなり、目の前の透明シートのカーテンを全力で手でどけて、 あらまあ~何年ぶりかしら~~(5か月です)と、 二人はしっかりと手を取り合い再会を喜んでおりました。 いつもの日常会話のように、まるでこれから二人でスーパーに行くかのような雰囲気でした。 あれほど言っていた、どうして黙っていなくなったのか?ということについては、 もはやどうでもよくなり・・・ 帰りもさばさばと、「また来るわね~」 二人の満面の笑みの写真を遠方に住むご家族に送らせていただき、 自分も何だか肩の荷がおりたような気持ちになりました。 70代、80代、90代となったらどんな人間関係があるのでしょう。 友人知人とも突然のお別れがやってくるということもあるでしょうし、 お付き合いしたくても体(頭も)がゆうことをきかないということもあります。 家族、親戚もそばにいるかどうかわかりません(いても全く会えていないとか)。 いずれ、誰かしら他人のお世話にはなって生きているでしょう。 そんな中で、年老いた自分とお付き合いいただけている人というのは、 本当に数えるくらいしかいないのではないかと思うのです。 そういうささやかなご縁があるのなら、最期のときまで大事にしたいですし、 母の人生最終章の(まだまだ長生きしてほしいと願いつつ)お友達であるなら、 わたしもその方たちを大事にしたいなあと思いました。 そして今の自分の人間関係も。 まだまだ人生は続くと思っているから会うこと...

あたたかい夜

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約一年半ぶりで出向いたお店。 常連というほどではありませんが、ちゃんと美味しいものをゆっくり食べて飲んで、 友人と語り合いたいなあと思うときに頭に浮かぶお店です。 コロナ禍で言わずもなが大変だったと思いますが、 なんとか存続していてくれて、店主の姿を見たときは懐かしさでいっぱいになり、本当にうれしかったです。 「いらっしゃいませ!なんとかやっておりました」 と笑うお顔を見て、 どんなに苦労をされたのか想像できるような気がしました。 友人はずっとこのお店に来たかった(サザエの壺焼きが食べたかった)と言っていたので、 この場所があってこその今日だったと思うと、本当にありがたいなあって思いました。 二人で近況報告しながら、お孫さんの動画を見てはゲラゲラ笑い、楽しい夜を過ごしました。 昨夜の盛岡は10℃。 小さな幸せを、わたしは友人とこちらのお店のおかげで味わえて、 さらに寒空を歩いているところに車で向かえに来てくれた夫にも感謝感謝でした。 寒い一日でしたが、心はほんわか温まりました。 来週は朝の気温が1~2℃という、いよいよ来たかと思う寒い日があるようです。 週末はこたつの準備をして温かく過ごしたいです。

現実が見えていない

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●よく思われたい、というパターンがいます。 そして自分は、たぶん相手からこんなふうによく思われているであろう・・・ と、なぜか信じていたように思います。 だから、そうではなかったと知ったとき、とてもショックでした。 尊敬されたい、すごい人だと思われたい、頼りにされたい等々のパターンです。 どうしてそんなことを思っていたのだろうか。 相手が思っていることを知ってはじめて、 そうだよなあ、考えたら自分なんか尊敬されるわけがないし、 どこもすごくないし、頼りにされるような器ではないと知っていたはずなのに。 「わたしなんて・・・」 と、卑屈になっているのも、またパターンであるのです。 先日、教わったワークの中に、他人とくらべて自分にないものは何か? 『純粋に、いろんな人と自分とを比べて見る』というものがありました。 その時も自分は、他人と比べ、 どこが劣っているかをたくさんあげてました(止まらなくなりそうなくらい、出た)。 ○○さんはみんなからよく思われているけれど、自分はそうではない。 ○○さんはこんなことができているけれど、自分はそうではない。 ○○さんはこれを持っているけれど、自分は持っていない(だからダメだ)・・・。 その人にあって、自分にはないもの、という純粋にシンプルに考えるのではなく、 その人がもっているものはいいもので、自分がもっていないのはダメだから・・・ という『いい悪い』で比べていました。 そこは違うのよ、と先生に言われましたが、 今一つちゃんと理解していなかったんだなあと、先日の出来事でまた再確認することとなったのです。 自分が他人より劣っていることがたくさんあると感じるのは、 一見、謙虚な人に見えるかもしれませんが、自信がないことの表れ?にも思います。 あるがままの自分を信じていないということ。 そのままの自分ではダメなので、どんどん自信がなくなってしまうのだ。 これがあって、あれがあって、他人とくらべて持っているものが多く、 優れていると証明されるもの、評価されているものがあって、 やっと自分を少しだけ信じられる・・・ だから、『自分は平凡である』という現実ではなく、 平凡どころかそれ以下だと思う自分(パターン)がいます。 自分はできないことだらけだ、と思うことも、 自分は非凡であって他人よりとても優れているんだ、と思うことも、 真逆であって本質...