思い込みのコミュニケーション

コミュニケーションはお互いの思い込みによって作られる・・・という話を聞きました。
どういうことかというと、
例えば、聞かれたことがなんだか難しくてちゃんと答えられず、
ズレた話をしてしまったということがあったとします。
相手は相手で、そのズレた話を理解しようと考えるのですが、
そのズレた感じが何か自分の考えが及ばないところで実はすごいことを言っているのではないか、
と思ってしまうのです。

自分にしてみれば、「こんな難しい話をするなんて、かなり頭がいい人なんだろうなあ」
という思い込みの元に、
がんばって答えようとしたんだけど、うまく答えられなかったということだったのですが、
相手は相手で、
返ってきた答えが理解に苦しむ表現だったがゆえに、
「頭のいい人は言うことが違うんだなあ」
と相手も勝手にすごい人なのかもしれないと思い込んでしまったということなんです。
お互いが想像したものと事実は違っている(それが思い込み)という話でした。

こんなふうに、コミュニケーションを取ろうとするときは、
少なからず、いろんな意味で相手のレベルに合わせるということを考えると思うのですが、
その相手とはどんな人間であるのか・・・
自分の想像の中で人物像をつくりだし、
その架空の人物にむかって聞いたり話したりしている、ということなのだそうです。

この話を聞いたとき、
学びでいうところの『パターンで人を見ている』ということに似ているなあと思いました。
想像の中で人物像をつくりだす、というのもパターンであるし、
自分にはかなわない相手なのだと受け取っておいた方が、理解できなくてもしかたない、
後から傷つかなくてすむ、などと思うのもパターンです。

思い込みがよくないということではないですが、
それが白の感覚での思い込みであったとしたら、
きっと相手の反応は気にならないのではないかと思いました。
白の気持ちのよい感覚の元で、行動を選択していけたら、
どんな反応をされたとしても、相手を過剰にすごい人と捉えることもないでしょうし、
自分より劣っている人だと捉えることもないかもしれないです。
心をいかに軽くしたままコミュニケーションを取っていけるか・・・
というところが大事なんだと感じます。

相手が勝手に自分という人間を美化することもありますし、よく思われていないということもあります。
どちらにしても、
その思い込みの元で成り立っているコミュニケーションであっても、
自分だけがその思い込みから抜け出すことさえできればいいのだと思います。

コミュニケーションには相手があって、相手次第だと考えてしまいますが、
その相手とは何の関係もないところでも成り立つということ。
自分だけが新たな白としての感覚の元で、新たなコミュニケーションを作っていければいいなあと思いました。












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