寂聴さんとわたしの師

瀬戸内寂聴さんの本をはじめて読んだのは、
母親を亡くした友人がとても寂しそうに見え、
何かなぐさめになるものはないかと本屋さんの中を歩いては、探し見つけたものでした。
まだ自分も若かったので、
家族を失うという想像を絶する深い悲しみを救ってあげられるのは、もうお坊さんの話しかないと、
今思うと単純な発想ですがそこから寂聴さんの本を読むようになりました。

浄法寺町(現在の岩手県二戸市)にある、みちのくの霊山と言われる天台寺に、
寂聴さんは名誉住職を務めていました。
30年ほど続いた青空法話に何度か自分も足を運んだことがあり、
反戦運動や脱原発のときに見せた勇気あるお姿や、
被災地を見舞う優しく力強く、いつもユーモアを絶やさない寂聴さんをとても身近に感じていたように思います。

そんな寂聴さんが書いた歴史小説は、今まで読んだことがなく・・・
先月悲報があったとき、はじめて読んでみようと手にしたものが、
『釈迦』~新潮文庫~でした。
お釈迦様と実際に存在した弟子たちの名前が登場し、
全てが小説であるのにもかかわらず、ここはこの部分は真実ではないかと思ってしまうほど、
あまりにも面白くて一晩で一気に読んでしまいました。

その面白さに反してわき起こる静かな緊張感・・・もありました。
死が近づいてもなお人々にお教えを説くお釈迦様。
世尊と呼ぶ弟子のアーナンダの抑えきれない悲しみと自分を律する気持ち。
それが自分と重なるような、自分がいずれ経験するであろうことのように思ってしまいました。
本を読まれた方ならば、釈迦の弟子と自分を重ねてみるとは、
なんて恐れ多いことを思うのだろうと思うかもしれません。
でも、自分がこの現世で師と仰ぐ、学びの先生との別れがいつか来たときに、
同じような思いをするのではないかと思わずにはいられませんでした。

この小説の中で描かれている生老病死。
死に向き合うことの対象者を、
恋人、家族、無二の親友、お世話になった方、可愛がっている家族同然のペット・・・
これまで自分が生きてきた中で想像できる対象はそれだけだったのですが、
『師』という存在への別れを考える機会となったのは、はじめてのことだったと思います。

人生のそのときどきに、
自分にとっての恩師という存在は少なからずいたのかもしれません。
学校の先生や習い事の先生、人生の岐路に立たされたときに自分を導いてくれた人、救ってくれた人、
今まさに学び続け影響されている人、尊敬する人、思った通りに生きていいと教えてくれた人・・・
その師と、もっともっと側に居て学びたいと思う気持ちがあり、
叱ってもらいたい、教えてもらいたい、厳しい言葉を言ってもらいたい、
励ましてもらいたい、優しい言葉をかけてもらいたい、大丈夫だよと言ってもらいたい・・・

それは、恋人でもない家族でもない、何と表現したらいいのか、
自分の中のパターンではなくて、魂が望んでいる。
魂がその人から学びたがっている、そういうことがあるんだなあと思いました。
(だから先生、長生きしてくださーーーい!)
そんなことを考えることになるとは、この小説を読むまで思いませんでしたが、
一冊の本の出会いも寂聴さんとのご縁を感じます。

もっと気楽に興味深く楽しめる箇所も随所にあります。
ちょっとネタバレにはなってしまいますが、あの世とこの世のなんと近く境なくあるものか、というところ。
死んだ世界の方がこの世で、死んだ世界から見れば、この世があの世?
どちらの世界に自分が行っても『自分』という存在は消えないのだなと思うと、
今生きている(感情がこんなにあふれている)うちに、
何とか勇気を持って自分の課題に挑戦していきたいと思うのでした。







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