ゆがんだ目

自分のパターンとして嫌いだと思う人のことを、
自分は随分と長い間、
『ゆがんだ目』で見続けていたんだなあと気づかされるようなことがありました。

パターンがいつも訴えてくることは、
そのひどい言い方はやめてほしい、上からものを言うのをやめてほしい、
もう自分をバカにしないでほしいのです。
とにかく自分を軽蔑しているような、さげすむような、完全に上から目線の態度に、
いつも怒り、悲しみ、怯え、大嫌いだーーー!と叫びたい気持ちで長い間います。

そんな結構大きなパターンだったのですが・・・
自分っていままで何を見ていたのだろうって、
何かすごくゆがんだ見方しかしてこなかったんじゃないか、
と思いました(パターンってそういうものなのだが)。

自分もその人に対して、
あれ?同じことしていたかもしれない、とハッとしました。
もちろん、その人のようなひどい態度はとっていないつもりだったし、
されて嫌なことはしていないつもりでしたが、そうじゃなかったんだなあ・・・と。

あることをきっかけに、その人からにじみ出る『孤独』を感じたとき、
その寂しさは、ものすごく悲しく冷たさを感じるもので、
でもなぜか、とてもよくその孤独がわかるような気がしました。
自分だったら本当にむなしく思うだろうな・・・
だからがんばってきた。
だから虚勢を張ってきた。
それは自分の中にもあるものでした。

そういうことが実は今まで、全くわからないわけでもなかったのですが、
でも、だからといって、ああいう言い方はよくないと自分のパターンはゆるせなかったのです。
その孤独とやらも自業自得なんだと、パターンは振り払うのです。
自分の心に確かに何度か感じていたものをないものにして、
またゆがんだ目でその人を見続けようとする自分がいました。

憎しみって、一度そう感じてしまうと、
憎しみにふさわしくないものは許さないかのように、何か強烈な力が働くように思います。
これは、完全にパターンにのみ込まれている状態です。
だから、好きの感情も嫌いの感情も、
そこから憎しみに変わってしまうところへは、野放しにしない方がいいと思いました。
憎しみには、今起きていることを正確に見る力はないんですね。

自分はかなりの時間を要して、
そのゆがんだ見方で何が見えるのかを体験をしていたと思います。
そのあたり前に思っていた(それが正しい見方だと思っていた)ゆがんだ目が、
たまたま見えたこっちの目とはまったく別のもので、
なんて純粋でありのままのものが見えるのだろうって思いました。
どっちが正解ということでもなく、そのままが一瞬見えたような気がしました。

その人の孤独を感じることができてはじめて、
これまでの強がる姿もそのまま見ることができる。

パターンの白と、黒の、本来の役割。
それぞれの役割を充分に体験させてもらったのだと感じた出来事でした。













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