親としては・・・


Xmasが近づくと、
娘の誕生日とあわせて洋服のプレゼントを一緒に見に行きます。
娘としては、買ってもらうのだから、
普段買わないようなものにも目がいくし、
私は、実用的に仕事でも着れるようなものがいいんじゃないかと眺めています。

何回も試着をし、
やっとセーターと流行りのベストをプレゼントしました。
この時間が、毎年とても楽しくてうれしくて・・・
たぶん娘がいい歳になっても、
わたしの収入が減っていっても、
小さくかたちを変えても、このお祝いは続くのだろうな~と思います。

娘と離れて暮らすようになって5年。
夫には車関係の用事で、私には食糧の調達で、
ちょくちょく帰ってきます。

娘が帰ってくると夫は、
しっぽ全開にふる犬のように大喜びです。
でも、私とふたりでどこかに出かける話を聞きつけると、
これまた飼い主が出かけてしまうのを察した犬のように、しょんぼりしています。
そのわかりやすいリアクションをみて、ゲラゲラ笑う娘と私。
そんな日常に幸せを感じています。

以前は、『親』という言葉を自分が使うことに、
ためらいというか、
申し訳なさというか、
心に何か引っ掛かるものがありました。

親としては・・・子どもにこうなってほしい、
というフレーズをよく耳にするとき、
確かに自分も親なんでしょうが、
本当に親らしいことをしてきたか?というと、
自信がありませんでした。

『親』というには血のつながりだけではないのは、わかっていても、
母親として欠けているものが自分にはあるんだと思うと、
とても複雑な気持ちになります。

もしも、出産という経験があったら、
もっと正しい愛し方(とにかく愛情たっぷり)で育て、
娘はもっともっと幸せだったのではないか・・・
という思いが心の奥にずっとあります。

あのとき、もっと抱きしめてあげればよかった。
あのとき、どうしてもっと話を聞いてあげなかったんだ。
あのとき、あきらかに娘をにくたらしいと思った。

親だったら、ちゃんと抱きしめてあげただろうし、
小さな子どもの話は聞いてあげただろう。
にくたらしいなどと、そういうことを感じる自分であってはならないと、
そう思う母親などこの世にいないのだと思っていたからです。

3歳から急にママという存在の人が現れ、
私も急に子育てがはじまり、
元々親子だった夫と娘の仲のよい関係にやきもちをやくこともありました。
夫とふたりきりになりたいと思っても、
3人でいるときはいつも子どもが優先です。
そういうあたり前のことが、自分には苦痛に感じたこともありました。

また、子どもの健康を守るのが親の責任だと、
自分のこだわり(パターン)で、
娘のアトピーをなんとか直そうとやっきになっていた時期もあります。
いつも食べるものに目を光らせて、
小さいころは本当に外食も少なく、給食ではなくお弁当を作って持たせ、
みんなと同じものを食べられない気持ちに、
なんで、もっと寄り添えなかったのだろうか・・・

娘の小さい頃に関しては、もうたくさんの後悔と謝罪しかありません。

それなのに、
今こうしてたくましく優しく育ってくれている。

自分には、ないものがたくさんある娘の感性や言動にはいつも驚かされます。
本当に、どうしてそんな捉え方ができるのか?
どうして、そんなに人を受け入れられるのか?
どうして、いつも無邪気に深刻にならずにいられるのか?

娘の感じ方には本当にたくさんの???が点灯します。
また、それ一つ一つを聞けば、
そう感じていないのだから、こちらの感じ方に対して、
へえ~そうなんだね、と、またそれも否定せずに聞いてくれるので、
私はもう、娘のことはまるっきり別の世界に住んでいる住人のように思うことがあります。

子どものために何かできることというより、
どちらかといえば、子どもが親のために、
なにかできることがあって、
親が子どもから学ぶために生まれてきてくれたのではないか?
と思うのです。

親としては・・・
何ができるのか答えはでませんが、
何かあって泣きたくなったらいつでも帰ってきていいよと、
それだけは何の準備もなしにいつも待ってあげられる。
それだけはできる(それしかない)自分です。






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