祈るということ

今日もまた父に驚かされました。

朝から訪問に来ていた看護師さんの顔を見て、
「おなか、すいた・・・」

人らしい言葉がついに出ました。
ついに食欲がでてきたのです!

この一週間、
父はまだご飯を口にすることができませんでしたが、
昼食になると、今度はミキサー食をほぼ完食したのでした。

夕飯は、さらに食欲が戻ったのか、
食べさせようとした看護師さんのスプーンを奪い取り、
自分で食べたのだそうです。

父は、三途の川の手前でかろうじてとどまり、
そのうち、おなかがすいてきて、
こちらの世界に帰ってきてくれたんだと思います。
連日の歌や踊りも、まだこっちの世界にも楽しいことあるなあと、
思ってくれたのかもしれません。

むせて誤飲するのが怖いと思うと、
なかなかご飯を食べさせるというのは、
介護する側は勇気がいるのだと思います。
でも、もしも喉が渇いたり、おなかがすいたって父が思ったのなら、
むせるかもしれないけれど、食べさせてあげたい。

訪看さんと私たちの価値観が一致し、
父が食べたいと思ったときに食べられるように、
体制を整えてもらいました。

父のことで毎日の祈りも、すっかり長くなってしまいました。
具体的にお願いしたり、具体的に宣言したり、
今日一日を乗り越えたことに感謝の気持ちを伝えたり、
この時間は心の落ち着ける時間でもあります。

そして『祈る』ということについて、あらためて思ったことがあります。

祈りには、祈るその動機があって、
それが、天の意思に添うものであれば、望みは叶うのではないかということ。
天の意思は自分の意思でもあります。

そして、本当にたくさんの守ってくれているものたちがいるんだと思いました。
怖いと思うことに向き合うと、本当は一人ではないことに気づかされます。
向き合わないから、ずっと怖いんだと思う。

そこには、普段人と関わると顔を出すことがある、
●どう思われるだろうか
などというパターンの出番も不思議とないのです。

私は、父のおかげで、
父からでないと学べないものを今、教わっています。
だから、その大切な学びを、
もう少しだけ続けさせてもらえないでしょうか・・・
と祈っています。

これは、父から生きること、死ぬこと、どちらも学びたいという、素直な気持ちがそうさせています。
自分が取る行動もみな、その動機の上で動いているので、
以前の自分よりは少しだけ心静かでいられるのだなあと思いました。

先生、看護師さん、ホームの方々、食事を作ってくれている方、ケアマネさん、
皆さんプロとしてそれぞれの仕事を全うしています。
そして私の家族もみな、
できることをして、それぞれの生活もちゃんと送れるようにしていくのですから、
みんなにそういう体験をさせてくれる父って偉大だなあと思いました。
お年寄りはもう何もできないのではなく、お年寄りじゃないとできない役割があって、
その尊さに、自分たちが気づいていけるかなんでしょうね。

いつかお迎えが来てしまったときは、
寂しさはあるけれど、覚悟はできています(たぶん)。
そのときは父が安心して、
魂のふるさとへたどり着くことができますようにと、
私はまた静かに、旅の無事を祈れるようでありたいなと思っています。














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