「私」とパターンの関係

岩手クラスのセミナー、今回も充実かつ内容が圧巻でした。

毎回、パターンへの語りかけについて新たな視点を学ぶことが多いです。
暴れているパターンへ「私」が理解を示し、これから「私」があなたを守っていくと伝える。
これが語りかけ(超簡潔に言うと)・・・なんですがー、
そこへ向かう姿勢そのものが、とても神聖なものであると教わりました。
実際に自分が描く神聖さを持って語りかけをしてみると、そこには互いに真摯に向き合う静けさと、
「私」の存在が以前より大きくなっているように感じました。

10年前の「私」とは、
それはそれは小さな点でしかなかった(吹けば飛ぶような・・・)。
「私」って誰?
これが自分なんだと思ってきた自分とは、単なるパターンであったと知り本当の「私」で生きていなかったと知る。
そうか、自分がダメなのではなく、
心の中に「自分はダメだ」というパターンがあるだけだとわかったときの、あの安堵感と解放感。
そしてじわじわくる感動は今はもう日常的になっています。

パターンのケアをせっせとやってきた「私」は、
いつの間にか、空想でのいるのかいないのかわからない存在ではなく、
太陽のようにあたり前にもう遥か昔からそこにいた存在だったんだと、あらためて感じたのでした。
そんな「私」なのですから、
よりパターンのことを理解できるだけでなく、
「私」とパターンの信頼関係も築かれてきたのだと思います(もう一方的ではない)。

パターンは、幼い子どものよう。
だだをこねて、お母さんに振り向いてほしくてあの手この手で困らせることをします。
何とか自分の思い通りにしようといつも必死です。
そんな、たった一人でがんばって生きてきたパターンが「私」への信頼を示し、少しづつかたちを変えてきている。
自分に気づきをもたらすために協力をしてもらっているかのような、
ある意味自分の先生のようになっているのだと感じました。

毎日出会ういろいろな人から自分が育てられているように、
パターンにも自分は育ててもらっているのですね。
感情に目を向け、パターンを探す。
たったこれだけのこと(でも、果てしない)日々の積み重ねが自分を救っていくのだ。

一般的には、感情を感じて受けとめるということをほとんどしないと思います。
でもこれをずーっとしてきた自分にとって、もう感情は友達のようでもあり(こんにちは~みたいに)、
その元となっているパターンは親友のようでもあるかもしれません。
嫌なもの、無くなってほしいもの、自分をじゃまするもの・・・ではないんですね。
心の中にいろいろなパターンがあってこその自分であり、
また、パターンは自分自身ではないということがますます感じられてくる。

語りかけの中に、「あなたがいてくれて本当にありがとう」
そうパターンへ言ったりするのですが、
本当に本当にパターンがあって(いてくれて)よかったと思います。

これを感じられているのは「私」であるため、
「私」へ意識が向かうことでまた「私」が育っていくし、
「私」で生きるって本当に愛なんだなあと思いました。




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