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10月, 2025の投稿を表示しています

熊に気をつけて!!!

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このところ街中にも熊が出没していて、 今までのように、ああびっくりした~という笑える話ではなくなってきています。 市役所や銀行、大学やその辺の道路にも、 もう普通に街中を歩く熊の姿を毎日ニュースで見ています。 今日は私の住んでいる町内でもついに目撃され、 暗い中帰宅して玄関の鍵を開けるちょっとの間ですら、 もたもたしているだけで背後が気になり怖くなってしまいました。 被害に遭われた方、発見した時のご家族のことを思うと、 いたたまれない気持ちでいっぱいになります。 山に食べるものが無くなっているということなんですが、 駆除された熊も胃の中に何も入っていなかったと聞きます。 今まで熊が人間を襲うのは、 熊が人間によって危害を与えれそうだと思う時という認識でしたが、 それだけお腹が空いていたら、もう人間は怖い存在なんかではない。 それもこれも全部、人間が自然生態系を壊してきた結果なのだと思います。 動物たちの方が私たち人間によって脅かされてきた。 人間って本当に勝手だなと思う・・・ でもこの熊対策、一体どうしたらいいものか。 答えがなかなか出ません。 本当に皆さまどうぞ気を付けて外出してください。 運転免許の更新してきました 

「意味付け」とは

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すべてのことに意味があると考えるのか、 ただ一つの体験だけであって何の意味も持たないと考えるのか。 そこへの理解に至るまで、 充分にプラスとマイナスの意味を考えていきたいです。 新たな意味付けを加えてその世界を広げていくことが、 自分が今いる段階であるのだと思いました。 マイナスが大きければ、 それによって得られているプラスの意味付けを考え、 プラスであれば、 それが行き過ぎたときに出てくる弊害、マイナスの意味付けを考える。 パターンの語りかけや白黒ワークは自分を知るワークであるけれど、 この意味付けワークも、 現時点で自分がどのように物事を捉えているのかがわかります。 ・・・ということで、 「意味付け」を考えてみました。 プラスは、 捉え方が広がる・言葉の世界が広がる・解釈が深くなる 自分のことを知る・決めつけやこだわりがなくなる・目的ができる マイナスは、 考えすぎて現実から遠ざかる・偏った考え方になる・自分本位 そこにこだわりが出る・意味を付けないと進めなくなる でもただ一つの体験であるため、 意味付けのワークをするということ自体には、 何の意味も持たないということになります。 マイナスの「意味を付けないと進めなくなる」というのは、 プラスで考えても「意味があることで進んでいける」があるかもしれません。 人生に意味を持たせるというのは、あのフランクルも言っていた言葉。 意味というのは、元々あるものから探すということではなく、 自分自身で考えて考えぬいて生み出していくもの。 どんな苦しい状況の中にもそれができるのが人間なのだと。 苦しくつらい状況で意味付けワークをやると、 本当に目の前が開け、光が差し希望が広がる感じがあります。 My裁縫箱

パターンを満たすための仕事

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福祉の現場でも営業職のようなことをすることがあります。 障害者の方の雇用を進めるために企業に働きかけ、 就労につながるように両者のサポートをしていたことがかつてありました。 その頃の私は、 障害者と企業のどっちの状況もわかるし気持ちも理解できると恥ずかしながら思ってました。 そして事もあろうに「信頼される支援員」になろうって。 今はもう、そんな気持ちはないのですが~ っていうか、なれるわけもない。 なのに当時はかなり本気でがんばっていたのです。 企業へのフォローはぬかりなくやろうと思っていたし、 障害者の方へも全力投球で支援(うざかっただろうなあ)。 今思えば、全部パターンでやっていたと言っても過言ではありません! 全部というのは大げさかもしれませんが、 それくらい私は仕事をがんばることでパターンを満たそうとしていた。 パターンを満たすために、人からの信頼を得たいと思っていたんだなって。 一般的に、人のために何かをすることは前向きで素晴らしいことだって、 その動機までは深く見ようとしないものかもしれません(だって、一般的にはいいことだから)。 強い意思を持ってやっているというそのこと自体がすでにパターンっぽかったなあ。 褒められたいから? 喜んでもらいたいから? 大変そうな人を大変じゃなくすることがいいことだと思っていたし、 トラブルがないことで自分が安心したかったんですね。 うまくいくように。 そうしたい自分は、パターンから外れることへの怖さがあったのだと思います。 強い意思というのは、 それは変えられないものを変えようとしているのか。 それとも、変えられるものを変えようと努力しているのか。 この違いはとても大きい! ここを間違えないようにしたいです。 あらためて、新しい仕事と共に、また見つめ直し見極めていこう。 マイタケの天ぷら作りました~大好き!

飲食店マニュアル

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岩手クラスの皆さんとよく食べに行くカニ料理のお店に、 はじめて家族で夕飯を食べに行きました。 私がいつもあの店ほんと美味しいよ~って、 話するわりには一度も来たことがなかったので、やっと来れた~という感じ。 いざ行くと、夫と娘は何を食べても大絶賛。 何でもっと早く連れて来てくれなかったの!と言われ、 たぶん自分としては、このお店は 道場 の延長戦上の時間という感覚があって、 家族を連れてくるというのは頭になかったのだと思いました。 全て個室になっているので、ゆっくり人目を気にせずくつろげます。 (横になったり、靴下も脱いだりなんかして) 二人ともメニュー(カニ料理)を見ているだけではしゃぎ、 私も普段は食べないものを選び、 ちょっと注文しすぎじゃないか?と思うほど食べました。 最後のデザートに行く前に、もう一品頼もうということになり、 カニとは関係ないどこでも食べれそうな『ウィンナーとポテトのチーズ焼き』を注文。 なんですが・・・その一品がなかなか来ません。 だんだんお腹が満たされ、このままではデザートが入らなくなると思い、 ついにお店のスタッフの方を呼びました。 もしまだ作っていなかったら、 それをキャンセルしてデザートを注文しようということで。 いつもの女性スタッフの方が来て伝えると、 「あーーー!オーブンに入れたところまでは覚えてるんだけど・・・」 えっ!じゃあ出来てますか? 「い・・・や、今ごろ黒こげになっているかも~すみません!!」 なんて正直に言ってくれたのでしょう。 ああ、忙しいとそういうことってあるある。 謝るその方をちょっとねぎらい、無事にデザートを食べて帰りました。 もし自分だったらお客さんにどう言うだろうか? こちらも責める風ではなく伝えたつもりだったけど、 ちょっとした苦情を言われたことにもなるので、謝るには謝るのでしょうが。 夫はその方と同じ、本当のことをそのまんま言う派。 私は、そのまま言うつもりはなくても「あーーー!」と先に声に出てバレる派。 娘は、お客さんによって考える派でした。 どういう対応がいいのか?で言えば、飲食店のマニュアルはあるのでしょうね。 でも、咄嗟のときってその人が出ます。 マニュアルを知っていてもたぶん出ますね。 そして相手があるので、必ずしもそれが正解という一つはないし。 だからこそ、接客はその人の心のあり方だね、...

そんな自分ではないと思いたい

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●良い先輩でいたい、というパターンがありました。 この歳になって、今さらそんなことを思うのか~? と半ば信じたくない。 出ました!パターンを嫌うパターン。 そもそもパターンの思う良い先輩って何でしょう。 学生時代は、先輩後輩って絶対的なものがありましたし、 怖いと思うその一方で、部活をがんばる先輩の姿は強くて憧れでした。 社会人になってからも同様に、 厳しく技術を教える一方で、夜遅くまで練習に付き合ってくれたり、 ご飯をおごってくれたりする優しい先輩たちが多かった。 先輩とは、厳しくも優しい。 後輩から必ずや尊敬され憧れるような人間でなければならない。 というパターンが社会人になってもまさかいたとは~。 良い先輩でいたいと思う自分(パターン)って子どもっぽい。 (って、パターンは子どもですからね!) そんなレベルの低い自分じゃない・・・と思いたかった。 というパターンでした。 台湾バージョンのプリン見せてもらいました〜なんか可愛い♪

友人から教わったこと

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数か月前に閉店したお店で、お茶と野菜の販売があると知って行ってみました。 ガランと広くなった店内に、大きなテーブルが置かれていて、 何人かの方々がお茶を飲みながらおしゃべりをしています。 以前の自分であれば、声をかけられたわけではないのにそこに交わる、 ってことはしなかったと思います。 でも、今の私は、全く知らない人であろうと全然平気でおしゃべりの中に入ります。 楽しく聞いて笑って、気付いたら一時間ほどたっていて(買い物ではなくお茶のみになっていた)、 ではまた~失礼します~と言って帰りました。 自分って、そういうことにすっかり慣れてしまったんだなあと思いました。 知らない人だから話しかけれないということがなくなった。 誰にでもおもしろい話があって、何なら誰とでも友だちのようになれると思っている。 そして、どこにでも気が合う人もいればそうじゃない人もいるし、 それで全然いいと思っている自分がいる。 この「人類皆兄妹」のような感覚は、 今年に入って、時々一緒にイベントをするようになった友人から私が教わったことです。 彼女の素直で全く躊躇がない声かけは、 人からどう思われるのかより、自分がどうありたいかを優先していての行動。 これなんだなと思いました。 人に素直であるということは、 自分に正直でいるということなのかもしれません。 「こうしたい」と思ったらそうしてみる。 「話したい」と思ったら声をかけてみる。 そして何か引っかかることがあれば、それを自分の気づき(パターン)として受け止める。 彼女のシンプルでわかりやすい行動が、 いつのまにか大きな学びになっていたと思いました。 学んだことを生活の中での実践へとかえる。 そのために日々、いろんな人から教わっているんだなと思います。 大きな悩みや苦痛だけから、学びを得るのではない。 何気ないこと、ささやかなものの中にも偉大な発見があったりします。 夕飯は、新米のきりたんぽ! ちくわじゃないよー

とても大事なパターン

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パターンを嫌うパターンって、本当に大事だと思いました。 先生が数日に渡ってそこへの深い意味を ブログへ 書かれていて、 ここは自分にとってとても大切な部分で、 しっかりと読み返しながらしみこませていきたいです。 何か一つ感情が湧いたときに、 その感情があることを不快に思ったら「パターンを嫌うパターン」です。 こんな自分が、もう、いちばん嫌だーーー!って思ったら疑う。 でもこれって、まだパターンなど知らない頃からずっとあった感情だと思いました。 何が嫌って・・・ いろいろネガティブに思う自分自身が嫌でした。 優しくない、正直じゃない、意地悪で、すぐイライラする、 すぐ傷つく、落ち込む、根暗な自分。 それらは全部ただのパターンなのに、 そういう自分が許せないし、直さなきゃ!って思っていたのだと思います。 でもそれがあったから、 この学びに出会うことができたのだとも言えます。 そして、とても大切なことだと知れば知るほどに、 それを得たいと、そこに近づきたいという気持ちも出てきて、 何者かになりたいと無意識にそこを目指していたのだと思いました。 パターンが目指しているとは気づかずに。 だから、いつも感情を見ていかなければならないのですね。 もう、ホント、それだけ。 パターンを嫌うパターンが教えてくれました。 出てきてくれてありがとう。 もりおかのお店がいっぱい

健全にパターンに引っかかろう

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昨夜は早く寝たせいか(8時間は寝ました~)、 すーすーするやつを首に塗ったからか、 朝、目覚めるととてもスッキリとした感じがありました。 あちこちが痛いとか言いながらも、また朝が始まったこと、 身体が動くことが本当にありがたいと思いました。 ありがたいと思う気持ち、感謝というのは、 いつも思い続けていることは難しいものだと思います。 口では何とでも言えるけれど、 心から・・・本当に心からそう思えたとき、 ちょっと涙が出そうなほどありがたいなあと思うのです。 そして、今日も健全にパターンに何度か引っかかりました。 そうです、健全に~です。 イラっとしたとき、 ●もっとスムーズにやるべき、とパターンが引っかかる。 またまたイラっとしたとき、 ●ちゃんと真面目に仕事するべき、と引っかかる。 そして、最後はムカッとしたとき、 ●自分は特別で一番だ、と引っかかったのでした。 結構、怒りの感情がちょこちょこ湧いたな~ こうして、ああ、今私はこんな気持ちになっているんだな。 ああ、こういうパターンがあるんだな。 そうだよね、あなたは〇〇だって思っているんだね、とつぶやく。 そして、そんなパターンがあることを許せないですか? それとも、ゆるしたいですか? と自答自問し、パターンへ語りかけをし、白を選ぼうと決める。 どうありたいかも思い出す。 そんな一日で終わるところです。 これって、床屋?

今、今、今

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寝違えて首が痛いです。 首だけ動かせないので、呼ばれたときは身体ごと向けて返事をしていました。 いつもより、相手の心に向けてまっすぐに自分の心を届けているかのような気持ちになりました。 思えば、普段あまり身体を相手に向けずに話しているなあと思いました。 PCに目を向けながらだったり、 顔は向けても何か考えながらだったり。 心ここにあらず・・・の状態のときが多い。 パターンが過去にも未来にも生きずに、 今、起きていることに目を向け続けているように、 今、今、今・・・って意識をもっていこう。 今晩は、すーすーするやつを塗って早く寝ます! ひきつづき牛乳寒天 あっさり系♪

引っかからないというとき

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パターンに引っかかると、 しばし静止するような感じがあります。 これは、パターンが引っかかったことを否定はしていないけれど、 (パターンだな、とわかる感じ) かといってそれを許して次へ進むには、まだすーっと行けないものがあり、 私の場合それが、黙る、止まる、ということなんだと思う。 静止して感情を感じ取り、そして何が起きているのかを観察している感じ。 パターンを嫌うパターンもすぐに見つかるときもあれば、 気づかずにプライドを盾にして、さらにパターンが強化されていることもあります。 頭の方はもうごちゃごちゃになっているので、 何に語りかけをしたらいいのか、よくわかっていない状態になります。 そして、わからなくなってしまったから、どれにも語りかけができていない・・・。 これを回避するには、一つのパターンを見つけたら、まずはそこへ語る。 始めの感情を思い出す。 ひたすらこれの繰り返しです。 でも、ここでパターンが落ち着くことがうれしく感じたり、 パターンに引っかからないことを、ああ良かった~!って思うようであれば、 パターンを嫌うパターンがある、ということを疑ってみる。 最近、全然引っかからないなあ(いい感じじゃん!)って思うときは、 大抵はちゃんと自分を見ていないとき・・・でもあります。 それくらいいつでもパターンって引っかかるものだから。 そういうこともちょっと自覚してみよう。 店員さんも絵がうまい!?

パターンに引っかかりたくない!

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●パターンに引っかかりたくない、というパターンがあります。 このパターンの言い分は、 だって、引っかかるってかっこ悪いし、成長していない証拠だし、 できていない自分なんか見たくないから。 そう思うと、焦るし苦しいし不快だし・・・すご~く疲れる。 だから、パターンに引っかかりたくないとパターンは言います。 これは自分ではなく、他者がパターンに引っかかり悩んでいる様子を見ていても、 それも受け入れ難く、パターンにいい加減ちゃんと向き合いなさいよと思う。 向き合っていないから、こういうことになるのだと。 向き合うというのは言葉は良いけれど、 向き合っても向き合わなくても、出てくるのがパターンというものです。 無くならないのですから、しかたがない。 そういうものなのに、 向き合っているんだから出てこないでと思っている。 出てきたらもう嫌なのです。 ここで、「私」とのギャップを感じ、 どちらへ向かっていきたいのか自問自答します。 本当の「私」はいつでも引っかかるのは全然かまわないし、 パターンを嫌うパターンのこともそのまんまでいいと思っています。 まったく何一つ変えたいと思っていない。 うろたえてもいいし、焦ってもいいし、苦しくてもいい。 嫌いだーーーって何度も思っても、それでもいいんです。 だってあなたは、パターンだから。 そう言って静かに見守っている。 ここを目指していると、パターンが理想を語りだすのでそれはやめよう。 今週のヘラルボニー 

パターンを嫌うパターン

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パターンへの語りかけをしていくと、 だんだんと感情が落ち着き・・・ 心が軽くなるような、目の前が広がっていくような感覚が戻ってくる。 でも、また忘れたころに、 ごく普通にパターンが顔を出してきては感情がさわぎます。 っていうことを永遠に繰り返していることが、 それでいいのではなく、 何だか成長しない自分に感じるときがあるのです。 それこそが、パターンを嫌っているパターンです。 「あ、またパターンに引っかかってしまった」 と、出てきたことをすごく残念がるパターン。 そして、そこにずっと気がつかないでいると、結構なストレスになることに気づきました。 これだけ、パターンはあっていいのだと口では言っているのに、 いざ出てくると、ネガティブな感情がそこにはあるため、 その感情が尾をひいているのか、語りかけもどこか湿っぽかったりするんですね。 つまり、本当の「私」ではなくパターンで語りかけをしているので、 いつまでもパターンが演技しているような感じです。 これは、疲弊します。 そんなあなたのことを「私」はちゃんと理解しているよ、 って言っているのに、理解したくなかったりする。 何も変わらずそのままそこにずっといていいからね、 って言っているのに、本当は出てきてほしくない。 これからは「私」があなたのことを守っていくよ、 って言っているのに、育児放棄している。 パターンを嫌がるパターンというのは、ウソがうまいので、 さも、そんなこと思っていないですよ~って顔して、平静を装い、崇高な人間を演じようとします。 引っかからないことがいいこと、レベルが高いこと、成長している証拠、 学んでいるんだから、カウンセラーなんだから、 パターンに引っかかったりはしませんよ~ って言わんばかりに隠そうとするパターンがいました。 この子にも忘れず、語りかけしていこう。 コンビニの牛乳寒天って濃厚♪

パターンでいると、ずっと怖いまま

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怖いという感情について、 他の感情と何が違うのか、または何も違わないのか? 怖いと思うこと自体が・・・未知の世界のようで怖い。 でも、語りかけをしていくと以前よりも少しだけ、ほんの少しずつですが、 パターンの気持ちが理解できるような気がしました。 なぜそう思ったかの理由がいろいろ出てきたのですが、 見るところはパターンだという現実から逸れないようにしたい。 つらいとか悔しいとか、苦しいとか腹立つとか、 そういう感情が湧くのと仕組みも同じ。 自分がこれまでケアをしてこなかったから、 怖いという感情に支配されてしまったのだと思いました。 考えると、ずいぶん前にもこういう気持ちになったことを思い出しました。 その時は、パターンでいたままだったから向き合えなかったのです。 だから、今度は無視をせずちゃんとパターンに「私」が声をかけてあげよう。 自分の心の中にある現実。 そこに意識を向けます。 そして、できるだけ明るくカラッと語りかけを続けていこう。 今日は小寒い一日でした

怖いという感情

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●大きな声で怒らないでほしい というパターンがあります。 パターンのタイトル通り、大きな声を出してすごい剣幕で怒っていた夫に、 もう~~~不快も不快。 腹が立って、胸がバクバクして、そんなことをする夫が怖くなりました。 私に怒ったのではないし、 それくらい腹を立てるようなことがあったからなのですが、 それでもそんなに声を荒げなくたっていいのにと思ったのと同時に、 そんな夫が怖くてこれ以上火に油を注いではいけないと思い、 なぜそこまで怒っているのかは、その場では聞けませんでした。 もうこれは感情が騒ぐどころではなかったので、その晩パターンに語りかけをし、 翌日少し冷静になったところで、何がそんなに腹が立っていたのか夫に聞いてみました。 内容は省略しますがー、 それは声を荒げたくなる気持ち、わかるような気がしました。 こんな時、じゃあどうしたら良かったのか(声を荒げずに済んだのか)、 夫がそこまで感情が高ぶるに至ったことの理由をさらに分析したくなります。 でも、大事なことは、自分がどう感じたか?だけです。 夫の怒りへの理解ではなく(それもあっていいのでしょうが)、 今は、自分がなぜ不快になったのか、腹が立ったのか、怖くなってしまったのか。 そこをちゃんと見ていこう。 まだ、胸がざわざわします。 こういう時にこの感情や感覚への扱い方がわからないと、 人によってはトラウマになるのではないかと思いました。 強い感情がはっきりとあるのにも関わらず、 このままパターンはただただ無視され放置されていくのではないかと思います。 普段あまりこんなふうに感じたことがない「怖い」という感情。 これも与えられたものだと思うので、 見ていこうと思います。 今はまっている 牛乳寒天の食べくらべ!

何も発信しない

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PCを開くとネットニュースも同時に立ち上がるのですが、 ニューヨークで暮らしている元皇族の眞子さんの、 「自分から何も発信しない」ということが話題となっていました。 今や一般人でもSNSでプライベートを見せる時代。 眞子さんについてのいろいろな誤解や偏見と思われるような記事が書かれているのは、 有名人であるから仕方がないと思いつつも、 ベビーカーを押すありのままのお写真を見ていると(撮られたものですが)、 よくわからないけれど日本を離れて良かったのではないかと思います。 一切否定もせず肯定もせず、 自分たちの生活はそんな世界とは無縁であるかのように、 何も発信しない眞子さん。 そして、それが気になってしかたがないという人たち。 発信があたり前の人たちや上流階級の人たちにしてみると、 とてもミステリアスで、かえって注目したくなるのだと書かれてありました。 何も言わない。 これが、一番自分たちの生活を守れるものだと知っているのだろうと思います。 自分に置き換えてみると、 言われるゆえんがない事を言われたとか、 自分が正しいことをなんたって証明したいとか、 わかってほしいとか、気づいてほしいとか・・・ それ、違うんですよ!と言いたくなる時があります。 でも・・・ そのとき自分はどうありたいのか? ということなんだと思いました。 わかってもらうように話すのか(時と場合にはこれも必要かもしんないけど)、 気付いてもらえるように仕組むのか(誰かに言ってもらうとか?)。 SNSで発信ということはしないにせよ、 アナログなやり方で何とか自分を知ってもらいたいとするだろうか? それは・・・たぶん、しないと思いました。 でも、「したいけど、しない」なのか、 「全くしたいと思わない」のかでは違います。 前者の「しない」というこれもある意味パフォーマンスなのかもしれませんが、 それがやがて後者の「しない」になれるような自分になりたいです。 っていうか、 そうなろう!と決めていく。 あんバターって何でこんなに美味しいのか!

「私」の理解のしかたとは

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今日はイライラしはじめた時、 何のパターンに引っかかっているんだろう?って観察してみました。 ああ、相手が自分にまったく合わせようとせず、マイペースでいる・・・ そのことにイラついているんだなあと思いました。 そして、一体パターンはどうされたいんだろうってその場で考えました。 マイペースでいることをやめて、自分に気を遣ってもらいたいのか? それとも、空気を察して話しかけてもらいたいのか? こうして何をパターンは望んでいるのかをパターンに問いかけます。 すると、大抵の場合、パターンはこうしてほしい、ああしてほしいと望みを言いますが、 全部言いたいことを聞き終えると、 聞いていた「私」は全然そうは思っていない・・・ということがわかります。 聞いてはくれたけれど、全然そう思っていないという事実。 パターンは「私」に、今ある感情をわかってほしい。 そして、なんでそういう気持ちになっているのか聞いてほしい。 「私」にしてほしいことはそれだけだとも言えるし、 「私」がパターンにできることもそれだけです。 そして、それをやったらもう一旦終了です。 いつまでも長々とパターンにしゃべらせないし、パターンを助長させない感じ。 ここが自分にとって大事なところかもしれません。 「私」は、深追いはしないのだ。 「私」の理解というのは何かそういうことかもしれないなあと思いました。 宮古に来たら寄ってがん

謙虚と遠慮のちがい

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「謙虚」と「遠慮」は似ているようでいてまったく違うものです。 意味を調べてみると、謙虚には、素直さの中に相手を尊重する気持ちがあります。 控えめで慎ましやかでありながら前向きで自分をちゃんと大切にしている感じです。 一方で遠慮は、同じ控えめでありながら、 相手からどう思われるのかという気持ちで自分を抑えています。 本心とは違うところでやっているので、 いつも遠慮してばかりだと自分を見失うあやうさがあります。 以前は優しい人になりたいなと思っていました。 でも、そういう人間になるには、 遠慮ではなく謙虚さがないとなれないのだなあって思います。 優しいというのは、自分の意見も考えも気持ちも隠さず話せたうえで、 相手のことを思えることなのかもしれません。 自分自身に優しくできなければ、他人には当然できないのだ。 だから今は、少しでも謙虚な人になりたい!って思うのです(こっちが大事)。 そうではない自分を自覚しているので、今素直に目標とするところ。 そしてここ数日のテーマとしている「比較」。←またまた出ました! 謙虚さには他人と比較するという視点はないのですね。 比べるどころか、自分と関わってくれている人のことを思うと、 もうそれは感謝の気持ちしかないって思います。 今日は鍼灸に行って~お腹ペコペコで~、誘惑に負けてしまった!

心に決める

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他人と比較しないことを心に決めると、 もうそれ自体も忘れてしまったかのように比較が自分の中から飛んでいった気がします。 比べるのをやめる。 やめるのを決めたのだから、他者は消え、もう自分しかいません。 「私」が堂々と中心に君臨し、周囲の人たち(パターン)が薄れていくのを感じます。 注目すべきは、周囲の反応や言動ではなかったんだなあって、 やりたいことは自分の反応や言動を見ていくことだったのだとあらためて思います。 自己観察をし続けていくと、今度は自分が今どんなことを感じているのか、 そこへのフォーカスが何だかおもしろくなってきます。 今日はたまたまだったのかもしれませんが、 いろいろな表情を見せる自分自身がちょっと可笑しくなりました。 朝出勤して間もない時間の会話ってなんかぎこちないなあと思ったり、 あ~今自分を正統化しようと必死になっていたなあと思ったり。 本当に今更なんですがー 比較するのはやめよう! まだネギしか食べてない

比較したがるパターン

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人と人を「比較する」について、意味付けのワークを考えてみます。 一般的には人と人を比べるというのは、 マイナスなイメージの方が大きいと思いますので、マイナスから出してみます。 ⊖ ・卑屈になる   ・天狗になる   ・必ずどちらかが悪者になる   ・結果がすべて   ・自分を見失う   ・パターンがやっている 中立 「比較する」というただ一つの体験 ⊕ ・切磋琢磨   ・適度な刺激(向上心)   ・対象で変化(決まったものがない)   ・現実を知る   ・自分の状態を知る   ・パターンを知る 比較するというのは、 ただAとBを比べて何が違うのだろうっていう状態を知るだけのものです。 でも、知ったところでは終わらず・・・ そこに評価を入れてくるのがパターンのなせる業です。 必ず、どちらが優れているのか、正しいのか、などと比べたがるパターンがいます。 プラスの意味付けの中に、「対象で変化する(だから決まったものがない)」というのを出しましたが、 人と人との比較って、もしかしたらとても曖昧なものなのかもしれません。 自分がいいようにどうにでも捉えられる、ということがあります。 例えば、あの人には全然かなわないと受け取るのか、 ここまで近づけたと受け取るのか・・・という違いのように。 自分の状態、自分の現実、自分のパターンだけを本来は見ていけばいいのだ。 パターンに主導権を握らせないようにしよう。 明日は、比較というパターンの支配下に自分がいないかどうか! 終日チェックしてみます。 ヤミーさんのノンカフェコーヒー 15:00過ぎたらこれ

他人との比較

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他人と比較するから生まれるパターン。 ここへの自覚がなかったのだと思いました。 あの人と比べて自分はこれができる、できない。 という単純なものだけではなく、 ●自分はダメな人間だ、という大元のパターンも、 結局は誰かと比べてダメな自分だと思っています。 今まで人生で関わってきた無数の他人。 たくさんの人たちが、その都度その都度、自分の目の前に登場するたびに、 パターンは反射的に比べ続けてきたのだと思います。 何だかあまりにも無意識すぎて、 パターンに申し訳ないほどそれをやらせてきたんだなと思う。 ということは・・・ ●自分には能力がない、と思っているパターンも、 もし他者がいなければ(自分ひとりだったら)、 自分自身の能力そのものに意識がいくことなどないのかもしれません。 誰かと比べるから、その人より能力があるなしを評価したくなるのです。 ●自分は特別で一番だ、と思っているパターンもそうです。 たくさんの他人との比較の中で、その中で自分は特別でありたい。 あの人よりも、この人よりも・・・。 その中での一番でありたいって、注目されたいというのは他人がいてこその思いです。 そうやって、 これからも人と比べて生きていきたのか? ここが、「私」はどうありたいのかの問いです。 桜山神社近くの、いつも混んでいるパン屋さん

素直に無知を知る

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昨日の目標から引き続きの、 素直になる(受け入れる)を心がけた一日でした。 私的にはその素直さは謙虚であれ!ということに尽きるのではないかと、 今日の岩手クラスのセミナーで確信したような気がします。 無知が悪いことではないと(しかたがないこと)だというのもパターンであり、 一般的には育ってきた環境の問題、また今ある仕事、家族、 あらゆる人間関係の問題だから仕方がないって思うことで、 自分の人生を今も自分が創っていることに気がつかない。 というより、そこにしがみつくメリットさえもあったのだ。 仕方ないよ、だって親がこうだったし、家がこうだったし、 周りがこうだったし、体がこうだったし・・・と言っていたのはパターン。 それは、自らがその精神性を選び続けてきたということなんだと。 本当にその通りだなと、 何もわかっていなかったんだなあと思いました。 学びはこの連続か! 今日学んだことを、無知だったんだという現実を、謙虚に受け止めていこう。 締めの別腹〜

素直に

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今日の午前中は、 義母関係、母関係の用事を済ませ、頭と体を使う時間でした。 午後からは自分を振り返る時間に使いたいと思います。 あまり考えずに感じていこうと思います。 今日の目標、素直に受け入れる!です。 アイーナのネーミングが変わりました!知らなかった…

何に対しての自信がないのか

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自分に自信がなくなるとき、 そう思っているのはパターンであって、「私」はそうは思っていない。 ・・・ということを声に出して言っていますが、 ところで自信がないって何に対してなんだろうって、思いました。 自分が成長していくことに対してなのか、 意欲を持って働き続けることに対してなのか、 ワークがちゃんとできているかどうかなのか、 それとも、良い人生を送ることに対してなのか。 それら全部まとめて、 そう思うパターンを受け入れられるようになっていくのだろうか・・・ って思っているパターンもいます。 ここが感じられたら、 そう思っている自分を素直に、「そう思っているんだね、あなたは」と、まずは言う。 本当にこれだけだ。 こうなりたい、こうなれない。 こうしたい、こうできない。 とシーソーのように白と黒を行ったり来たり。 どちらかの答えにあてはめるとき、 こっちは嫌だなと思えば、反対の方に意識が向けられ、 その中間的な歩みには今一つ意識がいっていない。 でも、白でも黒でもない中間のところでもがくことで、 いろんな幅の答えが出てくるのかもしれません。 (っていうか、この幅があってこそ!) そして、どちらかだけとパターンが決めつけるからこそ、 「もう、決めつけなくてもなくてもいいのかもしれない・・・」 って、思えるのかもなあ。 貴重なやまなしで作った美味しいジャム いい香り~

年内の講座のご案内

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年内もあと3ヶ月ですが「はじめて講座」開催予定日をお知らせします! 日程はRowingのホームページよりご確認くださいね。 いずれも矢巾町やはぱーくでやっております。 ★ ←こちらをクリック なんだか年内って言うと、 もう2025年もカウントダウンに入るかのようで、 もうそんな時期かと、 秋を堪能する前に冬を連想してしまうのは、私だけでしょうか・・・ 一日一日が本当に早く感じられます。 といっても、まだ10月。 新たな気持ちになることも大事ですが、 今継続していること(自分の場合は、感情を大事に、そしてパターンを見ていくこと)を、 そのまま続けていきます。 今年は紅葉を見逃さないように、 身近な自然にも注目して過ごしていこう。 柳って紅葉したかな?

楽しみ方の変化

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今日の盛岡は21℃でしたが、 歩いていると日差しがあって丁度良い風があって、 とても気持ちのいい一日でした。 今月に入って街中のイベントも多く、 来週は「北のクラフト」もあります! 今から10年ほど前だったか、 まさか盛岡に北クラが来るとは夢にも思っていなかった頃、 長野の松本まで友人と新幹線と電車とバスを乗り継ぎ行ったことがありました。 会場に着いて、たくさんのブースに興奮し、 いろんなクラフトを見てはときめきが止まらず、感動したのを覚えています。 その時に購入した、ただの木の棒みたいなものとか、 テーブルに置くとカタカタと歪んでいるのがわかるお皿とか、 他にも何でこれ?と思うようなものも多く、 それがクラフトの醍醐味でもあり。 その時自分はこういうものに惹かれたんだなあって、今とは好みも違っているのがわかります。 そんな大好きだった北クラが地元で楽しめるようになったのですが、 なんか・・・ときめき感が・・・ 思ったより飛びつかなくなった自分がいる気がします。 行けば楽しいのでしょうがー、 あれもこれもと目移りするようなことはなくなりました。 行くとしたら、数ある中から気になるブースに一直線という感じです。 そして、もう一つ大きく楽しみ方が変わったのは、 作品もそうだけど、作った方との何気ないおしゃべりです。 全国の地元の話を聞くのがとても楽しかったりします。 そして、どうやって作品を作っているのかなどいろいろお話をしてみて、 その人が気になり、作ったものが気になり、そして本当に欲しければ買う。 というパターンがあるように思います。 (この時のパターンはあの「パターン」とは違いますよ~)。 ということは、 モノより人に興味が移っているってことなのかな。 あとは、美味しい食べ物屋さんもいっぱい出ているので、 美味しいものを食べながら、楽しそうにしている人を眺めたりしています。 そういう、みんな楽しそうで良かったな~って、 遠巻きで一つの景色として見るのも好きなのかもしれません。 お堀の周辺って昔のまんま

できるだけ今のうちに

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お義母さんの容態が安定してきて、 来週はリハビリ病院へ転院することになりました。 といっても、リハビリなどできるような体ではないと思うので、 これから毎日何をするのか、食べれるようになっていくのか、 いろいろ心配事はあります。 これまではとても元気な義母だったので、 夫はよく親子喧嘩もしていました。 なのに、今はしゃべれなくなったお義母さんに対して、 優しい言葉を毎日かけては労わり・・・ そんな夫の姿を見ていると、 元気なときにもっとそういう言葉をかけてあげていたら良かったのに~ って思ってしまいます。 弱ってはじめて、健康が永遠のものではなかったと気づき、 しゃべれなくなってはじめて、たくさん聞いておけばよかったと思う。 これ、できることならそうなってから気づくのではなく、 今、毎日会える人にこそ想像したいことだと思いました。 今あるものがあたり前に思ってしまう、 人間の愚かさがあって、後悔があって、 そしてこれからどう生きていきたいのかを本気で考えるのだ。 それと同じように、 できるだけ生きている間に、自分が見ようとしなかったことに目を向け、 できる限り、パターンのケアをしていきたいと思います。 あちらの世界に行ったときに、 ああ、もっと良心に従っていけばよかった・・・ って悔やむことがないようにしたいです。 何気に、光沢のある赤の額縁とベージュの台紙がマッチ!

意外なおもしろさ ~額縁屋さん体験~

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今日は額縁を制作するワークショップに参加してきました。 美術館で絵を見たりするとき、絵は凝視しますが、 どんな額縁に飾られてあるかは気を付けて見ていなかったなと思いました。 好きなポストカードを入れる額縁をまずは選ぶのですが・・・ はじめは単純に好きな洋服を選ぶような感覚で、 これ、いいなあ~なんですが、 そのポストカードを置いてみると、おおーーっと、 なんてことのないカードが、急に威厳を持って光り出す感じがあります。 堂々としっくりおさまる感じの額もあれば、 ポップな明るさを放つ感じ、ちょっとかしこまった感じ、 絵の色や線と、額の色や形がマッチして一つの作品になるかのように、 表情がそれぞれでがらっと変わります。 プロが見ると、どんなに素敵な絵でも、 合わないものに飾られると一気に絵の魅力が半減するのだそうです。 それ、わかる気がする。 そして、中のマット台紙もどんなものにするのか・・・ここも重要らしい。 ここはちょっとプロに選んでもらったものにして(自分なら選ばなかった色)、 その台紙を自分で採寸して、 自分でマットカッターという機械を使って切る! っていう、額縁屋さんになったような体験をさせていただきました。 お店の方は、普通のカッターでも切れるというので、 そっちの方が職人技だなあと思いました。 最後にぴしっとポストカードをはめて完成。 いつか絵も描いてみたいなあって思っていたけれど、 こうして台紙も自分で作成し、額縁におさめるところまでやると、 何だかちょっと、絵を描くということの概念が変わりますね(範囲が広くなった!)。 どこまで自分が極めたいのか、 どこを大事にしていきたいのか、 どこまでやりたいのか。 そこはどうありたいのか?に似ているかもしれません。 たくさんの種類の額縁と台紙があって、 この絵に何をどう合わせるのかは、経験と感覚と直感と知恵と・・・ でも、直感的なところが大きいのかなと感じました。 これからは、絵を見るより額縁を見てしまいそうです。 ゴールドって派手かと思ったけど、意外と合う!

図書館の色

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今日は青空が広がるとても気持ちがいいお天気でした。 高松の池を一周して、しばらく行っていなかった市立図書館へ。 木々の緑と池の青と、空の水色。 ここから見える岩手山は深い青緑に、雲の影が濃く映っています。 そして図書館は白っぽいグレーのわりと新しい建物で、 コンクリートの駐車場はそれよりも白くてきれい。 中に入るとまた、座るところは木で作ったイスの茶色が目に入り、 公園のベンチに座っているような感じがあります。 壁は珪藻土のようなオフホワイト、 案内の文字は、可愛いデザインの少しブルーが混じった薄緑色。 そしてたくさんの本の背表紙にいろいろな色が混じりあい、 もうこうなると気持ちがちょっとわくわくしてきて、 本を読む前にすでに楽しくなってきます。 結局、今日はいろいろとその場で読み尽くし・・・ 図書館独特の雰囲気を存分に味わって帰ってきたのでした。 本という、 書いた人がちゃんとわかっているところからの情報もいいなと思いました。 AIのようにPC画面に出てきた情報は、 ずらーっと斜め読みしてしまう感じがありますが、 本だとじっくり文字を凝視しページをめくり、 そしてじっくり想像したり思考をめぐらしたくなってしまいます。 紙に文字が乗っかるだけで、 こんなに受け取る側の気持ちが変わるものなのか? 紙の色もいろいろで・・・目にやさしい感じがした。 (最近まで目がやられていたので、敏感になってます) また次のお休みも行ってみよう。 中から、緑の合間に池がちょっと見えます

がんばれ、お義母さん

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夫のお義母さんが倒れて心配な日々が続いています。 私に何ができるのか・・・ 自分の親のことばかりで、 丈夫でアクティブなお義母さんは、 ずっと元気だと思っていたんだと思います。 同じ年を取っていっていたのに・・・お義母さん、本当にごめんなさい。 心労が絶えない夫。 そのそばで、話を聞いて寄り添い、 これからのことを考えたり、祈ったり、 現実的に自分が動けることは何でもしたい。 でも、 私にできる一番のことは、 自分の心を自分で守ること。 心身を整えていくことなんだろうなと思いました。 後悔する気持ち、悔しい気持ち、不安で胸がぎゅーっと締め付けられる。 これからの生活のことを考えると怖くもなる。 それら全部、 本当の「私」は全部その気持ちを受けとめているし、 そのことをしっかり自分へ語っていきたいです。 ここから私(私たち)は、たくさんのことを学んでいく。 そのためにまずは、私の心を平和にしていこう。 午後、お義母さんが反応したので、うれしくて食堂で二人で食べました

平気なふりをする

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昨日の続きになりますがー 「平気なふりをする」そういうプライドがありました。 さも、動揺していないように、感じていないように、 冷静で自然体であろうとするパターンなんだと思います。 それは動揺したり、感情がわかってしまったりしては、 恰好が悪いと思っているからです。 冷静でいること、俯瞰して自分を見れること、落ち着いていることが、 パターンにとっての理想なのかもしれません。 そうではない自分をまだまだ受け入れていない・・・ ということなんだと思いました。 でも、パターンとしては、そういう自分を受け入れていることにしたい。 それが自然の姿ですと言いたいのだ、パターンは。 本当は、全然冷静ではないし、ちょっとイレギュラーがあると慌ててしまう。 俯瞰して見れず、木を見て森を見ずの状態になっている。 そして、落ち着きがなく、一喜一憂する自分。 そういう自分は受け入れ難いのだと思います。 だから平気なふりをしてしまうのでした・・・ と、ここまで書いて、 平気なふりをするのは、 平気じゃない自分は許せない。 そんなプライドがあるんだなあと思いました。 震災の後、ちょっと引っ込んだところに引っ越しました