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7月, 2025の投稿を表示しています

動ける幸せ

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明日から盛岡はさんさ祭りがスタートします。 今年は暑さのせいか、 外でさんさを練習している人たちをほとんど見かけていませんが、 時折聞こえる太鼓や笛の音には心が踊り、 今年もこの季節がやってきたか~って思います。 小さい頃は本当に体を動かすことが大好きで、 なんでもすぐにリズムに合わせて、しかもいくらでも踊れたのでした。 子どもの頃はたぶん運動神経が良かったのです(自慢みたくなってしまいましたが、子どもって皆そうか)。 それが~・・・まさかのまさか、 踊るどころか体を動かすことがこんなにできなくなる体になるとは、 夢にも思っていなかったのです。 何歳になっても、それなりに走れるし、動けるし、踊れるって思っていたんですね。 今となっては、よく体が動いていたころがどんなに貴重で、 幸せなことだったのかと思います。 ちょとやそっと疲れたって全然平気だった体。 そんな経験を小さい頃だけだったとしても、 思い切り味わえたことは良かったなあと思う。 あの頃の体を動かす気持ち良さは、 今でもよ~く覚えているし(まだ動けそうな気さえしてくる)、 それはそれは楽しい時間でした。 今ある健康も、今ある自分のあたり前の生活も、 全部がずーっと同じように続くものは何一つない。 だから、今やれていること、今動けていること、今週末も出張ですが、 動いて歩ける幸せをかみしめながらお出かけしようと思います! 久しぶりの読書

そんなことをしている場合じゃない

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昨日の続きですがー パターンへの語りかけをして、 少し気持ちが落ち着いてきたのかどうかはわからなくても、 自分が作った夕飯をいつものように、 「おいしいわ~」って言って食べる母を見ていたら、 生きているうちにできることをさせてもらおう! ただ、そう思ったのでした。 悲しんでいる場合ではないのだ。 時間があるのかないのかそれすらわからないことだし、 だったら今、たくさん話せばいいじゃないか! してあげたいことをいっぱいすればいいじゃないか! と、私の思考回路が逆回転し出したような気がしました。 そう、この頃思うことがありました。 〇〇している場合ではない・・・という名言(←自分で名言と言う)。 他人のことをあれこれ考えているときは、 他人のパイプに入り込んでいるいるわけで~、 そんなことに時間を割いている自分でいいのかと、 本当にそんな暇はないでしょって、思うのです。 自分のパイプ磨きをしろーって。 この名言を出すときは、 ケアをちゃんとしてからでないと思っています。 問題を単に思考ですりかえているだけに過ぎなかったりしますので、 きちんとパターンだと自覚をして(語りかけをして)、そして感じて、 そして自分はどうありたいのか? すると、いろんな選択肢を持った自分が発動し始めます。 パターンに人生を決めさせたいのか、 それとも、「私」が人生を引っ張っていくのか? この違いを感じていこう。 連続して買いすぎた~

悲しくなったパターン

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とても悲しい気持ちになったので、 これはパターンだなとすぐにわかりました。 ●母にずっと元気でいてほしい、というパターンに引っかかり、 悲しく寂しく、しょげているのです。 母の左手が腫れていて、指を動かすと痛がっていたので、 今日は病院へ連れていってみたら、骨折ではなく打撲か何かでした。 先生がその時に、「何をしたわけではなくても、腫れることがあるからね」と言っていたので、 それってもう年だから仕方ないね、ってことだよねと思いました。 ひとまず骨折ではなかったのでほっとしましたが、 病院ついでに、以前から目が疲れると言っていたので、眼科にも寄ってみました。 メガネを新しくすれば、少しはいいかなと思い診てもらったのですが、 メガネの問題ではなく、片方の目がほとんど見えていないことがわかったのです。 丸いはずの眼球が、まんまるではなくなっている・・・ いつから見えていなかったのか、 もっと早く眼科に連れてきていれば良かったなと気落ちする私に、 またしても先生が、 「だんだんこんなふうに、目がいびつになってしまう人もいるんですよ」と。 どちらの先生もまったく悪気がないのもわかっているし、 むしろ優しく言ってくださっているのもわかるんですが、 自分のパターンが受け取るのは、 母はもう、どんどん元気がなくなっていって、もうすぐ死ぬってこと? って思うと、悲しくなってしまいました。 歩くときふらふらしたり、ちょっとよろめいて転びそうになったり、 それも片方の目だけで見ているからなんだなあと、せつなくなります。 「はあ、もうどっこも悪くて、いいところはないんだね」と笑う様子にも、 私の中に泣きそうになっているパターンがいます。 死に向かって生きている。 これはみんなそう。私も、誰でも。 でも、母に元気で長生きしてほしいし、まだまだおしゃべりもしたいし、 もっと笑い合いたいし、いつまでもそばにいてほしい・・・ そう思うパターンの力が大きかったんですね。 と、気づいたので、 今日はしっかり語りかけをします。 暑さの中、真っ赤に、しっかり咲いてます!

一喜一憂

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疲れがたまっていたのか、 今朝はちょっと起きるのに、「よっこいしょ」と掛け声をかけ、 自分で自分に気合をいれて朝の支度をしました。 でも、カラ元気なのでだんだんに頭痛がしてきて、身体も重くなっていきます。 頭痛薬を飲み、しばし目を閉じ、 なんとか今日一日乗り切ったらちゃんと休むからね・・・と自分の体に言い聞かせました。 そして、今夜は早めに眠ろうと誓う。 絶好調の日もあれば、こういう日もあります。 パターンが暴れまくる日もあれば、落ち着いて平常心で過ごす日もある。 そこに以前よりも少しだけ一喜一憂しなくなっている自分も感じ、 不調ではあってもなんだか良かったなって思いました。 というわけで、今日はこの辺で、 疲れたら寝るに限ります。 おやすみなさい。 お昼に桜山でアイスチャイ飲みました~

どうありたいか?への意識

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 今年も半分過ぎたということで、今年の抱負の経過を考察してみました。 『どうありたいか?』 ここをしっかり見ていくことを目標に掲げていましたが、 昨年は、どうある?というところを、 考えに考えぬいたすえ、どんな自分という人格であったらいいのかと、 表面的なもので頭で捉えていたことに気づいたのでした。 なので、今年の「どうありたいか?」は、 窮地に立たされた時、不安や緊張や怒りや焦りなど感情が動いたらすぐに考えるのではなく、 まずは、これはパターンじゃないの?と、 ここにしっかり気づくことを大事にやってみています。 やってみると、パターンだと気づきさえすればその後のやることは決まっていて・・・ 白を選んだその感覚も大事にしようと思える。 この軽さ、広がり、光があたるようなこの心地よい感じを持って、 そして(ここからの~)どうありたいか?なんだと思って今はやっています。 今年に入ってから一種のマントラのようにやっている、 「もしかしたら、〇〇だともう決めつけなくてもいいのかもしれない・・・」 と言う時の感覚もそれです。 これを持つ自分ならば、黒はもう選びません。 ここを24時間(寝てるとき以外)意識を持って日常を送ることは、永遠のテーマです。 テーマが壮大すぎているかもしんないが、 それくらいの意識が自分にはちょうどよいことも分かってきました。 明日もパターンを自覚すること、 この白の部屋の感覚をなるべく持続させること。 忘れても何度でも思い出すようにして(ここは自力しかない)、 繰り返しやっていこうと思います! こんなふうに立ち止まって確認し、 あらためて自分がしていることを言葉にしてみると、 自分を俯瞰してみれていいなと思いました。 月1回の本当にありがたい時間です。 みなさん、いつもありがとうございます!! 雲りの日はちょっとほっとします

心が洗われる

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  秋田の美郷町というところに、 六郷湧水群という清水が湧き出ているところがあると聞き、探索してきました。 まさに今この暑さに、ぴったりの湧き水巡り。 私は、海、川、そして水が好きだー! 向かう途中には、 美しい田園風景が広がり~(さすが米どころ) 用水路をのぞいて見ているだけでも、すでに涼しくなっていきます。 青い色がきれい。 御台所清水は、その名の通り、 台所の水仕事に使ったり、お茶の水を沸かすための飲み水にも使われていたところなんだそう。 かつては生活になくてはならない場所だったと思うし、 そこに自然と人が集まり、交流がはじまり・・・ 町の人たちの憩いの場だったのではないかと思います。 と、想像しながら巡っていたら、 さっきも確か会ったよな~と思う中学生たちと遭遇。 向こうもあれ?っていう顔をしてます。 「ここの水って飲めますよー」と話しかけられ、 ちょっとおばさんびっくりしてしまいました! まさか、ここで泳いだりはしないよね?笑 と私も話しかけー、 「オレ、泳いだことあります!」とのこと。 中学生って、おもしろい・・・ こういう行き当たりばったりの先での出会いも楽しい。 そして、人が清水に集っていたのは昔々の話でもなく、 今も子どもたちの休憩所になっていました! なんと、 この酒屋さん の家の敷地にも、湧き水があるのだそう! こんなに至るところで水が湧いていたら、 水道水は要らないのでしょうか? 道路の真ん中には、 冬に地下水で雪を解かすための穴(噴水みたくなるやつ)もありました。 この季節は想像できませんが、豪雪地帯なんでしょうね。 最後に見た「神清水」はすぐ近くに八坂神社があり、 お清めの水だったようです。 冷たい水を触っていると、 気持ちがいいだけでなく、だんだん清められていくような気がして、 そこに神聖な空気がただよいます。 そして、 生きている実感が湧いてきます。 こんこんと水が出てくるって、 山も大地も地球も生きているから湧くんだー この風景、日本の宝ですね。 山と田んぼと湧き水に、心が洗われた一日でした!!

暑いから

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このところの異常な暑さで、 ちょっと例年とは違う生活、体調になっている方多いのではないでしょうか。 私は、お風呂よりシャワーが多くなり、それもあってか、ゆったりする時間が減った気がします。 寝ている間もしばらくエアコンをかけていて、体が冷えているのか鼻の調子がずっといまいちで、夜中に何度も目が覚めてしまいます。 飲み物はあまり冷えたものは飲まないようにしているものの、 一日置きぐらいにアイスを食べては、体重が減らないと言っている。 食欲はあるんだけど〜気づくとナスばっかり食卓に上がっていたりして。 外に出る時は日傘をさしてますが、日焼け止めをしょっちゅう塗り忘れ、 そうなるともう腕がヒリヒリしてくる。 顔のシミもだんだん濃くなった気がする。 そして、母が家で具合い悪くなって倒れてはいないか、 ちゃんと何か食べたり飲んだりしているか、 冬物の服を着てだるくなっていないか等々。 心配事もできてしまいました。 さらにさらに、北海道の40℃って、いったいどうして過ごしたらいいんでしょう! なんかいろいろなものが溶けたり、壊れたりしてしまいそうだし、 免疫が弱い子どもやお年寄りたちも、動物たちもみんな大丈夫かなとか思ってしまいます。 せめて、自分の体調だけは責任もって自分でみていかなきゃなーと思っていたら、 あ、それは暑いからじゃなく、 いつでも自分のことは自分でしていこう! そう思った朝でした。 朝ご飯は、昨夜の麻婆ナス2切れ、茹でブロッコリー、 きゅうりの甘酢、味噌汁はなし。

仕事とは

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仕事って、これは仕事だと思えばそうなるし、 楽しむもの、ゲームするように、余暇、日常と変わらず、遊び心で。 って思えばそうなります。 また、お金をいただいているんだからと、 真剣に、真面目に、気を許さず、きっちりと、ミスをせず、 嫌でもやる、苦労して、努力して。 って思っていれば、これもそうなるのが仕事です。 じゃあ、自分は仕事をどんなものにしたいのか? 1日の1/3の時間を使って会社に行っているわけですから、 どんなものにするかを自分で決めるのは大事です。 私は、家にいるときのようにリラックスし、 遊ぶときのようにのびのびし、 時に大笑いし、時に夢中になり、自分を正直に表現し、人との対話を大切にし、 自分の心を一番に置きながら大いに楽しみたいです。 そういう仕事のあり方が自分らしくていいと思う。 そして、コーヒー飲む時間もほしい

違いを感じる

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●自分の非を指摘されたくない というパターンの語りかけをしました。 そしてこのワークの次は、白黒ワークというものがあります。 「本当の私」が「自分の非を指摘されたくないと思っているパターン」の部屋に入り、 どんなものを感じ取るのか。 また、その逆のパターンの部屋にも入ってみて、どんなものを感じ取るのか? 正解、不正解はないのですが、 「私」が選ぶものには、軽さがあって広がりがあります(それが白)。 でも「パターン」が選ぶものには、重さと息苦しい感じがあります(こっちは黒)。 そこを感じ取る、という工程が自分は好きなんだなあと思いました。 どちらの部屋に入ったとき、自分がよいと感じるのか? この違いが分かる・・・のは、 自分のセンサーがしっかり働いているという一つの目安になります。 (まあ、だいたい分かるとは思います!) とここまでが一日でやったワーク。 語りかけから、白黒ワークもしてみたので、 その次は意味付けのワークを考えます。 でも・・・、また語りかけに戻ってやってみています。 先に先に進んでいくこともありますが、 今回のこのパターンは、感情が落ち着いた後も今まで度々出てきてましたので、 今回ももう少しここでゆっくりやってみた方がいいかなと思いました。 岩手山の上に真っ赤な夕焼け

見逃さず、スルーせず

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相手が言った言葉でパターンに引っかかったとき、 いつまでも起きたことに対して、なぜだろうと考え続けてしまうことがあります。 不快感があり、悔しさがあり、苛立ちがあったのですが、 自分がなぜそう感じたのかよりも、 相手がなぜ自分に対してそんなことを言ったのか? その理由をあれこれ想像して考えてしまうのです。 これ、自分には非が無いと思っているパターンがしているんだと思う。 パターンに引っかかったことを気づくだけでいいのに、 自分は悪くないというプライドが壁となってパターンを守ろうとしています。 はっきりと自分が悪かったとしても、 仕方なかったのだとか、悪いといってもそこまでではないとか、 言った相手のことをあれこれ考えるとか。 何かしらの言い訳を思考し続けていることがあります。 こういうことがあった時、 ああ、まだまだ黒パターンの方の力が大きいんだなと感じます。 以前に比べれば、素直に非を認められるようになっているかもしれません。 次は気を付けていこうという気持ちや、 指摘されて良かったと思うようになった・・・って思っていたけれど、 気がつくとパターンの言い訳を聞こうとする自分がいました。 こういうところを見逃さず、スルーせず、 大事に語りかけていこう。 次はどんなお店が入るのかな…

自分を創るエッセンス

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昨日の続きです。 子どもの頃の遊びを思い出し、 自分だけの価値ってどういうものなんだ?と考える。 あれだけ書き出すと(どんどん出てきて止まらなくなったので絞りました~)、 いろいろ自分のことが見えました。 キーワードとして、一つ目は「冒険」。 ここは自分の軸になっている気がします。 ドキドキする感じ、わくわくする感じ、ちょっとスリルなんかもあって、 気になることをそのままにできない。 そして、知りたくなるし、なりふり構わずやってみたくなる。 そういうことに面白さを感じるんだと思ったし、 そうなりつつあったら、もうそれは自分にとって必要なことなのだと思う。 それから「人生を知ること」。 小さい頃からずっと興味があります。 今の仕事にもそれは通じるところで、人と話をしたり聞いたり考えたり、 そして想像したり、感じたり、ということが好きなのだ。 人が住んでいる風景にも、どんな家族がどんな暮らしをしているのか、 見え隠れして興味がいきます。 自分を知ること、人について考えることが好きなんでしょうね。 あとは、「遊び」です。 家の中と家の外。一人だったり、誰かとだったり。 書くも、描くもどっちも好き。 行ってみたいところには、すぐにでも行ってみたくなる。 一人時間を作ることも欠かせません。 要するに、自分が自由に好きなように遊びたいんですね。 そして「きれいなもの」も好き。 だから、何かを作ったり眺めたり探しに行ったりということにも時間を費やすのだと思う。 自分がいいと思ったものが迷わずいいと思える。 自分の感性しかない。そこに価値があるように思います。 大人になっても、「冒険」「人生哲学」「遊び(自由時間)」「自分が好きなきれい」 というところがエッセンスでしょうか。 これらを織り交ぜながら私は、 どんな時も何をしていても私らしくいたいのだと思うし、 これからも、迷ったらここに戻りながら自分を創っていきたいなあ 唐辛子入りこんにゃくがうまーーーい!炒めものに◎

子どもの頃の遊び

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小さい頃、夢中になってどんな遊びをしていたか? 純粋に、楽しくてしかたなくって、大好きだったことが、 今大人になり、これからなりたい自分へ向かうヒントとなるようです。 なぜならば、そこに自分だけの価値があるから・・・です。 私は外でも家の中でも、どこでも夢中になることがあったように思います。 外では、ままごと遊び。ござを敷いて、ここ玄関ね~と言って家族ごっこをした。 小川でタニシを取り、笹船を流し、素足でじゃばじゃば入って水遊びもした。 木登りとかジャングルジムとか、高いところにのぼるのが好きだった。 鉄棒、ブランコ、けんけんぱ、だるまさんがころんだ、自転車で遠くに冒険するのも好きだった。 白く書ける石を見つけて、家の前の道路に落書きした。 きれいな包装紙を集め、こたつのテーブルの下に挟めてシワを伸ばし、将来はデパートで包む人になりたいと思っていた。可愛い柄の便せんや封筒も集めた。 リカちゃん人形の靴を履かせるのが好きだった。リカちゃんの洋服を母に作ってもらい、小道具を兄に作ってもらった。 ザ・ベストテンの順位をノートに書いていた。ピンクレディーになりきって踊り、たくさん歌謡曲を歌った。 両親の田舎のお祭りが大好きで、山車、駒踊り、寅舞い、笛や太鼓の音を聞くとうずうずした。お盆の墓参りに、親戚一同ぞろぞろと行くのが好きだった。 花札、トランプ、オセロは一番になりたくて、負けると泣いた。 「りんりん」「らんらん」という新聞を自分で作っていた。ポスターカラーを初めて買ってもらってポスターを描いた。 勉強机と畳一畳分をカーテンで仕切って自分の部屋を作ったときはものすごく嬉しかった。 ドライブするとずーっと窓の外を見ていた。山を見たり畑を見たり、いろんな家を見ながら、ここにも人が住んでいるんだなと思うのが好きだった。 父の勤める会社に卓球台があって、休日の誰もいないときにこっそり行って父と卓球をした(会社の人とすれ違うとドキドキした)。 学校の帰り道、知らない家の庭をその家の人にバレないように通って、新しい道を見つけるのが好きだった。 インコ、やどかり、ミドリガメ、金魚を飼っていた。親戚の犬(スピッツと秋田犬)や近所の雑種犬を可愛いがった。 夏の夜、窓を開けて寝ていると、外を歩く人たちの声が聞こえてくるのが、楽しそうでわくわくした(これらは遊びとは違うけどー)。 ・・・とい...

ちゃんと話を聞こう

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亡くなった父の従兄弟にあたる方と初めてお会いしました。 それも、とても近くに住んでいたのに今の今までそうだとは知らずに、 長い年月を経て父の生い立ちを初めて知ることになりました。 父は何度となく自分が小さい頃の話を私に伝えようとしていた・・・それは覚えています。 だけど、あまりにも複雑な家庭環境で、出てくる名前も一体誰が誰で、 紆余曲折がすぎる小さい頃の話に、 まだ若かった私は途中で聞くことを放棄してしまっていました。 父の親戚関係は複雑すぎて私にはわからない。 私には理解できないし、もう面倒だ。 とにかくものすごく苦労をした人。それだけはわかるんだけど・・・ そのうち父も昔の話をしなくなっていました。 (そう思うと、なんて親不孝な娘だったかと思う) でも話が分からないという、 それすらがパターンだったんだと今になって気付かされました。 パターンだという自覚がないために、 ただただ苦手意識として流すことを許していたんだと思いました。 根気がなく、わからないと耳を塞いでしまうパターンを優先した結果、 大事なことを知らないままにしてしまう。そんな自分になっていたのだと思う。 ●自分には能力がない、というパターンもそうですが、 そもそも人の話を聞くのに能力は関係ないのだと思います。 頭が悪いから聞けない、というのはパターンの言い訳。 でも、今頃になって本当に遅すぎましたが、 そこに気付けたことは良かったです。 小さかった父に優しく愛情をかけてくれた人たちがいた事を知って、 父は苦労話をしたかったわけではなく、 そうやって生きてきたけれど今は幸せだと思える人生がある。 そういうことを言いたかったのかなあと思いました。 生きていた時にちゃんと聞けていたら、もっとご先祖様のことも知れたのに・・・ 教えてくださった従兄弟の方には本当に感謝です。 人の話を最後までちゃんと聴く。 分からない、難しいと思っても、 私に向けて話してくれる人がいるならば最後まで向き合って聞こう。 その姿勢だけは、自分のあり方として大事にしていきたい。 シラサギが隠れてしまいました…

学びと、遊びと、癒しと

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今月も楽しく秋田でのイベント(物々交換のわらしべマーケット)が終わりました。 毎回、友人の行動力とコミュニケーション力には感動しっぱなしです。 自分も人見知りをしないタイプですが、 彼女のそれはレベルがちょっと違うというか・・・ 人を見かけると自分から寄っていき、どんな人とでも仲良くなります。 そんな彼女を見ているのも、この上なく楽しいのです。 話しかけるタイミング、話題の選び方、質問の仕方等々、 積極的で、はちゃめちゃな感じなんだけど、 相手を不愉快にしない見えない線を心得ていてとても勉強になります。 きっと、こんなふうに誰とでも気持ちいい会話ができるようになるには、 たくさんの失敗とか誤解とか、 出る杭は打たれるかのようなこともあったと思うし、 どんなことで人が傷つくのかも、たくさん経験してきたのではないかと思いました。 地元愛に満ち溢れ、無くなってほしくないお店を応援し、人を応援し、 家に引きこもっている老いも若きも、もっと人とつながってほしい。 その思いを一人で行動に移してきた彼女に、 私は途中から参加しただけなのに、こんな貴重な体験をさせてもらっている。 なんて、幸せ者なんだって思います。 私もこれから、この良い気持ちをもって自分のできることで返していきたい。 昨日から実は体調が悪く、 でもたぶん、行けば元気になるかも・・・と思い、 本当にその通りになりました。 その場をめぐる良い気のおかげで、あっという間に元気になり、 心だけでなく体もしっかり影響を受けています。 そして、季節ごとの自然にも元気をもらっています。 山を何個も超えていく途中で見かける川は、 深い青緑色をしていてとてもきれいだし、 どこまでも続く奥羽山脈も深い山並みに見入ってしまいます。 そして、必ず毎回見かける田んぼのシラサギたちもかわいいのですよ。 学びと、遊びと、そして癒しと。 自分がやりたい(行ってみたい)と思うことって、 この3つがそろっているんだと思う。 来月はここにも寄りたいなあ

インナーチャイルドその後

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インナーチャイルドたちのところへ、 日替わりのように行ってみるのですが、 なかなか反応や何か伝わってくるようなものもなく・・・ 今度はしばらく一人ずつ、時間をかけて行ってみようかなと思っています。 いつかは話してくれるといいな。 とこちらが思っていると、 その、いつ話すんだろうって期待がまた困るだろうと思うので、 本当に静かに焦らず、その子の少し斜めのあたりで、 顔をじーっと見ながら座ってみています。 反応は何もないんですが、 ただ、こういうパターンをこの時作ったのかもしれないなあって、 この頃思うようになりました。 でも、そこにいるのは、パターンではなく、 やはり子どもですから、 「・・・って、あなたはそう思っているんだね」と話しかけたりすると、 どこか気まずそうな困ったような面持ちになって、 そっぽを向かれるような感じがあります(まだ、そうはっきりとは見えないけど)。 どういう顔をしたらいいのかもわからない。 この人(今の自分)は敵なのか味方なのか? そんな、まだまだ私に対しても警戒心が見える子どもたちです… こちらも、ISAIパークの前に飾ってあります

卒業

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また一つ、無くなってほしくないお店が閉店することになりました。 そうなってはじめて、 もっとお買い物に行けば良かったなとか、 もっと知り合いの人たちに宣伝すれば良かったなとか、 ずっと地元に変わらずあるものだと、 なぜそんなふうに思っていたのか・・・とても残念です。 創業110年だったそうで、 それだけ地域の人たちが足しげく通うに値する、 行きたくなるお店だったのだと思いました。 文房具屋さんなのですが、なぜか味噌汁のだしや、冬虫夏草、桑の葉茶など、 オーナー厳選の食品が少しですが、万年筆のケースの隣りに売っていました。 私もよくドレッシングを買いに行っていました。 オーナーさんは、時代がすっかり変わったこと、ご自身の身体のこと、 そして従業員の方たちの将来も考え、店じまいすることにしたそうです。 でも、「商売というところからは、卒業なのよ」と言って、 お顔はとても晴れ晴れとしておりました。 卒業・・・確かに! もうこの世界から旅立つ時がきただけで、 また新たなところへ向かって進もうってことなのかもしれません。 私が【はじめて講座】をはじめて開催するとなったときに、 こころよくチラシをお店に貼ってくれました。 そして、講座に参加する方を連れてきてくれたり、 ご自身も講座に参加してくれたことがありました。 「心が大事なのよ、人は心なのよね」と言っては、 自分のしていることをずっと応援してくださり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 きっと、売るモノが無くなっても、 心と心のふれあいに、これからも人が集まってくるのではないかと思います。 私もお手伝いできることがあれば、 そのふれあいに交じって何かしたいなと思っています。 これまで本当にお疲れ様でした。 そして、ご卒業おめでとうございます! ヘラルボニー的、花火

眠りについて

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今日も無事に一日を終えることができました。 いつもお布団の中で、 今日嬉しかったことや、感謝いっぱいのこと、 小さな幸せ感じたことなど思い出していると、 お祈りも最後までいかないうちに目が閉じてしまいます。 でも昔の自分は、まったく眠れなかったのでした。 夜になると、ああ、今日もまた眠れないな~って、 頭の中はぐるぐる考え事に占拠され、 何回も何回も寝がえりを打ってもんもんとする夜でした。 そして眠りが悪いと、朝の目覚めも悪い。 いつもどんよりとした黒いものに覆われ、 言い知れぬ不安を抱えて、朝がはじまる。 これもつらかった(でも、それが通常だった)。 だから・・・ 語りかけやワークをするって不眠にも効くような気がするのです。 って言うとオーバーかもしんないけど、 自分を観察するようになったら、 眠りの概念が少しずつ変わっていった。 というのが本当のところです。 眠ることも、人によってその意味付けは違うと思うのですが、 ちょっとでも眠れないともう何か精神的にダメな人間になったかのように感じてしまう。 そういうパターンがかつて自分にはありました。 そこがまずはパターンだったということ。 そして、眠れなくても、横になったり目を閉じたりしても充分だったり、 夜ぐっすりじゃなくても昼寝がとても良かったりするのです。 そして何と言っても、 朝、心に引っかかりがなく起きられる。 心がまっすぐ通る感じがあれば、よく眠ったのかなあって思う。 これが一番だと思います。 緑が気持ちいい(風光舎さんの窓)

選挙とパターン

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今週末は選挙ですね。 夫は、今までまったく政治に感心が無かった人なのに、 何かよほど暇だったのか急にいろいろ動画を見ては、 自分の共感した部分を私に教えてくれるようになりました。 その話が、夫のパターンらしくておもしろい(笑。 政治というのは、何が真実なのかが分かりにくく、 テレビではもっと本当のことが語られていないような・・・気がします。 じゃあ自分で真相を調べればいいのでしょうが、 そういうエネルギーもない・・・というところが正直ある。 政治と宗教の話はしてはいけないってよく言われますが、 それぞれのパターンの中でもたぶん、 ●自分が正しい、と思う強烈なパターンが根底にあって、 その人のもつ正しさ正義感ために、お互い聞く耳を持てない・・・ ということが起こるから?ではないかと思いました。 その逆もあって、自分のパターンが同調すると、 たちまちパターンを満足させてくれるその政治家を応援したくなる?ということもありそう。 (すでに自分もそうなっていたことに気づきました!) 風光舎さんの、ゆずゼリーが乗ってるさっぱりしたレアチーズ!   

好きなように生きるって?

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今日は久しぶりに友人とご飯を食べに行きました。 少し会っていない間に、お互いにいろいろなことがあり・・・ それぞれ体験の中身は違っていても、 自分の好きなように生きていこうとするその姿勢は、 自分もちょうどそういうことを感じつつあったので、共感でした。 若い人がすぐにわかることがわからな~い。 という、私たち世代のあるある話をしました。 でも、仕事中そういうことがあると、 何のことだろう?ってすぐ調べるのだそうです。 それを見た周囲の人たちから、すごいですね勉強しているんですか~!と驚かれると。 で、ここで、恥ずかしくなって止める人と、 「そうなのよ、わかんなくて」と言って学ぶ人とに分かれると思うのですが、 堂々と後者をやっている友人はかっこいいなと思いました。 経験豊富だと思われがちな年代の人たちが、 必死に学ぶ姿勢を見せるってちょっとかっこ悪いことだと、 パターン的には思うかもしれません。 でも、分からないことを認め、知ろうとする。 ここを素直にやってしまうって、すごいことではないかと思いました。 (まだまだ成長過程だということを知っている!) 自分が楽しく豊かに、自分らしくあるためにしたいことが、 知識や情報を得ることだったり、学ぶことだったり、 または何もいらないということもあるかもしれません。 自分がどうありたいのか?を考えて自分が思う必要なことをするって、 それが「好きなように生きること」なのかなと思いました。 森の中のラーメン屋さんに行ってきました♪美味しかったよー

真逆にあるもの

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NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ています。 時代は戦後の日本ですが、竹之内豊さん演じる伯父さんが土佐弁で言った 「絶望の隣りにあるのは、希望じゃ」 という子どもらに向けたセリフ。 これ、まさに白黒パターンのことだと思いました。 絶望的だ、もうダメだと思っても、 その隣りには誰にでも希望という世界が並んである。 黒パターンの隣りには白パターンが必ずセットで並んである。 それは見えないものだから、 まさか真逆なものが自分の中に息づいているとは、到底その時は思えませんがー ですが、あるんですよね、正反対の考え方が・・・自分の中に始めから持って生まれてきている。 この人嫌いだ~って思っていても、 その隣りには、嫌いではない、がある。 他人から認められたい~って思っていても、 その隣りには、他人から認められなくてもいい、がある。 あの人から大事にされたかった~って思っていても、 大事にされなくてもいい、があるんです、この私の中に。 白黒ワークはまさに、この感覚をしみ込ませ、 本当の自分の感覚を感じ取っていくワークです。 この宇宙の法則を思うとき、とても救われる気がします。 それを信じられているかどうかで、 自分への向き合い方がまったく違うものになるからです。 戦争を経験したあの時代の日本人は、みな、 それが体験としてわかっていたのだと思う。 陰陽があたり前にあって、 どんなこともずっと同じままではないことを、この学びから知っている。 変われるし、変わることを選ぶこともできる。 それがわかっているだけで、 どんな心も軽くなり自由になっていく気がします。 雑草を取った後に、ナスを植えてみた!

今年の草取り

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先日までの暑さはどこへやら~急に涼しさを感じる一日でした。 こんな日こそ、草取りです。 花も何も植えていない、ただ草ぼうぼうのジャングルのような庭。 春先はそれでも、今年は何を植えようかな~ と気持ちは張りきっていました。 でも実際は、実家と自宅の往復でそんな余裕はどこにもなかった! そしてもう、植えるタイミングを失いました・・・ 植木屋さんも言ってましたが、今年は緑の伸び方が早いそうです。 我が家も例外にもれず、すごい勢いで雑草が生えてきます。 草取りをしていて思いました。 この雑草を取ってすっきりしても、また数週間してぼうぼうになって、 またその雑草を取って何もなくなって、 また数週間後には、 同じ場所で同じような草を引っこ抜いている私がいるんだろうな、と。 これって、一体何をしているのだろうか?と。 そんなことを思いながら、 また雑草を育てるんだな、私は・・・ でも、ふと、草取りがある生活がなんだかんだで嫌いではないかもしんない。 草取りすると家の周りや道路のゴミも拾ってみたくなる。 しゃがむという屈伸運動にもなっているかもしんないし、 めずらしく外に出ている自分に声をかけてくれる近所の方もいるし、 何より、土いじりはやってて気持ちがいい。 そして、時間を忘れて無になれます。 明日も最高気温は低そうなので、続きをしようと思います。 今からでも野菜植えてみようかなあ~

内臓を休ませよう

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今日は帰りに鍼灸院に寄りました。 施術時間は約1時間ほどなんですがー、 ハリを打たれて始まったと思ったらもう終わっている(途中の記憶が飛ぶ)。 寝て起きて5分?と思うくらい眠ってしまいます。 そんな深いリラックス状態にいる自分が、毎回の脈診では、 緊張が取れていないですねと言われます。 今ドキドキしているとか、 元々緊張体質とか・・・ そういうことではなく、これまで生きてきた長年の疲労の蓄積具合をいうのだそうです。 日本人は特に人間関係の緊張度が高く、それが疲労となって溜まっているらしい。 確かにそうかもしれません。 気を遣って話したり聞いたり、 相手を思いやることが人付き合いのマナーだと、 当前のように刷り込んできています(←これぞパターン)。 そういう自分を変えようとすれば、それもまたそこへの緊張で疲労するのでしょうね。 東洋医学的には、 内臓が丈夫になってくると気持ちも肉体も疲れにくくなるそうです。 内臓が弱ければ体を守れず、気もあがってこれない。 だから、身体を鍛えるということは、 筋肉や骨という外側のことではなくて、まずは内側から。 内臓をいかに休ませ、本来の働きができるよう丈夫にしていくのがカギとなるそう。 なんでも外側をどうにかしようとしてしまうけれど、そうじゃないんですね(人格形成の話と同じだった!)。 そういう鍛え方ならば今からだって遅くない。 旅と暇な時間には、文庫本

ワークの理解

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以前のブログ にもちょっと書きましたが、 つい最近、職場で席替えがあったのです。 席替えするすると言いながら、結局まだだったのですが、 ちょうど出張から戻って、 気持ちあらたなタイミングでしようと思い立ちました。 そこでまた、 「席替え」の意味付けワークをやってみます。 (前回から、約2か月しか経っていないけど) マイナスの意味付けは、 親しい人たちと離れてさみしい、おしゃべりができなくなる、もう自分は窓際族のようだ、不安、緊張、仕事が面白くなくなるかも 中立は、 「席替え」というただ一つの体験だけです。 そしてプラスの意味付けは、 集中できる、じっくり物事を考えられる、落ち着く、コピー機まで歩く(歩数が増えて健康的)、人との新しい関係性、新しい視点が増える、新鮮 こうして見ると、 断然、席替えして良かったと思いました。 モノを取りに事務所へ行ったり、電話をするときも違うところへ移動したりするため、 以前よりも席を立って歩く機会が増え、ちょっと運動した気にさえなります。 まさか、プラスの中に、 「運動」が入ってくるとは思いもしませんでした。 本来、このプラスの意味付けというものには、 確実に自分がマイナス体験から獲得したものを考えます。 たとえ数日であっても、 なんだかここの席だと、気分転換も図れるし、身体にもいいし、これまでとは違う会話もなんだか楽しいかも。 って感じたところは、自分が獲得したもの・・・こういう捉え方なんだな。 ワークに対しての理解も、 少し深まったのかなと思いました。 ストーブ列車 (夏はどうしていたんだろう)

許容範囲が広がる

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もう何年と話しをしていなかった方々と、 久しぶりに電話でお話をしました。 どちらの方も、頭の回転が速いというか話題豊富でしゃべり上手なので、 かつての自分は、そのペースの速さと言葉の多さに、 圧倒されることが多かったと思います。 そこに合わせようと集中し、また反応する自分がいたため、 ちょっと疲れてしまう・・・ということを思い出します。 でも話して、しばらくして、 自分が以前とは少し変わっていることに気づきました。 それは、自分の話す割合が相手のそれよりも、ずっと少なくても、 会話が無理なく成り立つということ。 自分が聞き役となって、そのしゃべり続ける相手の話を、 聞き入ったり吸収したりしているような気がしました。 そして、それが嫌じゃないし、楽しいし、楽だなと感じます。 相手を立てている、合わせているというのではなく、 人の話がすーっと入ってくる。 ということが自分は以前よりは、できるようになったんだなあって思いました。 (なんだか、やっと落ちついて話が聴けるようになった小学生のような感じもあるけどー) これがきっと、意味付けの世界が広がったということ? 相手が以前と同じ状況、またはそれ以上であっても、 自分の受け取り方が変わった今は、感じ方が違うのです。 世界が広がるというのは、 自分の許容範囲が広がるということでもあるみたいです。

やる気はある

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今日は帰りに、ラーメン屋さんの餃子を買って母に届けました。 焼き立てあつあつの餃子に、母も大喜びでした。 そして「もう、なんにもしたくないのよね~(食事の支度のことを言っている)」と。 このくだりは、毎回自分がご飯支度をしようとすると母が口にする言葉です。 それだけ、ご飯を作らなくなったことが、 主婦としてダメなことだと思っているのか、 それとも、他にもたくさん思い通りにならないことを知ってほしいのか、 とにかく言わずにはいられないのだろうな~って思います。 私も「今までずっとやってきたんだから、もう楽していいんだよ」 と、自分が支度をすることは全然平気だというような話で終わります。 でも、今日は特に、 最近調子が出ないというようなことも言い、 「やる気だけはあるんだけどね」とか 「今日はこれをやろうって思っているんだけど、やりたくなくなるのよ」 と言っていました。 やりたい気持ちはあってもできない。 これ、年老いた母だけでなく、私もだからよ~~~くわかります! 本当に、今日はあれをやろうって思うことがあるんだけど、 何ならわくわくしながら思うんだけど、 身体が動かない、やれない・・・ということがあるんですよね。 若い人が言う、やる気ある無しとは違う話なんだと思う。 自分だって、あと10年したら、 もっとそういう現象が起こってくるんだろうな。 でも逆を言えば、やりたいこと、好きなこと、こうしたいという願望は、 いくつになってもたとえ身体が動かなくなったとしてもある、ということ。 それが人の進化なのかもしれないし、 どこまでも成長したがる、より良く生きたいと思うのが人なのかもしれないです。 だからこそ、母が今やれている事は、 本当によくやっていると褒めたたえたいし、 自宅での生活が続けられるようにできる限りしていきたいと思いました。 朝起きて着替えをする、新聞を取りにいく、デイサービスに行く、冷蔵庫から飲み物をとってきて飲む、作り置きのおかずなら食べる、テレビを見る、寝る前に水を枕元に置く・・・ 認知症になっても、 そういう日常のルーティンができる母を、私は尊敬しているんだと思う。 モノレールってわくわくする

パターンの名前変更

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今、ケアをしている黒パターン ●自分は人より劣っている ですが、この「劣っている」という部分が、 ちょっと黒パターンの名前として合っていないと思うようになったので、 他の言葉に変えてみました。 ●自分には能力がない に今は変更して語りかけをしています。 「劣っている」というのは、実際は自分が他人に対して劣るという表現が、 とてもパターン的には悔しい感じや羨む感じ、そしてダメダメな感じが出ていて、 はじめはしっくりきて良かったのです。 でも、だんだんこの世に劣っている人間などいないと思っている自分に気づき、 となるとこの表現はなんか違うな~ って感じるようになったのでした。 そして、「能力がない」というと、 何の能力?って話になるかと思うのですが、 パターン的には学校の勉強全般ができることが、 まずは能力があるとみなしているのです。 他にも、言われたことは一度でちゃんと理解するとか、 班長とか学級委員のようにリーダー的なこともできるかどうか、 先輩たちとうまくやっていけるかどうか等もある。 社会人としては、それが資格を持っている、仕事ができる、 役職につく、上司に可愛がられる、というあたりがパターンの考える能力です。 きっと、インナーチャイルドたちも、 その時トラウマとなったものが、今あるパターンと深く関係していると思うので、 1年かかってもいいし(これで終わりということもないし)、 こちらの語りかけをしながら、 引き続きやっていこうと思いました。 名前が変わったパターン。 またじっくりゆっくり時間をかけてやっていこう。 久しぶりに母を連れて、老舗の若園さんへ

顔のない自分

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このタイトル、ちょっとドキッとするようですみません。 先日から現れたインナーチャイルドたちの話です。 あれから次々と思い出して、 今は5人の子ども(当時の私)が出てきています。 その中で、どんな姿でどんな表情でそこにいるのか、 どうしても思い出せないという子が1人います。 (もう子どもではなく、すっかり大人なのですが) 肝心の自分はそこにいないのです。 とても苦しいことはわかっているのだけれど、顔を見ることができません。 先日、カウンセリングを受けた時に師匠から言われたのは、 それほどまでに、 自分を消してしまいたいほどつらかった、ということなのだと。 過去のものにして封じ込めてきたので、 もう消えた方がいいと思ってしまったのかもしれません。 パターンは、無かったことにしたいほどショックだったということ。 それを聞いて、これは時間がかかっても、なんとしても、 今の「私」が救出しなければならないと思いました。 その時そこにいた自分以外の人たちは、 声も姿も生きているかのように(もちろん生きてますけど)、 鮮明にその時の状況が浮かび上がってきます。 昨日のことのように思い出せるのです。 私が会いたいのはインナーチャイルドなんだけど、 会いたいと思っても、その人たちの存在が大きすぎて、 その人たちだけを感じとってしまいます。 でも、決してあきらめずに、 今は見えていないかもしれないけれど、 確かにそこで傷つき恐くて固まっている自分がいるのだから、 毎日行って(5人を順番に)、声をかけていこうと思います。 大事に焦らず、 少しずつやっていこう。 今日も会いにいこう。 このマットな黒さがかっこいい

鉄道博物館にて

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大宮からニューシャトルに乗り換え、 鉄道博物館に行ってきました。 出張中に行ってみたかったところの一つがここです。 駅に降りると、 なんと、ゴダイゴの銀河鉄道999がかかっているんですよ! わーーーい、 テンション上がっちゃいますよー。 小学6年生の時に上野-盛岡間の新幹線が開通し、 その時なにかの絵のコンクールに入選して、 その景品がなんと・・・ 東北新幹線の試運転の乗車券。 ものすごく興奮したのを覚えています。 (絵は何を描いたのか忘れた) こちらは、大宮新幹線ホームです(毎回写真撮ってしまう) そういうご縁がある新幹線っていうこともあってか、 小さい頃から大好きです。 大人になった今でも、 高架橋を走るやまびこ、はやて、こまちを見かけると、 手を振りたい衝動を抑えて、 「いってらっしゃーい」と見送っています。 いつか、他の新幹線にも乗ってみたい! 鉄道博物館に入ると、 まず、目に飛び込んでくるのがー 新幹線ではなく、 日本ではじめての蒸気機関車です。 (国の重要文化財なんですって) その機関車が保存されているということにも感動ですがー もっと感動したのは、 当時の1枚の写真。 よく見ると、鉄橋ならぬ木橋の上を機関車が走っているんですね。 そして、当時の農村風景のその下(写真右下)には、 機関車を見上げる人たちが・・・ さぞかし、 たまげたーーーーー!って感じだったでしょうね。 そして、この写真に立ち止まり、 食入って見ている人は、大体が50代は過ぎている。笑 同じ部分に感動している、思いを巡らしている。 っていうところが、 また感動を覚えてしまいました。 子どもだけが楽しむ場所ではなく、 大人の方が懐かしさでいっぱいになったり、はしゃいだり、 うんちくを語っていたりで~ そういう入場者ウォッチングも、 なかなか楽しめるところでした。 家族で旅行に行く以外は、一人旅が多い私。 一人って自由だから思いつきだけで、 どこまでもいける。 そういうのが、私は好きなんだなあと思った。 懐かしの寝台車は、 小学1年生の時に家族で東京へ行ったときに乗りました。 もちろん、 3段ベットの一番上で寝た! 当時の、あのわくわく感といったら〜 でもあの感覚は、 今も全然変わっていないって気づきました。 最後に、駅弁コーナー。 考えてみたら、あまり食べたことないかも。 車窓の風景を見な...

性格を直す

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私は普段からとてもそそっかしく、忘れやすく、よく失くしものをします。 それも、何でそれを?と思うようなことが、 1日1回はあたり前にあるような気がします。 発達障害の特性をご存知の方ならば、 ADHD(注意欠陥多動性障害)の傾向があるんだなと、 私と付き合ってくるとすぐにピンと感じるかもしれません。 その特性は、幼少期よりは改善されたものもあるけれどー (小学生の頃はランドセルも忘れたことがあった!) 年齢と共にますます拍車がかかってきているものもあるので困りもんなんです。 先日は、大事な領収書を失くし探していました。 大事なのでノートに挟めていたはずが、 違う紙切れがなぜか挟まっていました。 焦りながらスーツケースの中をくまなく調べ、それでも無いので、 その変わりとなる証明できるようなものはないかと考えはじめ、 無いということで、謝らなければならない相手への言葉も考えはじめます。 そうして最後はあきらめ、カバンをもうしまおうとしたその時、 あ、もう一回だけあのポケットを見ようと思い、 見てみたら~・・・ ありました!領収書が! さっきも見たのに~~~なんで?と、大体がこんな感じが多い。 それでふと思ったのが、 もしかして、普段から自分は見ているようでいて、 本当は全然見てないってことがあるんじゃないかと。 何か先のことを考えていたり何かに捉われていたりして、 心ここにあらずの状態なんじゃないかと。 ノートに挟めた時も、探しているはずの時も、何か違うことを考えているのだと思います。 そそっかしく、忘れやすく、失くしやすい性格って、 今、ここにいない(今に集中していない、他に意識がそれている、注意がそれている) ということでもあるのかもしれないと思いました。 そう思ったら、ちゃんと今に生きようと思えば、 この性質を少しは直していけるのかもしんないと! これはすごーーーい発見だと思う。 (私って天才?って思ってしまった) このお店に行ってから、サラダボールにはまっています!

こんな時にも

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今日は市民文化ホールで、ベルリン交響楽団のコンサートがありました。 石井琢磨さんのピアノもあり、力強いソロ演奏がまた良かったです。 石井さんのピアノは何かとても堂々としていて、音の響きが真っ直ぐで澄みきっている感じがします。 ピアニストと言えば辻井伸行さんが好きなのですが、人によって音色がこんなに違うものなんですね。 これからいろんな方のピアノを聴いてみたいと思いました。 最低でも、年に1回はクラシックコンサートに行きたい。 特に生オーケストラは最高です。 3階の一番前の席だったのですが、 真上からオーケストラ全体の動きが見れたことも良かったと思いました。 ああ、本当に良いひとときだった。 19:00スタートでしたので、寝てしまうのではないかとちょっと思っていましたが、 感動の2時間を過ごすことができました。 と、ここまではこんなよい気持ちだったんですがー・・・ コンサートが終わり、その余韻も冷めぬまま駐車場から車を出そうとしたら、 なんと、すでに場内で出口へ向けての大渋滞が! この車たちが全部いっせいに出口を目指しているということは・・・一体家に着くのは何時になるんだ? そこに、私の後ろにいた車が急に列からはみ出し、少しの隙間から私を追い越しはじめます。 私の前の前の車のところへとじわじわと割り込んできたのです。 えー、何なのこの車、ちゃんと後ろに並んでよ~ みんなも並んでいるんだからさあ~(イライラ) あー、割り込みを許すなー(前の車にもイライラ) さっきまで、 あれほどの至福の時間を味わっていたのに。 穏やか〜な気持ちになっていたのに。 今思えば、割り込んだ側のその人にも何か事情があったのかもしれませんが、 そんなの関係なくパターンが暴れ出します。 どんなにいい感情と感覚に満たされても、 一瞬でこんな気持ちにもなる。 なぜならば・・・人間だから。 まずは心が広いふりをせずに、 これもパターンだなと感じられたことはとりあえず良かった(ということにしよう)。 3Fからだと、こんな感じです