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こっちの生活もいい

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母との生活が1か月経ちました。 途中から娘も、休日返上で来てくれるようになり、 すべて何から何まで自分一人でやるということはなく、 夫にも支えられて、実家でのお泊り生活が続いています。 母が退院したばかりの頃は、 この先一体、自分はどこまでやろうと思っているのか? それさえも検討つかず、 リハビリもやってみないと分からず、で、 とにかく無理だけはしないように、 頑張り過ぎないようにやっていこうと思っていました。 ところが、 体力的な不安はありますが、 頑張りすぎないように・・・どころか、 この生活って悪くないなと思うようになってきました。 大変なはずの生活だったけれど、 心はなんだか落ち着きをはらってきて、 母中心の時間の中で、家事や介護に重きを置く生活も案外いいかもしんない・・・ と思うようになっている自分がいたのです。 そして、それだけではなく、 だからもうできることなら、仕事もしたくない。 もう、辞めようか・・・会社。 母と一緒に暮らすのは無理・・・って思っていた自分が、 今こうして、一緒にいても何とか暮らせるもんなんだなと知る。 介護で夜眠れないといっても、 元々浅く眠りが悪い自分だったではないか。 もし会社に行かなくて済むのなら、昼寝だっていっぱいできる。 ときどき家と実家の往復生活して、そうやって母のこともみていけるのかも。 なんてことを思う自分がいるとは・・・! でも・・・やはり、 これはパターンだったんだなと分かりました。 今は、母といても以前よりパターンが騒ぐようなことがほとんどなくなった。 そして、根本的には、 大好きなお母さんといっしょ~なわけですから、 自分のパターンとしては大ボスも大ボス、 ●ほめられたい、称賛されたい ●大事にされたい、気にかけてもらいたい ●認められたい、特別で一番でいたい といった大パターンが、 母によって満たされているわけです。 なんだか心が落ち着くと言っているけれど、それ、 誰がいいと言っているの? 誰が会社行きたくないと言っているの? 大変だと思っていた生活から次第に、 居心地がよくなったのは、パターンの居心地だった。 そりゃそうです。 社会に出ればいろいろな人間関係があるということだし、 パターンは騒ぎます。 それが嫌だし、面倒だったんです。 だから、介護というさも親孝行していますよ自分、 っていうことを表明し...

まだまだわかっていない

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2日間の合宿が終わりました。 3か月ぶりの 道場 を、とても楽しみにしていた気持ちと、 今の自分の状況がどうなっているのか? 突破口が欲しかった気持ちとがありました。 突破口が欲しかったというのは、終わってみて、 そうだっだんだなあって気づいたことでもあります。 ずーっと長年ケアしているパターンは、 しているつもりのレベルでもあり(だからいつまでもケアしている)、 本気で自分のあり方が変わっていたわけではなかったのだと、 ガ―――ンと、衝撃的に気づかされました。 以前にもこの衝撃がありました(いや毎回言っているかも)。 本当に自分は何にもわかっていないんだなー ということがしみじみ分かったような気がします。 考えなければいいのに、そこがもったいない。 と言われ、考えていないと思っていた自分にも、 ガ―――ンでした。え、そんなに頭使っていたのかな?? こういうところが、わかっていないのだな。 いろいろなことが自分に起こるとき(感情が動くとき)、 それをもっと単純に素直に、あれこれ考えずに、 ただひたすらワークを丁寧にやっていけばいい。 あ、そういうことでいいのか! ・・・本当に今更ながら思いました。 そして、パターンに語る者はいったい誰なのか? この国の王である本当の「私」が、 民(パターンたち)へ語るのに、本当にそこにふさわしく、 パターンとは違う「私」が耳を傾け、語っているのかを、 そこを意識してやっていこうと思います。 「私」と「パターン」は違う。 国王と民は違う。 あなたは、そう思っているんだね・・・ この言葉を使う王は、パターンに大きな距離を置きながら、 静かに眺めている・・・そんな存在なのだ。 らせんの階段を上がっていく途中の、 自分はどこを歩いているんだ・・・?という感覚は、 先に進まなければという焦りだったのかも。 「成長したい」が、「しなければ」になり、 そうじゃないと善いカウンセリングができないと。 じゃあ、善いカウンセリングって何か? そこへの探求が、パターンの求める安心になっていたのかもしれません。 安心というのは、 要するに、嫌なものから逃げたいということでもある。 そこに向き合え、自分。 「私」はそう思っていないんだから、怖がらずに向き合っていけ。 どうありたいか? 決して表面的なところではなく、 人格を変えようとするのではなく、 何のプラ...

笑いの神さま

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そこで笑えているか? もう、笑うしかないよーも含め。 「私」が何を感じてそれを選ぶのか、 自然に笑えてやっているというのは、まあまあいい感じなんじゃないかという、 進む方向の判断基準のような気がします。 自分で自分につっこみを入れてみたり、 一人でウケていたり、 小さな幸せ感じるような微笑ましい笑いもあったり、 それらが自分らしさでもあるんだなあってこの頃思います。 「笑う門には福来る」は、自分らしくいるってことでもあるのだ。 つらくてつらくて仕方なかった時でも、 後から思い出して笑えることって多いです。 っていうより、ほぼそうやって生きてきた気がしました。 その後から笑えるという経験が自分を創っているんだなあと思いました。 暗く落ち込んでるとき、 イライラしているとき、 右往左往しているとき、 何でまたこんな大変なことになっているの、あなたは・・・ と俯瞰して見れるのは、本当の「私」がここにいるから。 ここに・・・というのは、外側ではなく自分の内側に。 胸に手をあてると「私」と一緒にいることを感じられ、 いつもそこにいる「私」に問いかけ、 真剣になればなるほど、真面目になればなるほど、 そんな自分を見てまたちょっと笑えてくるのだ。 たとえ誰も笑わなくても、すべっても、 これからも一人お笑いの精神を持ち続けていきます! (何の宣言なんだ!) ポニーめんこい

失っても、あるもの

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昨日のつづきですがー 失う怖さということで、何が怖いのかというと、 失うことそのものが、というよりも、 それによって、もう安泰(変わらぬ安心)だと思っていたもの、 信頼されていたこと(そう、信じていたもの)、 それによっての優越感や自信となるもの。 それらを失ってしまって、何もなくなってしまう自分が怖い。 ということなんだと思いました。 こうなると、これまでの自分はそれなしでは立てない、 とても小さな存在であることもわかります。 失ってしまっては・・・と思うだけで、縮こまってしまい、 変な見栄も張ってしまうかもしれません。 無理してそう見えないようにするのも、恐怖心からの抵抗。 ただ、その反対に、 本当の「私」としては、そこを明らかに自分自身が認められたことで、 少しだけまた落ち着きを取り戻すような感じがあります。 冷静さを持てる・・・ような気がします。 (ちょっと話が飛びますがー) 冷静と霊性というのは、 「れいせい」という読み方が同じですが、 これって、互いに影響しあう関係性があるのではないかと感じます。 霊性を高めることが、どういうことなのか、 冷静さを持って自分を見ていくことが、 そこへつながる一つの道ではないかと、ふと思ったりしました。 大事な人を失う、 家を失う(今回の山火事で思った)、 自分の生きがいを失う、 仕事を失う、健康を失う。 そういうものの中に、自分が本当に大事にしてきたものは何か? 失ってもなお、今、自分にあるもの、 残っているものはあるのではないだろうか。 心の中にあるもの、 慈悲、愛、優しさ、たくましさ、人間らしさ、神聖さ・・・(まだまだある) といったものは失われることはないのかも。 そこで生きていくことも、一つは意味があって、 何を失っても充分に与えられてあるものに気づけるよう、 「失う」という経験をするのかもしれない。 失ったものがその人にとって大きければ、 そう簡単ではないかもしれないけれど、 命があれば、 きっとまた自分の心にあるものを思い出せるのだと思います。 蛇口をひねると・・・リンゴジュース!

得たものを失う怖さ

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何かを得ると、それは自分の能力や努力がもたらしたもの、 だと思っていることがあります(それもあり、だけど)。 同時に得られたことで、今度は自分が何かの誰かの役に立つよう、 それを使っていこう(それに相応しい自分になっていこう)・・・ ということを意識するようにも思います、はじめは。 そうなったことにも感謝しているし、 自分一人の力ではないことなど、全くもって分かっている。 はずなのに・・・です。 その謙虚さも感謝の気持ちも、向上心も、 得たことへの慣れというかで、だんだん小さくなっていくんだな、これが・・・。 しかも、順調に、思い通りになっていけばいくほどに、 自分が人より優れているような気がしてきて、 自分が良ければそれ以上は気付かない、傲慢な部分が出てきます。 そんな風に変わってはいないと、 どんなに自分を律して振る舞ったとしても、 心の中では、自分をちゃんと見ることができなくなっています。 自分が得たものがプライドとなって盾となり、 他人を認めることはできず、 だんだん大事なものが見えなくなってしまうのだと思いました。 そうやって、やっと自分のしたことへの違和感を感じ、 何か違っているとやっと気づきはじめ・・・ 今度は、その得たものを失う怖さも感じはじめます。 でも、この失う怖さに気づいたら、 ここで自己観察をすればいいのだと思いました。 他人ではなく自分を見ようと決心すると、 もう向かう先が変わっていくのがわかります。 真実(現実)が見えていって、 自分のしていることがわかり、 それを受け入れることから、心が開かれていくように思いました。 自分の良心に背く動機、考え、行動を認める。 賞賛や共感、評価や承認など、 自分のためだけのもので囲もうとしていたことを認める。 得たものを失うことが怖い。 そう感じたときは、なぜ怖いのか不安なのかを見た方がいい(と言い聞かせる)。 やってしまった・・・と思ってもすぐに軌道修正して、 自分の向かう先を確認していこうと思いました。 ネガティブな感情は、 こうして自分自身へ進むべき道を教えてくれるんですね。 自分の行きたい先はそこで良かったのか? 失う怖さを感じられたら、 手放せない何か(しがみつきたい何か)があるということ。 何を捨てていけばいいいのか、考えてみよう。 それがプライドだったら、 プライドではないものを使って、自...

すべては心の決めたままに

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今年は昭和100年だそうです。 100年前は私の祖父や祖母たちが生きていた時代で、 その方々が出会っていなければ今の自分は生まれていなかったわけで、 いろいろあったことでしょうが、よくぞ一緒になってくれましたと思いました。 父方の家系はちょっと複雑で、 何代か婿取りが続いたそうですが、その婿養子に入った祖父の前妻さんが亡くなって、 父は後妻さんの長男(戸籍では7番目の子)として生まれてきました。 祖母は6人も子どもがいる家に嫁いできて、その子どもたちを育てながら自分も6人産んで、 カイコを育てたり漆を売ったり金物を売ったり、いろんな商売を手伝っていたそう。 良くも悪くも祖父がお人好し過ぎて、いろいろ大変だったという話も多々あり、 言いしれぬ苦労をした人ではないかと想像します。 父も小さい頃、親戚の家に預けられたり、小さい子たちの面倒を見たりしながら学校へ行き、 昼は働き夜は高校、通信制の大学へと進み、 勉強がしたくてしたくて、本が読みたくて読みたくて、 といった話をよく聞きました。 (兄の勉強好き、私の学び好きは父の遺伝だな) 母方の祖父母は、父の生家から歩いてすぐのところで床屋を営んでいました。 小さな村のさらに山奥もそのまた奥の出身で(方言で「ざい」と言いますが)、 そこから二人はなんと、かけおちをして村(「ざい」から見れば町!)にやってきたのでした。 当時のかけおちって命懸けに匹敵するのではないかと思います。 母に聞くと、祖父母たちの実家へ小さい頃遊びに行ったという記憶はなく、親戚にも会ったことがなく、 そうか、かけおちってそういうことなんだと子どもの私もちょっと寂しく思ったのを覚えています。 祖母は体が弱かったのですがとても社交的で、 店には朝から晩まで、髪を切るわけでもなくいつも人が集っていたそうです。 言われてみれば、私も小さい頃、何で帰らないんだこのおじさん、って思いながら一緒に店のテレビを見ていた記憶があります。 そして父と母は、祖母同士が友人だったこともありお見合いし、 村唯一の旅館で結婚式をあげたそうです。 そんな祖父母たちの遺伝子と気質を受け継ぎ、今日まで生きてこれた私。 どうして今、急に回想しているのかわかりませんがー 昭和100年ということで大好きな昭和歌謡をテレビでやっていて、 大御所のサブちゃんが久しぶりに出ていて、 何かあの時代が懐か...

課題に向き合いなさい

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昨日は月一回のクラスの勉強会でした。 仲間が悩んでいることについて、 自分も同じようなパターンを持っていたりします。 でも、なぜそう思ったのかの理由を細かく聞いていくと、 やはり当然ながら、全部が全部同じところで引っかかっているとは限らず、 そこにその人の課題の特性が現れるように思いました。 パターンも自分自身が育ててきたものですから、 感情がさわぐことによって、 課題に向き合いなさいよ~って言われている気になってきます。 自分の分身にも思えてくる。 パターンは、長い年月を得て心の中で成長し続け、 経験や環境によってもその中身が変化しています。 だからケアの仕方もそれに合わせ、 同じパターンだと思っていても、語りかけの言葉も変わってくるし、 パターンの選び変えも、より今の自分だったらそれを選べるかも、 って思えるものが出てくるように思います。 そして、その感覚こそが、「私」が成長したがゆえの選択肢なんだと思いました。 私はきっと、パターンに居てもらわなければ、 そしてそれに気づかせてもらわなければ、 何をどう努力すればいいのか、分からなかったのではないかと思うのです。 とにかく知識を詰め込み、分かった気になって、 でも本質は全く変わらないことに気づかずに、表面的なものを得ては、 何かが違う・・・けれど分からない・・・ ってもんもんとした日々を今でも送っていたのではないかと思う。 そう、魂は何をもって修行したがっているのか? これも自分の解釈にすぎませんが、これを学びたいと思うものがあって、 本当に幸せだと感じました。 なんだか、 すごい勉強会やっているか、のように聞こえてしまったかもしんないけどー いや、すごいことっていうか、 楽しいからやっているのだと思います。 たまたま見たTVで、 自分の気持ちを知り、その気持ちを言葉にしていくというのが、 一番人間が苦手とすることだ・・・と言っていた方がいました。 (河合隼雄さんだったような) 今自分はどんな気持ちになっているのか? それを認め、受け入れられているか?声にしているか? この難しいところをやっていこうという仲間の意志と、 その環境があることに感謝です。 私の 依存先 のみなさん(笑)、いつもありがとうございます。 温泉入ってきました~

ヤキモチをやくパターン

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最近お世話になっている鍼灸院があります。 自分が施術を受けて寝ている間、 お彼岸ということもあってか他のお客さんが先生に、 お墓参りに行った話をしているようでした。 それも親しげに。 そこで・・・見えない世界がどうたらと言っているような?? でも、もしかしたらそういう話ではないような?? 一体、先生とどんな話をしているのか・・・ こういう時、自分にはしないで他のお客さんにはしている、 先生が話す内容が気になります。 どういう会話をしているのか、自分とはできない話なのか、 自分の知らないものすんごい話なのか・・・ 何だか楽しそうで気になって仕方ない自分がいます。 この時のモヤっとするような、そわそわするような感情や感覚って、 えこひいきされた時の不快感のような、ヤキモチにも似ています。 ●自分を特別扱いしてほしい、とか、 ●自分を大事に扱ってほしい、とかいうパターンであるように思いました。 いつも先生との会話は本当に体のことオンリー。 それが普通だと思っていたため、 そうではない会話が他のお客さんとは交わされているんだと知って、 自分は先生にとってただの患者でしかないと知る(そりゃそうだ)。 これは鍼灸の先生だけではなく、 自分の師匠に対しても少なからずこのパターンがあったと思うし、 上司に対してもそうだし、 ちょっと親しくなった人に対しても、 そこから外れようものならば、これらのパターンが騒ぐのです。 自分の感じ方、考え方、捉え方の癖がまさしくここにあり。 それは自分が特別に扱われてきた、 (決してそれほどでもなかったとは思うのだが) そう思いこんで生きてきた幼少期にあるように思います。 親、親戚から可愛がってもらっていただけでなく、 周囲にいる大人たちはみんな自分にとって、温かな目を向けてくれる人。 ちやほやしてくれる人。 それがたとえお世辞や大人同士の社交辞令のようなものだとしても、 それでもいいんですね(子どもだから単純)。 自分を可愛がるのはあたり前だと、 そうしない方がおかしいくらいに思っていた子どもだった。 また、幼稚園の出し物でお姫様役を演じたもんだから、 その思いこみは(やっぱり自分は特別だと)自然だったのかもしれません。 そして、そのパターンの対象となる人は、 先生と言われるような、自分よりも知識や経験があって肩書があって 社長やお金持ちといった世...

認めることの怖さ

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自分が(パターンが)嫌いだと思っている人、苦手だと思っている人、 そういう人がいると、どうして苦しくなるのか? ここが嫌、ここが苦手というところがたくさんあるのですが、 もっと根源的なところ、理由を1つに絞ってみると、 自分の思い通りにはいかない人だから苦しむのですね。 ああ、こんなにも自分の思い通りじゃないことが嫌なんだと思いました。 思い通りではないということは、 自分へ対する反応全てがそうだし、 こうして欲しいと思うことと違うことをするってことだし、 その人がいることによって、 他のことまでも思い通りにいかなくなってしまうんです。 自分は(パターンは)思い通りにいかないことは、まったく受け入れたくないのだと思う。 受け入れられないし、もう絶対にその人がすることを認められないのだ。 もしも、認めようものなら、 自分には価値がないということになってしまう(ってパターンは思う)。 自分は否定されその人に負けてしまい、 もっと言えば、自分の存在そのものまでもが危うくなり、生きていけなくなってしまうのです。 それがとても怖い。 そうなりたくないから、嫌ったり距離を置いたり考えないようにしたり・・・がんばってきたんだと思う。 パターンへの語りかけをしていると、 その認めることへの怖さがとてもよく理解できるのです。 怖いから攻撃的にもなるし、否定的にもなってしまうのです。 でも、もう・・・そういう自分のままでいていいと、 そういう自分で、もういいんだよ。 そう、もういいんだよ、がんばらなくても。 もういいんだって。 そんなふうに「私」が言ってあげると、 パターンはほっとして泣いてしまいます。 まさかの春雪 この後結構積もった!

私の依存先

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師匠のブログ がお休みになって気づいたのは、 自分はこのブログをどんだけ毎日楽しんでいたのかがわかりました。 しょっちゅう茅ヶ崎に行けるわけではないですから、 ブログで発信されるお話が、自分にとって単なる楽しみではなく、 生きがいのように、もうなくてはならないものになっていたのだと知ります。 これは、依存しているということでしょうか。 先日TVで障害のある方の自立について、脳性麻痺のDR熊谷普一郎氏が、 人は何かに誰かに依存しながらでないと生きていけない、 という内容のことを言っていました。 一瞬、聞き違えたかなと思ったけれど、 その方が言うには、 自立を目指すならばむしろ依存先を増やさなければならないと。 今の自分を見ていると、 師匠のブログの他にも、毎日チェックしているブログもあって、 SNSはいくつかルーティン化して見ているものもあります。 会社へ行けば、仕事そのものとその仕事に関わる人たちにも依存し、 家に帰れば家族にも依存。 語り合える友達、カウンセリング仲間、飲み友、よく行く(行けばほっとする)お店もある。 昔は、犬もうさぎもハムスターも飼っていて、 動物たちのあのモフモフにも癒されていた。 母親の介護をしていることもそう。 やはり私はお母さんに甘え、子どもの頃と変わらずお母さんが大好き・・・ 介護を盾に依存していない(自立した人間)に見せていただけなのかも。 こうしてみると、 あちこちに依存先があって・・・ そこでのやり取りを楽しんでいる自分がいたのだなあ と気づかされました。 自分は一人も好きだし、とにかくいろいろ単独で行動していることの方が多いのですが、 それは行き先があった(会いに行っていた?)ということかもしれません。 全然一人で生きてはいないと、 自分がこれは!と思うこと、場所、人に、あちこち頼って今日まで生きてきたのだった。 家族を通じてつながっている方々も数えたら、 とんでもなくたくさんの人に日々支えられているんだなー 先生の体調も大事なので、無理してほしくないのですが、 でも良くなったらまたブログ書いてくださいね。 首を長~くして楽しみに待っています。

思考型人間と感覚人間

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昨日の日記で、「快」と「不快」について触れましたが、 その感情や感覚を、誰が、感じているのか? というところを見ていきたいと思いました。 誰が?・・・って、自分に決まってるじゃん。 と思うのですが、 自分だと思っている自分は、どの自分ですか?というところ。 その自分には、見ている世界が別、領域が別、 または意識が異なる、生きものとして異なる、と表現したら良いのか・・・ そのように存在するものが二つあると仮定します。 ここでは、【パターン】と、本当の【私】に分けています。 【パターン】にはさらに黒と白があって、 その中間のグレーゾーンなるものもあり~ パターンは自分が育てた心の中の生きもの。 常に黒か白かで(たいてい黒が多いけど)変化していることがわかります。 「心の中に、常に二人の自分がいる」と表現されている方もいれば、 陰陽の法則と捉えてイメージするとわかりやすいかもしれません。 【私】にはそういう異なるものはなくて、 この宇宙のように自分にとってただ一つの普遍的な意識になります。 いつも変わらず、魂の成長のために、 のびのびと自分という肉体を使って生き続けているもの。 パターンのように善悪の評価もしなければ、 極端な感情や感覚もなく、自分という【個】をいつも冷静に受け容れ、 愛を持って見守っている大きな存在です。 「快」「不快」を感じている自分とは誰なのか? 【パターン】で生きるのか、【私】で生きるのか? 私たちは常に無意識であっても、日々の経験をこのどれかの自分で選択している。 ということは・・・ 本当の【私】で、生きていきたい。 ここが自分にとってのスタートでした。 そして、どうやったらそうなれるのか?というところを、 なりたいからそう自然になっていくわけではないと、 10数年学んできて、今また新たに実感しているところなのです。 自分って、喜怒哀楽がはっきりした感情豊かな、 感覚人間だと思ってきたけれど、 ウソウソ・・・それはそっちの方が何となくいい人間だと、 自分の価値観として思っていただけでした。 小さい頃から実に、何かにつけていろいろと考えるのが好きで、 不安や心配、悩むことが得意?で、 頭でっかちの思考型人間だったんだと思います。 (考えるのが悪いということではないですよー) 理論的には何一つ話せないのに、 そこに何かしら理由を求める理屈っぽい人間だ...

今、それが嫌~

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自分を大事にしたい・・・ 今朝、ふと思いました。 語りかけやワークといった一連の自分に対してのケアを、 ゆっくりとじっくりと(いつもより丁寧に~) やってみようと思いました。 今語りかけをしている「〇〇をしたくない」というものに対して、 どうしてそう思うのか? もう一度、パターンの本音をゆっくりじっくり聞いてみると、 実は〇〇をしたくない、 と言い切るにはちょっと違うような、 パターンの言い分としても混乱している感じがしました。 もし、〇〇をしなかったら、ほっとする自分がいるのと同時に、 やはりそれはそれでとても困る自分もいて・・・ これまでの経験上、自分のパターンってこれだなと、 パターンの傾向もわかっているため、 これだなというものに語りかけをしていましたが・・・ちょっと待てよ。 このパターンやある種、言葉から生み出される感情として、 「快」と「不快」ならばどっちなのか? 何だか、その時々で両方あるような感じがします。 でも、引っ張られるパワーとしてはの「不快」の方が強く、 その不快感は目先のことに対してが多いのです。 そしてはっきりしていることは、 やはり、今嫌であれば嫌ーーー!なのだということ。 そうだ、これがパターンというものだったと、 いろいろ思考して、一周回って気づかされました。 この思考するというのも、 何かしらのプライドで邪魔をしていたということなのかもしれませんが、 そこは今はちょっと置いておいて・・・ パターンと向き合うということは、 今の自分を大事にしていく っていうことなのですね。 何だか基本に戻った感じがします。 今、それが嫌!ということに語りかけていこう。 最近、岩手山も顔出してまーす

付き合う相手

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誰と付き合うかは大事なことで、 なるべく自分のモチベーションを上げてくれる人や、 自分がその人といると自然体でいられたり、 少しでも前向きになれたりする人と一緒にいたい。 でも、そうするように心がけてきたけれど、 今はそこも少し変わってきているのを感じます。 どんな人と付き合うか? も確かにあるけれど、それよりも、 自分はその人とどう付き合うか? 自分側のあり方のほうが大事だったんだと思うようになってきました。 相手の言動は、本来の「私」には関係なく、 自分の捉え方や意味付けは今、どうなっているんだろう? って自分を観察してみると、 単なるパターンが反応しているんだとわかります。 以前は、その反応するパターンを理解してあげられていなかったんだなあと思う。 そんなパターンがあることすら考えたくないし、 いろんな感情といろんな考えに振り回されて、そこで(嫌な気持ちのまま)終わっていた。 「私」を育てていく。 これができるのは、自分(パターン)にとっていい人とだけ付き合っていたのでは、 いつまで経っても苦手な人、関わりたくない人は減りません。 そういう人(だとパターンが思っている人)で練習していかない限り、 ただ、臭い物に蓋をする〜だけなのだ。 こういう人なんだな。 ってその人を前より少し理解し、 それに対して自分のパターンはここが引っかかるんだな、と理解する。 そうだよね、わかっているよ、と言ってあげられる「私」がいつも側にいる。 それができる自分の方が、 相手に関係なく、同じ自分、自然体な自分、 パターンは騒いでOKです。 だって「私」はちゃんと全部わかっているから・・・ そこへの落ちつきを感じられる自分がやっぱりいいなあと思う。 大吟醸まんじゅう、うまーい!

他人事は自分事

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今年初めての講座を行いました。 お天気もよく、 今回は普段勉強会に使っている会場でしたので、 私としてはちょっといつもより緊張がほぐされたような気がします。 ご参加下さりありがとうございました。 参加された方のお話というのは、 自分だったらどうするのだろうかと、 いつも想像し考えさせられる機会だと感じます。 他人の体験というのは、他人事(ひとごと)ということになるわけで、 言い方はちょっと何ですが、自分には直接関係のないお話になります。 ですが私にすれば、 関係がないとは全く思えない捉え方があります。 自分に起きてはいないけれど、充分に大切な意味があると、 回を重ねるごとに感じるようになったのです。 自分だったらどんな気持ちになって、 どんな状態になるのだろうか・・・と。 もちろん自分に置き換えると言っても、 全てを理解できるものではないし、置き換えられないものかもしれませんが、 いつも帰り道、そういうことを想像してしまうのです。 自分というたった一人の人生では、体験できることなど限られている。 だから自分が体験していないことを聞けるということも、 自分の一部になっていくのだと感じます。 また、想像しただけの自分が、 そういう人生もあるのかもしれないと、 「あり得る人生」に心の準備をし、 そうなってなお自分らしくあるため、 これからできることを改めて考えてみるのでした。 他人事が自分事になる時間は、とても深くて貴重な時間です。 自分が知らないことを、その方が話してくださったことで、 私が多くのことを学んでいるのだと思います。 たくさんお話して下さりありがとうございました。 実家の台所を段差なくカーペット敷き詰め中!

そんな自分ではないというプライド

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先日の岩手クラスの勉強会で、 それぞれが持っているパターンの話をしたとき、 みなが持ち合わせているものに、 共通するプライドを見たような気がしました。 それが「そんな自分ではない!」というもの。 例えば、●他人から良く思われたい、というパターンがあった時、 他人から良く思われていないなんて・・・そんな自分ではないはずだ。 という真逆ともいえる気持ちが少なからずあったりすると、 このパターンに引っかかる、もしくはこのパターンを認めたくないパターンがあるのかもしれません。 パターンは大体にして自分の思い通りじゃなきゃ嫌なので、 その思い通りにしたい心の裏には、 思い通りにいくはずだと信じているものがあり、 同時に、それ(思い通りになる)に値する自分なのだと思っている。 それに値する自分。 って、どんだけプライド高いの~と思うけど、 良く思われないことが寂しい、悲しいということは、 良く思われているんじゃないかと、ちょっとでも思っていたからだし、 そうなるに相応しい自分であり、 そうなることにパターンは価値を置いているため、 それが与えられないと苦しくなるのだと思う。 期待外れにショックを受けるんですよね、パターンは。 プライドって、自慢げで、傲慢で、謙虚さがなくて、うぬぼれていて・・・ といった分かりやすいものだけではないのですね。 特に「悔しい」「腹立たしい」という感情がある時は、 思うようにいかない「怒り」ですから、 相当のプライドが蓄積されているのではないかと思いました。 人それぞれ向き合うパターンは違っても、 何かしらのプライドを持っているという見方をすると、 みな同じところで、もがいているのかなと思いました。 もがきながらも・・・でも、どうありたいか? そんな自分なんだなーって素直になっていきたい。 『はれひめジュース』と『黄金柑』

息抜きしました〜

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お陰様で無事母の手術が終わり、 しばしの間ですが、私も自宅でいつもの生活に戻りつつあります。 今日は久しぶりに友人に会いに行き、 今の自分に合うハーブティーをブレンドしてもらいました。 このブレンドティーって不思議なもので、 まず始めに、自分の直感だけで何種類かのハーブを選ぶんですが、 (名前も効用も伏せたまま、見た目だけで選ぶ) これがもうドンピシャに自分の症状に合ったものを選んでしまうんですよー。 すごっ! パッと見て気になるハーブがあり、 その香りも何度でも嗅ぎたくなります(体が欲していると、心地よい香りに感じられるそう)。 ハーブの仕事をしている友人 が、さらに私に合うよう飲みやすいものへと調整してくれました。 少し膀胱炎のようになっていたのですが、そこへの効用があるもの、そしてよく眠れるもの、 ビタミンCが取れるもの(お肌もボロボロだったのよ〜)で、 自分だけのお茶が完成!香りに癒され、とても柔らかな味わいです。 ハーブの話から美容の話と「女子」の会話に笑い、 とても楽しい時間を過ごしました。 疲れた時に、お茶を飲みながらのおしゃべりは息抜きの方法として一番かもしれません(私の場合は〜)。 心をオープンにしてたくさん笑えば、 余計な力が抜けいろんなところがほぐれていくのを感じました。 楽しくほっとする時間から日常に戻っても、 こちらのハーブティーをまた飲みながらひと息ついていきたいです。 色も好き〜♪

続く秘訣

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音楽番組を見ていたら、 何十年も続けてきたバンドや、何十年も歌ってきた歌手の方に目がいきます。 昔より、より魅力が増していることに聞き入り見入り、 そして、なんじゅうねん・・・という響きにも、 胸が熱くなってしまうんですね。 だって、それほど長~い年月には、 必ずや紆余曲折があったに違いないし、 そういう苦しい時期があってもなお続けてきたということは、 本当にもう、どういうことなんですか? どうやってここまで来れたんですか?って思うんです。 すごいことです、なんじゅうねんの歳月は。 好きだから、それしかないからやっている。 といった答えもあるかもしれませんが、 そこには本題の音楽が半分、 もう半分は音楽と全く関係のないようなことが、 その人の努力によって積み上げられているような気がしました。 音楽が中心の世界であって、でも音楽だけに固執しない世界です。 いろいろ正反対のものをやっていくと、 あらゆる面での柔軟さ、思考の広がり、 好きだけではないところへの向き合い方もでき、 これまで目を向けなかった才能(資質)も磨かれ、 自分という人間のバランスが取れてくるような気がします。 この丸いバランスが継続をもたらす? 好きなことを突き詰めるだけでなく、 ちょっとそこから離れる時間が、また好きなことへの深みを持たせてくれる。 そうやって何十年と一つの道であってまた、 その時々でちょっと夢中になるものも迷わず楽しめる柔軟さは、 何をするにも長続きするコツのような気がします。 長く、もうずーっとやっている…そういう人生っていいなあと思う。 八幡宮からの青空

相手にもパターンがある

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自分がパターンで言動するように、相手もパターンで言動しています。 そのことを全く理解していないと、 あんな言い方されたくなかったとか、 あんな風に思われたくなかったとかいつまでも考え続けてしまいます。 (理解していても、それはあるんだけど~) なぜ自分のことをそんな風に思うのだろうか?と、 自分の中に原因を探ります。 自分はそんな大した人間ではないのだから、 相手が言う通りだな~と思ったり、自分は調子に乗っていなかっただろうかとか、 卑しさや傲慢さはなかっただろうかと反省し、振り返ることもします。 目を見開いて、耳をかっぽじって、自分がしたこと言ったこと、 現実をちゃんと見よう。 そういう自分を知るということは、それはそれでとても大事なこと、必要なこと。 自分を知ると言えばもう一つ。 相手がパターンで言っていること(思っていること)に、 いつまでも一喜一憂している自分にも気づいていきたい。 あの人ってそういう人なんだと、 いつもそうやって自分を傷つける人、って決めつけるパターンがいる。 また、そうではない人に対しては、あの人っていつも自分に良くしてくれる人、 自分をほっとさせる人、自分をいい気分にさせてくれる人・・・ というように都合よく思うことも自分のパターンであるということ。 何かしら自分を満たしてくれる人は、みんないい人なのだ(パターンにとっては)。 ということは、 相手だって同じようにパターンでいい人、悪い人を決めているだけ。 そこに一喜一憂している自分は相手のパターンにも振り回されているのだ。 本当の「私」がパターンを理解し許そうとしているように、 相手のパターンに対しても、「私」は理解し許せるのだと思う。 「私」とはそういうもの・・・ジャッジはしないのですから。 そんな「私」だから現実を捉えられるのだと思う。 そこをもう一度認識したいと思いました。 パターンに飲まれてしまうとき、 それを許そうとしない●パターンに飲まれる自分はダメだ というパターンがあります。 ああ、今、パターンに飲まれそうになっているな~ って気づいただけでも「私」はちゃんと機能しているのではなかろうか。 そういう「私」がいることにも目を向けてみよう。 今日はどんより曇り空 寒っ

2月の講座について

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今月の【はじめて講座】ですが、 予定の日以外のところでお申し込みがありましたので、 お知らせしておりました2月23日はキャンセルの予定でおります。 ただ、もしも2月の講座に行ってみようと思っていた方がおりましたら、 2日前(21日中)までにご連絡いただけると予定通り23日も開催致しますので、 お手数おかけしますが、お申込みする〆切日をお間違えがないよう、 どうぞよろしくお願い致します! ★2月23日(日)13:30~15:00 ★やはぱーく(矢幅駅前) 1F活動スペースA ★参加費 無料 ★限定1名様 ★申込〆切 21日まで ★ ←他の開催日はこちらから! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて、こちらの講座ですが、 去年一年やってみて、心のカラクリを聞いた方々から、 全くそう思わない、ピンとこない、言っている意味がわからない~ といった類の感想は無く、それがちょっと意外だったと思いました。 皆さん元々心に興味があるからなのか、 なんとなくわかりますという反応が多く、 このなんとなくっていうものを本能的に大切にしている方が多いということを感じました。 この「わかる」というもの。 その人のこれまでの経験や、おかれてきた環境、生まれ持った気質、 そしてどこの領域で生きている方であるのかによって、 心のカラクリが役に立つのかどうかがわかる、ということなんだろうか?と思います。 「領域」とは、どの世界が上とか下とかいうものではなく、 どの学びが必要であるかどうか。 自分を知る方法の一つとして私は、 たまたまこの学びを知り、それがとても興味深くて今に至っていますが、 それが、「その体験を必要とする領域」にいるということなのかもしれません。 いろいろ思いながら試行錯誤してやっていますが、 単純に、今ある悩みのヒントにしてもらいたいと思うのです。 その方法をお伝えすることが(誰かの役にほんの少しでも立てたらいいな)、 今、自分ができることの一つであるのかなと思っております。 (なので、無料) 考えててもどうしようもない悩み、宇宙からみたらちっぽけな悩みかもしれないけれど、 それでも心が苦しいときは、 それは自分にとってとても大きなきっかけをくれる大事な悩みです。 紅茶の美味しい喫茶店♪

マイペースとは

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母との生活、無事5日目。 始まったばかりの時は、とにかく大変だ〜しかなかったけれど、 日に日に何か落ちついてきました。 あれ?それなりにやればいいのかもしんない・・・と力が抜けてきた感じがします。 (長年介護している方からすれば、そうそうその通りと言われそう) いっときも目が離せないと、見張り番長のように力んでいましたが、 介護休暇を取り、少し余裕が生まれたせいか落ちついてきて見守れるようになってきました。 同じ話を母に何度もしている日常も、 何かもう母がそう思うのならそれでいいと、 笑えればそれでいいという適当さを今まで以上に自分に許せている気がします。 考えてみれば、自分が結婚する前は両親と一緒に住んでいたわけですが、 あの頃どんな風に母と関わり暮らしてきたのかをもう分からなくなっているところがあります。 その頃の日常を少しずつ思い出し、 ああ、なんか母も私もいつも自分で自分を楽しくしていたなあと、家族の中に居ながらもお互いマイペースでやってきたのかもしれないと思いました。 今は食事を作るにしても起きる寝るも何にしても、やっていることは本当に自分で言うのも何だが献身的。 昔と違い、母中心に考え自分は二の次の状態ではありますが、 でも精神的には自分が二の次になっていることの気楽さというか、 フラットな感覚が不思議とあるのです。 もしかしたらー これが本来のマイペース(自分のありたい姿)でいられるってことなのか? 普段、休みの合間にちょっと一緒にいるだけでは見えなかったことが見え始め、 自分は母を見る覚悟ができていなかったんだなあと思いました。 だけど今こうして一緒の時間を与えてもらっている。それがありがたくて嬉しい。 なんかまさしく、骨が折れるようなことをあえて母にしてもらって気づくなんて・・・ やはり親って偉大だ! 川徳のベラルボニー 楽しみ♪

娘として

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母親が骨折をしてしまい・・・ 手術ができるまでの10日間、自宅で安静にしながら入院を待つことなりました。 って簡単に言うけれどー その期間、折れたところを悪化させないように、 さらに転ばせないように家で見守らなければなりません(見守るというより、もはや見張り)。 それしか選択肢が無いとなり、 えーーー、仕事をしながらですよ私、もう、どうすんのーーー。 これが本音。 母には何度も同じ話を聞かせながら、 母も不安だろうけど、私も不安と疲労と不眠にすでに襲われてます。 今日は一日がかりの病院でしたが、 母はたまに痛みが薄れるのか、足が折れていることを忘れた動きをするんですね(その後、痛みで顔をしかめる)。 小さな子を持つお母さんのように、はらはらしながら動きを見なければいけません。 待合室にはギブスをしてなんとも痛々しい患者さんたちがたくさんいるんですが、 何なんでしょうね、 そういう大変そうな人を見てもなお自分たちが一番大変だって思う。 ホント母には申し訳ないけど・・・やっぱり介護って大変。 なんでもっと早く、家中の段差をなんとかしなかったのかと後悔。 そしたら、母も苦しまない(私も苦しまない)で済んだかもしんないのに。 バカだった。 ああ、私、手術する日までちゃんとみてあげられるだろうか・・・仕事辞めなきゃなんないかな・・・ 体持つかな、大丈夫かな・・・頭がぐるぐるしています。 いろんな人に助けてもらいながらやっていこう。 89歳。何があっても仕方ないと思う覚悟があったつもりでしたが、 本当にいざこんなことが起きると、もう待ったなしなんだなー。 ただ、 大変な事態であるには変わりないけど、 最悪かといえばそうではない(と思いたい)。 これから毎日の実務をこなしながら、 この出来事から自分は何かまだわかっていないことを学んでいくのだな。 母と娘の関係、関わる人たちとの関係、そして自分のパターン。 落ち着いて、自分をよくみていこう。

ありがとうの気持ち

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昨日から雪が降り積もり、2月の景色になりました(やっぱり雪無しでは春は来ない…)。 除雪車が通った道路は、テカテカのツルツルですので皆さま運転気をつけてくださいませ! 先日ラーメン屋さんで、ばったり母が通うデイサービスのヘルパーさんと会いました。 亡くなった父もとてもお世話になった方で、 父が認知症でなければきっとその方を絶賛していたのではないかと思うほど、 仕事ぶりはもちろんのこと、いつも温かな対応で優しい心がにじみ出ているような方なのです。 当時、父がもうあぶないという時、不安そうな母のことを思いたくさん声をかけてくれました。 母は耳が遠く空返事をしてごまかしてしまうんですが、 そういう時も、背中をさすってくれたり手を握ってくれたり。 そういうことをごく自然にする方でした。 私は当時のことが忘れられず、いつかお礼を言いたいと思っていました。 ご夫妻水入らずのお昼だったのでしょうが、 ラーメンをすすりながら、いてもたってもいられなくなり、 奥様は素晴らしいヘルパーさんなんですよ!って話しかけ、しばしお話をしました。 今その方はそこを辞めてしまったとのこと。 すごく残念だけれど、 もう会えなくてあたりまえの状況だったのに、 こうして最後にお礼を言えたことが本当に良かったと思いました。 ふと、以前にも同じようなことがあったのを思い出します。 自分がお世話になった方、両親がお世話になった方、娘がお世話になった方にばったり出会うという出来事が結構私にはある。 心に残っていることや感謝していることがあると(これは、時々ふと思い出すようなこと)、 偶然ばったりその方と会ったり、その方をよく知っている方と会ったりということが、 思えばかなりの確率であるような気がしました。 今回も話をしていたら、私が以前仕事で助けられた方のこともご親戚で、 あーだから雰囲気が似てるんだ!とまた嬉しくなりました。 もう、会うことがないかもなと思う間(再会するまでの間)って、 何かもう会えないだろうけど、気持ちとしてはずっと繋がっているような勝手な感覚があります。 不思議だけれど、そこに少しだけ安心感のようなものもあったり、 もどかしい中にもその見えない繋がりを信じているところがあるのかも。 さらに、これは自分の行動にも、もしかして助けられているのかもしれません。 一人ラーメン屋で、さも何回か来てい...

2025年の抱負

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今年の目標が定まらず・・・とうとう2月になってしまいました。 でもこの一か月で感じていることで決めました。 その目標、抱負は、なんと去年と同じ。 「どうありたいか?で常に行動する」にしました。 ただ、全く同じものではない、です。 プライドではないところでやるということ。 去年は途中から、 表面的にやっていたことに、気づけなくなってしまった自分がいました。 だから、とても苦しい思いや悲しい思いなどが、 逆に自分を助けてくれたように感じます。 傷つかなければ、それに気づけない。 ・・・そういうことから教えられたものが、 今までの『ギフト』とは違った、ありがたさを感じました。 他にも、抱負はあり~ 自分に無理をさせない生活(予定を入れすぎないようにしよう!)と、 カウンセリングできることがありがたい!という思いを常に大切にしていきたい。 というものがあります。 私がこの職業、この役割で今働けているということが、 それは本当に奇跡だと思うし、 ありがたいことでしかありません。 そして、いつまで続けられるのか、 また、何をして何をやめるべきなのか、それは天に任せるしかない。 だから、一期一会を大切にして、 ほんの少しでも誰かのために使うこの身であるよう、 この世のためになることならば迷わずやらせていただく・・・そんな気持ちで今います。 今月から、はじめて講座もスタート。 何かを自分が発信していくということの楽しさも味わいながらも、 自分自身をしっかり見ていこう。 今年一年、この体と心でできる限りのことができますように。 あらためて、どうぞよろしくお願い致します。 今日は立春 南天の実がかわいい

やっぱり自分

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他人に嫌悪感、不快感を感じてしまう時って、 自分の嫌だと思うところが、鏡のように相手から見せられているからだ、とも言われます。 自分の愛せない部分、許せない部分が、相手の中にも見え 腹が立つ時、 本当は似たもの同士だってこと。 例えば、自分のパターンとして、 物事を深刻に受け止めては、 自分はなんてダメな人間なんだと思うパターンがあります。 だからなのか、 他人にもそのようなパターンを持っていると感じると、 自分事のようになり、相手のパイプの中に入り込もうとしている時があるのです。 感情移入し、 普段自分がパターンの救済をするように、 相手のパターンも何とかしなきゃと思ってしまうのかもしれません(無意識だけど)。 でも、その一方で、 自分のパターンを嫌うパターンもあります。 そんな暗い顔をして落ち込むような人間じゃあダメでしょって、 自分の中にあるパターンを否定する(存在を許したくない)パターンです。 だから、相手に腹を立ててしまう時によくあるのは、 自分ととても似ている部分が、はっきりと見せられた時に、 そのパターン、持っていちゃダメでしょって、 怒りたくなったり余計なことを言ったりしてしまうのです。 でも、感情がわいた直後は、 なんでこんな気持ちになってしまうのか、 よく分からないことがあります。 自分と似ているどころか、正反対の性格だから?と思っているため、 相手を理解できていないからこうなるのかなと思ったりもしました。 でも、よくよく他人を観察していくと・・・自分と似てるじゃん。 自分の中にあるパターンが嫌だと思う部分は、 他人がやっても腹が立つのだと気づかされます。 いろんなパターンが、相手に投影されて引っかかるんですね。 先日も、全然反省している態度じゃなかったり、 平気なふりをしているのか何なのか、とにかく謝らなかったり、 そういうマイペースぶりを 相手の中に感じたことがありました。 ●無責任な態度を取るべきではない ●平気なふりをするべきではない ●すぐに謝るべき ●自分の非を認めるべき ・・・っていうあたりのパターンです。 そこにはパターンなりの正当な言い分があり、 大体が、自分は悪くない、自分の責任ではないと思い、 自分は正しい、自分は間違っていないと思い込んでいる。 それらぜーんぶ、自分の中にあるものでした。 自分のパターンのケアが充分ではない...

パフォーマンス

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前回の我慢の話ですがー パターンは何一つ変わらず(主張は持ったまま)、とりあえず口を閉じていただけです。 大人の振る舞い、わかっている人にも見えたかもしんない? いやいや全然中身変わらずにそこにいます。 それを口にしない、黙る、引き下がる、従う、控える、自分が折れる・・・ といった類いのものは、 自分のパターンとしてはかなり苦手意識があるんですね。 口に出す、訴える、前に出る、反論する、出しゃばる、自分を曲げない・・・ こっちを自分のパターンはやりたがるため、 今までも何度となく練習してきているんですが、まだまだ表面的なんだと思った。 表面的だと分かるのは、 心から生まれたものなら気持ちがすーっとしているというか、何の引っ掛かりもないのではないかと思うから。 そこにはあきらかに至ってないから、ぐっと我慢という状態だったんですね。 心がそうなっていないのにそうしようとすると、 それがパフォーマンスにも関わらず、 何かそうできた自分を何度か経験していくうちに、 中身も自然に変わったきたかのような錯覚があるように思いました。 私、だんだんこんな自分になりましたよ〜的な大錯覚。 ここが今、自分の見るべきところなのかも。 語りかけがすごいなと思うところは、 このパフォーマンスが語りかけを前にすると、 泡のように消えてしまうところです。 パターンに寄り添い丁寧にやっていくと、 さっきの我慢という頑ななかたまりがほぐれていくのを感じるんです。 自然にほろほろと・・・崩れ落ちて中身が顔を出すというか。 本当はあなたはこう思っていたんだね。 そうなることが怖かったんだね。 もう見せかけの自分ではなく、丸裸の自分がただただ人間らしくそこにいるんですね。 か弱く、何とも心細気に、怖がっていたパターンが見えました。 表面的なものでも、なりたい姿を演じているうちに、 それが本当の自分であるかのように人格化していくことはあるようです。 でも、そこに純粋なものは感じられない。 やっていることも言っていることも良いことばかりなんだけど、なんかなあ・・・ という違和感を時々感じる人がそれ、かも。笑 今回もこうしてまた、 他人から必要とされたがりの〜大事にされたがりのパターンに語りかけています。 もしかしたら・・・大事にされたいって、もう決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ こっちも同時にやってい...

ぐっと我慢する

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とても矛盾しているのだが、 ●自分はダメな人間だ、というパターンがある一方で、 ●自分はちゃんとやっている人間だ、というパターンもあるのです。 正反対のものにも見えるけれど、 これは1つのプライドからきていると思いました。 そう、元は一緒・・・。 私ってダメな人間なんだけど、ダメだからこそ、 その分こうして頑張ってやってきたんです! っていうネガティブなのかポジティブなのか、 変な自負がある。 そのパターンが騒ぎました。 自分をないがしろにされたような気持ちになり、悲しくもあり、悔しくもあり、 ヤバい、このままではパターン全開で言い返してしまいそう。 ここでパターンを選んだまま喋ったら、 どんなにすっきりするだろうか?と考えた(←これもパターンがやっている)。 ううう、言いたい・・・(言ってやりたいと願うパターン) でも、頭ではわかっています(頭では)。 すっきりするのはほんの一瞬で(いや、一瞬よりも短し)、 絶対に言った鼻から後悔するのもわかっている。 それを言って、自分はどうしたいのか?と自分に問う。 言って、相手を負かしたと思いたいのか? 言って、自分の気持ちをわかってもらいたいのか? こんなどうしようもないほどに、パターンをめぐる葛藤があるとき、 静まらない心を力づくで静めるかのようにぐっと我慢をしてみます。 よく言うアンガーマネジメントの6秒間ならぬ、数分間。 それを言って、自分はどうしたいのか? もう一度問いかけました。 そうこうしているうちに、話題は変わり、出来事が変わり、状況も人も変わっていく。 そして自分自身の心もそこから離れ、 本当の「私」を取り戻し、 そ こからやっとパターンへ語りかけることができました。 我慢して乗り切った・・・ という今回の自分ですが、 小さい頃によく言われてきた「我慢強い子だね~」 が、ここで本領発揮するとは・・・ 本来はどっちがいい感覚なのか、「私」が選びたい。 (言うと言わない、どちらが清々しさを感じられるのか?) でも、もしかしたらー そこらへんも「私」が柔軟に選び、やっていたのかな・・・ 今回の我慢は、果たしてありなのかどうか、 もう一度試してみたいです。 大好きな洋服屋さん

半分の方の世界で

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父親の一周忌でした。 あれからもう一年が経ったんだなあと、本当に時が経つのは早いです。 その朝、夢を見たのですが、 どういうセッティングだったのか?内容は忘れてしまいましたが、 父は自転車に乗って元気でいました。 何か私に声をかけて笑顔でさっそうと行ったので、 たぶんあの世でも元気だから心配いらないよと、 伝えたかったのかなと思いました。 ただ、私は前の晩にお腹をこわしてしまい(甘いもの食べすぎた)、 みんなでお寿司を食べに行く予定だったので、 ああ~やってしまった・・・と、なぜ自分でセーブできなかったのか! 反省していました。 結局、お寿司をいただく頃にはお腹は治っていたのですが、 父親に、ちょっと叱られたような気持ちになりました。 目には見えないけれど、 時々、母親のことを守ってくれているのかなとか、 兄のことを応援してくれているのかなとか、 夫に何か頼んでいるのかなとか、 娘にはとにかく愛情を注いでくれているなとか・・・いろいろ感じることがあります。 私の場合は、大抵、体に無理をしていることで叱られているか、 心配されているかのような気がするんですね~。 生前もそうだったので、そう感じているだけかもしれませんがー。 父親が亡くなってからは特に、 ご先祖様から自分が今日までつながって、この体があるんだなあと思うんですね。 だから自分の欲、エゴによって余計に弱体化させないようにしたい。 ちょっと気づくのが遅いんですけど・・・ 疲れないようにほどほどにやっていこうと思います。 父にしたら、もう私(子ども)に対しての未練はないのかもしれないけれど、 私は父を思うと未だに寂しさを感じてしまいます。 それは、愛情をたくさんかけてもらい、 そこに包まれた時の感覚が今もずっとここにあるからなのか、 それとも、もうありがとうって直接言えない寂しさなのか・・・ あの肉厚で温かかった手を握って歩いて、おしゃべりして、笑って、 本当に私って、お父さんのことが今も大好きなんだなー 会えない、見えない、ということがあるのは、 いつか会えるかもしれないと思うし、 会えた時にたくさん話そうと思うから頑張れる気がします。 って言うと、 頑張らなくても大丈夫だって言われそうですが・・・ 見える世界と見えない世界が半々で一つ。 その半分の方の世界で今、やれるところまでやっていこう! でも、もらった...

柔軟にいこう

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途中から見たTV番組ですが、 団子屋さんがお団子がなかなか売れないから、おでんを売り始める。 というのをやっていました。 突然の思いつき?だったのか、それ用の四角い鍋もなく(仕切りとかが無い)、 家にある大きい鍋を使って具材をごちゃっと入れて煮込んでいました。 団子を買いにきたお客さんが、店頭からの湯気に気づき、 「おっ!おでんじゃん・・・」という顔をして買っていきます。 少しずつ、その湯気と美味しそうな匂いにお客さんが来るようになり、 具材の方も、串刺しの白い団子なんかも入っていたり、 餅巾着にあんこ入り団子を入れてみたり、 団子屋さんらしい工夫もして、売り上げがどんどん上がっていきました。 商店街の他のお店も、それに負けじといろいろ呼び込みをして対抗するのですが、 寒いこの季節には、とにかく心も体も満たしてくれるあったかおでんは強いです。 で、思ったのは、 人生ってこういうものかもしれない・・・と。 ちょっとした思いつきと、それをする勇気と努力で、 いかようにも状況が変わるのではないかと。 どうしてそれをやるか?は、あまり関係ないのかもしれません。 立派な理念や、それをやるはっきりとした自信や根拠がなくても、 この団子屋のように、思いつきのちぐはぐ感が出ていたとしても、 そんなの関係ない・・・。 何となくやってみたい! これでいいのかもしれないと思いました。 その団子屋さんは、社長がおでんを仕込み(団子も社長が作る)、 パートのおばちゃん一人が店頭に出て売っています。 そしてなぜか、 そのパートのおばちゃんの息子さんも具材を買いに行ったりして、 手伝ったりしているんですね(バイト代は出ているのか?)。 急におでんを始めたので、 串に刺さった団子とか、牛筋(これも串に刺さっている)とか容器からはみ出るために、 強引にセロテープで止めたりと、売り方もおぼつかない。 見かねたお客さんから、 これじゃあ汁こぼれるから串から外して入れて~と言われて、そうしてみる。 また、売れ筋のものもだんだんわかってきて、仕入れも変える。 鍋もあるものを引っ張り出してきて、増やしていく。 日に日にお客さんから教わっている感じです。 ピンチの時は、自分一人でがんばっている気になっているけれど、 自分一人で何とかしようとしているからピンチにもなるのかもしれません。 また、この団子屋さんが、団...