思考型人間と感覚人間

昨日の日記で、「快」と「不快」について触れましたが、
その感情や感覚を、誰が、感じているのか?
というところを見ていきたいと思いました。

誰が?・・・って、自分に決まってるじゃん。
と思うのですが、
自分だと思っている自分は、どの自分ですか?というところ。

その自分には、見ている世界が別、領域が別、
または意識が異なる、生きものとして異なる、と表現したら良いのか・・・
そのように存在するものが二つあると仮定します。
ここでは、【パターン】と、本当の【私】に分けています。

【パターン】にはさらに黒と白があって、
その中間のグレーゾーンなるものもあり~
パターンは自分が育てた心の中の生きもの。
常に黒か白かで(たいてい黒が多いけど)変化していることがわかります。
「心の中に、常に二人の自分がいる」と表現されている方もいれば、
陰陽の法則と捉えてイメージするとわかりやすいかもしれません。

【私】にはそういう異なるものはなくて、
この宇宙のように自分にとってただ一つの普遍的な意識になります。
いつも変わらず、魂の成長のために、
のびのびと自分という肉体を使って生き続けているもの。
パターンのように善悪の評価もしなければ、
極端な感情や感覚もなく、自分という【個】をいつも冷静に受け容れ、
愛を持って見守っている大きな存在です。

「快」「不快」を感じている自分とは誰なのか?
【パターン】で生きるのか、【私】で生きるのか?
私たちは常に無意識であっても、日々の経験をこのどれかの自分で選択している。

ということは・・・

本当の【私】で、生きていきたい。
ここが自分にとってのスタートでした。
そして、どうやったらそうなれるのか?というところを、
なりたいからそう自然になっていくわけではないと、
10数年学んできて、今また新たに実感しているところなのです。

自分って、喜怒哀楽がはっきりした感情豊かな、
感覚人間だと思ってきたけれど、
ウソウソ・・・それはそっちの方が何となくいい人間だと、
自分の価値観として思っていただけでした。

小さい頃から実に、何かにつけていろいろと考えるのが好きで、
不安や心配、悩むことが得意?で、
頭でっかちの思考型人間だったんだと思います。
(考えるのが悪いということではないですよー)
理論的には何一つ話せないのに、
そこに何かしら理由を求める理屈っぽい人間だったのだと思う。
単純そうに見えて、そうでもないのです。

それが今、こうしてまた、いろいろなことを学び、
感情から自分を知るということ(自己探求)をやってきて、
もう一度、本当の【私】が選ぶという感覚をよーく味わう必要があると思いました。
思考人間から、本当の感覚人間になっていこうという試みです。

人間である以上、このパターンとのやり取りは続くのだと思う。
これがあるから生まれてきたのだと思うし、
どれだけ【私】という良心を感じ、
ありがたいと思う気持ちを感じ、旅立っていけるのか・・・

今日は3月11日。
大切なものが一夜で変わったあの日を思い出します。
裸一貫で初心に戻ってやっていこう。



力出るよ~










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