投稿

2024の投稿を表示しています

最後の最後で・・・

イメージ
今年は本当に、あっという間の一年でした。 私事ですが、年明けに父が旅立ち、 その月に『はじめて講座』をスタートし、 後半は体力が危なかったですが~ いろいろなものに守られ助けられながら・・・ 何とか気持ちあらたに新年を迎えられそうで、ほっとしています。 今年のテーマ、自分はどうありたいのか? 常に問いかけていくことをやった一年でした。 ですが・・・最後の最後で、 ありたい自分ではなかった行動がありました。 何だか自分らしいパターンと言えばそうなんだけど、 自分のこのパターンへの理解がまだまだ不十分だったんだなあと思いました。 もう落ち着いていると思いたいパターンがいたのか、 はたまた、このパターンには顔出してほしくない!と毛嫌いするパターンがいたのか。 いずれにしても、 この国の王として(自分が自分という国のリーダーだとしたら)、 ちゃんと声を聞いてあげられなかった。 ここは、自分にとってとても大事なパターンなので、 年をまたいで語りかけていきます!(王様は年中無休) 具体的な行動が、この世の全て。 だとしたら、 考えているだけで、止まってはいなかっただろうか? 最後に行動しきれなかった部分を、来年は意識してやっていきたいな。 そういう意味でも、 年末の大掃除って、行動ありきでーとてもいい(急に思う)。 掃除というその行動の本質を、昔の人たちは知っていたのか? 身辺をきれいにして新しい年を迎える。 一年で一番あらたな気持ちになるこの時節に、 無心でやり、今自分が何を持っていて何を捨てずにいたのかもわかる。 これぞまさに「あり方への行動」だと思いました! 今年もまずまず掃除ができて、良かったです。 (いつもきれいにしている人にとっては、あたり前の話ですな) 明日はもういよいよ大晦日。 きっと夕方過ぎたらもう車はほとんど走らなくなる夜。 雪がちらほら降って、しーんと静まり返る。 この寒さと静けさが好きです。 今年一年、ブログを読んでくださりありがとうございました。 来年も格闘の日々を正直に綴っていきますので、 どうぞよろしくお願い致します! 実家の絨毯を、うん十年ぶりに新調しました!

寸分の狂いなく

イメージ
いろんなパターンを持って、 こうして生きているだけでもすでにみんな偉いんじゃないかと、 この頃本当に思う。 得られたことよりも日々つい反省をしてしまうのは、これも成長しなければというパターンだし、 もう他人からの評価や称賛、共感や承認はいらない…と思ってはいても、 ふとしたことでそれを欲しがるパターンもあります。 それら全部、自分の一部であるのだから、 大切に目を向けていつでも気づいた時はそばにいてあげたい。 パターンって、忘れた頃に突如顔を出すんですね。 おっ、出た!って感じに。 それって、忘れてはいけないからなんだと思う。 そういうパターンを持ちながら生きていくことをちゃんと思い出してもらいたいと、 パターンも思っているのかもしれません。 つい一年前を思い出すと、 他人の言動に感情がざわざわしていたものが、 今同じようなことを言われも、あれ?ざわざわしなくなったんだなあと、 変わっている自分を感じることがあります。 でもそれは、もうそこにパターンが無いのではなく、 形を変えてまた違った他人からの言動にざわざわする自分もいて、 根底にはそれらのパターンは今でもしっかりと根付いていることをただ知るのだ。 パターンが大人しくなったのではなく、 パターンにとって無視されているってものは即座に反応するようにできている。 それはもはや、宇宙のルールのように寸分の狂いなく正確なのだ。 騒ぐパターンにもう平気なふりはできないし、 平気じゃない自分でいい。 そのルールに沿って、良心に沿って、 自分はどうありたいの?と立ち止まれる自分がいて良かった。 (立ち止まった、その後の行動が肝心なところだが) 小さい頃から、両親から、周囲の大人たちから、学校から、社会から、生まれるもっと前から、 自分のパターンってどこから一体始まったものなのか。 パターンにも長い歴史ありで、 それらをクリアするまでみんな長い旅をしているのではないかと思ったりします。 また一年経ったら、 今感じているざわざわはもうキレイすっきりなくなりましたー! というものではないし、 ひたすら、ざわざわ、イライラ、ドキドキするものを感じながら、 静かにパターンの話を聞ける「私」で居続けたいなあと思う。 一年後も、今よりもっとそこへの過程を楽しめる自分でありたい。 モンブランケーキと見せかけて…プリンでした!

もう、それは、ない

イメージ
もうそこから降りていこう(やめよう)と思うとき、 その反対のことが起きたりします。 反対勢力?的なものが動き出し、自分が試されているような感じも無きにしも非ずです。 「こうしよう」と決めたときは、 意外と本当にはまだその覚悟はなく(まだ決まっていない)というか、 意識的に自分をそっちの方向へ歩いて行くように操作している感じがあるかもしれません。 そうではなくて、 もっとそっちへ行こうという自覚などないほどに、 「気づいたら、こうなっていた」と後から思う時の方が、 すでにそこから離れていたんだなあと思います。 そして、反対勢力的なものなどもなかったように(あっても大したことないほどに)、 すでに何か以前とは違う見え方感じ方が自分の中で起こっているのです。 試されるような出来事ではなく、 むしろ「私」に協力的な出来事が起きていくというか。 そういう意味では、 限界までやってみる、突き進んでみるというのも(命に別状がなければ!)悪くはないのかも。 おそらく何かしらのパターンでやっていたり、 もう、パターンではないところでやっていたとしても、 事態が変わるという分岐点までは、ある程度の量と質(時間と体験内容)が必要で、 そこがあふれる瞬間が、心が変わるタイミングでもあるのかなと感じます。 だから、迷っている間や悩んでいる間は、 まだそのあふれるタイミングにまできていないというだけのこと。 考えに考え、行動を変え、言動を変え、 悩みながらそれが落ち着いたりまた騒いだりと波がありながらも、 毎日をまあなんとか過ごせている、そのことを充分にやり尽くしていけばいい。 そのうち、 そういうところでは、もう、ない。 「もう、それは、ない」という感覚が突如現れるかのようになるのですが、 水面下ではそうなるための準備が進められ(準備電位ってあるらしい)、 なるべくしてなったかのように見えるかもしれません。 だから、自分がどこを目指して生きているのか(どうありたいのか)、 そこをいつも思いながら自分の行動を変え、 どうありたいのかで毎日の自分を見ていくのをやっていくのは自分にとって大切なこと。 どういうことを学びたいのか?(または、学びたくはないのか?) それによってどんなことが起こるのか、 天が(「私」が)決めているのでしょう。 あとは自分が明るく進んでいけばいい。 娘の誕生祝いに、RHI...

小さなことから

イメージ
今朝の盛岡は久しぶりに青空が広がり、 その分冷え込みました。 このキリッと顔が凍るような痛いような寒さは、 昔より暖かい冬になったとはいえ、小さい頃から変わりません。 今朝冷えましたよね〜が、朝の挨拶にもなる。 毎年この時期はすでに顔が(身体も)カサついて痒くなるのですが、 今年ははじめて何か対策しようかなと思い、 部屋に1本化粧水をおいて、気づいたときにバシャッバシャと浴びるようにしてます。 手頃なお値段の無添加低刺激の化粧水をドーンと目につくところに置く。 この行動に出たとこで、今年は肌が大分潤っている気がします。 ちょっとした工夫でこんなに変わるなら、 なぜに今まで試さなかったんだろうと思うほど。そんな感じで、ちょっとの工夫さえも、面倒くさいと思っていたんですねー私。 やればいいものの何もしないから、万年乾燥肌でもあたり前だったのではないか? 考え方を変えるっていうよりも、 どうありたいのか?の答えとして、 生活(動作、行動、態度)が変わって考え方も変わっていくってあるのかもしれません。 ちゃんとした(すごいざっくりの言い方だが)生活の先にそれに見合った考えになっていくというか。 毎日の生活習慣が変わるだけで、 頭の思考回路がそれに合わせるかのように変わる。 (対策をすれば乾燥しない!) こんな小さなことの積み重ねでちょっと生活が豊かに楽しくなります。

降参する

イメージ
最近思うのは、 自分のいる環境、働く場所、一緒に過ごす家族・家庭、 何で自分はここに?という疑問ではなく、 本当に貴重なたった一度の人生だからこそ、 絶妙な環境だとここを選び、 ここが自分にとって最高にこれ以上なく相応しいところなんだなあと感じます。 今生は、どうしても、 ここに向き合ってねって思うような、 向き合わざるを得ない充分な環境が、これからも与えられるんだろうなあ。 どこまでが自分の意思が反映されていて、 どこまでが神の領域なのかわからないけれど、 生まれてきたからには、この今ある与えられた環境がまずは最良であると考えて、 その場で懸命に生きていくのが正解!だと。 何というか、 その方が分かりやすいし単純明快でいい。 心境的には「降参する」に近いかもしれません。 降参って、戦いに負けるようなイメージあるかもしれませんが・・・ でもそう、それです。 その今まで戦ってきたものって何だったんだ? とふと真顔になってみれば、 とてもくだらないプライドだったりします。 まるで、裸の王様のような戦いっぷりだったんじゃないかって。 そういうところからは、もう降りてもよいんじゃないか? そういうことを思うと、 今自分のいる環境が丁度いいってこともよくわかるし、 その中でがんばっている自分も何だか滑稽に感じ、周りで役割を担っている人たちにも愛おしさを感じたりします。 毎日そこで喜怒哀楽感じている自分ってホントご苦労様~って思うし、 本当に本当に毎日、自分っていろんなことに戦っていたんだなと思った。 でも、その戦いがあったから今があるとも言えるのだから、 無駄なことは何一つやっていない。 そこがこの世の不思議でもあります。 来週はもうクリスマスですね。 今年の目標の、どうありたいか?という問いかけも、 降参してみての新たなあり方・・・ということになるのかな。 あと少しの2024年を大事にしていこう! 正太郎といったら塩中華!

どんな気持ちでいたいのか

イメージ
楽しみにしていた年内最後の岩手クラスのセミナーは、 なんと、インフルエンザで参加できずに終わってしまいました。 あ~、あとせめて2日遅れて罹っていたらなあと、 なぜこんなドンピシャのタイミングなんですかー! と残念でなりませんが、 それも今は自分にとってのいい意味付けに変えています。 寝ていると・・・ 何度か夢を見ました。 とてもはっきりとした(リアルにありえるような)夢でした。 ちょっと内容は書けませんが、その夢の中で私は、 ある出来事に対してとても優しい気持ちになっているのです。 そう、すごく温かく優しい気持ち。 こんなふうな自分でいつもいられたらいいなあと、 そう思うような温かな世界の中にいたのです。 それは、自分のためではなく誰かのために、 その出来事がうまくいくように考え、 うまくいったらみんなが喜び、自分もうれしいなと思い・・・ とても幸せな気持ちでいるところで、夢だった!と目が覚めました。 目が覚めて「あ~なんだ、夢かあ、残念だなあ」 と思いながらまた眠って、その夢の続きをまた見ることになりました。 夢の中では、夢だと気づいていないので、 私はみんなのためになることをまだ喜んでいて、 本当に良かったなあって、心から思い喜びを周囲と分かち合っているのです。 で、また目が覚めて・・・で終わった。 どうしてこんな夢を見たのだろうか? 夢の中で、確かに自分はとても優しい気持ちになっていた。 こういう温かで柔らかな気持ちは、昔もっとたくさんあったような気がした。 それがとても堪えました。 そうか、自分は人に優しくなかったんです。 誰かに何か意地悪をしているということではないですが、 自分を大切にするということが、自分のことだけを考えているになっていたし、 あろうことに勇気の使い方を間違えていたんだと思いました。 正義のための勇気?いえ、自分を正当化するためのただの嫌味なやつだったんだ。 この夢の中の自分は、それを思い出させ、気づかせ、この感覚を味わわせ、 そうでしょ、こっちの方があなたずっと幸せでしょ? あなたが望んでいるのは、こういうものでしょ? って言っているようでした。 自分だけがいいのではなく、 みんなの(全体の)ことを考えていなかった自分がいたことに、 とても苦しく胸が締め付けられそうになりました。 なんて傲慢で、天狗になっていて、うぬぼれていて、全然...

思いこみってすごい

イメージ
自分の思いこみってすごいなーって思います。 悪い意味での思いこみです。 そう思いこんでいるから、 今ある出来事もこう(悪く)なってしまったじゃん!と受け取るし、 全部その思いこみから人も出来事も小さな世界の中で起きていって、 感情の波が止まらないのです。 というより、いい意味での想像ができなくなるのですね。 想像力が乏しくなって、 なかなかそれ以外の展開が思いつかないというのが、思いこみのすごさです。 かといって、いい意味での思いこみは、 自分をいい気分にさせてくれるから、いいのか? 「私」はいつも冷静にジャッジをせずに物事を見極められる・・・ それは、パターンでいろいろやっている人間にはなかなか大変なことですが、 それでも少しだけ冷静になって、 今どっちで受け取りたいのか、考えたいのか、 そこは自分の意思で選択することができます。 言ってみれば、 自分に都合のいいように受け取ればいいのではないか。 「いいように」というのも、またある意味思いこみなんだとは思いますが、 期待はしていないけれど~自分にはそれが良いことなんだなと思う、という感じです。 最近、そういうことが多くある。 うわ~どうしよう、やだな~って思うけれど、 そこからちょっと冷静になって、 何か私、思いこんでいないか? こうなるって決めつけていないか? と自答自問し、人へ聞いたり話したり自分で考えたりしているうちに、 いかに物事を深刻にしていたかを思い知るのです。 気の進まないことも、問題が起きたなと思うようなことも、 まずは期待せずにただやる。 黙ってやる。 そうしているうちに道が開けるようなときがあります。 ジタバタせず(してもいいんだけど)、 良心に従ってやっていると、やがていいように進んでいたんだなと後から思うことがあります。 悪いように受け取るよりは、 いいように受け取るとる方がいいに決まっている。 でも、そういう両極端な感じではない、何かどっちでもいいとちょっぴり思っている中庸的な感じです。 ここは、まだ自分自身に身についているという感覚ではないので、 「もしかしたら・・・そう思いこまなくても、もういいのかもしれない・・・」 ということをある意味思いこむような、 それもありなんだよと教えてあげるような、 それを今大事にします。 思いこみがあったからこそ、 そういう大事なことにも気づける。 雪...

勘違いする理由

イメージ
少し冷静になってくると、 自分は頑張っている、自分はちゃんとやっている、そして自分は正しい。 というようなことを思っていたために、 頑張っていない人が目に飛び込んできて、 ちゃんとやらない無責任な人(←天敵)ということで、頭にきたのだと思いました。 じゃあそんなに他人を非難しているけれど、 ホントにそれだけのことを自分はしているのか? たまたま好きなことだから頑張っていた、たまたま上手くいっていた・・・ それとも、大したことはしていない、上手くいっているというほどのことか? ちょっとだけ、まあ頑張ったのかもしれないけれど、 それだけのことなのに・・・勘違いして、なった気していたのだと思いました。 パターンでいる時って本当にそれが見えません。 かすみがかったように、本当の自分が見えていません。 自分こそがちゃんとやっていると思っているので、 自分は全く非がなく、悪くなく、間違えも何もないわけです。 正当な理由はたくさん出てくるし、それが自分に変な自信を植え付けさせます。 そして、パターンがパターンを納得させていく。 以前、何かにつけて納得したがっていたのは、 納得ができると、それが正しさのように感じられたからかもしれません。 納得して、これで自分はいいのだと信じ、 それで自分は自分らしくもあるのだと思っていた。 今まさに、自分がそうしてきたことの結果なのだと思う。 やっと~かかとの穴をダーニングしました♪

自分を落ち着かせる

イメージ
久々に頭にきたことがありました。 くれぐれも言い方には気をつけなきゃって自分に言い聞かせてはいたのですが、 結局、話した後に感情のままやってしまったと、 後悔することがありました。 しばらくモヤっとして、 その後悲しく寂しく、怒りも込み上げ、 そしてもう取返しがつかない・・・って思うと苦しさを感じます。 苦しいということは、 魂的には進化のときなのかもしれませんが、 そんな余裕はなく、パターンへの語りかけも出来ずにいました。 でも1日経って、 自分が気づけないってことに、 今から気づけるかもしれないような大事なことが起きているのかもしれない・・・ ふと思いました。 後悔した時って、今更無いことにはもうできないけれど、 この先に対しても、これからどんなに頑張ったってもう無理なんだと、 思い込む魔力のようなものを感じます。 どんどん気持ちが落ちていきそう。 これを止めるために、 もうちょっと何か空気が変わるようなことをしたいと思い、 マントラを考えました。 明るく(まずは明るさを持とう、笑おう) 深刻にならず(軽く行こうよ!) 傲慢にならず(図に乗っていないかを自分を見よ) 感謝を持って。(今日の私があることに感謝しよう!) 『明るく、深刻にならず、傲慢にならず、感謝を持って』 過ぎたことを引きずらないように、言葉の力を借りるのです。 本当の「私」は過去にも未来にもなく、 今だけを見て、今何をするかだけに没頭している。 感情に飲み込まれると、笑顔が消え、明るさがなくなり、 とんでもなく不安になり全体が暗くさえません。 こういう時こそ自分を明るく引っ張っていきたい。 自分で考えた言葉でのマントラ、結構いい感じかもしれません。 だんだんこの言葉の通りに自分が落ち着いていくのを感じます。 そうやって少し準備をしていきながら、 自己観察、語りかけ、自分の内に入っていこうと思います。 じゃーん、岩手山

「責める」の意味付け

イメージ
「責める」について、 中立ワーク(意味付けを考える)をしてみたいと思います。 自分にとってのマイナスの意味付けとしては、 (そう、あくまで世間一般にではなく、自分にとってはどうかです) ⊖ 攻撃している、意地悪くする、その人が悪いと思っているからする、 裁き、問い詰める、威圧感を与える、相手への批判や非難、自分を守りたいからする プラスの意味付けとしては、 ⊕ 明らかになること、責任が明確になる(無責任にならない)、 原因(理由)を知ろうとする行動、相手の非を伝える勇気を使う そして中立には、 ただ一つの体験、絶対ではないもの。があります。 「〇〇さんを責めることになるから、言わなかった」 会話の中に出てきた言葉に、なんだか引っかかりました。 責めるのは良くないから(してはいけないことだから)、しなかったということなんでしょうが~ 責めることって本当に「悪」だけなんでしょうか? 時には責めることで、 相手に何かが伝わるということもあります。 責められてはじめて、その人は何か気づくかもしれないし、 責めることで、一石を投じるような、 悪しき習慣を変えるということもあるかもしれません。 また、責められた人は可哀そう・・・というのもどうでしょう。 誰も責めずに物事が良い方向へ向かうならば、 それに越したことはないけどー 責められたと思われたとしても、言わなければわからないこともある。 大事なことが伝わることで、相手も言ってもらってよかったと、 大分経ってから思うこともあるかもしれない。 以前、「言わない」「黙る」っていうことは、 誰の批判もしていないってことだからいいんじゃないの? って思っていた時がありました。 言わないほうが人を傷つけずに済むと・・・ でも、何も言わない、反応しないということで、 相手が悲しくなったり、傷ついたりすることもあるのです。 無反応、無視、無関心はとても寂しいもの。 だったら、責めることで自分の悲しさを伝えたっていいのではないか・・・ 責めないように、言わないように、聞かないように、 問題としないように、指摘しないように。 自分は何も感じていませんよー誰も責めませんよーって。 あたり障りなくやり過ごすことが悪いことではないけれど、 何だか生きている実感がそれで湧くのだろうか? ぶつかって何か変化があってもいいのではないか。 自分がもしも責めら...

今の若い人って

イメージ
いつの時代も、今の若い人は・・・ とつい言ってしまいますがー (ここで言うのは10代後半~20代前半の若者のこと) その考え方、捉え方、感じ方、創造力といったところに、 年々わたくし、驚きを隠せなくなってきております、はい。 自分たちの若いときとは比べものにならないくらい、 さまざまな情報が簡単に手に入り、 SNSでの発信もあたり前にやっているせいか、 なにか自分を見せることに物怖じしないような感じがあります。 多様性って言葉が何かにつけて出てくるように、 とにかくいろいろな人、いろいろな考え方がある今の時代に、 生まれた時からそうなので「人はみな違う」ということにも慣れているんでしょうね。 人に無関心だとか言われたりしますが、 人が人に影響をあたえるという概念も薄いのかな? 影響をあたえるのは、大量の情報の中から得たものや何かしらの体験。 そこに人は付属のように付いていて、 感情的にドライに見えてしまうのですが、 その距離感や親密度の度合いがまた、よい意味で、 自分の世界に(パイプの中に)他人を入れずに済むことがあるのかもしれません。 どんなに親しくなっても、 自分のパイプを本能的に守ろうとしているような・・・ たまに若い人と話す機会があると、 自分の持っていないものを持っている新鮮さというか、 新たな発見がたくさんあってもっと話が聴きたいなあって思ってしまいます。 自分はいくつになっても未熟だし、 そう思っているわりには、おごってしまうところもあるし、 若い人のとても純粋で素直な目を見ると、 そういうところを見透かされているような気がしたり・・・ そして、その姿から教わるものが多いのだ。 先日は、年が上だというだけで、 何だか自分が偉そうに話していたのではないかと思ったら、 急に恥ずかしくなってしまいました。 ってそんなことすら相手には大した問題じゃないんだろうけど・・・ その一方で、ときどき魂同士が触れ合うような感じもあって、 わくわくしながら自由に話している自分もいました。 人生80年(今は100年?)と考えたら、 これからますます若い人、年下の人たちとの関係づくりが必要になってきますね。 こういう出会いからも学べるのはとてもうれしいです。 久しぶりのケーキ

ふさわしくないもの

イメージ
この頃は、自分の中から積極性とか向上心とか、 何か前向きなものが、薄れているような気がします。 今いるところに立ち止まってみたくなり、 後ろを振り返ったり、 何もせずにいてみたり。 そんな中でも毎日やらなければならないこともありますので、 そういうことはあれこれ考えずにやるんだけど、 こうしたい!っていう意思を持ってやる部分が・・・あんまりないかも。  よく言えば、流れに身を任せているっていえばいいのか~ 成るようになっていけば、まあいいかなと、 自分が考える良い成り方ではなく、 もっと違う大きな視点での良きことであればいいかな~という感じです。 自分の個性(よく言われる性格)として、 積極的だとか、好奇心旺盛だとか、行動力があるとか、 自分でもそこは、良さとして認識していたりしてますが、 全くそうではない自分もいて(白があれば隣りに黒があるように)、 今はそっちの方が自分らしいような気がしています。 昨日の日記にも書きましたがー 自分にはふさわしくないものを、 自分が発揮するべきことと思ってはいないか? 自分にふさわしくないものって何だろうって考えています。 生き生きした自分って、こうだよねって、 自分がこうなると輝くよねって。 その思いこみは、どういうものなのだろうか。 少なくとも、受動的ではなくやっている、 成長したいという向上心の元やっている、 なんだか、このあたりがヒントになっていそう。 そんなに考えてもいないし、積極的にも動いていないのに、 向こうの方からやってくることがあります。 やってくるから、ありがたくそれをしている。 やってきたものは受け入れ、それに集中してやる。 そこにもっと、もっと、というものが生まれると途端に、 ただ、感謝してやっていたものが、何か別ものになってしまう時があるのです。 力を抜いて純粋にやっていたのに・・・ 楽しくやっていたのに・・・ 急に別ものになっていく、この変わりよう。 それ以上何かをしようとしたものなら(←パターンなんだな)、 もうそれとは違ってしまう。 天にとって(全体にとって)良いことが、 自分だけにとって良いこと、 特定の人だけに良いこと、みたいになってしまったからなのか? ここでいろいろ頭で考えていくと、 またちょっと難しくなってしまう気がします。 心地よく、軽く、広く、清々しい落ち着き。 そういう感覚...

本来の自分へと戻っていく

イメージ
今日は岩手クラスの勉強会でした。 後から気づいたのですが、 自己開示というあらたまったものではなくても、 自分が思っていること、相手のお話で気になったことなど、 大分そのまんま話せるようになったと感じます。 (皆さんのおかげ~) 何より、心が軽いです。 お互いが本当に清々しいくらい正直になって話せているのだと思う。 Fさんの近況を聞いていて、 その葛藤は今のFさんだからこそ必要なものなんだろうなあ と、なんだかそういうことが起きて良かったなあと思い聞いていました。 答えはもう決まっているけれど、伝え方をちゃんと納得いくものにしたい。 そういうところが私自身もあるため、何かしらのパターンなのかなと、 自分に置き換えてみて考えました。 こうしてみると、全てが必要なものしか与えられておらず、 なんと、これって幸せなことなんだろうって思った。 わざわざ、私、成長したいです!って思わなくても、 自分に合った成長の題材は次から次へと向こうからやってくるのだから。 『新しい自分へ変わっていくのではなく、 本来の自分へと戻っていく。』 師匠の言葉をあらためて考えました。 戻る? 戻っていくのは後退しているのではなく、本来の自分に戻るということですが、 思い出していく作業だったり、自然体になっていったり素直になっていく作業だと思う。 自分で刷り込んできたたくさんのパターンたちと共に、 それがあることを許し、そのままを認め、 そこでどう自分はありたいのかを考えていく作業もあります。 理解のある自分、じたばたしない自分、 他人に振り回されない(ように見せる)自分でありたいという、 そういうパターンの理想が、『理想のあり方』になってしまっていたりするので、 そこを見極められるようになっていきたい。 パターンの理想は、 きっと本来の自分とは違う自分を思い描いているはず。 ありのままでは、どこかダメだと思っているんだと思う。 また、これも師匠が言った言葉、 『自分にはふさわしくないものを、 自分が発揮するべきことと思ってはいないか?』 これにも、みんなが引っかかり・・・ 自分にふさわしくないものをふさわしいと思っているんじゃないか?と、 想像すると、かなりゾッとする感じもありますし、 実際にそうなっていたとしたら、 それはかなりの苦しさが伴うものじゃないかと・・・ パターンが考える自分にふさわ...

小さな変化

イメージ
いろんなことをストップさせるために、 体って不調になるのだなあと思いました。 いっぱい寝て、ぼんやりと過ごし、スマホもいじらず、 家事も仕事も介護も子育ても、約束事も友達付き合いも習い事も、いろんな習慣もみーんなやめたっていい。 とにかく、休めー、病院にも行けー という感じに強制終了してくれる。 今、私も必要最低限のことをしながら、 いろんなことをやめてみては、 今まで無視をしてきて本当にごめんなさい・・・と自分の体へ謝っています。 これ、パターンに語ってきたことと同じなのですが、 不調も一つのパターンの表現なんだと思えてきました。 だから、そうだよねって、 パターンへの語りかけのように、体へ、 それをするよりこっちをした方がいいよね。 そっちよりこっちを食べた方がいいよね。 ちょっとがんばるより、しっかり休んでみた方がいいよね。などなど、 毎日気づいたことを話しかけては過ごしています。 頭を使うこと、考え続けることは、 特にも体にとってやってほしくないことの一つだと感じます。 だから、パターンへの語りかけもできません(人によってはできるのかもしんないが、自分はやれなかった)。 その代わりに、 体の声を聞くように、細胞一つ一つに意識を向けることは何となくやれている気がします。 微かに良くなる兆しも感じたり、抵抗しようとしたり、 いろいろ体って小刻みに心のように反応しているんですね。 これって、まさしく、考えてわかるものではなく感じてわかること。 最近やっと、 ああ、結構怒っていたんだな(パターンは)って、 自分の奥の奥にあった感情を感じ取っています。 すべてにスローなペース。 先のことを考えず、目の前のことだけでいい。 体が教えてくれることを素直に受けとめる。 この小さな変化が明るい気持ちにさせてくれます。

ワークで笑う

イメージ
黒パターンから白パターンへ選び変えようとするとき、 まずは、今まで(黒パターン)とは真逆のものって何?と考えてみます。 今までとは真逆な考え方をするって、ちょっと強引です。 到底今の自分にはできないものではあります。 だって、この人嫌い!ってパターンが思ってイライラしている時に、 真逆な考え方もあるんですよ~って言われても、 この人嫌いじゃないです!とは思えません。 だからこそ、一旦、今あるパターンの真逆って何だろう?と考えるのですが、 そこはとても事務的にやっていました。 ところが・・・ 先日、講座の中でびっくりしたことがー。 ●自分が責められたくない というパターンがあった時、 とりあえず真逆なパターンは何かと考えると、 〇自分が責められてもいい になります。 つまり、自分の心の中にそういう正反対なものがセットで必ずあるんですね・・・ (心の中も陰陽があるから) と説明すると、ふふっと笑いが起きました。 え、ここで笑う? この真逆のパターンを声に出して言ったときの笑い、 この感性とてもいい!って思ったのです。 ワークって、真剣に考える中でも、 おもしろさというか、あ、これだ!っていう発見とか、 素直な驚きを感じることもあります。 ●もうあんな言い方されたくない の真逆は、 〇もうあんな言い方されてもいい! え~、あんな言い方されてもいい~?え~そっか、されてもいいのか~(ふふっ) ●自分にばかり仕事をおしつけないでほしい の真逆は、 〇自分にばかり仕事をおしつけてもいい!  え~、おしつけられてもいいってこと~?自分ばかりに仕事を~?えーーー(アハハハ) こんな感じに、パターンを深刻にするのも、ライトに捉えるのも、 全部自分次第なんだと思いました。 真逆のパターンを考えるって、まだそこに現実味がないから、 意外すぎてウケてしまったということなのかもしれませんが、 その意外性を感じるところから、 自分に合った白パターンにつながっていくように思います。 真逆なパターンを考えただけなのに、 何だか笑えて、何だか救われる・・・ 今自分が深刻になってケアしようとしているパターンは、 実はそんなに重々しいものではなかったのかもしれない、とさえ思えます。 笑い声に教えてもらいました。 今年も、来てますよ~

健やかに穏やかに

イメージ
今日は母と一緒に公民館の紅葉を見てきました。 お天気が良かったので、たくさんの人がそこの庭園を見に来ていて、 真っ赤なモミジが空に広がり圧巻でした。 庭園の中は舗装されていないので、 でこぼこした歩道を転ばないように、 母と手をつなぎゆっくりと一周しました。 途中、七五三の着物を着た可愛い子どもたちともすれ違い、 母は「あら、可愛いね~」と笑顔で声をかけていました。 自分の七五三って全然記憶にはないのですが、写真はあります。 もう着物が窮屈でしかたなく、 早く脱ぎたい!という、すごい不機嫌そうな顔で映っている自分。 若かった両親はさぞかし私をなだめすかして、 何とか写真を撮ったのではないかと思うのです。 そうやって子どもの成長を願ってお参りをしてくれたことに感謝です。 今は、自分が母を健やかに穏やかに老いてほしいなあと願い、 一緒にこうして季節を感じながら散歩ができたことが、 とても嬉しく思いました。 そういえば先日、 自分の年齢を母に教えたら、え~~~、あんたそんな歳になったの? と、ものすごくびっくりされました。 実際よりも15歳くらい若いと思っていたらしく・・・ そのあと、まじまじと私の顔を見て納得したようでした。 最近母は、寝る前に昔のアルバムを開いては、 兄と私の小さかった頃の写真を見て笑っているそうです。 兄が私の手をひいて歩いている・・・というだけで可笑しいようで~ それは私がお年寄りを見ると、 それだけで微笑ましく思う気持ちに似ているなと思いました。 お年寄りってみんな、 可笑しなことをしているに違いないと想像してしまいます。 それは、自分の親が、おもしろくて優しくて愛がいっぱいの存在だったからだと思う。 だから、お年寄りを見ると恩返ししたくなるし、 優しい気持ちになってしまいます。 そして、あともう少しであちらの世界に行くやもしれない、 そんなお別れを思うと(ちょっと勝手に申し訳ないけれど)、 寿命まで、最期の時まで生きるって、 それ自体がもう充分で、成し遂げたということであって、 大往生ではないかと感じます。 時々そういうことを考えては、 今、こうして生きていることを確認するかのような、ありがたい気持ちになる・・・ 不思議だー。 食は細くなっても、別腹は変わらず! 母には、本当に生きてもらっているだけで、 ありがたいです。

がんばり方について

イメージ
完璧主義という言葉がありますがー・・・ 自分は全然そうではないと思っていたのですが、 こうなっていきたいという願望、 思い通りにしたいという気持ちがあったならば、 それは完璧主義みたいなものではないかと思いました。 ~すべき、~した方がいい。 まさに、これ、パターンですね。 自分自身の行動に対してもですが、 それよりも思い通りにしたいのは、他人の行動に対してです。 何をそんなに完璧に近づけたいのかといえば、 結果ではなく、その過程でいかにがんばっているか? これをやっていたんだなあと思いました。 自分はがんばっている、という自負があるときは尚更、 そうしない人(パターンの理想ではない人)を見るとパターンは許せないんですね。 がんばることは私の場合、小さい頃から慣れていることなんだと思う。 もう物心ついた頃から、がんばって偉いね!とか、がんばり屋さんだね! と言われて喜んできた(刷り込まれてきた)歴史があります。 自分を満たすものはそういうものにあったのだ。 気楽に、もっと力を抜いて~ そうなることが下手な自分は、気楽になれるようにさらにがんばっている・・・ また、パターンは気楽な自分を目指そうとすると不安を覚えるような気がします。 気楽じゃだめでしょ、がんばった方がいい結果が得られるよ、気分がすっきりするよ!とささやく。 パターンは一生懸命とか、やりきるとか、 後悔しないようにとか、そういう『がんばり方』が好きかもしれません。 そうする自分を誇りにも思うから。 もっと気楽にやればよかったって、 実はその軽さにこそ、誇りに思える自分はいるのではないか? そう感じられるように最近なってきました。 完璧さはもう要らないし、 思い通りのがんばりでなくてもいいし、 ましてや、他人ががんばっていなくたっていいのかもしれない。 自分がそこそこのんびりと、ゆとりを持って、お気楽に仕事でも何でもやっていると、 かえってその方がいいあんばいで仕事(いい状態)ができていたりする。 がんばらない効用として、 体が健やかさを保てる、頭に血がのぼらない、イライラしない、焦らない。 何より冷静に他人も見れる。 そうなればもう少し自分にも他人にも優しくなっていくような気がしました。 もこもこでかわいい

より良い自分になるために

イメージ
白パターンを作るときに、 「もしかしたら、~~~って決めつけなくても、もう、いいのかもしれない」 ゆっくりと声に出して言っています。 真っ黒だった自分から、 あれっ、もしかして・・・そうなれるのか、自分? と少し良き予感がするような、 これまでとは確かに違う自分であるけれど、そんなに無理をしていない。 でも、とても可能性に満ちている自分がいます。 決めつけていたものが、 決めつけなくてもやっていけるのかもしれない。 そう感じられるって、 穏やかな希望を感じます。 ふわ~っと、自分の体も軽くなって、 何だかやっていけそうな気持ちになるのです。 そう、本当に無理がなく・・・ これってこんなに大事なことだったんだ。 より良い自分に選び変えるためのワークで、 黒ではないけれど白まで行っていない、グラデーションのグレーが、 自分を一歩、また一歩と、理想ではなく現実的な行いへと導いてくれる。 まさに「より良く」なっていくって、 こんな感覚を持つことではないかと思う。 イチョウと青空 この配色いい~!

いつでも幸せがある

イメージ
このところ時間がとても早く感じられていたのに、 今週は長かった・・・やっと週末がきた~という感じです。 少し調子よくなってくると、 少しずつ思考も動き出してきた感じがあります。 そのいろいろな考え(パターンだが)をさらに実現させようと、 この口が言い、この表情がそうなり、しぐさから態度、 そして体が動くと行動へと移されていくのがわかる。 そして、相手がいれば、相手もそれに対してその人のパターンで反応し、 またパターンで言葉をかわし、パターンで行動していくのだ。 そうやって本当に「私」ではないところで動いて、 それが無意識な行動パターンとなっていって人が作られていく。 それが自分だと疑いなく思って生きている。 一旦パターンが心の中で反応したとしても、 それを具体的に実現するすべがなければどうなるのか? 肉体が思うように動かなければ、何も起こらない? と思いきや、自分が見る世界が変わっていく。 パターンで見ている世界の中に自分がいるため、 そこから次につながるものも、思いこみや決めつけで想定し、 体が動くときにもうしっかり準備態勢に入っているのだ。 でも、その準備段階で心のもやもやを察知すれば、 あっという間に思いこみや決めつけがふにゃふにゃとなって、 「私」が意のままにかたちを変えて適応していくように思う。 これを何と表現したらいいのか・・・ 意思があるけれど、それが全てパターンの意思ではなく、 「私」が決めていけるよう、 パターンもなんだか、「これ、俺様の出番じゃないな」と感じてもらっているような感じ。 そうやって本当の「私」だけが自分を作るのではなく、 パターンからヒントをもらったり、不調という肉体的反応で教えてもらったり、 『自分』へ協力してくれていることを感じます。 見えないものたちが支え励まし、そして導き、 ちゃんとやりきっていくように働いてくれているということなんでしょうか。 だとすると、本当に自分は、というかー 人ってどんな時でも(つらいことがあった時でさえ)幸せなんだなと思った! 週末、のんびりできるこの幸せ。 窓際に、犬のぬいぐるみが・・・(ペットの学校でした)

体調が悪いとき

イメージ
先日はじめて、 腰というか背中というか脇腹のあたりに激痛が走り、 何が起きたんだ!という経験をしました。 その数日前から風邪を引いたのか、悪寒や倦怠感、頭痛もひどくって、 何もする気が起きず・・・ とどめを刺されたような感じがしました(もう~動けない)。 ちょうど3連休だったので体を休ませることができましたが、 平日だったらきっと仕事を休み、 休んだことで少し気持ちがへこんでいたかもしれません。 こういう時、普段の健康がなんとありがたいものか・・・身に染みて思います。 そして、具合が悪い~って思いながらもまだ生きていることに、 生かされているって何だか自分の意思とは別のところで動かされているようで、 すごいことなんだなあと手を合わせる。 体力の低下は実感することがあっても、 病気を意識するというのは久しぶりだったと思います。 どうしてこんなに痛いんだろう・・・ 今後の生活を真剣に考え、 静かに自分の中で覚悟する感じがありました。 若い頃のガンの経験もあるので、そういうことも想定したり、 もしどこも何ともなかったとしても、 これからも今まで通りで、生活を何一つ変えないというのはどうなんだろう? ゆったりした時間を今年に入ってから持てなかったこと、 好きでやっていたことでさえも、疲れてしまったということは、 やはり何か違っていたんだなと感じます。 そして、好きなことをしたいというは、 単なるわがまま(エゴ)でもあるし、 誰かのためにしたいというのも、おごりがあったと思うし・・・ 結局は自分にとって良いことではなく、 天にとって良いことをしたいはずだったのに。 いつの間にか、思い通りにいかないことを思い通りにするがごとく、 がんばっていたんだなあ。 体調が悪いときって、 頭が全然回らないので、何も考えられない分、 感じたままにやるしかないという体験ができます。 体がついて行かない時の方が、パターンで仕事をしない・・・ということも何となく感じました。 無心でやっているというか、そこに策略もなく、期待もなく、あきらめも今は普通に受け入れられる。 どういう結果になっても、それを受け入れる覚悟をしているので、 不安もあるようなないような・・・ 痛みで頭が回っていないという体験はまだ続きそうな感じがします。 仕事はよーく考えてやるもの、というのも、 ほとんど考えなくても何とかなって...

パターンの段階いろいろ

イメージ
黒パターンにたくさん喋らせる・・・ これはこれでありなんだと思いました。 あ、これ、パターンが騒いでるじゃん! と気づいてすぐに語りかけることもありますが、 気づいてしばらく黒が言いたいように言わせてー もう出し切ったか? と思ってから、ゆっくり黒パターンの話をまた一から聞いていくと、 今度は黒パターンも少しずつ、 本当に言いたいこと、 本当にわかってもらいたいことを整理して話してくれるように感じます。 なんだかわからずに不満爆発だったものが、 ここが苦しいんだよね、嫌なんだよねって、 まとまった話になっていくような気がします。 それをしているのは、黒パターンなのか? それとも本当の「私」がそれを引き出してくれているのか? 「私」の存在が、黒パターンを変えていくようにも感じました。 だから、まずは腹の内を吐き出していくことも大切なんだと。 パターンで喋っていくと、一旦すっきりしたような気分になります。 ああ~せいせいしたあ! って感じることもある。 そこには、パターンをそのまま受け止め、 何の否定も評価もせず、自由に言いたい放題にしているため、 スカッと感なのです。 でも、本来はそこではなく、 新たな自分になっていきたいので、 スカッとした(やってやったぞーっていう感じではなく) もうそこは選ばないということを練習です。 もっとほんわかしたような軽さでパターンを見ていきたいのだ。 「私」が落ち着きと静けさと明るさをもって、 パターンの話を聴く。堂々と聴く。 パターンも勝手に喋りたいのではなく、 ちゃんと話を聴いてほしいのだ。 東屋の下で昼休み~

石田組の魅力

イメージ
昨日は一日、音楽の秋を楽しみました。 ヴァイオリニストの石田泰尚さん率いる『石田組』の結成10周年ツアー。 石田さん(組長)の弦楽合奏の音楽にかける情熱、 初めて聞くような素晴らしいヴァイオリンの音色に魅了されました。 TVでこの方を見たときは、 え?この風貌でクラシックするんだ~ってびっくりでしたが(ホントに失礼だけど) でもこういうファッション私は嫌いではないので、 実際にいつか見てみたい、聞いてみたいと思っていました。 なんと岩手に来ていただけるとは! 音楽って・・・はあ~、なんというか、こんなにも自由だったんですね。 ヴァイオリンも弾く人によって、 こんなに音に違いがあるなんて知りませんでした。 弦楽器だけとは思えないような、オーケストラのような響き。 迫力だけでなく、繊細さとか、はかなさとか、優しさも感じられました。 また、組長の場合、見ても楽しませてくれるというか、 ヴァイオリンを自由に操り、体をしのらせ、 指揮者のようでもあり、踊っている人のようでもあり。 そして、メンバーたちを時々食入るように見る、あの視線もまたいい。 全身で音楽を表現している人。 みなさんどこかの楽団に所属している一流の奏者で、 自分の役割をしっかり果たしているように感じました。 組長のヴァイオリンが美しく響くのも、あの13人の方たちがいるからこそで。 それを一番よく知っているのでしょうね、 演奏途中で一人一人の紹介を石田さんがするのですが、 それがまた、独特の語り方で組員たちへ向けた愛と尊敬の思いを感じました。 特別な才能をもった人たちは、 その人たちなりの特別な使命があるのではないかと感じました。 たくさんの人を感動させ、奮い立たせ、また優しく励ますような、クラシックを身近にしてくれる役割。 で、こういう機会を得て、 自分は本当に凡人中の凡人だと認識できます。 その凡人なりの役目もまたあるんだろうな。 素晴らしい音楽を聞けて、幸せです! Zホールって音がすごくいいらしいです

引っかかる傾向

イメージ
あれ?落ち着いていたパターンが、 また暴れそうになっているな・・・ と思うことがありました。 イライラが発動し、自分の中に緊張が走ります(心臓がばくばく)。 そういう時、他にも見ているパターンがあると(ケアの最中)、 感じていても、少し後回しになってしまうことがあります。 ああ、どっちのケアを先にしようって。 でも、こうして放っておいている間も、 パターンはそのまま何一つ変わらずそこにいるため、 いえ、むしろどんどん大きく複雑になってしまうこともあり、 今度は同じ反応どころか、 倍増して反応している自分に気づきました。 (もう、不快指数が急上昇) パターンがこちらに合図を送っているのか? ちゃんと、見てくれよ~って。 何度も以前ケアしたことがあるパターンだから、 ノートをめくりながら前に語っていた語りかけ文章を、 もう一度声に出して読んでみる。 それはそれで、最もなパターンの言い分がありましたが、 今回はまた少し違った言い分も発見しました。 どうして、そうあなたは思うの? 問いかけると・・・ 普段よく出てくるパターンにもつながっていたことがわかりました。 自分のパターンには、こういう場面があると~「引っかかる傾向がある」 という何だか法則的なものがあるなと。 自分も一緒に笑いたい、楽しくありたい、一緒に何かしたい、 つながりたい、役に立ちたい。 というところから、 仲良くやりたい、好かれたい、よく思われたい、仲間でいたい。 または、孤立したくない、自分だけ笑えないのは嫌、一緒に何かできないのは嫌、 気にかけてもらえないのは嫌、そこに自分がいないのは嫌・・・ といった集団の中での自分の存在へ、 何かしらのパターンが騒ぐことを感じました。 一人でいることが好きなのに、なんで? この矛盾した欲望(パターン)を、 これからちゃんと見ていきます。 もっと深く、どういうときにここが揺れるのか? まずは、今出てきたパターンをケアしながら、 ここから丁寧に観察していこうと思います。 わくわくがあると、心がほぐれます・・・

何をそんなにがんばっているのか?

イメージ
このところ疲れがたまって、 体調があまりよくないまま過ごしています。 よく寝込んでいた昔に比べれば、 健康に過ごせている方だと思いますが、 うっかり自分のキャパを超えたことを続けてしまうと ああ、こうなってしまったかと反省です。 葛根湯を飲みながら、 食事を控え、温かい恰好をして(今季初の湯たんぽ登場)、 家では静かに過ごしています。 がんばるという意味付けも、新たなものを付け加え、 一体、何をがんばっているのか? 少し考えたいです。 他人に任せられないと思うとき、 その後のことが自分に降りかかってくるのではないか(責任とか)、 それを避けたくてがんばってしまう。 相手を信用していないということもあるのだと思う。 他人がしたことで自分が嫌な思いをしたくないから、 だからパターンはがんばっているんだろうな。 自分がやって、後悔したり、反省したり、 ということに対しては納得というか、 自分の責任だと思えてやれる? それよりも、単に自分がやりたい!というパターンがあるんだと思う。 誰かに頼む、見守る、口を出さない等々は苦手。 自分がやった方が早い、確実、間違えがない。 ・・・なんて思うのも、 すごーい、驕り(おごり)だったんだなー 頭がストップしてやっと感じられたことでした。 体もストップしかけ、 しゃべるのをやめる、動くのをやめる、考えるのをやめる。 なんだかほっとする・・・。 見えるかな? 蜂~でかっ!

与えられたもので生きていく

イメージ
今朝、目が覚めて思ったのは、 自分が今、与えられているものの中で生きている、ということ。 なんかすご~くあたり前といえばあたり前。 まず、この家(この家で今朝目が覚めたから)。 この家を与えられているのだから、掃除をする、手入れをする、 温かで涼しい快適な環境で、健康で過ごす。 そう、この家があるのだから充分に休息もできるし、健康でいられる。 そして、家族。 夫が家のことをいろいろしてくれる。不便なくいられる。感謝。 娘は時々帰ってきては、笑いを持ってくる。 家族になった確率を思うと奇跡。 私は家族の中で、家族との喜怒哀楽の中で自分も成長させてもらっている。 そして、仕事。 会社員という与えられた仕事の中で、このメンバーで、このクライアントで、 この関わりのある企業と、その担当者たちと、 たくさんの人とやり取りをさせてもらっている。 全部、会社を通して与えられたものだ。 悩み、格闘するには充分すぎるほど、毎日いろいろなことがある。 この仕事は、本当にダイナミックで大好き。 もう一つのカウンセリングの仕事も、与えられたもの。 クライアントさんと、大事に丁寧に向き合いたいと思いやっている。 カウンセリングを通して、人の一生の奥深さを共に体感していく。 講座で出会う方も、土日で動くことができる環境も、 全部ありがたい。 こうして今あるものは(他にもいっぱいあるな)、 最初からずーっとあったものでなく、 だんだんにそうなったものもあれば、消えていった(失った)ものもある。 だからあたり前に永遠にここにあるものなど何もないのだ。 それを思うと、 なんてすごい奇跡の積み重ねで、今の幸せが与えられているのだろう! 何も欲しがらなくても、 充分すぎるほどあって、それは自分にちょうど良くて、 全部あるもの与えられたもの、それだけで生きていけるし、 それでこれからも生きていく。 全部必要なものしか与えられていなかったし、 私にないなーって思うものは、今の私に必要ないものなんだ! ・・・って感じた朝でした。 この自然豊かな環境も・・・です!

遠慮する、とは

イメージ
今日の午前中は勉強会でした。 話の中で「遠慮して・・・」という言葉が出てきて、 なんだか引っかかってしまいました。 そこで、中立ワークです(意味付けを考えてみる)。 「遠慮する」のプラスの意味付けは、 親切心がある 気遣いがある 自分は二の次でいいこと 控えめで慎ましいこと 自分のことよりも相手や周囲を大切にすること 自分のことよりも相手や周囲のためにしないこと 謙虚な行い マイナスの意味付けは、 よそよそしい(親しさがない) そうした方がいいという決めつけ 親切などあだで返す感じがある 関わるのが面倒でそうする いい人っぽく見せたい? 保身 本心が見えない そして、ただ一つの経験として、 「遠慮する」があるだけです。 今まで、遠慮とは、 いい意味で使っていたことが多かったのですが、 マイナスの捉え方も自分にはあるな~と感じました。 自分が本当は、 何か声をかければ良かったかなあと思うことがあり(声かけたい人がいた)、 それが出来なかったのは、遠慮したから?って話になりましたが、 遠慮・・・じゃないなと思った。 私のそれは、プラスの捉え方ではなく、 限りなく保身に近い遠慮でした。 その人を責めるようなことになってしまわないか? 自分の行動が相手を不快にし、自分も嫌な気持ちにならないか? と思ったから声をかけられなかったのです。 決して責めたいのではないのだけど、 責めているようにしか聞こえないような言葉しか思い浮かばず、 何て言おうかな・・・と思っているうちに、 結局、あたり障りのないことだけを言っていました。 そのまんま、 「責めているわけでも何でもないんだけどー」とか、 「何て言ったらいいのか、うまく言えないんだけどー」とか、 「ちょっと気になったんだけどー」とか、 いろいろ言えたんじゃないか? いっそのこと誤解されてもいいから、 その時感じたままに話してみても良かったのかもしれません。 そして日常的に自分は、 あまり遠慮することってない方かもしれないと思いました。 親しくない人の前では多少あったとしても(何かをゆずるとか)、 そもそも何が遠慮すべきで、何が遠慮しない方がいいのか? 何が、どうすることが、失礼にあたるのか? そういうことを見極めるのが苦手なんです。 でも、これは、見極めるというより、 自分がそこにどんな意味をつけるのか?というものだから、 何に遠...

やったことのないことをする

イメージ
普段、自分がやったことのない仕事をするとき、 その仕事をよくわかっていないがために、 これでいいのか?と考えすぎて・・・ 慣れていないことをするって、本当に緊張します。 でも、緊張しながらも、 勉強になる部分もたくさんあって、 知らないことを知るって楽しいんだなあ と、どこか客観的に自分を観察していたりします。 これは、本当の「私」と、心の中の「パターン」の分離が、 昔よりは少なからずとも習慣化しているからだと思うのですが、 ほんと、ここが身についてきて良かったって自分でも思います。 失敗して、ああどうしよう、怖い~って思うのはパターンで、 「私」は冷静にそんな自分を観察し、 ケアされたパターンは落ち着き、 怖さを持ちながらも今できることを考えて行動しようとする。 この分離感は普段私を助けてくれていることだと感じました。 やったことのないことをやるって、 今までの経験が、全然使えないっっていうことはなく、 自分の持っている何かが役に立っていることは、 知らず知らずあるのかもしれない。 例えば、失敗した後の行動(どう謝まるか?何からやるか?)もそう。 道場のクラスの方たちにしている開示とは違うかもしれないけれど、 開示というものが、自分自身の心を軽くしていくという体験を、これも少なからず実感している。 何か、もやっと心に引っかかったときこそ、 自分の心を開いて素直に話す(開示すること)。 その作業にも大分慣れてきていることを感じます。 心がざわっとしたときは、 以前よりもためらいなく相手にどういう意味だったのか?と聞いていたり。 そういうことが、そんなに苦ではなくなってきて、 少しずつ、どう思われても大丈夫というものが育ってきているからかもしれません。 自分はまだわかってないなと思うことがたくさんあるけれど、 それがわかった今、今日からまたコツコツとパターンを観察したり、ワークをしたりやっていこう。 そんな自分がまた自分自身に助けられる・・・ということがこれからもあるんだろうな。 ――――――――――――― さて、お知らせです! 明日のオガールでの【はじめて講座】空きがあります。 ★ ←詳しくはこちらをクリック ピンときた方はどうぞ~いらしてください。 はじめてのミニカウンセリングと講座の体験となります。 はじめてということで緊張するかもしれませんが・・・大丈夫です!...