寸分の狂いなく
いろんなパターンを持って、
こうして生きているだけでもすでにみんな偉いんじゃないかと、
この頃本当に思う。
得られたことよりも日々つい反省をしてしまうのは、これも成長しなければというパターンだし、
もう他人からの評価や称賛、共感や承認はいらない…と思ってはいても、
ふとしたことでそれを欲しがるパターンもあります。
それら全部、自分の一部であるのだから、
大切に目を向けていつでも気づいた時はそばにいてあげたい。
パターンって、忘れた頃に突如顔を出すんですね。
おっ、出た!って感じに。
それって、忘れてはいけないからなんだと思う。
そういうパターンを持ちながら生きていくことをちゃんと思い出してもらいたいと、
パターンも思っているのかもしれません。
つい一年前を思い出すと、
他人の言動に感情がざわざわしていたものが、
今同じようなことを言われも、あれ?ざわざわしなくなったんだなあと、
変わっている自分を感じることがあります。
でもそれは、もうそこにパターンが無いのではなく、
形を変えてまた違った他人からの言動にざわざわする自分もいて、
根底にはそれらのパターンは今でもしっかりと根付いていることをただ知るのだ。
パターンが大人しくなったのではなく、
パターンにとって無視されているってものは即座に反応するようにできている。
それはもはや、宇宙のルールのように寸分の狂いなく正確なのだ。
騒ぐパターンにもう平気なふりはできないし、
平気じゃない自分でいい。
そのルールに沿って、良心に沿って、
自分はどうありたいの?と立ち止まれる自分がいて良かった。
(立ち止まった、その後の行動が肝心なところだが)
小さい頃から、両親から、周囲の大人たちから、学校から、社会から、生まれるもっと前から、
自分のパターンってどこから一体始まったものなのか。
パターンにも長い歴史ありで、
それらをクリアするまでみんな長い旅をしているのではないかと思ったりします。
また一年経ったら、
今感じているざわざわはもうキレイすっきりなくなりましたー!
というものではないし、
ひたすら、ざわざわ、イライラ、ドキドキするものを感じながら、
静かにパターンの話を聞ける「私」で居続けたいなあと思う。
一年後も、今よりもっとそこへの過程を楽しめる自分でありたい。
モンブランケーキと見せかけて…プリンでした! |
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