もう、それは、ない
もうそこから降りていこう(やめよう)と思うとき、
その反対のことが起きたりします。
反対勢力?的なものが動き出し、自分が試されているような感じも無きにしも非ずです。
「こうしよう」と決めたときは、
意外と本当にはまだその覚悟はなく(まだ決まっていない)というか、
意識的に自分をそっちの方向へ歩いて行くように操作している感じがあるかもしれません。
そうではなくて、
もっとそっちへ行こうという自覚などないほどに、
「気づいたら、こうなっていた」と後から思う時の方が、
すでにそこから離れていたんだなあと思います。
そして、反対勢力的なものなどもなかったように(あっても大したことないほどに)、
すでに何か以前とは違う見え方感じ方が自分の中で起こっているのです。
試されるような出来事ではなく、
むしろ「私」に協力的な出来事が起きていくというか。
そういう意味では、
限界までやってみる、突き進んでみるというのも(命に別状がなければ!)悪くはないのかも。
おそらく何かしらのパターンでやっていたり、
もう、パターンではないところでやっていたとしても、
事態が変わるという分岐点までは、ある程度の量と質(時間と体験内容)が必要で、
そこがあふれる瞬間が、心が変わるタイミングでもあるのかなと感じます。
だから、迷っている間や悩んでいる間は、
まだそのあふれるタイミングにまできていないというだけのこと。
考えに考え、行動を変え、言動を変え、
悩みながらそれが落ち着いたりまた騒いだりと波がありながらも、
毎日をまあなんとか過ごせている、そのことを充分にやり尽くしていけばいい。
そのうち、
そういうところでは、もう、ない。
「もう、それは、ない」という感覚が突如現れるかのようになるのですが、
水面下ではそうなるための準備が進められ(準備電位ってあるらしい)、
なるべくしてなったかのように見えるかもしれません。
だから、自分がどこを目指して生きているのか(どうありたいのか)、
そこをいつも思いながら自分の行動を変え、
どうありたいのかで毎日の自分を見ていくのをやっていくのは自分にとって大切なこと。
どういうことを学びたいのか?(または、学びたくはないのか?)
それによってどんなことが起こるのか、
天が(「私」が)決めているのでしょう。
あとは自分が明るく進んでいけばいい。
娘の誕生祝いに、RHINOさんでお食事 |
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