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心と魂を震わせて

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今年は・・・というより、 去年の後半くらいから、新しいことへの挑戦が続きました。 本当にずーっと走り続けていた一年だったように思います。 かといって、すごく自信が持てた、ということでもなく、 恐る恐るどきどきしながらやっていて、 感情はたくさん騒ぎました。 そんな自分をひたすら観察していると、 それでもいいと思えるようになり・・・ やはり自分のしたいことへ、心を魂を震わせていきたい。 来年も、心と体のケアをしながら、 みなさんと学んでいきたいです。 今年一年、日記をお読みくださり本当にありがとうございました。 よいお年をお迎えくださーい! 桜山神社の烏帽子岩

愛おしい人へ

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昨日は仕事納めで、利用者さんたちと一緒に食事をしたりゲームをしたりと、 とても楽しい時間を過ごしました。 普段、あまり話さない人ともお話をしたり、笑ったり、 まるで大家族の中にいるような、 そういう環境に自分はいたんだなあとあらためて思いました。 そして、楽しいだけではなく、お別れもありました。 それは本当に寂しくて悲しくて・・・ これまでの感謝の気持ちと、 もっとたくさん関わりたかったという後悔のような気持ちと、複雑な思いでした。 その人が望まなくとも、出会わせてもらって、 そこにたまたま自分がいて親しくさせてもらいました。 やさしさ、たくましさ、勇気、ひたむきさ、謙虚、自然体、思いやり 誠実さ、質素、素直さ、ユーモア、あきらめ、成長、責任感・・・ といった「私」の資質に影響をあたえ、 自分が知らず知らずの間、 その人からたくさんのことを教えてもらっていたことに、今更ながら気づかされます。 よく一緒に大笑いしたので、 これから、その笑顔が奪われるようなことにはなってほしくない。 それだけをすごく願いました。 でも・・・ 笑顔でいること、明るくいること、前向きになれること、 そういうことだけが人の成長を促すものではないということもわかっている。 せつない気持ちを持ちながら、 もっと、これから自分は、愛おしい人へ素直になっていこうと思いました。

興味のないことへの変化

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興味のないことはもうできなくなってきている。 年を重ねるごとにそれは顕著に感じていて、 そこへ使うエネルギーがなくなってきているような気がします。 でも仕事だと、そうはいかないことが多く、 仕事だから無理してやっているという方は多いと思うのです。 でも、なんでこれやんなきゃいけないんだろって思うと、 もう、頭が回らなくなるというか、やる気がおきないというか。 何もかもストップしてしまうような。 あとはもう、早く済ませたい一心でやっている。 つまり、 そこに自分がいない。 興味がないことに対しては、 心ここにあらず。 もちろん、体力的にもきつく感じるものもあるし、 自分の得意不得意も、向き不向きもわかってくるので、 そこへの努力というか、がんばりが効かなくなっているというのはあります。 好きなことをやるのとは全然違う。 でも、このやる気のない状態。 一体どうしていこうか? (どうもしなくていい、という答えもあるかもしれないが~) やりたくないけど、やるか!と、 心と不一致のまま突き進むのか・・・ やはり、それをする『動機』の部分がカギをにぎると思いました。 なぜ、それをしようとするのか(または、しないのか)。 動機のところをよくみていくと、 自分のことがよくわかってくるように思います。 ずっと、この興味がないことをしなければならないことへの息苦しさがありました。 一貫して私は、好きなことだけをやっていきたいという思いが強かったのです。 できれば、それだけにエネルギーを注ぎたいって。 それは今も変わってはいないのですが、 それをする理由、しない理由を考えるようになってからは、 少しだけ見方が変わってきた感じがあります。 普段、他人を優先している人は、自分第一でいいと思うのです。 ですが、今の自分は、 自分を優先しすぎてしまっているのではないか?と。 一方で、 自分のことを大切にするのと同じように、 自分以外の人も大切に思えてきている・・・ この頃それを感じることが増えてきました。 この感覚は、まだとてもか弱く小さなものですが、 か弱いがゆえに大事にしていきたいのです。 だから、興味のないことも、 自分以外のこと(人)へ目を向けるということがしたくなっているのだから、 そこには興味があるのです。 ここを感じると、心にじんわり温かさが広がるのがわかります。 それはきっと新し...

奉仕って何だろう

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奉仕とは、一般的には他人に対して自分の利害を考えずに尽力することをいい、 宗教的には神に仕えるという意味もあります。 どちらの意味でも、 見返りなど求めず、自分を失くして、 心の底から誠意をもって自分以外のものに尽くす(働く)ということなのですが、 これって、すごいことだと思いませんか? これほど尊い行いは、この世にはないのではないかと思います。 そこにあるのは、愛だけ。 自分はそういうものを一生かかっても持てるものだろうか・・・ 先日、夜に一人で過ごしていたとき、 その、奉仕という言葉が頭に浮かんできました。 奉仕をする、奉仕の精神で・・・ なんて自分に似つかわしくない言葉だろうって思いました。 これまで、そういう経験ってあっただろうか。 家族が病気になったりしたとき、 何も考えずに必死に看病したということはあった。 でもそれは、自分にとって大事な人だからできることだし・・・。 言葉の深い意味を追求したいのではありませんが、 奉仕って何だろう・・・と考えています。 一番ぴんとくるものは、 あまりにも崇高すぎてできると思えないもの。 だから、その言葉が浮かんだ時に胸のあたりがざわざわしていました。 うっ・・・怖い、なんだか怖い。 何というか、 それが自分にとって、これから向き合うべき課題のような気がしたのと、 まったく見返りを求めずにやっていくということが、 どんなに難しいことかを自分自身がよく知っていると思ったからです。 小学校の道徳の本に、奉仕するという話が出てくるたびに、 いい話なのにどこか苦しくなってしまうような感覚がありました。 例えば、道に落ちているごみを拾ったり、 困っている人がいたら声をかけたり、 そういうことができないわけではないけれど、 そういう人間は、無理しているということが本当にまったくないものなのだろうか。 という疑問があったのです。 また、自分のような人間がそんな尊いことができるはずがない。 そんな背伸びをしてはいけない。 と思っているふしもあるかもしれません。 なんといっても ●自分が中心でいたい(ちやほやされたい) というパターンもあるくらいですから。 でも、本当はもっと成長したいと思っている。 それなのにできるはずがないというところへ意識を向けていたら、 自分が自分に制限をかけていくことになります。 あれこれ言い訳をして(パターンの...

嫌いという感情について

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カウンセリングを学ぶようになってすぐ、 なぜか自分の周りにいる人たちがどんどん嫌いになっていく・・・ ということがありました。 今でこそ、その現象は不思議なことではないのですが(自分に正直になっただけ)、 当時は、どうしてこうなってしまうんだろうと、 人に対していちいち鼻につき、 怒りの感情や不快感がわいて仕方がなかったのです。 何よりそんな自分自身がとても嫌でした。 そんな自分、というのは、 他人からよく思われたい自分。 誰とでも仲良くできる自分、他人を嫌わない自分ではないことを突きつけられていくような感じがして、 ものすごくつらかったのです。 そういう自分ではないものがどんどん出てきたのは、 心というより、 自分という存在全体から何か毒でも吐き出しているような感じだったと思います。 これらは、みなパターンであって本当の「私」ではないのですが、 はじめはそこがはっきりと分離されていないので、 すぐに感情にふりまわされてしまいます。 頭では、大丈夫(嫌っていいんだよ)と言い聞かせても、 やはり他人を嫌うということにとても抵抗があったし(嫌っているのは事実なんだけど)、 それを他人に悟られるということも怖かったし、 嫌っていないふりをする自分も、 はらわたが煮えくり返るように怒っている自分も、 どちらも最低だと思っていたと思います。 パターンへの語りかけや、いろいろなワークをしながら、 一歩進んで二歩下がるようなスローペースでしたが、 他人をどうしようもなく嫌いだと思う自分自身(←パターン)を、 それが今の私なんだから、いいのかな・・・ とやっと少しづつ受け入れられるようになっていったように思います。 『嫌い』に対する捉え方も変わってきて、 何に対する拒否感、抵抗感、恐怖心なのか、 自分の中にあるパターンの傾向がそういうことを通して少しだけわかってきた。 そんなような感覚を持つようにもなりました。 あの人のこういうところが受け入れられない、というのは、 全部、自分がされたくないパターンが反応しています。 だんだんそこが冷静に分析されるような、分離されるような、 自分とは全く別のところで起きている・・・ そう感じられることが増えてきたように思います。 この頃また新たに感じられているのは、 なぜ嫌いだった人がそうではなくなっていくのか?という事には、 単なる自分の中のパタ...