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9月, 2026の投稿を表示しています

わかってもらいたい、は違う

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毎日、誰かしらの話を聴くという時間があります。 そういう時間は好きなのですが、 話すより、聴くことの方が本当はむずかしいなと思います。 でも少しずつですが、 ずっと聴き続けると、 何かその話の一番大事な部分を感じられるようになったり、 その方が一番言いたいこと、思っていることが見えてきたりして、 そのときは素直にうれしいなと感じます。 はじめはわからなかったけれど、 ちょっと何かわかってきたとき、 自分と相手との間の壁がちょっと薄まる感覚がします。 うれしいなという感覚は、 逆を言えば、わからないままにし続けるのはちょっと嫌なんだと思う。 わからないまま話をずーっと聴いていたり、 話している内容は理解できるけれどそうする理由が理解できなかったり。 事態が進まないままというのは、 その結果のいい悪いに関係なく、すっきりしなくて嫌でした。 それがちょっとずつ、 今はそんなに嫌ではなくなっている・・・かも・・・と思いました。 以前カウンセリングの先生から、 自分をわかってもらおう、というのは違うのよ! と言われたことを思い出します。 「無理なこと」ではなく、 「違うのよ」と言われたことが印象に残りました。 それでも時々出てくる、 わかってもらいたいパターン。 そして今は、わかりたいパターン。 どちらのパターンが出てきても、 あ、なんかこれって(今の自分がやっていることって) 何か間違っているかも~と教えてもらえる気がします。 蟻さんのリネンって好きだー

今自分がいる場所

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どうありたいか? これは常に意識をそこに向け、 自分にとってとてもとても大事なことなんだと捉えていないと、 無意識でパターンでやってしまうことがある。 やってしまってから、 あ、これを選びたいんじゃなかったと気づく。 それくらいまだまだ、 パターンで行動した方が自分にとっては自然だということ。 その気づきを何回も繰り返して、 どうありたいか?というより、 こうはありたくないというものが見えてくる気がしました。 (と、見えてた気がしたけど、見えてなかった) パターンで行動して後悔しているというより、 選ぶという意思がなかったことに、 もやもや感、不快感、むなしさを感じます。 パターンはパターンのままでいいから。 今回は、わかってほしいというパターンでした。 パターンだと気づいていても、 心の奥ではちょっとくらいはわかってほしくて、 余計なことをパターンが言ってしまいました。 どうありたいのかを選ばなかった自分。 そうやって今の自分がいる場所を理解していこう。 みかんジュースが美味しく感じる

人間関係から学ぶこと

人間関係から学べることの1つに、 自分が今どんな状態であるのかを知るということがあると思います。 道場での学びでいうと、 自分はどんなパターンを持っているのかということなんですが、 どんなパターンを持って生きていても、 パターンにいい悪いはないのです。 ただ、パターンを使い慣れているために それではない、本当の「私」を感じられていないということが 問題なのだと思う。 (問題という言葉以外にしっくりくる言葉が見つからなかった・・・) このパターンで自分は行動しているんだなとか、 このパターンについ引っ張られてしまうんだなとか、 このパターンで自分は自分を満たしてもらっているんだなとか・・・ 自分の思考癖(パターン)をちゃんと認識していくというは大事。 でも、大抵は自分を守るために、 自分ってこういう性格だから~と、 本来の「私」ではないパターンで実は生きていることに なかなか気づけないのだと思います。 なぜなら、パターンで生きていると、 自分のすることに否定的な人や、苦手な人、嫌いな人、 そういう人との関係性は築かないようにする気がします。 (もちろん、無理に付き合う必要はないけれど) また、本当に自分を省みるということは、 はじめはとても苦しさを伴うので、 自分を褒める人、認める人、楽しく付き合える人、 または一緒にいて何の害もなく安心できる人との関係性から、 自分を知ろうとする方が圧倒的に多いのだと思う。 その方が「良い自分」だけを見れるし、気分もよく、そして楽になるから。 でも実際は、 そこからは本当の自分を知ることはできない。 となると~、 人間関係を築きにくい人たちというのは、 自分を知るための(その目的にとっては) 一番ドンピシャな相手でもあるということになります。 教えを乞うにはこれ以上ない相手。 苦痛な人間関係とネガティブな感情から得られているものって、 本当はそういう大事なことが隠されているんだなあ。

病院疲れ

先日までの検査のための通院期間。 これが思いのほか長かったせいか(2か月ちょっと) 夏の疲れならぬ、通院の疲れが出ている気がします。 毎週通い続けて、しかも長時間の待ち時間。 周囲の騒音も苦痛だったし、 自分が自覚するよりも不安と緊張の中で耐えていたのかもしれません。 その日々ももう終わったのですが、 結果的に不具合もわかり、 現実を知れて良かったと思う反面、 体の不調と付き合いながら年を取っていくことを思うと、 連休あたりからかな〜なんだか急に、 何をするにもやる気がおきなくなっていったのでした。 家事だけでなく、外出や買い物、人との約束、 そして語りかけもしたくないとパターンは思っている。 会社にも行きたくないし、 これから先のやりたいことすら、もういいってパターンは思う。 パターンと「私」が同化していくような感じだった。 でも、そこから少しずつ抜け出せてきている感じがあります。 朝のルーティンと帰りのルーティンを たんたんとやり続けていたからではないかと思いました。 感謝のお祈りをし、 今の気持ちを感じ、日記を書く。 決まった語りかけだけする。 そういう習慣になっている行いが自分を救っていたのかも・・・ もしかしたら、 こうやってこれからも何とかなっていくかもしれない。 まだ体はだるいけれど、 大丈夫になっていくのかも・・・ って思う今日でした。

ちゃんと理解する

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自分(パターン)を救助する。 レスキュー隊のようにすぐに駆け付ける。 話を聴いて、言葉にならないものを代弁してあげて、 そばにいて見守る。 ネガティブな感情の中でも特に怒りが湧いているときは、 自分を見失いたくないと、 何とか落ち着かせたいと思うけれど・・・ それも取り乱したくないパターンがやっているんだと思いました。 そうではなく、ちゃんとその怒りも感じて、 取り乱していることも感じて。 そうして、こうしたいと考えずに今の気持ちだけを感じてみる。 本当は、否定していた人のことがすごく羨ましかったり、 自分にはないものを感じていたり、 そうしたないものねだりする自分(パターン)も見えてきました。 隣の芝生は青く見える、みたいな感じです。 そういう感覚があることも正直に認めて(自覚して)いこうと思います。 「ちゃんと理解しているよ」とパターンに言えるのは、 そういう正直さなんだと思う。 トキ(黄色いりんご)って甘い!

感情の波が荒れたとき

めちゃめちゃ感情の波が荒れました。 ザッブーーーンって感じの大波。 自分が中心でいたい、大事にされたいというパターンは、 存在をないがしろにされているかのように感じて、 寂しくて、恥ずかしくて、悔しくて、苦しさでいっぱいです。 他人から大事にされていないと思うと、 自分だけでは自分を大事にできないと思っているパターン。 だから、とても寂しい。 中心にいると思えないと、 そんな自分はそこにはもう居られないと思っているパターン。 だから、恥ずかしい。 ないがしろにされる、関心を持たれないということが、 何かとてもひどい目にあっていると感じるパターン。 だから悔しくて、苦しい。 自分がこんな気持ちにならないように、 あなたは(あなたたちは)自分を守ってよねとパターンは思う。 他人に、私のご機嫌をとってくれーーーと言っている。 それでも、 パターンを見つけて語ることで、 もう半分は大丈夫なのかもしれないと少しだけ思えてくる。 一人じゃないんだなと少しづつ感じられてくる。 その半分のところまで、 いろんな感情を感じながら進んでいこう。

自分を引き上げよう

感情を感じたとき、その次にするのは、 何のパターンか探すこと。 ここで、あ~パターンを何とかしなきゃなとか、 語りかけやんなきゃと言っているのは、 これもパターンの声です。 それが出てきたときに、黙りなさいとパターンへ言って、 やることをやる。 ここが、間を置かずにやるのが今の私の課題だなと感じます。 今日は、語りかけの文章を考えはじめると 以前作ったものとの違いが出てきて、 パターン視点ではなく、 より「私」視点になって発する言葉が連なっていました。 「私」自身が作っていくんだと意識。 これが自分を引き上げるということなのかなと思いました。 集中力を発揮するということです。 ネガティブな感情に対して、 またか・・・とネガティブな感情を嫌うパターンに対して、 私はどうしたいのだろうか。 そのままパターンの声に従いたいのか?と問う。 自分を引き上げるために、 あれこれ考えず、 目の前にいる出てきてくれたパターンへ そうだよね、って話しはじめよう。

先延ばしせずに

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今日も母のところに行く以外は、何もしない一日でした。 昨日と似たような感情が何度もあり、 主婦であるのに何もしないというのは(ご飯は作ったけど) ちゃんと家事をしなきゃというパターンがあるんだなあと実感。 でも、そういうパターンがあるなと思うだけで、 次に進んでいない。 夫に、「ごめん、何もする気が起きなくて」 と言って寝ながら連ドラを観ていると、 「いいじゃん、休みなんだから」 私のパターンをなぐさめるような言葉が~ 内心、ほっとするパターンがいました。 とりあえずだらだら過ごしていいという許可をもらい、 以前だったら、じゃあいっか~って そこで完結していただろうな。 でも今は、夫の反応ではなく、 自分の心の中はどうか? もっとさくっと、間を置かずに、 先延ばしせずに語りかけしていこう。 じゃーん 新しい辞書買いました!

単純なことに反応

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連休でだらだらと過ごしています。 寝てばかりいる自分に対して、 ふとどんな気持ちかと問えば、不快~そして罪悪感と不安な気持ちがありました。 家事をなんにもやっていない罪悪感。 そして、こうして常に眠くて重たい体を感じながら、 いろんなことが面倒くさく、年々動きにくくなっていくことへの不安。 そんな中、お風呂に入って思うのは、 気持ち良さ、解放感、リラックス、安心感。 安心感・・・? なんだか久しぶりの安心という感情だなあって思いました。 思い出せば、先日温泉に入ったときも、 夜布団で寝るときの瞬間にもありました。 そういう単純なことで自分って ゆるっと穏やかになるんだな。 いただいたパンで朝食

感情をみたくない

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どんな気持ちかと問うときに、 すぐにこれとそれ、っていう感じにパッと感情が出てこない。 ということがあります。 そういうときでも、 何かしらの違和感、不快感(快ではない) を感じているということだけはわかります。 自分の中でその違和感と不快感を認められると、 さらに、息苦しいとか、もやもやするとか、不安になるとか、怖いとか・・・ 自分の気持ちがだんだんはっきりと自覚できるようになっていくけれど、 自分の気持ちをはっきりとわかりたくないというパターンがいました。 どういう気持ちなんだろうって、 違和感と不快感の正体をみたくない。 後回しにしたがるパターンもあるんだと思う。 パターンだと気づいているけれど、 今はまだ感情を見たくないパターンです。 (何で今はまだ見たくないのか?) でも、少しずつ、そこに入り、 胸のあたりをさすりながら言ってみる。 正直に話しても大丈夫だよ。 どんな気持ちだった?と。 パターンでやっていると とにかくネガティブな感情がつきまといます。 でも、その時がまた来ない限り平気で日常が過ごせたりすると、 後回しにしてしまうんだな~ (そうするパターンがいるんだなあ) 連休に入っても、問いかけよう。 あきたこまちって、おかずが何でも合う

天日宮 あまつひのみや

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秋田の大仙市にある唐松神社に行ってきました。 樹齢300年以上の秋田杉が両側に並び、 細い道の参道を歩いていくと、 その先に下へ降りる階段があって、その下に神社の本殿がありました。 普通は、参道を歩いて行った先の階段を上がり、見上げるような位置に建てられると思うのですが、 唐松神社は見下ろすかたちでひっそりと建てられています。 とても珍しい祀られ方なのだそう。 階段から見下ろすと大屋根がしっかり視界に入ってきます。 神様(天)が上から人間を見ているということはあっても、 神様が私たち人間より低いところにいて見守ってくださるって不思議な感じでした。 地元の方たちが長い間、 この神社を守り大切にかくまっていたかのようにも感じました。 また、本殿に向かう手前には 天日宮(あまつひのみや)という神殿があり、 周りが池のようなおほりになっていて(美しい錦鯉も泳いでました) そこだけ別世界でした。 水に囲まれている様子が胎内を表しているようにも見えるし 古墳や城のようなかたちにも見える。 また、太陽や宇宙を表しているかのようでもあります。 丸い石を集めて規則的に造られた土台も、崩れないよう設計され手がけてありました。 神道の中では一番北に位置する神社がこちらで、 八百万の神ということになります。 奈良時代に物部氏ゆかりの神社として建てられ、 神主さんは物部氏の末えいの方なのだそうです。 八百万の神様って自然の中のあちらこちらに神が宿っていて、 ちょうど稲刈りがこれから始まるこの黄金色の季節は特に、 その恩恵を感じずにはいられません。 私たちの中にも外にも神様がいる。 もっといろいろ知りたくなる神社参拝でした。

ちょうどいい定食

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昼休みに定食を食べました(夜は居酒屋をやっている)。 肉か魚か、ミックスか、日替わりか、牛すじかを選べます。 焼き鮭、かぼちゃの煮物、ゴーヤの漬物、小魚の佃煮、ご飯、大根の味噌汁 これで1,000円。 食べ盛りの人には物足りないかもしれませんが、 私は食べすぎて眠くなる午後を考えれば、ちょうどいい量でした。 白米がすごく美味しくて、 鮭の塩気がちょうどよく美味しくいただきました。 この値段設定とメニューの種類。 なんかいいなと思いました。 女将さんが一人でやっているため、 食材が高騰している中、安過ぎず高過ぎず、 さらにお客さんも払いやすく店側も受け取りやすい千円札1枚。 これならやっていけると思い、決めた値段なのかな。 しかも、料理はお膳で運ばれてくるのです。 なんか武家のご飯を食べているかのよう~ 足が4つついたお膳は、テーブルを汚すこともなく、 ほとんどのお客さんが、カウンター越しに「ごちそうさまでした」と言って 手渡しして片付けています。 お茶とお水はセルフで、 お手拭きはテーブルの上にまとめてありました。 きっとお店を出すときに、 一人で無理なくやっていくには・・・って考えたのだと思います。 自分のやれることと、ここはゆずれないというところ、 そのバランスが大事だと思うし、 お店を出すからには、 一元さんではなく通ってもらいたいという願望もあるはず。 お客様第一なのか、 自分第一なのか・・・。 自分第一だからお客様も大切にできる。 (勝手にいろいろ想像する) 自分のしたいことと現実とのバランスを考えるって、 何をするにも大事なんだなあ。

祭りの音

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盛岡の秋祭りはずっと雨に見舞われ、 やっと晴れた最終日。 辛うじて山車を見ることができました(動いてないけど~)。 それだけでも嬉しい! 遠くの方からは太鼓や笛の音、鐘の音、 音頭の唄声も気持ちよいほど響き渡り聞こえてきます。 祭りの音を聞くのがとても好きです。 街中が浄化されるといったらいいか~ 神社でパンパンと柏手を打つときのような、 周辺の淀んだ「気」もパッと切り替わるような、 祓ってもらっているような。 心がすーっと洗われる感じがあります。 神さまが私たちの街を守ってくれていることを感じながら 家路に着きました。

欠けてはいけないこと

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今月も新たに 大学生 を迎い入れ、 自分はここから何を学んでいるんだろうって思います。 私自身も都内の関係機関へ出向き実習を受けたことがありました。 でもそのときはもうすでに社会人だったので、 学生のような初々しさは全くなかったと思う。 (おばさん頑張ってまーすという感じはあっただろうけど笑) 研修先でやっているような業務は、 初めてでわかりませんということもなく、 多少自分が知らないことであっても観察していると何を意図しているのかもすぐに理解できるため、 ここへ勉強しに来ているはずの身分を忘れてしまうような心持ちになっていったのでした。 勉強になることもたくさんあったはずなのに、 仕事のやり方の違いにばかり目がいき、 こうした方がいいのに何で?と、否定的に観察していたように思います。 自分の方が正しいというパターンで物事をみていた。 自分の方がもっと難しい業務をしているからわかるとか、 自分ならこうするとか、 自分ならそもそも、もっといい研修内容を実習する人のために考えるとか。 ホント恥ずかしい話ですが、 あらさがしのようなことをして、 何やっているんだ、あの時の自分よ・・・と言いたい。 表面的には教えて下さいという態度をとっていたと思うけれど(大人の対応)、 私の中身がそういうパターンで物事を受入れていたため、 相手も、この人には自分が知っていること全て教えてあげよう! とは、たぶん思えなかったでしょうね。 貴重な期間をあろうことに私はただ不満を抱えて終えた記憶があります。 だから今、自分を客観的に見てみると、 自分が普段大事に思っていることを学生たちへ惜しみなく伝えたり、 学生が学びたいことをもっと提供できないかと考えたり、 そして自分が学びたくて学生からたくさん話を聞いています。 でもそれは自分がそうしたいという思いと、 そうしたいと思わせる相手の姿勢がそこにはある。 その姿勢が見習うべき素晴らしいこと、 自分に欠けてはいけないことだと感じています。 初心忘るべからずの心です。 今後どんな学生さんが来ても、 たとえ、過去の自分のような心のありようで研修にのぞむ人だったとしても、 (そういう人いないと思うけど) 自分は自分自身のためにも、その方のためにも、 今の自分のあり方を確認するかのように 関わっていきたいなあって思うのでした。 明日もよろしくお願いします...

私の体の記録 終わり

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この病院に来ると20代のころをどうしても思い出します。 私のある意味、青春時代とも言える大事な人たちとたくさん出会った場所。 夜中に病室を抜け出し(なんたって20代ですから)、 誰もいない院内を歩き、静かになった外来の待合に寝てみたり、 元気そうに見えた友だちとは、 トイレで着替えをして喫茶店まで行ったこともあった。 本当に若いときの好奇心ってすごいし、 今より監視もだいぶゆるかったのだと思う。 おかげで、つらいだけの思い出ではなく、 それなりにこの状況を楽しもうという気持ちで過ごせていたのだと思う。 それでも、自分がこの世で一番不幸な人間かのように ガン治療にあたって先生にたくさん感謝もしたけど、 同じくらい文句も言っていました。 もう少し患者の身になってほしいと無理なことを考えていたし、 自分の知らないところで先生方が どんなに想像をめぐらし知恵を出し合い 最善の治療を施してくれていたのかなど、思いもしなかった。 だから呼吸器科の先生と今日で最後になるかもという日、 「いろいろ調べてくださって、本当にありがとうございました」 と心からのお礼を言いました。 先生は半分背中ごしで、 「はい、お大事にね」 と何らいつもの日と変わりなく返事をしてくれました。 その後~ 耳鼻咽喉科の先生からは、 手術は出来なかったけど悪いものではないし、 鼻の治療ってずっと続くけどそういうものだからと説明がありました。 励ますような、大丈夫だからと言いたいような。 魂からにじみでるような優しいことばをもらい、 それで充分だと思いました。 先生と言ってもまだ全然若いのです。 目にかかる前髪とロン毛の中から刈り上げがちらっと見え、 下半分は青くカラーリングしている。 パンクの人?と思わせる見た目と優しい声のギャップ。 その先生が 「気休めだけど表面のポリープだけ切ろうか?」と言うので、 何の迷いもなく切ってもらうことにしました。 その場で部分麻酔をかけ、 小指の第一関節ほどのポリープは、 歯を抜くときのような力がかかりグイっとちぎれるような鈍い音がした。 「あ~・・・喉に落ちそうだな・・・」 そう先生がつぶやいた時、 切り落とされたポリープをゴックン。 私、ポリープを飲みこんでしまったんです~~~(泣。 「あ~、生検に出そうと思ったのに・・・ま、しょうがないか」 「え~すみません・・・ それ...

私の体の記録②

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県立病院の耳鼻咽喉科に行ったときには、 もう手術の日程を自分で考え、 入院となったら一人の時間ができて、なんかゆっくりできるかもな~ 『入院=神からあたえられた休息時間』 などと、都合よく考えている自分(パターン)がいました。 しかし、 鼻という顔のほんの一部分の手術なのに、 部分麻酔ではなく全身麻酔が必要だということをはじめて知ります。 過去の私の病歴から先生は 「うーん… 取りたいですか?リスクがどれだけあるか、まずは調べないとね」 え、取るんじゃないの? 呼吸器科を紹介され、 思ってもみない展開へと進んでいったのでした。 全身麻酔ができる身体であるかどうか。 そのための検査がこれからはじまります。 30年以上も前の病気が、 今どのように私の体に影響を及ぼしているのか。 現在の状態を知れるということは、 自分の現実を知ることでもある。 それは心のどこかで願ってきたことだったように思いました。 検査は、まず肺機能に異常がないかどうか調べます。 CTに移った自分の変形した肺(正常な肺と並べられて説明を受ける)。 一部ヘチマのように固くなっていてもなお、 残された肺で今日までがんばってきたんだって思うと 自分を褒めたい気持ちになりました。 呼吸器科の診察室は4つあって、 自分の担当の先生だけ、診察スピードが極端に遅かった。 それだけ先生は患者と向き合い検査結果も受診もていねいだということ(と、受け取る)。 朝に来て夕方までかかって、 5時間以内で帰れた日は「今日は早い!」と思うほど。 あとは会計だけっていうときにも、追加検査を言われて戻ったり、 次の受診の前に、循環器科へ行くように電話がかかってきたり、 おかげ様で、疑うべきところはすべて診ていただいたように思います。 結局、私の息切れ・動悸(数値の悪さ)がどこからくるものなのか? 全身麻酔ははたしてできるのかできないのか? 先生が出した答えは、 「あと考えられるのは、喉の筋肉が麻痺しているか・・・ぐらいなんだよね」 で、それが大当たりだったのでした。 内視鏡で診てもらうと、 喉の声帯が半分麻痺して閉じられたまま。 もう片方の声帯が必死でなんとか動いているというより、 もがいているかのように見える喉の様子がありました。 これだったんだ。 この入口がいつからか半分になっていたことで、 呼吸がしずらかったし声が出にくかった...

私の体の記録①

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今日はここ2年くらいのところの 自分の体のことを記録しておきたいと思い書いてみます。 (とても個人的な話ですみません‼) 母の認知症もあって、仕事帰りに実家へ寄るという生活が、 ときどきから年中無休になっていった頃。 私の体は頭痛やときどきおこる動悸・息切れがあって、 ちょっと無理はできないなあって疲れを感じるようになっていました。 (見た目はいたって元気なんですが) 鍼灸にも通い、少しは調子がいい日もあるようなないような。 そうして何とか市販薬でごまかしていた2年前の冬 突然ひどい頭痛に襲われ・・・ それがインフルだったため、それをきっかけに かかりつけ医から頭痛薬を処方してもらって飲むようになりました。 楽になるからといってあまり続けて飲むと、 その副作用で頻繁にまた頭が痛くなるらしく、 かといって、我慢するタイミングを間違えると吐き気までしてきます。 こうなると1回の薬を飲んだだけでは治らず、結構しんどい。 ある日、薬局の薬剤師さんとの話から、 専門の頭痛クリニックがあることを聞きます。 その薬剤師さんも頭痛で仕事ができなくなるくらいつらかったのが、 そこへ行ってすっかり良くなったというのです。 そうか、専門のところに行くという手があったな。 期待しながら行ってみると早速CTを撮り、 お~さすが、専門医~(ますます期待感)。 画像を見て言われたのは、 「あなた、鼻がつまっていない?」 頭や脳の血管には異常はなく、鼻の異常を指摘されたのでした。 たしかに、鼻づまりは今にはじまったことではない。 この鼻声も、幼稚園のときから、 当時のアイドル桜田淳子さんに似ていると言われてきた筋金入りのもの。 頭じゃなく、鼻か!と。 頭痛治療もあまり気持ちがいいものではなかったので、 私が行くべきところは耳鼻科だと行く先を変えたのでした。 代々続く市内の耳鼻咽喉科は、 先代の先生の時に、父が副鼻腔炎手術をしていて、 その時入院中の父の写真を小さい頃に見たことがあります。 唇をめくってそこにメスを入れて、がばっと鼻までめくり上げ手術をしたと。 当時、父からその話を聞いてなんておぞましいことなんだ ととても怖かった記憶があります。 そのおぞましい手術をしましょうと言われたらどうしようという不安と、 (今は内視鏡でやるそう) でも父も祖母も縁があった病院だからきっと守ってくれるという願...

お知らせ 〜カウンセリング体験〜

今週末のお知らせです。 13日(日)10:15〜11:15やはぱーく会議室 60分カウンセリングの体験ができます。 今回は当日の申し込みもOKですので(但し1名様限定になりますが) カウンセリングってどんな感じ?とご興味ある方もぜひどうぞ。 不釣り合いな広〜い会議室でお待ちしております。 ★ ←こちらからご連絡下さい! この頃は悩み事はAIに相談する方が増えて、 生身の人間にはしないという方もいるみたいです。 それで解決できることもたくさんありますよね。 特に効率的、合理的な回答は得意分野ですし・・・ 私も仕事では使っていますが、 ちょっとこんな時AIに聞いたら何て教えてくれるんだろうと、 本当に些細なことをサクサクと相談したことがありました。 その時の答えの多さにもうびっくり。 さすがだなあ〜って驚きと、 どの答えも飛びつきたくなりました。 でも、本当にそれでいいのかと、 心から魂から、自分がそれをしたいのかと思うともはやそれらは借り物のような無機質さを感じ、 急に覚めていった体験があります。 もしもAIにどうしても聞きたいときは、 聞いた後にその最もらしい視点ではないもの 全く別の視点は無いか?と探してみるのも一つかもしれないと思いました。 飛びつきそうになったわりには、じわじわと何か違うかもと思った答え。 自分のそのアンテナを信じ、 今の自分がどうありたいのかに一番近いものを自分の言葉で探して創る。 カウンセリングってそういう自力で探す、感じ取る、 己を発掘するような場を与えられるような気がします。

ささやかなこと

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この頃、夕焼けがとてもきれいです。 帰り道、車の窓から眺めていると、 会社を出てから家に着くまでに ほんといろんな夕暮れを楽しめます。 数分しか経っていないのに 空がどんどん変化していく様子がわかり、 女心と秋の空ってこのことかと思ったりします(昭和の人だな)。 移りゆくものを見ていると、 今日の自分も明日には また違う自分として生まれかわっていくこともできるんだなって思う。 最近は、毎日語りかけてきた主力のパターンを、 曜日ごとに、一日1つにしてじっくりやってみています。 これがなんかとても新鮮でいいのです。 慣れているパターンも、 一週間経って新たなまた素直な主張も聞けることがあって 今はこのやり方がしっくりきています。 過去のやり方に引きずられることなく、 こうしてみたいなと思うことをそのまま試す。 その直感はなかなかいい線行っているような気がしました! ささやかなことで生まれかわってみています。

みじめさのなかではじめて生きる

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数ヶ月前までは、 今、何感じている?という問いかけを そんな一日に何度もできるだろうかと思っていましたが・・・ 不思議なことに、 そこに意識を向けることが今は日課になっています。 そうしたいという「私」の意思が、 だんだん練習と共に習慣化され、気づいたらやっているのですから、 できそうにない~という不安は「私」ではなかったんだなと あらためて思いました。 そして、意識を向ければそこが拡大されていくということも 本当にそうだよなあって思います。 『くもをさがす』西加奈子著 岩手クラスで今、まわし読みさせてもらっている本です。 西さんがご自身のガン体験を書いているのですが、 その本の中で湧き出た心情を、 誰かの言ったことばや話、 本に書いてあった文や曲の歌詞に換えて たびたび行間に太字で載せてありました。 あえてそうした表現をすることで 客観視したかったのではないかと思います。   みじめではない  と思いたい。  だのにひとは  みじめさのなかではじめて生きる。   (安水稔和 ー生存のための歌ー) その行間の文は、私にとって『魂に響く55の言葉』のようでもあり、 今、何感じている?の問いを 表現しているようだと思いました。 みじめだと思うこと(そういう気持ち)に正直になることは、 その中で生きている自分という人間を感じること。 感じて、感じて、やっと、 そこからどうありたいのか生き始めることができる。 またこの本からも応援されている自分です。 黄色と紫の組み合わせって、好きだー!

ほんの少し気分よく

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ふとした時に、見ていたTVドラマのセリフが気になったり、 開いたページの文章にはっとさせられたり、 義母が言ったことばにうるうるしてしまったり・・・。 パターンに飲みこまれそうになっても (いや、もう飲みこまれっぱなしだなという時も) 「私」をとり戻せと、 何かに応援されているような、 背中を押してもらっているような気がすることがあります。 そうして何度も何度も大事なことを思い出す。 ありたい自分ではない時も、その後にまた思い出すのだ。 結論を急がないように言い聞かせて、 うまくいかないこと(ってパターンが言っている)が続いても、 腐らないでやっていこうと、 散歩中の犬のまっすぐな眼差しを見て、また励まされたりする。 思うようにいかないのは体もしかりで、 まだまだ若いんだからと言ってくる人の声には耳を貸さない。 自分の体は、自分が思うただひたすら好きなことをさせたり、 または気になったことや少しの刺激を与えたり、 最低限のことだけやっては後は放り出してみたり・・・。 毎日何かしらの気持ちを感じ取るたびに、 体は体でバランスを取るようなことをやっているなって思う。 本当に健気な自分の体。 心と体はやっぱり1つでつながっていると思うから、 嫌だなと思う(パターンがね)心があっても、 その裏にはいいなとちゃんと感じられる心があるように、 体も不具合の裏には、 ちゃんと働いて自分をいつでも元気にさせることができる細胞もある。 明日のことを考えずに、 今日だけをほんの少し気分よく過ごすためのことをやっていこう。 プラスチックのお皿が「こういう日もあるさ~」と言ってくる

「私」の管理監督

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思い通りにいかないことが起こると、 その時は、イラ立ち、怒り、不安、悲しさ、 面倒くささといった気持ちが湧きおこります。 ああ、こういう気持ちになっているんだなと 「私」はパターンを観察していますが、 ただ、そう思っているんだねという共感だけではなく、 「私」がしっかり管理監督をしていくことが大事なんだと思いました。 それが何のパターンなのか考えることでもあり、 そのパターンを代弁したり、白と黒の入れ替えを試みてみたり、 白の感覚を保ちながらこれからの選択をし、 それに見合った、どうありたいのか?を実践へと移していく。 その一連の流れを管理・監督していく「私」がいて、 時には「だまりなさい」をピシャっと強く言ってみたりすることもあるし、 もう頑張らなくてもいいんだよと、 すべてそのままでいいと全信頼を寄せてゆるすということもあります。 今日は、 オブラートに包まず伝えることを選び、 伝えた上で、どうするのかをその場で感じてみることをしました。 事の結末、ゴールを設定せずに、 言った後にまた感じてみようと流れに任せました。 結果的にどうだったのかというのも今は分からないし、 良かったとかダメだったとか何もないと感じます。 ただ、それが言えた自分で良かったと思ったことが 一歩階段を上がって今までと少しだけ違う景色が見えた・・・ような、 そんな気がしました。 思い通りにしたいと思っていることを自分自身に許せた気がします。 穏やかさ、落ち着き、ほっとする感じ。 そして、またこうやっていけばいいのかもしれないと思う 希望を感じます。 日が暮れるのが早くなりました

頭が働かないとき

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今日はあまり頭が働いていないなって感じていました。 午後から外出の予定があり、 目的地にだいぶ早く着いてしまい車の中でぼんやりしていました。 今度はぼんやりしすぎて時間に遅れそうになり、 30人ほど集まった場所で、空いていたのは一番前の席だけでした。 お昼を食べたばかりの私は、 どうか居眠りしませんように・・・と思いながら話を聞きます。 質問ある方は?と聞かれましたが、 会場はしーーーんとして誰も手が上がらず。 ふいに聞きたいことが浮かんできて、 大したことない質問をしてしまいました。 でも、その質問のおかげで、 自分自身が何かとてもいい感じに力が抜けて、 その後はリラックスしてその場にいられました。 終わってから以前一緒にお仕事をした方を見つけ、 〇〇さーーーん、って声をかけると、 その方も、お~久しぶりだねと、 いろいろ昔話に花が咲きました。 それがとても楽しくて嬉しかった。 今日の出来事どれも、 考えて考えて取った行動ではなく、 成り行きに任せた中で全てが丁度良く、 しかも爽やかに過ぎていったように思いました。 意図せず、作戦を考えず、どう思われるのかを気にせず、 そうやって瞬間的に行動したことって自分にとって 最良であることを思いました。 どうしてこんなふうに落ち着いた自分であったのか? なんてこともしつこく考えないように・・・ また感じたままに自分を置いていきたい。 かぼちゃプリンが美味しい

頑張る自分

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頑張ることについて意味付けを考えてみました。 一般的にはプラスの意味の方が多いと思うので、 まずはプラスを考えます。 ⊕ 強い意思力、自分の中での納得、正々堂々、尊いこと、達成感、無心、何かを得ようとしない、全力投球の体験、自分の限界を知る、勇気を使う、頑張れる環境があると気づく、頑張っている人の気持ちがわかる 中立は、ただ一つの事象。 ⊖ 無理がある、疲れる、表面的だったりする、他者へのアピール、認めてもらいたい行為、報われないとがっかりする、何かを得ようとする、周囲が見えなくなる、常に焦っている、自分の本心が見えなくなる、こだわり、頑張っていない人を責める、頑張れない自分に落胆する、能力があると勘違いする 頑張ることにちょっと無理があったとしても、 やろうと思えば何とかできてしまうことから、 自分はできると思ってしまうパターンがあると思いました。 できると思いたいからやっているわけではないけれど、 頑張っていることにも気付きにくい。 でも、その「できる」の中身は、 余裕があって清々しい気持ちで楽しんでできているならいいけれどー、 黒パターンでいうところの「頑張る」だから、 結果もそれに見合ったものが返ってくるのだと思う。 だったら、「頑張らない」ことを選ぶというのもありますが、 またそれも黒パターンでの頑張らないになってはいないだろうか・・・ 無心でやりたいからやっている。 自分を守り、自分を引き上げる頑張り。 そういう感じで頑張ってみたい。