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あたたかな気持ち

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先日、お天気がとても良かったので、訪問先へ早めに向かい、 少し遠くの駐車場に車をとめて歩きました。 あっという間に今年は紅葉がきた感じがあります。 山の紅葉を見に行こうと思っていたけれど、 もうとっくに里にも鮮やかな色の木々が目にとまるようになりました。 本当に見るものすべて、陽の光を浴びた自然の色って美しいです! 今年は、ニューヨークタイムズの記者に選ばれた街ということで、 たしかに外国人の方や観光客の方を見かけるようになりましたが、 やっぱり盛岡は盛岡で・・・ いつもの山、いつもの川、いつもの街並みで、 のんびり四季を感じる風景はほっとしますね。 自分が仕事のときに、 ラフな格好で休日の街歩きをしている風の人を見かけると、 「どうぞ、たのしい一日になりますように!」って、願う自分がいます。 そして、 自分が休みのときに働いている人たちを見ると、 「お~、今日もお仕事がんばってね」 とエールを送りたくなってしまいます。 こうして人間ウォッチングをして散歩しながら、 また自分へ意識をもどし、 あたたかい気持ちでいっぱいになっているなあと感じる。 このいい感覚で、 今日もいってみようと思うのでした。

その声は・・・

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昔、ほとんど声が出なかった期間があり、ふとその頃のことを思い出しました。 話すことにとてもエネルギーを使っていたなあ、と。 声がかすれる、呼吸がしずらい、咳がでる等々。 病気の後遺症なのですが、 なかなかあきらめきれないものがありました。 当時は、ナースコールで呼ぶにも看護師さんは私の声が聞き取れず、 一年くらいは、話の途中で何度も休憩をとっていたような調子でした。 そうなる前は、単なる声を出す、話す、というあたり前のことに、 意識を向けることなどなかったと思います。 でも、今は昔とは比べものにならないくらい出るようになりましたが、 人前で話すことがあるときは、 いつもより少し無理がかかるため、 自分の全神経がそこに注がれる感じがあります。 『がんばって声を出すぞ』と、勝手に体が集中するような感じです。 先日、いつも声が小さい方に、 就労支援の場面で指摘しなければならないことがありました。 もっと相手に聞こえるように意識して話さないと、 それは話していないことと同じになってしまうよ・・・と。 自分が声が出なかったときにいやだったことは、 身体的な苦しさや、音としての声質もいやだったですし、 人と意思疎通ができなくなることもつらかったと思います。 聞き取れなかった相手は、 だんだん聞き返すのも面倒になって、 話すことをあきらめてしまうこともあるし、 自分も、ま、いっか・・・であきらめるようになる。 そんなふうに周囲との関係性が悪くなってしまっては、 と思い言ったのですが、 自分がちゃんと声を出したい、相手に話を聞いてほしい、 と本当に思わなければ、それはできないことかもしれないと感じました。 声への指摘って、なぜかしずらかったりしませんか?(自分もたまにある)。 声が小さくて全然聞こえなかった~ って後から聞かされることがありますよね。 自分の耳が遠いだけなのか、 話を折ってはいけないと思うからなのか、 それとも、声は体の一部であるからそこを指摘するのは失礼なように感じるのか? 全部パターンが思っていることです。 また、声が小さい人は、比較的耳がよいというか、 聞こえるという感覚が過敏な人が多いようにも思います。 だから、自分自身も小さな声で十分聞こえていると感じているかもしれません。 どんな声の人であっても、その人の話を聞きたいのかどうか、 自分側の問題なのでしょう...

快から不快に転じるとき

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自分の感情がわからないときに使う、 「快」か「不快」か?という問いかけですが、 これは、対人にも言えることで、 自分にとっていい感じの人なのか、そうではない人なのか? と直観的にざっくり分けられていたりします。 自分にとって「快」と感じていた人が、 一転して「不快」に感じてしまう・・・ということがあるのですが、 それは、ほとんどの場合、相手が(状況が)自分の思い通りにいかなかったときです。 そもそも、人は、 自分の思い通りにいかないことに対して、 怒ったり、悲しんだり、寂しがったり、もやもやしたりしているんだと思います。 かたや思い通りにいかなくても、 まったく気にならないということもあります。 それは、相手に何の期待もしていないとき、しなくてもいいときかもしれません。 人に何かしらこうなってほしい、こうなるだろう、 という思惑はすべて、 そうでないと自分が困るようなことがあるからです。 そして、ひそかにどこか人に対して期待をしているのです。 人間関係を不快なものにしたくないというより、 自分の気分がよいようにしたい(自分を不快にさせたくない)。 だから、自分の思い通りであってほしいのだ。 人がどんなパターンを持ち、どんな選択をしていくのか、 そこにもちゃんと自由意思があります。 その意思を否定し、自分のパターンで、こうあるべきだと、 コントロールしようとしていた自分がいたんだなあと思いました。 これも、感情が動かなければ気づけないことでした。 いくら、その人を理解しているとか、 その人を尊重してきたとか思っていても、 自分のパターンに触れたとたん、感情が暴れだすということは、 ただ単に、今までは、 その人が自分のパターンにたまたま引っかかるようなことをしなかった、 だけなのかもしれません。 感情は正直なので、他人には気づかれなくても「私」はちゃんと冷静に観察しています。 ●自分の思い通りにしたい というのは、黒パターンの王様。 このパターンが、人としての苦しみの根源としてあり、 これがいろいろ、パターンの名前を変え、すがた形を変えて現れるのです。 でも、この王様パターンのとなりには、 〇自分の思い通りでなくても、もういいのかもしれない もあります(相反するものがある)。 もしも、思い通りでなくても自分が大丈夫であるのなら、 そこには自由があり、すがすがしい関係性が...

怖いときこそ

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自分が体験していないことをやるときは、恐怖心が伴います。 その分野が苦手なものであればなおさらです。 どんなものが自分を待ち構えているのか。 想像ができないから怖い、ということもあるけれど、 最悪な結果ばかり想像しているから怖い、というのもあります。 その体験によって、もしかしたら失うものがあると、 先の先まであれこれ考えてしまいます。 これまでのことを振り返ると、 時に、怖いもの知らずのような行動をとることもあったけれど、 苦手なものに対しては、 あの行動力はどこに行ったんだ? と思うほど、怖気付いてしまう自分がいます。 できればしたくない、避けれるものなら避けたい。 でも、やらなきゃならないんだったら、 なんとか、傷つかないように、 失敗体験をもうこれ以上したくない。 (はじめから失敗確定にしている) だからひたすら、準備だけはやっていく・・・ というところで納得するようにしてきたんだなあと思いました。 でも、やっと、やっとです。 怖いから避ける、という選択ではなく、 だからこそやってみよう! を、選べたことは、 自分にとって大きな一歩でした。 それはもう、準備とかの問題ではなく(ある程度はやるけど)、 考え方をスパッと変えられたわけではなく、 ただただひたすら、 自分にとっての『いい感じ』を思い出していく。 その感覚に一日に何度もひたり、 いい感じで仕事をし、 いい感じで家で過ごし、 いい感じで歩き、 いい感じで夜、布団に入る。 やればやるほど心が落ち着き、 どんどん心が軽くなっていくのを「私」が感じていました。 本当に、そこだけに意識を向けていく。 拡大させたいものを、「私」って知っているのかもしれません。 それでも時折、 恐怖心からやってしまいそうなこともあり。 でも・・・やらない。 恐怖心では、もうやらない。 その手には、もう乗らない。 と「私」が決めます。 こうして、いよいよ、 怖いと思っていたことに自分が飛び込んでいくとき、 やはり緊張には緊張でしたが、その感じは、 不快ではなく、楽しもうとする「快」の感覚でした。 怖いもの、苦手なものは、 これからもたくさん出てくるのだと思いますが、 そのたびに、また一歩、新しい世界が開けていく。 こういうことへのおもしろさが、やはり自分は好きかもしれません! 白玉っておいしい

自分だけのパイプ

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AKIRA FUSE LIVE TOUR 2023-2024 ~刹那の夢がたり~ とてもいいコンサートでした。 刹那(仏語)というのは、時間の最小単位だそうで、 ほんの一瞬の時間でも、 どうか幸せをあなたに感じてほしい・・・という思いを込めたタイトルだそうです。 布施明さんは、最近とても気になっていた歌手のお一人で、 みなさんもご存知(って、平成生まれの方は知らないかな)、 ♪君は薔薇より美しい という曲が、私本当に大好きなのです。 50年前と変わらず、同じキーで歌っているという歌唱力は、本物です。 この一曲をどうしても聞きたくて行ってきました。 年齢をまったく感じさせない、声量。 ある意味、人間ってこんなに可能性がある生き物なんだと、 びっくりするくらい鍛えられた美しい声。 魅了されました・・・ 外国の曲なんて、もうオペラ歌手のよう。 とにかく一曲目から、涙が出てしまい感動しっぱなしだったのですが、 でも、もっと感動したことが実はあったのです。 それは、コンサートのさなかに見た、まさかのまさか・・・ 布施さんから天に向けてのびている『天と人をつなぐパイプ』です。 もちろん、幻想ですが、 まっすぐ突き抜け、美しく神々しい光を放ちながら、 天井高くのびる一本のスポットライトは、まさにそれでした。 こんなふうに、まっすぐに、 どこまでもどこまでも続いているんだ・・・そう思わせる光。 私の体からも出ているし、会場の人たちみんなにもあるもの。 そう思うと、今日ここに来れたこと、 歌を聞けたこと、パイプを感じられたこと。 そのすべてが、自分へ用意されたものだったんだと思わずにはいられませんでした。 今、舞台で歌っている一人の歌手のように、 自分も、舞台に立って、 自分にしかできないことを日々やっているのか!と思うと、 そこにはたくさんの、自分を守り導いてくれる者たちがいることを、 感じずにはいられないです。 今回、コンサートに来れたのは娘のおかげです。 チケットを買おうかなと思ったときには、もう残りあと数席だけ。 しかも後ろから3番目の列だけしか空いていませんでした。 自分が聞きたい曲は一曲だけ。 (実際は、全部よかった!) あの曲を聞きたいがために行くのってどうなんだろう・・・ そう迷いはじめた私に娘が、 「いいじゃん!それを聞きに行ったらいいじゃん」 と、なんとも軽い感じ...