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どこまでも歩こう

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休日は喫茶店によく行きます。 でも、以前と少し変わったのは、 行きたいお店まで、家から車ではなくなるべく歩いて行くようになりました。 運動不足は今はじまったことではないのですが、 わたしの周りでなぜか健康ブームが到来していまして(筋トレ、自転車通勤、ランニング等々)、 軽くヨガをすること以外、全く運動らしきことをしないわたしも、この波に乗ろうかと・・・。 最初は、「どれどれ、盛岡駅から歩いて帰ってみるか~」と軽い気持ちでした。 しかしこれがなんと情けないことに、 半分も行かないうちに足が痛くなり、 何だかお腹も痛くなるし(完全に身体が驚いている)、息はあがるしで、 ちょうどいいタイミングでやってきたバスに迷わず乗り込んだのでした(完全にモヤシだった)。 確か数年前は、駅近くでお酒を飲んだ時、酔い覚ましにと歩いて帰った記憶があり、 あれは酔っていたから家まで到着できたのかどうか分かりませんが、 とにかくその頃から比べて、足腰が相当衰えているなあ~と感じました。 これはやばい・・・ということで、 今日も、お目当ての喫茶店を目指して歩きました。 まだ足は痛くなったり、息もあがりますが、ちょっとずつ疲れにくくなってきた感じです。 スマホにキロ数と歩数が表示されるので、 数字を見ると俄然やる気も出て楽しくなってきています。 普段、どこに行くにも本当に見事に車ばかり。 この調子でいくと、たまに東京なんぞ行ったもんなら、駅の構内で力尽きてしまいそうです。 まだまだたくさん行ってみたい場所もあるし、 ちょっと遅い気づきではありますが足だけは鍛えていきたい。 それにしても、歩いていると車ではまったく見ていなかった景色が広がりますね。 場所によってお店の匂いや何か植物の香りもふいに漂ったり、子どもの声、鳥の鳴き声、生活の音も聞こえてきます。 途中、公園で一休み。 今日は、落ち葉の上をかしゃかしゃ歩く音も心地よかったです。

パターンにはできない

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●平気なふりをしてはいけない というパターンの頭のままに人と接してしまうと、 平静を装うあなたは間違っている、 だからこうした方がいいああした方がいいみたいな言葉が出てきて、 単なる説教になりかねない。 相手の苦しさを何とかしてあげたいと思う気持ちがあったとしても、 「平気なふりは苦しいでしょう」 「無理しない方がいいよ」 と、優しい言葉の裏にも相手のやっていることをどこか批判したいのだということがわかる。 よく言われる課題の分離で考えたとしても、 他人である自分には本当は何の関係もないこと。 その方がどんな態度で臨もうと(平気を装うのか、ありのままでいくのか)、 それは自分の問題ではないとわかる。 けれど、 自分の問題としてそこに注目してしまうのは、 相手を見て感じるこの胸のざわざわがあるから。 自分の中で起きている確かな動揺に、いろいろ考えずにはいられなくなってしまうのです。 例えば、課題の分離は頭でやっていることで、 パターン(胸のざわざわ)は心と身体で起きていることだから、ここには嘘をつけない、ということでもある。 もしも、パターンに引っかかっているとすぐに気がついていたら、 相手に何か言えるような状態ではないと、自覚することが必要だったかもしれません。 自分のパターンのケアして、心を定めていくことの方がずっと大事だったんだと思う。 心が定まったら、自然にいいと思える言葉(その人にかけたい言葉)が出てくるものだし、 そうやって言葉と共に、純粋な気持ちも伝わっていったと思う。 ただただ話を聞くということは、 パターンにはできないことなんだとあらためて思いました(表面的には聞いてるようにできたとしても)。 だからさ〜とか、 それで本当にいいの?とか、 わかるわかる、わたしも経験してきたよーとか、 心の内ではなんと、耳障りな合いの手が入ることか。 このあたりの違いをはっきりと感じ取りたいものです。 「感じる取る」ということは、とてもシンプルなことだからそこに理屈はない。 もう少しこのパターンには語りかけていこうと思います。

平気なふりをしてはいけない

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とても具合が悪いときでも無理をして働き、 無理をして人と付き合い、無理をしてそこに行く。 どうしてそこまで?と悲しいとか可哀そうとかいうより腹が立ちました。 返ってきた答えに、またわたしのパターンはざわざわ・・・。 「だって、できない人だと思われたくないから」 もう何十年とそうやってきたので、 そうでなければ他人から認められない、 というものが信念としてあるようでした。 自分もかつてそういうパターンがあったし、 そうしなければ生きていけない、生きている価値がないとすら思っていましたから、 すごくよくわかる。 でも、もう少し掘り下げていくと、自分はその人の何にざわざわしたのか? パターンにスイッチが入った瞬間はどこか(どの瞬間で感情が動いたか)? かつての自分を見るような人が目の前に現れたとき、 パターンが一気に騒いだ。 それは、無理をしていること自体にではなく、 平気なふりをし続けているその方の表情を見たときに、感情が動いたんだと思いました。 つまり、自分もそんな表情をして、大変そうに見えないように神経をめぐらし、 本当は深呼吸もできないほどに苦しいのに、 全然平気にやっていますよという仮面をかぶり、演じていたからです。 そのときのつらかった感情、自分を責める自分がまだそこにいたんだと思いました。 かつての自分。 と過去形にしてしまっていましたが、 できない人だと思われたくないために平気なふりをして、 一生懸命頑張っているパターンは今も生きているんだなと思いました。 そしてそのパターンが、平気なふりなんかするんじゃないと正論で言ってくる。 気がつくと、 自分はその人を前にして(鏡にして)パターンだらけでした。

どう思われるかの世界

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人からどう思われているか気になってしかない、という方は多いと思う。 というより人の目が全く気にならない人などいない、人間ですから。  どう思われるか、というのは、 嫌われたくないとか、いい人だと思われたいとか、 できる人だと思われたいとか、バカだと思われたくないとかいろいろあると思いますが、 それは、これまでその方がどんな体験をしてきたか、 そこでどんなことを他人から言われてきたのか、 自分はどんな思い(感情や感覚)をその体験で抱くことが多かったのか、 そうなりたくない、傷つきたくない、という恐怖から逃れたいために生まれる感情と思考なんだと思う。 他人がただあなたのことを勝手にそう思っているだけなのだが、 それが自分のすべてとなってしまい、他人に自分という人間を決めさせている状態。 そして、本来の自分ではなくてもいいと、そう思われるために必死に演じている場合もある。 本当は違う意見を言ってみたいけれど、 出しゃばらない人、協調性がある人と思われたいから本当の自分を抑えたりする。 自分を知られたくないと思うときも恐怖は生まれている。 どちらにしてもやっかいなことは、 どう思われるかと考えることが呼吸をするかのごとく、自分の一部となり、 そう考えることに何の疑問も違和感も持たず、それが自分の性格なんだと思い込んで生きているということ。 そうならない自分(気にとめず生きられる自分)は自分ではないかのように信じているのだ。 どうしたら、その世界から抜け出せるのか。 その世界は、本来の自分のありたい生き方を取り戻すために、気づいてもらうために見せられているのだと思う。 だとすれば、もうここの世界は充分やり尽くしたと思えるかどうか(もうわかりました〜って)。 他人を気にしない日はないかもしれないけれど、 他人とは関係なく生きてみたい自分がいることを感じられる時も必ずあると思う。 一人でいるときのすっかり安らいでいられる自分、 何かをして楽しくて大笑いしてしまう自分、 失敗したけど、まあがんばってるなあと身体をさする自分。 どっちの感覚を持って生きたいのか、ふと立ち止まり、 どちらが心地よいのか無理がないのか感じてみる。 それは、こう思われて良かったという恐怖から逃れた安心感ではなく、 こう思われたことに傷ついたから、今度はもっと気にかけて生きようとがんばることでもない。...

いつでもひたれる

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山から帰ってきて里(街)に戻ると、日に日に色づく木々に目がとまります。 あの壮大な山並みの景色 をまた見たいなあと思っても、なかなか簡単には行けませんが、 いつもの歩きなれた見慣れた景色にある小さな紅葉を見て、時間差を楽しんでいます。 一度覚えた気持ちのよい感覚は、いつでも思い出すことができるし、 そこに居るような気分になり、 そのときのほっとするような気持ち、うわ~きれいだなあっていう感動も一緒に今にあります。 そして、その気持ちのよい感覚を持てた時間、 その時間を持てたのは、自分がまずは健康な身体であったからだし、 家族も健康でいてくれたのでその場所へ行けたということで、 いろんな人の協力があって自分はあの景色を見に行けたんだなあって思いました。 楽しいことは一瞬で終わる・・・というのは、思い込みだったかもしれない。 そのときの気持ちを充分に体中にしみこませ、味わい、本当に心地良いと思ったら、 結構それは持続可能なものなのかもしれないです。 その感覚はいつでも思い出せるし、 いつでもひたれるし、場所や状況を問わず感じることはできるのだと思いました。 旅行から帰ってきてからの現実とのギャップというものも、 確かに機械的に習慣的に何かをすることが次々とあることもあるのですが、 どんな自分の状態でそれをやるかは選択の余地があります。 今日は朝から雨ですが、 雨に濡れた山もしっとりしていいだろうなあと思いながら目覚めました。