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ちょっと時間をおく、離れる

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悩んでいることがあるとき、 何を悩み、恐れているのか、自分に向き合うことは根本的なところで大事なことですが、 そこからしばし離れてみる、ということもちょっといいです。 完全にそちらへ頭が働かないようなことをしてみると、再度思い出したときに、前とは少しだけ違う感覚・感情を持った自分がいることがあります。 わたしの場合は、特別なことではないのですが、 ひとりで喫茶店に行ったり、ヨガしたり、本を読んだり、料理を作ったり、片付けしたり、などなど。 仕事での悩みのときは、それとは関わりのない方の仕事をやるというのもあります。 対象が人の存在そのものであれば、 物理的に距離をおく、そばに行かない、言葉をかわさないということもできます。 そうしているうちに、前と少しだけ変わることは、深刻さが感じられなくなっているということ。 あれだけ、自分の体全体にかけめぐっていたものが(これはパターンにのみこまれている、ということだが)、 全部がそれじゃないという感覚というか、少なくとも頭に酸素がまわっているような、 深呼吸がしっかりできるような感じになります。 一気にどうにかしようと、早く楽になりたいと思ってしまいがちなのですが、 ときどき、このちょっと時間をおく、離れる、ということが、自分に向き合う準備を整えてくれる手助けになってくれています。

実は奥が深かった

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年をとると、子どもに戻っていく、と言われます。 口から出てくることばや、行動がとても大人とは思えないなあって、私自身も母をみていて感じることがあります。 母は80を超えていますが、この年齢になると、本当に思い通りにならないことが増えていきますよね。 体一つとってもそうだと思います。 頭で分からないことや、今までできたことができなくなったり、 一年ごとに困ることが増えているのだと思う。 大人という理性を身につけた存在を意識して動けているうちは、 体の動きは変わっても、 相手を気遣ったり、自立した行動をとったりできるのかもしれません。 周りに気を配れる状態であるということ。 それがいつしか、周りよりも、自分自身のことで精一杯になり、 今、一番困っている自分をどうにかしたいという気持ちが、ことばや行動となってあらわれているのかなあと思います。 母から、何度も同じ内容の電話がかかってきて、 「そうか、そうか、わかったよ。大丈夫だよ」 と、何回でも言ってあげられたらいいのですが・・・ 自分に余裕がないとき、 同じことばであっても、気持ちがまったくこもっていないと、たぶんわかるのでしょうね、 その不安を母は手放すことができずに、何度も同じ話を繰り返して自分を落ち着かせようとしているように見えます。 わたしの返すことばや態度で、母が不安になったり安心したり。 こんなにわかりやすいと、話を聞くというやり取りをもはや適当にはできません。 わたしのそんな日常が、役に立つ?ことがありました。 相手は、何度か同じ話を困惑しながら話していました。 そのたびに、「そうじゃないですよ、本当はこうですよ」 と教えてあげること二度三度・・・ やっと話が通じたとき、側で見ていたもう一人の人が、 「よく、何回も同じ話を説明できるねー」 と、自分のようにはたんたんと話せない、と感心していました。 そうなのか、母といつもあたり前にしていることってこういうことか。 このやりとりって、確かにはじめの頃より、腹を立てずに落ちついて繰り返せるようになってきているのかも。 やっぱり年寄りってすごい・・・年寄りから教わることは深い、と思いました。 子どもに戻っていくといっても、どこかたくましさを感じる母。 わたしに与える影響は、わたしがたくましく...

軽い気持ちでさくさくと

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何年かぶりで、前髪を切りました。 後ろで髪を束ねられるくらいまで伸ばしていたのですが、そろそろこのスタイルにも飽きてきて、 ほんの少し切ったら、なんかとてもすっきりしました。 でも、この前髪、切りたいと思ってから一年かかりました。 遥か遠い昔、高校生だった頃、 ヘアスタイルって結構、その日一日の運気を左右させるほどの、重要度がありました。 特に、「前髪いのち」という言葉がはやったほど、前髪の長さは大事。 朝は鏡の前で遅刻ぎりぎりまで格闘し、友達を待たせておいては、そのあと猛スピードで自転車をこいで学校へ行っていました(あのころ付き合ってくれた友人って、今思うと偉い)。 それが・・・年齢と共に、したい髪形というより、手入れが楽な髪形へと冒険心がなくなってきているように思います。 たった、前髪を切りたーい、と思っただけなのに、一年も放置していた自分にびっくりです。 女性は見た目のところでモチベーションをあげたり、気持ちを変身させたりするのが上手いと言われます。 そういう単純さって、ちょっと最近遠のいていました。 これから、この単純さを復活させていきたいなあって思います。 ヘアスタイルのように、ちょっと変えてみたらちょっと気持ちが明るくなった、ということは日常にあふれています。 でも、そのうちやろう、来るべき時がきたらやろう、という『とくに変わらなくてもいい癖』もついています。 冒険は進んでしなくてもいいというか、 変化して得られるものへの期待よりも、現状維持への安心のほうが勝ってしまっているのでしょうか(これもパターン)。 もっと軽い気持ちで、さくさくと、 やってみたいと思うことをやればいいですよね。 ひらめいたことや、何となく良さそうなことも、重く考えすぎてしまう前にさくっと。 変化といっても、ちょっとしたところを生活の中に取り入れてみて、いつもずーっと同じになっていることがあったら、そこを変えてみるとか、 停滞しないように、よどまないように暮らしていきたいです。

時間をかけて

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生まれて初めて味噌をつくりました。 安代(岩手の左上のほう)にある 麹屋もとみや さんの『こうじ南蛮』がすごく美味しくて、 その後、『麹ソルト』にもはまり、 つまりは麹屋もとみやさんのファンになり、味噌も作りた~い、となったのでした。 行く途中、先がまったく見えなくなってしまうほどの猛吹雪にあい、ひさしぶりに真冬を実感しました(さすが、安代)。 お味噌の材料は、大豆(ユキホマレ)、米麹、水、塩。 この麹が米なのか、麦なのか、豆なのかで、米味噌とか麦味噌とか言い方が変わってくるのだそうです(知らなかったー)。 大豆はやわらく蒸かしていただいたものを、ぎゅっぎゅと手でつぶしていきます。 これがなかなか力が必要で、すべてをつぶしきれない、が無心でやる。 そういえば子どもの頃、味噌汁を飲みほすと、お椀の底にのこったこれ(豆)を食べるのが好きだったなあ、と思い出しました。 あのときの、お椀の底にあったもの・・・この過程でできるものだったとは。 できた味噌はただしょっぱいだけで、白っぽくて、まだまだ若いねーという感じです。 ここからタンパク質が分解され、甘味が少しずつ出始め、時間をかけてうま味へと発酵、熟成されていくのだそうです。 人みたいですね。 一年半後が食べごろみたいですが、家の環境によって変化するので、首をなが~くして待つことになります。 参加された方の中には、毎年つくりに来ているベテラン主婦の方や、なんと東京から来ているという男性の方もいました。 「大丈夫、ほっておいても美味しくなるからね」と、初心者組のわたしと娘に、みなさん自信もって言ってくれました。 その家にしかない味が出せるのは、その家に住む人の手で仕込みその場所で寝かせた味噌ですから、家族みんなの口に合うのはあたり前なんだそうです。 それを聞いた娘は、自分の分をアパートに持って帰りました(自分の口に合うように、ってことで)。 感動しまくりの体験教室でした。 帰りに食べた味噌ソフトも、キャラメルみたいな味がしてすっごく美味しかったです。 味噌も醤油もお酒も、この麹によって作られるんだ、と思うと、 麹って体にはいいし、日本人の口にはあうようになっているし、ほんと素晴らしいですね。

他人の反応が気になる

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このところ毎日、V字になって飛び立つ白鳥の群れを見かけます。まだ2月なのに。 白鳥たちも、季節のペース早いなあって感じながら飛んでいるのでしょうか。 少し心配になりつつ、 元気でね~と手を振って見送る。 最近、パターンが膨れ上がっているなあ、と思うことがあります。 周りと違う意見や気持ちを打ちあけたり、 今まで話してこなかったようなことを話してみたり、 不特定多数の人に自分の体験を伝えたり、 意識的に自分から話す、ということをしていって(まだ数にすれば少ないが)、 いかに自分は、他人の反応が気になってしまっているか。 発信すれは、何かしらを受信する。 その受け取る何かしらを、気にしているパターンがあるのですが、 ●批判されたくない ●嫌われたくない ●褒められたい 等々 これらが以前よりも、大きくなっている感じがしました。 発信した後に、相手の反応を見て、聞いて、何だか胸がざわざわしてくる・・・ ということなのですが、これは結果であってー 本当はすでにもう発信する前に、何かしらのパターンが存在していた。 その存在を薄々感じながら進んだ結果、話す前のざわつきを(このざわつきを無いものとした結果)、ただ一層大きくしてしまった。 原因と結果の法則。 小さなパターンをちょっと軽視している感じがありました。 それから、『発信する』などという言い方もなんか固い・・・と最近感じています。 伝えることに力入りすぎていたように思う。 もっと肩の力を抜いて、純粋に、素直に、等身大の自分になって再びやってみよう。 湧き上がるパターンはちゃんとケアをしよう。