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8月, 2025の投稿を表示しています

「国宝」観てきました

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やっと話題の映画「国宝」観てきました。 その日の夜は興奮冷めやらぬで、 繰り返し映像が頭の中に出てきて眠れず、感想も、一言では言えず・・・ 感動したとか、美しさに圧倒されたとか、すごい俳優陣だったとか、 それらもそうなんですが~ もうストーリー全部がなかなか忘れられない作品だと思いました。 まるで映画館が舞台になっているかのような、臨場感でした。 この役作りのためにどれだけの努力を積まれたのだろうって思ったし、 見終わったときに、本当にあった話のような現実味があって、 しばし茫然としてしまいました。 この茫然とした感じは、 「快」か「不快」かといったら、「快」ではないなあと思った。 何か胸が締め付けられるような苦しさというか、怖さというか。 凡人の自分にはまったくかすりもしない、 波乱の人生(天国と地獄)のすごみです。 映画の中では(内容がわかってしまうかも~これからの方はご注意を!) 主人公の生い立ちから心の葛藤は激しく、 芸の道を究めるために非道な道も選ぶ。 その波乱万丈さすべてが芸の深さにつながっていくのですが、 それが自分としては、 そこまでの覚悟をもってしないと何事も成せないのかと、 そう思うと怖いと感じたのです。 昔、カウンセリングの先生が、 出来る限りのつらい体験、絶望の体験をしていたほうが、 クライアントに寄りそうことができると言われたことがありました。 それに似ているというか、 そういう強い覚悟が自分にあるのか?という部分が刺さりました。 どんなこともどんなつらい体験も、 自分に与えられるものをこちらが選べるわけではないし、 それは、自分が望むものでもないんだろうなと思います。 魂の成長のために欠かせないもの。 それがどういうものだったとしても、受け取る覚悟を持て、と。 なんか~わくわくしながら軽い気持ちで観に行った映画でしたが、 まさか、これまで歩いてきた道を自分自身が見直すような、 そんな時間になるとは思ってもみませんでした。 そういう意味でも、観て良かった・・・! 空はもう、秋に突入

謙虚な人間って

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どんな人になりたいのか? という問いを以前しましたが、 今も、できることなら謙虚な人間になりたいな・・・って思います。 でも、昨日の日記に書いたように、 褒められたいとか、褒められたら謙遜するべき、っていうパターンがあることも事実です。 褒められるだけでなく、 何か自分がいいことをしたり、誰かの役に立つようなことがあったときに、 謙虚な人だったらきっと自分からはもちろんそんなことは言わないし、見せないだろうし、 知られても、へりくだったり控えめな態度を取るんだろうなと思ったのです。 謙虚な人になりたいのなら、 謙虚だというところの行動だけでなく、 普段からのそれに値する反応や態度を取るべきだと思っているパターンがいます。 そうじゃないと、人格としての自分は、 とてもダメダメな人間だと示しているようなものだからと思っているのだ。 今も、まだよく分かってはいないのですがー 一つ思うのは、 誰も見ていないところで一生懸命やったら、 あとはもうそれで充分で、そこで終わり。 「そこで終わり」でいいんじゃないかと思いました。 結局、その時の周囲の反応に対しての自分の反応が気になるというのは、 良く思われたい(悪く思われたくない)というパターンがやっているってことなのだ。 そのパターンを受け入れられていないなら、謙虚さはだいぶ先の目標なのかも。 今、自分がすること、ズレないようにしていこう。 レモンティーが飲みたくなるよ~

承認欲求

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認められたい、褒められたい、 っていう承認欲求が強いパターンは感情としても高ぶります。 表面的には、何も感じていないように振る舞えたとしても、 (むしろ、そう振る舞えば振る舞うほど) 心の中ではパターンが大暴れしていることがあります。 あることで他人と比較されて褒められたとき(久々の体験)、 黙っていた私。 あの時、「いえいえそんなことないですよ」と言えばよかったのか? それとも、その比較された他人を認めるような発言をすればよかったのか? どういうことが自分に起きていたのか振り返る。 黙るということは、 褒められたことを否定していないということで、 「その通りです!」と言っているようだなと思いました。 肯定したというのは、やはりうぬぼれだったのか? でも自分自身ほんとその通りだと思ったのです。 自分は確かにがんばっていたのだから・・・。 ●褒められたい、っていうパターンは自分の中にありますが、 ●褒められたら謙遜するべき、っていうパターンもあります。 ちゃんとそこは謙遜して、否定して、謙虚な自分でいなければいけない。 と思うパターンが葛藤していたのかな?と思いました。 そしてもう一つ考えられるのは、 〇もしかしたら、褒められたいって、もう決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ という白パターンを選んでいたから、否定も何もしなかったのかもしれません。 もうどっちでもいいと思い始めていたから、 そうなりつつある自分であったから、 反応としては、黙って褒められたままになっていた・・・のか? このあたりの、自分の中で起きた事だけど、一体どういうことだったのか、 ちゃんとみれるようになっていきたいと思いました。 ひと息つきたくなる本

自分を知っていた人

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とある場所で名刺交換をしたら、 10年ほど前に仕事でちょっとだけ関わったことがある方でした。 相手の方が私の名前を見てぴんときたようで、 その節はありがとうございましたとお礼を言われました。 でも、私はすぐにはその方とどこで何で関わったのか思い出せず、 ああ~と、ちょっと笑ってごまかしながら、 頭の中フル回転の猛スピードで記憶をさかのぼっていました。 で・・・、思い出しました! そうだ、あの時の、〇〇さんの担当の方だ。 当時よく電話でやり取りをしたっけ・・・と。 でも、やり取りは確かに何度もしたけど、一度も会ったことはなく、 当時、電話だけのやり取りだったことを思い出しました。 だから、顔を見てもわかるはずがないのでした~ よく、会ってもいない人の名前を憶えてくれていたなあと思いました。 すごい記憶力だと思うし、よほど何か印象深かったのか? 私は名刺をいただいても全然気づいていなかったので、 そのまま知らないふりをされても何とも思わなかったと思うけど、 わざわざ声をかけてくださり、とても嬉しく思いました。 そうか・・・覚えてもらうって嬉しいことなんだ。 10年前に自分も一生懸命仕事がんばっていたんだなと思うと、 もしかすると見ているのは神さまだけではなく、 自分の知らないところで見ている人は見ている。 ってことがあるのかもしれないと思いました。 そして、私も覚えている人、お世話になった人を見かけたらためらわず声をかけよう

毎日書く

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ブログを書く時間は、大体が夕飯作って食べて片付け終わった頃なんですが、 PCを開くと、しばし目を閉じます。 書く前に、精神統一をしている・・・わけではなくって、 眠くなって目が閉じてしまうのです。 気づくとウトウトしながら1時間以上経っていることもあり、 書いている途中で、寝てしまったこともあります。 (PCのどっかのキーが押されて、大変なことになっている・・・) 今とても見たい映画があって、 仕事帰りのレイトショーを見ようと思って、何度か予定を入れようと思うのですが~ 終わるのが23時なので、それだと家に帰って23時半。 ブログをその日のうちに書き終わりたいので、夜の映画をあきらめています。 (でも、今度の土曜日の昼間に見に行こうと思ってる) そんな、やりたいことへの我慢を自分に強いるなんて・・・ これまでにない体験もしています。 夜に時間がないなら、朝に書けばいいと思うかもしれませんが、 お祈りや語りかけを朝やっていたりするので、 朝ってそうでなくてもなかなか時間が作れません。 で、今のところ、夜の方がまだ時間があるということなんですが、 それも今後も眠くさえならなければですね。 そうまでして毎日なぜブログを書くのか? 「継続する」ということをやってみたいと思いました。 今までは、毎日は自分には無理だと思っていたのです。 そう信じていたので、それがパターンだとも気づくこともなく・・・ そして、内容はともかく約2か月が経とうとしていますが、 あれっ?私やれるんだ・・・と、今までとは完全に違う人になったみたいに(大げさだけど) 新たな自分を発見したと思いました。 自分自身が少しずつ前進しているような感覚もあります。 不思議にたまにしか書いていなかった時より、 なんというか、頭でっかちにならず、よし書くぞーっていう気負いもなくなったかもしれません。 たまに、書きおわった後に全部消す・・・ということもあるし、 内容がちょっとちんぷんかんぷんなものもあるし、 なんて偉そうなこと言ってんだーと、後からものすごく恥ずかしくなることもあります。 でも、毎日の習慣として「私」からも応援されているような、 何かをもらっているような気になったりしています。 とにかく続けて自分を鍛えたい! うさぎグッズは癒し

いつか行ってみたい

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今、職場に大学生が実習に来ているのですが、 その情熱たるや、もうまぶしすぎるほど光輝いています。 それは、単に若いからということだけではなく(それもあるな)、 学びたい!というその姿勢に、 自分はとても刺激を受けているんだなと思う。 それで、 自分が今もし学生だったとしたら、 何をしたいだろうか?と思いました。 この学生さんのように、 情熱を持って挑戦したいと思うことは何だろうって。 職業やなりたいものは特には浮かばず・・・ ただ、自分の才能や家庭環境など何も条件を考えないとしたら~ 外国で暮らしてみたいと思いました。 日本から一歩も出たことがないので、 全く海外というものが想像もつきませんが、 その想像がつかないところで、行って生活をしてみたいです。 英語もいっぱい勉強して! もしかしたら、 空気を読み、周囲との和を重んじる日本人のイメージに、 自分が相当あてはまらない・・・ だから外国でだったら生きやすいんじゃないかって思うことがありました。 かといって、 積極的で大胆で、自分らしさを存分に発揮し、 自分の意見をはっきり言い、 飛びぬけた感じや情熱的な感じ(勝手な外国人に対するイメージ)でもありません。 そういう中途半端な自分が外国へ行ってみたら、 どういうことをするんだろうって思う。 これ、●自分を変えたい っていうパターンなんだろうか? ということは・・・ 今のままの自分ではダメだと、 受け入れられていないのかもー(これもパターンか) それでもいつか行ってみたいな~。 野菜いっぱいのトマトカレー 若い人が食べる量だった!

はじめて講座を再開します

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しばらくお休みさせていただいていた講座を、 また月一回くらいのペースで始めたいと思います。 rowingのホームページ 【はじめて講座】でご案内してますので、 開催予定はこちらからご確認ください→ ★ ブログに登場してくる言葉「パターン」について、 また、心の中にある感情(気持ち)との関係についてのお話を、 視覚的にお伝えしています。 心のもやもやのヒントにしていただきたいなと思っています。 ・・・と言っている本人は、 講座という形式がとても苦手で、 正直、毎回心臓ばくばくで緊張感がすごいのです。 しかしながら、これも一つの自分のパターンであり、 そんな自分のいろんな決めつけから一歩でも前進したいと思い、 ケアをしながらこのようなかたちで挑戦させていただいるところです。 ちょっとした言葉に自分を知る手がかりがあったり、 何気なく話したことに、 今おきている出来事が俯瞰して見えたりすることがあります。 その発見は自分だけにわかること。 講座での体験がその一つになることを願って・・・ お一人様と対話をしていく時間となりますが、 自分を知る楽しさと少しだけ心が軽くなるような(私自身も~)、 そんな、よい時間にしたいと思います! 黄色いスイカって、なんかうれしい♪

どんな資質を使っているのか

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今日はクラスの勉強会でした。 意味付けのワーク(中立のワーク)のやり方をあらためて見直す機会となり、 本当にまだまだわかっていないんだな~と、 全然わかっていないところがわかった一日となりました。 本当にこれの繰り返しだ。 (皆さん、ありがとうございます!) コンプレックスの数々は絶対的にマイナスに捉えているため、 こういうところが嫌なのよ!っていうものが勢いよく出てきます。 ですが、問題はプラスの意味付けをどのように考えるのか?です。 そのマイナスだと思う数々の経験を通して、 自分がどんなふうに変わってきているのか。 自分が獲得したもの、プラスの意味を書き出してみます。 私は今回、「数字が苦手」というコンプレックスで考えてみました。 マイナスの一つに、 「数字が出てくると(焦って)混乱してしまう」 というのがありますが、プラスの意味付けを考えると、 「一生懸命考える」 という体験を積んできたように思うのです。 ということは、忍耐、努力、思考力、実践、面倒なことをやる力など、 それらの資質が使われてまずは考えるようになってきたと思うんですね。 これら全部、プラスの経験として自分を押してきたものたちです。 単なる、できるようになってきたこと、 プラスに捉えられるようになってきたことをあげるのではなく、 それがどんな力として、 自分の内側の力として成長(変化)してきているのか? その資質の言葉をつなげて考えてみる。 「一生懸命考える」→「計算する力がついた」「すぐに投げずに考える力がついた」「わからないことは他人に聞くようになった」 こんな感じかなと思います。 ここは、まだ慣れていない部分が大きいので、もっと練習が必要です。 まだまだいっぱいあるコンプレックスの題材。 今日は少しだけ、また意味付けワークが理解できたことがうれしい。 どんどんやっていこう! ヤミィさんでランチタイム

111年の結晶

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今日は111年間続いた、 街の文房具屋さんのさよならパーティでした。 集まった方々からのお祝いの言葉、感謝の言葉、また数々の思い出話を聞いて、 松下幸之助さんが言ったまさに「会社は人なり」なんだと思いました。 長きに勤めた従業員の方々、問屋さんやメーカーさん、商店街の方々、 お客さんである小学校や地域の方々、そしてご家族の方々。 私などほぼ、はじめましての方たちばかりでしたが、 みなさんも皆お互いを知っているわけではなく、 そんな中でオーナーのMさんの人柄がそのまんま人と人をつなげるかのように、 自然に話ができてしまうような温かい会でした。 私が「はじめて講座」をやってみようと思ったときに、 (以前もこの話書いてましたので~、読んだ方は飛ばしてください) どうやって周知しようかと、 なぜか、内容よりも宣伝方法をどうしたらいいのかとても悩みました。 今時代SNSしかないと思う反面、 私にはそれが全然しっくりこなかったのです。 そんな時、Mさんのお店にチラシを貼らせてもらいたいと思いました。 私の手作りのチラシは、この文房具屋さんでこそ映える?と。 やっと最近お話をするようになったばかりのMさんにお願いをすると、 なんて、素敵なことをやっているの!と、 すぐに拡大コピーをして貼ってくれたのでした。 その後も講座にお友だちを連れて来てくれて、 本当に感謝しかありません。 今思うと、顔から火が出そうなほど緊張しまくりのつたない私のしゃべりと、 なかなか毎月、講座に来てくれる人もいなかったので、 そんな私をいつも励まし、 あなたがやっていることは素晴らしいことよと、 これ以上ない激励をもらっていたのでした。 人は、心のことが大事で、それ以上に大事なものはないと、 そして魂は何度でも生まれ変わってこの世に誕生し、 だから、今世で自分が何を学んでいけばいいのか、 本当は自分がすべてを知っている。 そんな話を何の疑いもなくあたり前のことのように、 いつまでも楽しそうに話してくれるのがMさんでした。 誰よりもどんな時も自分を大事にしていく。 その繰り返しの先に、 自分以上に大事にしたい人とのつながりが生まれることを、 お仕事から見せていただいたと思います。 進む道、学びの方法は違えど、 これからもおつきあいしていただけたらと思っています。 Mさん、従業員の皆さま、ありがとうございまし...

時間を創る気持ちよさ

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今日は母が新しいデイサービスでの一日体験で、 私は一日実家で待機だったのですが、 その中でいつもと違う時間の感覚がありました。 何が違うんだろうって考えてみたら、 この家をどうしたら過ごしやすくなるかなって考えたり、 今ある暮らしの滞っているところに手を加えてみたり、 そういうことをしている時間は、 それをするためのゆったり時間が流れるような気がします。 ちょっと玄関をホウキではいて、履かない靴を整理し、 お隣りの空き家から雑草が侵入しているのを引っこ抜き、 テーブルの上の終わった要らないメモをはがし、書けないペンは捨て、ゴミ箱を空っぽにし・・・ちょっとだけ片付けをしました。 久しぶりに暑くないちょうどいい気温だったので、窓を開けて風通しをよくしたら、 前より気持ちいい空間に早替わりしたような感じがしました。 母は、今までお世話になっていたデイサービスをやめて、 これから違うデイに行くための、お試し体験で今日は朝から緊張していました。 帰ってくると、部屋でお茶を飲んで一息つき、 今朝よりも清々しい表情で、 「新しいところ、通って行けばだんだん慣れてくると思うよ」 と前向きな感想を言っていました。 その発言が、なんだかこの少しばかりスッキリした空間に合っていると思いました。 母から見れば何も変わっていないかもしれないけど、 自分が時間を創っていくことを意識して過ごした家の中は、 明らかにそこに住む人の感覚も新しいものにするのではないかと思いました。 ちょっとの快適さを、時間を自分が創って取り入れていく。 そこにはやらされ感はないし、 自分から生み出していくものであるし、 何だかとても気持ちいいことなんだなあと思いました。 うさぎのホストカードも、額に入れるとキリッとします

お店の好きなところ

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うどん屋さん(〇亀製麺)に入るとめずらしく空いていて、 並ばずして注文ができそうでした。 でも、ちょうど自分の前にいたお客さんがテイクアウトを注文したため、 「少々お待ち下さい」と言われました。 まあ、それを作ったらもう自分の番だから余裕だなと思っていたら、 テイクアウトは5つ。 麺をゆでては容器へ入れ、タレをかけ、大根おろしを入れ・・・ え?まさか、麺を茹でているこちらのお兄さんが注文の品を全部一人で作るのか? それは時間かかるでしょう~と、 さっきまでの余裕はだんだん消えていきます。 私の横には一人二人とお客さんが並びだし、 とうとういつもの行列になってしまいました。 でも、そのお兄さん、 カウンターに待ちのお客さんがずら~っと並ぼうとも気にする風はなく、 マイペースで手際よくうどんを盛り付け、蓋をしめ、 次のスタッフへ渡していきます。 無駄な動きがまったくなく作られていく様は、ずっと見ていたくなるような美しささえあります。 何かの所作を見せられているような気がしました。 最初に、「少々お待ちください」と言われた通り、 時間にしてみれば「少々」という待ち時間は合っていたと思います。 でもこれ、もしも目の前でうどん作りを見せられていなかったら、 結構な時間、待たされたーーーって思ったかもしれません。 食べる楽しみと作っているところを見る楽しみ。 ああ、これがよくて私はこのお店が好きなんだな。 うどんも天ぷらも美味しくいただき大満足でした! いも天はいつも食べます!

謙虚、控えめ、素直

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昨日の書いた「謙虚」という言葉、 読み返すとだいぶ恥ずかしいなと思いました(って、思うこれもパターンかな)。 自分はまだまだ言うほど、本当の謙虚さが分かっていない・・・からです。 どういう部分が謙虚じゃないのか、 もう少し平たく言えば、出しゃばってしまう、素直じゃないというか・・・ 自分の態度言動を振り返ると、 反省するチャンスが何度もあったのに(普通に毎日あるような)、 「まあいっかー」で済ませてきたのだと思います。 黙る、控える、という感覚も、 きっとパフォーマンスとしてはできるでしょうが、 そうではなく、ちゃんと体と心に沁みこむまでは、 ●謙虚な自分になるべき、というパターンでやっていることに、 気づかなければならないんだなあと思いました。 そうやって、 パターンだと気づく・・・というところから、 また一歩前進しよう。 揃えて、履く

どんな自分になりたいのか

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どんな自分になりたいのか? どんな資質を使って、 どういう自分になっていきたいのだろうか。 真っ先に思いつくものは、謙虚さです。 それはもちろん表面的ではなく、 そうなろうと思ってやっているのではない、 中からにじみ出てくるようなものを、です。 きっと自分にはそれをあまり使ってこなかったから、 なってみたいって思うのだと思います。 それってどんな感じなんだろうって。 謙虚の反対の傲慢さだったら、無意識に出てくるんだけど・・・ 傲慢な自分でさえも、自分のパターンが創ってきたものなんだな。 これから少しづつ、 自分がしたことを振り返りながら(かといってくよくよせず)、 そういう資質を使って新しい自分を創っていきたいです。 アネックスカワトク 36年間ありがとう!

年次休暇を取ろう

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お盆休みが終わって、 今日から仕事が始まった方は多いのではないでしょうか。 まあまあ休んだはずなのに、 まだまだ休みたいな~と思いながら月曜日がスタートしました。 ということは・・・ 普段からの休みが足りないということか? 一般的に、年次休暇(有給休暇)をめいっぱい取る人って少ないのかもしれません。 私は、それとは逆に、 一年間本当にめいっぱい使って休んでいます。 いつからそうしているのか? とても矛盾しているようなんですが、 年を重ね、体調不良もあって体力がなくなってきて、当然体を休ませたいって思うのと同時に、 無心になって好きなことしたり無邪気に遊んでいたりしたい、という思いもあるのです。 その相反する気持ちに気がついてからは、 休むことと遊ぶことのバランスを大事にしていこうと思うようになりました。 同僚から、「新田さんが休みを取ってくれるから、自分も(休みを)取りやすいよ」 と言われたりします。 自分が年次を取ることで、他の誰かも自分のための時間を創ったり、 リフレッシュしやすくなったりしているのであれば、それはそれで良かったなあと。 みんながみんな、もっともっと楽に働いていいんじゃないかって思います。

自分にできること

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兄が帰省した日、 普段まったく料理を作らなくなった母が、 昔取った杵柄のように、包丁を持ち手際よくユウガオの皮をむいていました。 炒め物にしていいよね?と、いつもやっているかのように、 種を取り、さくさくと等分に切っていきます。 毎回不思議なんですが(もう奇跡と言っていい)、 兄が帰ってきてのはじめのご飯の時は、必ず自分から進んで台所に立ち、 お浸しやら、炒め物やら、いろいろと料理を作ろうとするので、 本当にびっくりしてしまいます。 母親としての本能がそうさせるんでしょうね(息子の力もすごい)。 そして今回兄は、約一週間ほどの滞在予定だったのですが、 翌日からはもう東京へ帰ってしまうのではないかという寂しさからか、 「今日、帰るんでしょう?」と毎日繰り返し私に聞く。 という日々も同時にはじまります。 帰ってきたという嬉しさはたったの一日だけで、 翌日から東京へ帰る日までの数日間は、 今度は帰ってしまうことへの寂しさでいっぱいになる・・・ 同じ忘れるにしても、毎日が、「あら~今日来たのね!」って、 そっちで繰り返し思ってもらえたらいいのに~って思います。 それくらい母にとっては、 帰ってきたことの喜びよりも、いなくなる方の寂しさが大きいのでしょう。 その気持ちは、残念ながら近くにいる娘(私)では満たすことはできず・・・ でもそれは他人であっても同様に、 自分の気持ちを誰かに満たしてもらう、 ということはそもそもできないんだなあと感じます。 いろいろな感情を、自分一人で背負い、 またそれを慰め、癒す時も自分一人なのだと思う。 だから、母の生きることへの大変さや寂しさや不安といったものも、 どんなに親孝行して私が補いたいと思っても、 それはできないことなのかもしれません。 私にできることなど、 日常のほんの些細なところのお世話だけです。 自分が育ててもらった分、自分が病気をして心配をいっぱいかけた分、 せめてそれらの分だけでも、母が生きている間に返していきたい。 でも、たぶんそれでも足りないんだろうな・・・ たくさんの愛情をもらっている分のお返しが、 まだまだ足りない気がします。 虹が・・・消える前に 間に合った~

憧れを持つ

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お盆で、親戚の子どもたちから聞いたお話。 子どもたちが、これから高校、大学と受験をしていこうという時に、 今の自分の学力と照らし合わせて選ぶのではなく、 実際にそこに行ってみて選ぶ、ということをしているのだそう。 主にはオープンキャンパスなのでしょうが、 他にもその場所まで行って建物を見る、ということなんかもして、 とにかくその場の空気を見て触れて、感じてくるのだそうです。 そうすることで何が起こるかと言えば、 そこに行きたい、そこにいる人のようになりたい、 という強い『憧れ』が生まれ、目標に向かう力が長く継続されるようなのです。 今や、オープンキャンパスはあたり前なのかもしれませんが、 これだけ情報にあふれていても、わざわざその場に行くというのは、 結構アナログなことが推奨されているんだなと感じます。 いくらでも動画で見れるし、SNS情報からも得られるものはたくさんあります。 だけど、実際に足を運び、自分で感じて決めることがすごく大事なんだと(バーチャルでは心は動かない)。 また、一緒に同行する親向けのキャンパスコースもあって、 親の心もがっちりつかまれるようです。 実際の授業風景を見ると、 当然ながらさっぱりわからないような難しい授業をやっていて、 でもそんな授業を受けている先輩たちの姿は、 キラキラまぶしく映るのかもしれません。 ここからどんな出会いがあるのか、どんな将来が描けるのか、 この場所への憧れと共に自分への期待で胸がふくらむんだろうな。 そのために、一生懸命勉強もするんでしょうね。 行ってみたいな、から、ここに行こう!に変わる。 憧れって、淡く不確かな感じもあります。 はっきりとは分からないけど、なんかいい!というこの衝撃が自分を引っ張ってくれる。 考えると、この学びを始めた頃の自分もそうだった。 私にもこんなふうに(師匠のように)なりたい、という憧れがあったことを、 ちょっと思い出させてもらった気がしました。 住宅地に山鳩さん ホーホーって鳴いてました

価値観の違い

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●自分の人生には価値がある と思っているパターンがあります。 これまでの人生経験の積み重ねによって今の自分があり、 当然パターンとしては、 こうして生きてきた自分にこそ価値があると思いたいのだと思います。 でも、価値ってなんだろう?? 「価値がある」 プラスの意味付けは、 + 尊いこと 素晴らしいこと それだけで充分なもの 人が羨むもの それがあると幸せを感じる 多数の人が認めているもの 大事にしたいもの 特別なもの 自分にとっての誇り マイナスの意味付けは、 - (それを感じることで)傲慢になる 天狗になる 自慢をしたくなる それを捨てられない しばられる 勘違いする 過大評価 世界が狭くなる 現実を見れなくなる そして、中立は、 「価値がある」というその時のただ一つの体験・・・だけ。 これには価値があるんだ! と自分の決めつけがあり、それを特別なものとして扱い続ける。 何をするにしても、その行いに価値があると思いこむことで、 それを行う自分自身にも価値があるんだ(特別なんだ)と思いたい。 本当は、そのものや行為よりも、 自分を承認したいだけなのかもしれません。 恋人同士が別れるときに、 「価値観の違いで別れました」という言葉をよく聞きます。 それって違う言い方をすると、 自分のことを相手が認めてくれなかったということなのかなと思う。 自分が思う価値を否定されたり、 相手が自分とは違う価値観を大事にしていたりすると、 何だか自分自身が否定されたように思ってしまう。 自分という人間に価値はないの?って。 価値観の違いは、パターンの違い。 でもそこに自分の真理があるかのように感じてしまうのは、 長い間プラスの意味付けしか考えてこなかったからなのかも・・・ プラスとマイナスで意味を考えていくと、 マイナスに行ったりプラスに行ったりしながら、 ずっしり重かった価値観という言葉そのものに、軽さと幅が少しずつ出てくるのを感じます。      

両極端のパターン

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自分には無理だと決めつけない。 やめること 、最後の項目。 これについては、 もしかすると一番自分がしてはいけないこと、意識が必要なことかもしれません。 あの人だからできたのであって~ 自分には、そんな能力もないし、実力もないし、運もないし、 年齢的にも無理~ってパターンはいとも簡単に思うのだ。 ●自分には能力がない そう思うパターンの恐怖心を隠すかのように、 ●自分は特別で一番だ と思うパターンもいて、 陰(自分を過小評価するパターン)と陽(傲慢になるパターン)の、 両極端のところでパターンは苦しむのです。 本当は黒パターンから白パターンへ変わるとき、 その過程ではいろいろな選択肢があって、 そこも極端な思考に走らないように、早く陰陽のバランスを整えようと急がせないように、 ゆっくり感じながら進んでいきたい。 「私」は無理だと思っていないし、 できるできないのところに留まってはいない。 っていうことを何度も思い出していこう。 行司さんが書く相撲字 かっこいいね!

どう思われるかを気にしない

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今日は待ちに待った、大相撲盛岡巡業に行ってきました。 お相撲さんたちがすぐそばでお昼を買っていたり、 背中に土をたくさんつけたままジュースを飲んでいたり、 テレビでは見られないリラックスした姿をたくさん見かけました。 土俵入りのとき、大関琴櫻が、なんと赤ちゃんを抱っこしていました。 (たぶん、会場にいたお客さんの赤ちゃん) もうびっくり~、会場のどよめきと歓声でとても盛り上がりました。 鍛え抜いた大きな体と、小さくふにゃふにゃの赤ちゃんの体。 お相撲さんと赤ちゃんの組み合わせって、何でこんなに似合うんですかね。 と、今日は相撲を満喫していたので、 「良い人を演じることをやめる」という目標がどっか飛んでしまいそうでしたが、 今日の巡業で、良い人を演じない人と出会いました。 それは、握手を担当していた名前も顔もまだ知らない力士のことです。 その力士は、全然うれしそうではない、 まったくの無表情でもくもくと握手だけしていました。 お客さんから、がんばってください!とかなんとか言われても、 無反応のまま、下を見てただひたすらその時間をこなすという感じです。 取り組み前の時間に、この長蛇の列を見たらさぞや気が滅入るかもしれません。 手も痛くなるでしょうし。 でも、お客さんを目の前にしてもこんなに愛想を振りまかないとは・・・ お相撲さんが好きだから並んでいるこっちにしてみると、 その態度がなんとも残念な感じがありました。 でも、です。その後お昼を買いに屋台に並んでいたら、 その力士が付き人っぽい人と一緒に、普通におしゃべりをしながら並んでいたのです。 へえ~、あんなふうに話す人なんだなあ。 握手のときとはおもむきが違う。 すると今度は、 小学生にも満たないような小さな男の子と女の子が(たぶん兄妹)、 怖いもの見たさのようにその力士にかけよってきました。 側まで来ると手前でぴたっと止まり、下から上までじーーっと眺め・・・ 力士はかがむようにして、その子どもたちに何か話しかけているようです。 子どもたちは急に恥ずかしくなったのか、力士のことが気になりながらも、 お父さんのいるところまで、はにかんで走って帰って行きました。 その様子を見ていて、 さっきの握手会って、良い人と思われなくてもいいと思っての表情だったのだと思いました。 ミーハーな行動を取る私たち大人よりも、 大きなお相撲さ...

スペースを空ける

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やりたいことを全部やろうとすることをやめる。 やりたいことをやるんだから正直でいいことのように思うけれど、 全部っていうところが、パターンの欲なんだと思う。 それを許しているとどうなるのか? やれてあたり前なんだから、そうじゃないことには耐えがたくなる。 じゃまが入るとイライラ。 自分本位に強引に成そうとするかもしれません。 そうやって、自分の心をすっきりさせたい、満たしたいのだと思いました。 でも、本来は途中で終わったり、 誰かに代わってもらったり、 という中途半端なことの方が多いのかもしれません。 全てを完璧にやりたいパターンと一緒に、このすっきりしないことにも慣れていきたい。 そして、自分へのスペースを空けていきたいです。 空いたところに本当にしたいことを入れていきたいなあ・・・ って、何を私はそこに入れたいのだろう? 明日は「良い人を演じること」をやめることにもフォーカスしてみます。

完璧さをやめる

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やめること シリーズ。 2つ目の「すべてを完璧にやろうとすること」をやめる。 今日はこれを振り返ろうと思います。 そもそも、す・べ・て、完璧になどできるわけがないのですが・・・ それでも、あれもこれもちゃんとやりたいと思う癖(パターン)があります。 それも結構な頻度で出てくる、性分といったらいいのか(性分もパターン寄りだな)。 その中でも、「良いこと」と思っていることをちゃんとやろうとする気がします。 だって、良いことなんだから! 例えば、身体のメンテナンスについても、 鍼灸治療は定期的にやったほうが効果があると思っているし、そう感じてもいるため、 何としても定期的に入れたいと思ってしまう。 それから、お盆の準備もそう。 お墓掃除に行くことも13日を前に行かなければならないと、 スケジュールも天気も自分の疲労度も関係なく、やろうとしてしまいます。 だって、ご先祖様のことは大事にしたいから。 そして、母親の食事や家の掃除、 弟たちがいざ来た時のために何か買い物にも行っておこうとか、 兄が帰ってくるからとか、娘が泊まりにくるからとか、 いろいろ準備するべきものが頭の中でぐるぐるしだします。 結局、今日は朝から鍼灸治療に行って、 仏様にあげる仏壇用と盛岡分のお墓用のお花を山ほど買い、 その後に様子が気になっている叔母のところへ行き、 お寺に行って無事に掃除もお花もあげて、帰ってからスーパーに行こうと思ったけれど、 それは明日以降でもいい!と思いやめました。 良かった、全部やらなくて・・・ スーパー行きをやめたおかげで、その後は昼寝と高校野球でだらだら。 夜はセミナーの復習とワークなど、ゆっくりと自分の時間を創りました。 お盆中は、もっともっと完璧さをやめよう。 ナス第一号が収穫されました!

他人と比べること

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やめることの一つ、「他人と比べること」というのがあります。 今日一日を振り返って、そういう場面はなかったなあ~ って思いましたが・・・ちょっと待てよ、と、 自分というより、家族とのことでありました。 私には年頃になった娘がいますが、 一般的なそのお年頃の女性と比べていた自分に気がつきました。 ほんの一瞬だったけれど、 あ、今、まだ結婚しないんだなあ(いつになったら結婚するんだ?) って思っているパターンを感じたのです。 結婚=家庭の中での幸せを得てほしい と思うパターンがいて、ちょっとざわっとしたんですね。 でもこれがもし、好きな人が1人もいないとなれば、 結婚以前に好きな人ぐらいはいてほしいとパターンは思うかもしれません。 仕事をしていなければ、人並みに働いてほしいとか、 もし、病気療養中だったら、 とにかく元気になってほしいと願うでしょう。 パターンって、すぐないものねだりをします。 そして、普通とか世間一般的にとか、 絶対多数の人がうらやむような見た目の幸せを望みます。 一瞬でもそう感じた自分(パターン)がいたと気づいたのは、 もしかしたら、今ある幸せがあたり前になってしまっていたからかもしんないし、 何だか感謝が足りていない生活になってしまったのではないかと思いました。 自分にとってはちょっとしたパターンのようにも思い、 無視するところでしたが、 語りかけしてみよう。  山桃のジュース さわやかな甘みでした!

やめること

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今回のセミナーで習ったことの一つに 「やめること」というものがありました。 一生懸命に何かをやるのでなく、 やめなくてはならないことが本当はあるということを、 本当の「私」って知っているんだと思う。 自分が特に今感じているのは、 ・他人と比べること ・すべてを完璧にしようとすること ・やりたいことを全部やろうとすること ・良い人を演じること ・自分には無理だと決めつけること これらのことをまずはやめることを、 優先させていこうと思いました。 そうじゃないと、自分の中にスペースができないからです。 欲張りすぎて、全然謙虚じゃないから、 あれもこれもと詰め込み過ぎて、新しい自分が創られるゆとりがないんです。 忘れ物や、うっかりや、記憶にない、っていう事態がそれを物語っています。 いっぱいいっぱいになって、 自分の身の丈を忘れてしまっているように思いました。 それは早くやめよう! お昼は、公民館のお蕎麦屋さんに行きました

自分が創る時間

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今日は岩手クラスのセミナーでした。 新しい試みをすることと、これまでを振り返ることと、 そして現在の自分の状態をゆがみなく見ること、 これらを考える時間になりました。 そして、時間というのは、とても主体的なものであることも知りました。 スマホの時計を気にして、その時間だから何をやるというのが毎日なんですが、 その時間で何をするのかを、積極的に自分が決めてやる。 というスタンスで、時間を使うという概念に変えることもできます。 自分の時間で進めばいいし、 自分をゆっくり待てばいいのだ。 たくさんのことがトントントンってできる時間もあるし、 自分のためののんび~りと流れる時間もある。 連休中、自分が時間を創っていくことを意識してみよう。 あんかけ五目かた焼きそばは外せない

思い込みに注意

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思い込みの恐ろしさを知る、ということがありました。 (思い込みの内容は、ここでは割愛させていただきます~) 自分では絶対にしていないと思っていたことが、 相手の言葉があまりにもリアルだったので、 え?もしかして、私やっているのかも・・・と。 自分の確信がゆらぎ出します。 そして、よ~く調べてみると、 相手が言う通り、自分がやっていたことが判明し、 その時の胸の苦しさといったらありません。 ああ、なんで私ってそんなに頑なに、していないと言い張ったんだろう。 後悔先に立たず・・・です。 この思い込みのすごさに、 今後自分が生きていくのに、大事な格言を言い渡されたような気がしました。 ●自分は正しい、というパターン、 これは本当に本当に気を付けたいです。 正しくないと思っていて正しかったというのであれば、何も問題なし。 正しいと思っていて(思うだけじゃなく言い張ってますからね)、 間違えていたのは自分だったというのは、 恥ずかしいのを通り越して、相手に失礼極まりなく、 つくづく自分は傲慢だったんだなと思い知ることになりました。 そもそも正しいって何?というのもある。 そして本当に感謝して生きるって、とても難しいことなんだと思いました。 している「つもり」になっていたことにも気づいていなかった・・・ このパターンが教えてくれたこと、 これから大事に心に留めていこう。

好きなことには遠慮はいらない

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自分が好意をもっている相手には、 いつまでも自分の思う通りの相手でいてほしいと、 無意識に思ってしまうことがあります。 自分の個性がそこに惹かれ、 そこにずっと居たいような気持ちにさせるものが、その人の中にあるような気がします。 そう・・・気がするというのは、 その時の自分の思い込みや決めつけ(つまりはパターン)でそう感じているだけで、 ある意味、人って、良くも悪くも全部パターンで出来ているまぼろしなのかなと思いました。 でも、まぼろしだったんだ(これ、パターンで見てるだけだったんだ)と目が覚めたとしてもです、 またしばらくすると、新たな思い込みを見つけては、 またそこにわくわくしていたりする。 いずれ目が覚めるのに、凝りない。 人って、そういうふうに出来ているのか~?? 好きなもの、好きなこと、好きな人との出会いというものは、 このわくわく感があるので、 たとえまぼろしであっても、生きていくのに無くてはならないものだと自分は思います。 だから、好きだと思うことには目が覚めるまで遠慮しないで向き合いたい。 中身より、缶が欲しかった!

想像力が必要

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インナーチャイルドのそばに行くようになって、 自分の人への接し方には大きく分けると2種類あるように思いました。 一つは、 今目の前にいる人と楽しもうとする接し方。 そしてもう一つは、 そこには特に重きを置かず、その人の真意を聞き出そうとする接し方です。 仕事での面談では、こちらを使っていることが多いと感じます。 (もちろん、それもいい接し方だと思ってやっていたのだがー) 後者は、真意をついた話は、人との関係を作る上で大事なことだ、 と思っているパターンがやっていることかもしれないと思いました。 確かにそれはあるけれど、行き過ぎるとなんだか重い・・・ なぜ真相を聞き出そうとパターンがするのかは、 結局は相手を思っているというのは思い込みで、 自分が安心したい、自分が納得してすっきりしたい、 早く次へ進みたいだけなのかもと思いました。 だからインナーチャイルドへも、 なぜそんな寂しそうな顔をしているのか、なぜ黙っているのか、 本音を語ってほしくて、そういう質問が出てくる気がします。 そこには、楽しさ、話すことのおもしろさ、気楽さ、 そして一番大切な安心感と温かさといったものはないですよね。 自分の不安を払しょくしたいがために言葉をかけていては、 その子がもっと黙り込んでしまうのも、無理はない・・・ 今の「私」がその子にするとしたら、 どんな言葉をかけて、どんなことをしてあげたいと思うのか。 もっと想像力をふくらませていこう! ロタさんのベーグル ご飯食べているかようなベーグルです!

30年分の感動

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初めて行く駅、初めて乗り換えで降りる駅、 知ったつもりの駅や路線でも、乗り換えアプリで調べてみると、 結構いろんな行き方があっておもしろいです。 途中から東横線に乗れば行けそうな目的地。 渋谷で乗り換えしなきゃなあと思ったら、 乗り換えなしにそのまま東京メトロになっているのには、本当に驚きました。 (いつからそうなっていたんですか!) 私が最後に渋谷に行ったのは、かれこれ30年前(大昔じゃん)。 アプリにいくらそう表記されていても、にわかには信じられず・・・ アプリの見方が間違っているのかなあと思ってしまった。 本当にこの電車のまんま、目的地まで行けるのかどうか内心ドキドキで乗り続け、 車内の電光掲示板を凝視し続け、 渋谷から当然のように地下鉄になったときには、 心の中で「すごーーーい!」と叫びながら拍手喝采でした。 こんなことで感動できる自分ってお得だなあ。 TVで見るお店にドキドキしながら入ってみた〜

何かしらの価値

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今日は東京出張の前乗りということで、 早目に盛岡を出発してカウンセリングを受けに茅ヶ崎へ行ってきました。 (こういう好きなことにはフットワークが軽い私…) 近況を報告しながら、先生の言葉に気づかされたことがあります。 パターンが、何かしらの価値を自分に持たせたがってはいないか・・・? 自分がしていること、 会社勤めにも、友人とのイベントにも、 カウンセリングをすることも、新しい講座もやってみたいと考えていることにも。 ひっくるめて言えば、仕事をしていることへの価値です。 でも、今の状態の自分では一つの形になっていないとか、 はっきりこれだ!という極めた形になっていないとか、 そういうのではパターンの考える価値には当てはまらない。 例えば、ぶれない自分、一つの道を迷わず歩く自分をパターンは目指したがっていたのかもしれません。 あれもこれもやるんじゃなく、 どこから見ても、「これをしている自分」になれば、 そこにこそ自分がしていることの価値が見出される。 そこを目指して行こうとするパターンは、 なかなか今の状態の自分には厳しい目を向けているんだな。 こんな顔の電車もありました!丸くてかわいい

くずきゃん

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今日も33℃の暑い一日でした。 アイスをどうしても食べたくなってしまうので、 少しでもお腹を冷やさないように~と思い、 『ちひろ』 で作っている葛粉と果汁でできているアイスキャンディーを買ってきました。 この、くずきゃん、溶けかかったころがすごく美味しいのです。 ちょうど葛のもっちりした感じが出てきて、 アイスバーのように溶けてダラダラになる~ってことがない。 アイスキャンディーのようなカッチカチの固さはなく、 歯がしみやすい私の前歯でも噛めるほど柔らかくて、果汁のおいしさがひきたちます。 去年はじめて食べたときは、 よくぞこういうアイスを作ってくれました!と感動し、 毎年少しずつ種類も増えて、夏の密かな楽しみとなっています。 葛って、漢方の葛根湯のように体を温める効用があって、 根っこを煮出してとれる粉はほんのわずかでとても貴重なものです。 私もときどき、風邪ぎみのときは、葛粉に熱いお湯を注いで練って、 固めの葛湯を作ってよくお腹を温めたりしていました。 そんなふうに体の調子を整えるもので、こんな美味しいアイスができるなんてねえ。 娘が小さかったとき、 アトピーでアイスをあまり食べさせなかったので(かゆくなるから)、 こういうもので作ってあげたらどんなに良かったことか~と思いました。 と、今日記を書いていたら、仕事帰りに寄ってくれたので、 くずきゃんを食べさせました。 予想通り、すんごい喜んで帰って行きました。 (今では、素朴な味が大好きな娘) 今日も一日おつかれさまでした!笑 ブルーベリーとパイン!スイカと桃も美味しかった!

ちょっとしたことへの動機

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自分を観察するって、 何となく見るのではなく、歪みなく観察するということ。 自分を都合よく見ていないか? というところを言っています。 自己観察が楽しいからこの学びが続いているのだな~と思うのですが、 ちゃんと見れているか?と言われれば、 ちゃんと見てます!とは言えない時もあります。 自分の中の誰が見ているか?というところなんですが、 本当の「私」で見ていこうと思っても、 本当の「私」って何?誰?ってなると思う。 それよりはパターンで見てはいないか? ということなら、感情が騒げば何かしらのパターンがいるので、こっちの視点です。 やはりパターンに気づける自分であるかどうかが鍵を握っているんだと思う。 あのお店に行ってみようかなと思うとき、 本当にそこに何をしに、どんな動機で行くのか? ふと、ここへの問いがありました。 そこに行って、買いたいと思わないものを買おうとしたり、 今日は行きたいと思っていないのに行こうとするパターンがいる。 私はカウンセリングの紹介カードを置かせていただいているお店がいくつかあるのですが、 そのお店というのは自分の中で大好きなお店で、 信頼している方がいるということでもあるのです。 いつも置かせていただいてて申し訳ないなあと、 それはありがたいなという気持ちなので、OK。 でもそうじゃなく、 置かせていただいているから、今日は欲しいものがないけど買おうかなとか、 寄ったことで何かよく思われたいパターンを感じている場合、 自分の気持ちがなんかスカッとしないのです。 もちろん、寄って良かったなと思うようなことの方が多いけれど、 でも、ずーっと行ってなかったりすると、 軽い心にちょっと重さが乗っかるのを感じることがあります。 これは、お相手にはいっさい何の問題はなく、自分の問題なのだ。 ただそこに行くという行動だけで、 そこににごった感情がほんの少しでもまぎれていると、 もう私のセンサーはちゃんと反応してくれる。 そうやってモノを買うという行為に対しても、会う人に対しても、やる仕事に対しても、 それをするときの、自分の動機がより重要となってきていることをこの頃感じます。 あちこちでさんさの看板が~祭りを盛りあげます!