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6月, 2025の投稿を表示しています

つながっているパターン

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ネガティブな感情が動けば、パターンなんだなと分かります。 でも、ポジティブな感情にもいろいろあって、 すごく楽しいとか、ものすごく安心するとか、 その極端なポジティブさの裏には、 それが無いとなったときの落胆と不安、恐怖心を同時に持っていることがあります。 学校を卒業してからあたり前に私は働いてきたわけではなく、 病気で働けず、退院はしたものの家にひきこもっていた時期もあったし、 働いてもすぐに体調を崩して辞めるということが過去にたくさんありました。 その頃の自分はもう大人なんだけど、インナーチャイルドだったのです。 誰の役にも立っていないこと、お金を生み出していないこと、 この社会で何一つ機能していない。 ただ家にいて三度の飯を食べている自分は、 無価値だと思っていたし、そう思うことで深くキズついていたんだ。 今ケアを続けている、 ●自分は人より劣っている、というパターンは、 仕事をしないこと自体がもうすでに自分は劣っていると思っているから、 やたら仕事をしたがる(している風にも見せたがる)。 ちゃんと働かなきゃ生きている意味ないし、楽しくやってはそれは仕事ではないと思っているから。 似たようなパターンでつながっていました。 今日も一日お疲れ様でした、と言っているかのような灯り

パターンに引っかかる

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仕事だからといって、 気持ちを切り替える必要はなかったんだ・・・ と、昨日の日記に書きましたがー 切り替えていこう、割り切っていこう、そういうものなんだから頑張ろう。 遊びじゃないんだから、みんなも頑張っているんだから、 働くってそういうことでしょう、大変なことでしょう~ ってパターンが言っているんだと思いました。 (旅先での語りかけ~) こんなに楽しんでいいのだろうか・・・という少しの疑問というか、 罪悪感にも近いようなこの引っかかる気持ちは、 少しでも楽しんだり、 楽そうにしてはいけないというパターンに引っかかったからなんだと思います。 仕事と言った時点で、のびのびしている自分がいていいのだろうか? と思ってしまった。 「もう大変なんですう」って言った方が共感を得られる。 本当はそんなに大したことなくても、「別になんともないです、楽です」とは言えない。 また、本当は水面下で必死でがんばっているのだが、 もがいていることや努力していることは見せない、ということもある。 それはすべて、 一般的に思う仕事(働くこと)に対しての価値観に合わせようとしているんだと思う。 その方が人間関係がうまくいく、嫌われない、波風立たない。 と考えてのパターンでの発言なのだと思います。 いかに仕事となれば、 パターンで考えパターンが言っていることが多いことか・・・(あ、仕事じゃなくてもあるか!) もう、それ、必要なんだろうか。 本当にそういうふうに見せないと、思わないと、人間関係は保たれないのだろうか? みんなパターンで生きているため、 パターンを満たす言葉がほしいのだと思う。 自分も頑張っているんだから、大変なんだから、あなたもそうあってほしいのだと。 でも、その役割を自分が担わないくてもいいのかもしれないし、 自分のパターンも他人から満たしてもらわなくてもいい。 となると・・・ 自分は仕事に何を求めているんだろう。 ただ毎日を今目の前にあるものを楽しみ、喜び、 ありがたいなあと思って過ごしていきたいのです。 そういうことなんだよなと思ったら、 オンだからとかオフだからとかは、あまり関係ないってことになっていくのかもしんない。 喫茶店といったら~ ナポリタン♪

のびのびと~

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出張2日目。 こんなんでいいのだろうか・・・ って思うくらい楽しんでいる自分がいます。 仕事であるのに楽しいというのは、久しぶりかもしれません。 普段が苦痛ということではないのですが、 場所が変わり、また一人で行動しているからでしょうか、 とてものびのびしている気がします。 研修は内容的に受け身ではいられないために、終わるとくたくたです。 さらに宿題が出るので、ホテルに帰ってからももくもくとやって、 そこは、充分やっていますと胸を張れる。 でもー、大変だけどー楽しいんですね。 どういうところが?って、 ホテルで生活しているという非日常的なところなんだろうか。 夜、一人でぶらっと飲みに行ってみました(いいお店を見つけてしまった~)。 カウンターで飲んでいても全く寂しくはなく、周囲も気にならず、 むしろ、他のお客さんの会話が聞こえてきて、 人生相談のような話や、昔取ったきねづかの話など、 聞こえてくる内容がおかしくて、 ひとり飲みって、こういう楽しみ方があるんだなと思いました。 洗濯も、家では夫がやってくれることが多いのですが、 ここでは自分から積極的にやる私。 部屋にあるテーブルの上も使いやすいように私物を並べ、 普段は片付けが下手なんだけど、ここではそれなりに快適に生活している。 外を歩くときは、息が切れて早く歩けませんが、 ここではさらにのんびりと周りのペースに合わせず歩けています。 そして、昼はホテルで小1時間ほど昼寝。 そのせいか、とても体調が良いのです。 この暑さで体力もなくなり、頭も回らないのではないかと思っていましたが、 むしろ全体的に調子がよいことにびっくりです。 この現象を考えてみました。 たぶん、バカンス気分と仕事が混ざった感じというか、 オンとオフの区別がなくなり、 ずっとリラックスしているのだと思いました。 楽しいという気持ちのまま何でもやっているような感じ。 仕事だからといって、気持ちを切り替える必要はなかったんだなあ・・・ のびのびいて、いいんだなあ。 こんなふうにやろうと思えばやれる気がしてきました。 盛岡に帰ってからも今のこの切り替えない感じを忘れずにやってみたいです。 金魚を見たの久しぶり

完璧な出会い

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だんだん目的地に近づいてくると、 車窓の景色も緑がなくなり、びっしりとそびえ立つビル群とマンション。 これだけの人がここで何かしらの人生を送っているんだなって(毎回言ってるかもしれませんがー)思います。 そして、こんなにたくさんの人間が住んでいるというのにですよ、 この世で出会う人はほんの一握りでしかない。 そう思うと、今出会っている人たちって本当に奇跡だなあって思う。 その奇跡的な人たちから今生は、 何を学ぼうと計画して自分は生まれてきたのだろうか。 今や朝ドラ「あんぱん」で有名になった言葉。 何のために生まれて、何をして生きるのか? 本当にもう、 どう生きたいのか?を問い続けるために、 必要不可欠な出会いしかしていないのだと感じます。 私の人生に選ばれし方々。 その完璧な出会いと環境の中で、 自分が自分に向き合える生き方をしていく。 それだけだー! 結局、あんバターを買いました

明日からお出かけ

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明日から関東方面へ4泊5日の出張です。 出張なんて滅多にないので、とても楽しみにしています。 でも、TVを見ていると相当暑そうで・・・ こちらのただの暑さとは違って、 さぞかし歩けば汗だらだらになりそうですね。 なるべく陽にあたらないように体力を消耗しないように、お水を飲んで、 また、頭をパンクさせないように、 リラックスしていこうと思います。 今回、密かに寄ってみたいところもあります。 しかも3か所。 時間的に行けるかどうかわかりませんが、 そして予定していたところじゃないところに行くかもしんないし、 とにかく旅って(仕事なのだが)予想外のことが起こりますからね。 新幹線に乗るのもわくわくだしー、 ホテルに泊まるのもわくわくです。 語りかけノートも持ちました。 旅先の語りかけ・・・ こちらもなんかちょっと楽しみだったりします。 行ってきまーす! 布バックが活躍します

無理しない

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今日は盛岡も、じめじめした湿度の高い一日でした。 お味噌汁もおかずも冷蔵庫に入れていないと悪くなってしまうので、 毎回食べきれる分を作っています。 料理研究家の土井善晴先生の一汁一菜。 夫が体調を崩した頃から我が家もこのスタイルとなり、 たまにあと一品という時は、簡単な浅漬けやサラダ、 買ってきたお惣菜を出したりしています。 土井さんのお料理は見るからに本当に美味しそう。 Xへの投稿がまたたまらないのです~ 食材はシンプル、器は気にいったものに盛り付け(料理は器で決まるそう)、 何よりこの三角形で食べることのバランスがよい。 ご飯が好きな自分にとって、これは本当に無理がない。 おかずが一皿だからこそ、ゆっくり味わって食べるようにもなったと思います。 朝ドラを見ていると戦時中の食事のシーンが出てきて、 乾パン1個という究極のシーンのときは、 ああ、なんて自分はいつも食べすぎてしまうんだーって反省してしまいました。 今のご時世いろんな食材も高くなってきているので何を食べようかなと考えます。 野菜やなんかも全部食べるように使い切ったり、 お肉や魚、卵はご馳走なんだなあと、 昔の人の方がご馳走を本当においしく感謝して食べていたと思う。 私も病気療養中の20代は、 玄米と味噌汁とおかずを一口100回は噛んで、 お菓子などの甘いものは一切食べず、外食もほとんどしないで、 今とは全く違う菜食中心の食生活をしていました。 浮世離れしたその食生活は、体調だけでなく考え方も趣味嗜好にも変化が出て、 食べたもので人は変わるんだなあと知ったのです。 聞く音楽も変わったし、着たい服も変わった。 自然療法で何でも不調を治すようになっていたし、 とにかく大自然があるところに足を運び、自然と一体感を味わってもいました。 付き合う人も出会う人もガラッと変わっていったと思います。 そんな、いろいろ食べ物から影響を受けた自分が、 今では・・・何でも食べます。 きっと、食べ物が人の体を作っていることは間違いないと思いますが、 美食も粗食も、大食いも小食も、体に良いものも悪いものもいろいろ体験してきた自分が、 今、これから何を食べるのか? それがこの一汁一菜を中心に置いた食生活。 ここに落ち着きつつある。 というわけで、今日も小さめのお盆に全部おさまる器で、 もう少し食べたいなあと食後にお菓子はしっかりつま...

コンプレックスと意味付けワーク

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顔の老化について意味付けをしてみようと思ったとき、 コンプレックスなんだからプラスの意味付けなど考えられるだろうかと、 それができないからコンプレックスなんだよなと思いました。 でも、そのコンプレックスだと思い続けてきた数々の苦くつらい体験は、 決してそれだけで終わったものばかりではない。 そこから自分がどんなものを学び得てきたのか? そこからでないと教われないことがあったと、意味付けワークをやってみて思います。 マイナスだと信じているものをプラスに意味付けるとは、 世間一般的な回答ではなく(良いところを探しましょう、ではなく)、 あくまで自分自身がそこから確実に獲得したものがあげられます。 ゲットしていないものはまだ意味にもなっていないのだ。 つまり、意味を考える、見つけるというのは、 今の自分の状態をゆがみなく見ることと同じなのではないかと思いました。 自分がコンプレックスだと思うことを正直に書き出すという行為そのものも、 結構な「洞察力」がなければできません。 洞察力が高ければ、「観察力」もあるということだし、 何より、嫌だと思うことをわざわざ出すのですから、そんな自分を「素直」に感じられる「純粋さ」「勇気」もあるということにもなります。 っていうことは、 コンプレックスがたくさん出たということは悪いことではなく・・・ これは、パターンにもいえることで、 それだけ自分について感じられているということ。 そして、私がちゃんと「理解」した上で「リーダーシップ」をとっていけばいいということ。 そう感じました。 リーダーシップって、他人に対してのそれかと思っていましたが、 こういうところにも使っていけばいいんですね。 意味付けワークをすることそのものが、 「私」を機能させていくんですね。 うさぎ柄の布 うさぎ大好き

顔の老化

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以前、コンプレックスを書き出したときに、 始めに出たのが顔のことでした。 顔が嫌いとか不満があるとかいうよりは、 顔を見るたびに、ああ、年を取ったなあ~って 老けたことを実感することにあるのだと思います(この実感がね~)。 しみ、シワ、肌の張りのなさ、毛穴が開いている、くまが出ている、目の下のたるみとシワ、 二重あご(あご、どこに行った?)、ほうれい線、目が小さくなったこと、ほくろがデカくなったこと等々。 それら総じて「顔の老化」ってことですね! それについて意味付けのワークをしてみました。 マイナスの意味付けとしては、 恥ずかしい・残念な感じ・気分が落ちる・(もう若くないという)現実を知る・若い人の惹きたて役になる・なるべく人前に出たくない・お手入れが面倒 そして中立では、ただ一つの体験。 プラスの意味付けとしては、 ・愛おしさがある・お手入れという努力をする・年齢を(いい意味で)実感できる・控えめになる・(逆に)おばさん行動がとれる・洋服やメイク、ヘアスタイルを考える・笑顔が一番だと知る ワークをやってみて思ったことは、 最後の「笑顔が一番だと知る」 ここに気づけたことが、自分にとって大収穫だと思いました。 この意味付けは重要です! 本当に笑顔ってどんな人をも魅了する力があります。 これに叶うメイクも化粧品もないでしょう。 そして年齢もまったく関係がなくなってしまう。 顔の老化を通して私は、ここにたどり着くよう学んでいたんだなと納得。 どうして、この人って魅力的なんだろうって考えたとき、 やはりその人の笑顔が浮かびます。 コンプレックスってかなりありますので、 これから一つ一つ意味付けワークをやっていくと、 目から鱗のものがたくさん出てきそう。 今回のこの大収穫も、今の自分であるからそう捉えているわけで、 マイナスの経験から獲得してきたものにさえ、もしかしたら一喜一憂しなくなる日も来るのだろうか・・・ そういう自分の変化も楽しみです。 素朴なアイス おいしいよー♪

あっちの世界と

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命日でも何でもないのですが・・・父の話。 大好きな父親へ今でも何かあったりすると、 いろいろ話しかけていることがあります。 そして、最後に必ず、「そっちはどうですか?」って聞いてしまいます。 こっちはこんな感じのことがあって、 私はこう思って、こんなことをやってみて、 その結果、私は幸せだということを報告。 だから(私も話したのだから)、 父親にもあっちの世界のことを少しは聞きたい・・・のだけど、 それは無理なんだろうから~ たとえ返事がなくても話しかけ感謝の気持ちを伝えています。 こうして独り言のようなことを時々するのですが、 生きているときと大して変わらず、 自分の思いは充分通じているんじゃないかと思っています。 あっちの世界にいるというのは、 ある意味あっちで生きているということだと思うので (こっちの世界では死んだことになっているが) いろいろおきてがあって、交信や交流は滅多にできないし、しちゃいけないのかもしれないけど、 きっと今見ているこの世よりもずっと次元の高い世界にいるのではないかと、 勝手に思っているのです。 だから、自分が悩んだりもがいたりしている姿を見て、 おそらく微笑ましく思うだろうし、静かに見守っているんだと思う。 大丈夫、いずれちゃんとわかる日が来るよ~って。 これは今の自分の死生観。 亡くなっている人たち(ご先祖様やその関係の方々)には、 本当にいろいろな場面でお世話になっているのだと思えてなりません。 今日も一日、 生かしていただいて、ありがとうございます!! こんなイメージ

自分を応援してくれるもの

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自分を応援してくれるものって、 普段あたり前すぎて気づかなくなっていることがあると思います。 今ある環境だけではなく、 これまで自分がやってきたことの中に、 繰り返し身についたものや一生懸命に努力して身につけてきたもの、 そういう自分の一部となっているものが、 日々ちょっとしたことで自分を楽にさせてくれているような気がしました。 以前は、人前で何かを説明するとか、 セミナーのように一人で話すということが本当に嫌で嫌でたまりませんでした。 一対一ならばそこまでではないにせよ、 「人前でちゃんと話せない自分」というパターンは、 もう本当に長い間、パターンとしても認識されないくらい、 これが自分なんだ!と信じてやまなかったのです。 でも、カウンセラーをやっていこうと思った時から、 自分からお話をする機会(小さな講座)を開くようになり、 ちゃんと話せない、ではやっていけず、 何度も頭が真っ白になりながら、恥をかきながら・・・ それでも話していていくうちに、 ちょっとづつそういう自分にも慣れてきたのだと思います。 緊張していてもいいし、噛んでもいい。 内容が多少間違っていたとしても(いや、間違ってはだめだけど)、 今の自分で背伸びさえしなければいいのかもしれない。 って思うようになっていった。 この、無理をせず今の自分のままで話そうという意識が、 本当に少しずつですが身についてきたように思います。 それらがいつの間にか自分を支えてくれていたんだなあと思うし、 自分を応援してくれているように思うのだ。 そう思うと、これまでいろいろな失敗があったけれど、 そういう経験そのものが力になってくれたのだと、ありがたく思います。 自分が緊張するときって、大体何か立派なことを言おうと思ったり、 よく思われたいというパターンが発動するときなのです。 だから、心臓がばくばくしてきたら、 そういうパターンが出てきて頑張ろうとしているんだなと、 また自分を知ることができます。 そう、そうやってあたり前になりつつあることも、 パターンがいるからこそ気づけるのであって、 パターンが騒ぐというのは、 自分を応援してくれているってことなのかもしれないです。 穴場的なカフェ 今の季節がまたいい感じ!

のんびりお昼寝

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今日は秋田(温泉宿)でのイベントでした。 お昼ご飯やおやつをいっぱい食べた後に眠気がきて、 大広間の畳でしばしお昼寝をしました。 ここ数日の忙しさで疲れがどっと出たのか、 それがかえって心地よいだるさとなって眠ってしまいました。 イベントといっても仕事ではないし、 でも完全に遊びではない。 お客さんが来たらちゃんと対応するのだし・・・ それなのに昼寝するって、 寝て起きたときにいたお客さんどう思ったかなと、ぼんやり我に返りました(すみません!)。 そんな自由すぎるほどの空間にいて、 さらに自分は好きなことをさせてもらい、 誰が来るのかもわからないわくわくの中で、のんびり休みながら待っている。 これこそ申し訳ないくらい贅沢な時間だと思いました。 お客さんとの会話は不思議なくらい温かく楽しく、優しい気持ちになります。 これまで否定的な人がいないからそう感じるだけなのか、 それとも、相手の反応など何も期待していないからなのか、 あまり考えずに流れるままにいるからなのか。 よくわからないけど~ 今日も誘ってくれた友達に感謝だし、 普段もこれくらい温かい気持ちでのんびり行きたい。 みずほの里ロード  こういう田んぼの中を走るって最高! 

伝えるということ

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心のカラクリを、久しぶりにお話させていただく機会がありました。 今や企業研修のメンタルヘルスについての内容はピンからキリまであって、 (って言い方も何だけどー) ネットを見ればいろいろな話を知ることができます。 でも自分ならどんなお話がしたいだろうかと考えると、 やはり、自分がこれまでやってきたことを伝えたい。 それしかないと思いました。 伝えたいと思ったことが、本当に伝わったかどうかは、 きっと半分、いや10分の1にも満たないものなのかもしれません。 でもやっと最近はそれでいいんだって思えるようになりました。 そもそも伝えたいというのも、 何かもう少し違う表現、言葉はないのか?と思うけれどー(今は浮かばない)。 話をした、伝えた、のは自分ですが、 それをしたことで自分の方が参加された方たちから与えられるものは、 断然大きいのではないかと思います。 新入社員ということで、受け応えのフレッシュさに自分が終始なごまされていたのもそうです。 講義中、ちょっとポカンとした表情をされて、 いつもだったら焦ってしまうところですが、 今回はその表情から、 なんだかよくわからなくても大丈夫、進んでいこう! というたくましさを感じたり、 そうだ、やり方を教えることではない、 私が届けたいことはハウツーではなかったと気づかされたりしました。 まだまだまだまだ未熟な自分が受け取ったものは、他にもたくさんあります。 素直さ、純粋さ、好奇心、楽しむ心、謙虚さ、 たくましさ、思いやり、尊重、洞察力、受容、前を向く力、などなど。 いやいや、よく考えてみれば、 今回に限らずいつだって私は、伝えたいとか何とか偉そうに言いながら、 今の自分に必要なものを相手から教えてもらっているんだな。 今日もガンガン暑かった(誰も歩いてないよー)

オンオフの差別なく

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今日はなんだか疲れました。 全力で頑張りましたよ、お仕事。 (この歳で、全力でやってしまうとは・・・) 疲れてしまうほど頑張ったのはパターンもあるけれど、 今日は、それを自覚するだけにして終わりにします。 疲れたときは寝る!につきます。 横になったらたぶん数秒で眠ってしまうなあ。 それくらい、くたくたで帰宅した途端、もう余力体力がありませんでした。 先日の鍼灸治療中に、すっかり意識が飛んでぐっすり寝てしまい、 やけに最近そういうことがあるので先生に聞いてみたら、 やっとリラックスができる体になってきた、ということなんだそう。 えーーー!リラックスできてなかったのか・・・そうだったのか自分。 もっと日常でも仕事でも差別なく、 リラックスがあたり前になっていきたい。 今日は暑かった 33℃

やってしまった後

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今日は朝から、 あ、今自分はパターンで言ったな~とわかった瞬間がありました。 完全に黒パターンで発言して笑ってごまかした自分がいます。 肝心なのはここからで、 黒パターンで言ってしまったけれど、その後、自分はどうしていくのか? どうありたいか?です。 (これは今年の私の抱負でもある) どうありたいって、 まず思うところは、その先も黒パターンで行動することはやめたい。 そして、その行動が表面的ではなく、 本当に白の部屋に入ったときのあの清々しさをもってして、 こんなふうに自分はやりたいんだと思ったものを大事に、 その「こんなふう」な感じをしっかり自分のものにして行動に移したい。 黒パターンで話すことなど山ほどあるので、 むしろ一瞬一瞬が自分の責任なんだと思う。 今朝、ああ、やってしまった最悪だ・・・ そう思ったということは、 パターンで行動などしたくない、汚点をつけたくない(パターンは汚点だと思っている)、 自分はそんなこと言う人間ではない、完璧でありたい・・・っていうパターンが、 「やってしまった」と思うのです。 そこから一気に飛んで、何でもありの「私」ではなく、 まずは白パターンだったらどうなのか? 白の部屋の声を感じてみて、 さあ、どうありたいか? りんごの木 青い実がなってました

人との交流のいいところ

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先月、お隣り秋田で、 友達と一緒に物々交換のイベントをやってみました。 お客さんはあまり来なかったのですが、 一つ気づいたことがありました。 そのイベントは、一番が人との交流を大事にしていこうとやってみたのですが、 人と交わっての楽しさは、自分がほしい言葉をもらったからではないし、 自分に何か有益な情報を得たとか、儲かったというわけではないのです。 じゃあ、なにをもって楽しいと感じたのか? それは、相手の話を聴いて、 相手のことを思うということになのかなと思いました。 ただただ今感じた小さな幸せをお互いに交わすことのような感じです。 知らない人同士が(知っている人同士でもいいんですが)、 他愛もないことについてああだこうだ言葉を交わし、 ちょっと笑えたり、ちょっと話が深くなっていったりしているうちに、 どこかで相手のことをちょっとだけ知ることになる。 その時に、きっと自分自身のことも(今何を感じたか)知ることになる。 そんなやり取りがいいのかもしれません。 そういうことって、そもそも心のゆとりがないと感じられないことかもしれません。 イベントなんだから人が集まらないと始まらないとか、 この場ではこうあるべきとか、こうならなきゃ成功じゃないとか、 そういうものからは、それにふさわしいものだけが生まれる。 でも先日感じたものは、 今目の前にいる人との時間だけ。 今いろんなことを感じて生きているんだなあって思いをめぐらし、 感じた自分も俯瞰してみるのが面白かったのでした。 今月も開催しますが、 まだまだ何を自分はやっているのか、ただ好きでやってみていることを、 もっとわかりやすく自分なりに言葉にしていけたらいいなあ。 揚げないドーナツ屋さん。行ったら、営業は夜だけでした

追い求める

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今の自分の状態を、自分なりに観察し理解しゆがみなく見る。 ゆがみが全くゼロってことではないけれど、 少なくても、今までの自分の学ぶ姿勢は甘かったんだなということが分かります。 だから頑張らなきゃ、やらなきゃってことではなく・・・ もうそういうこと(自分を見ないで生活していくこと)はしたくないな、 もうそんなことをやっている暇はないんじゃないか。 四六時中そこを見て、与えられる経験を重ねていきたと、 心底思ったのでした。 なんて言うと、そこまでの話なのかと、 もっと気楽に生きても、充分幸せ感じて生きていけるんじゃない? と思う人もいるかもしれません(むしろ、こっちが普通?)。 その通りで、 自分を理解しなくたって、見た目には何も変わっていないし、幸せを感じないわけでもない。 仕事だって変わらずあるし、家族もいるし、健康な肉体もある。 もしも外側の人格だけを、さも成長した自分でいるかのように見たいと思えば、 そう見えるようにできないわけでもない。 だけど、 自分の中から湧き上がるものには、 これにはウソはつけないんだと思いました。 もがいて失敗してかっこ悪く見えてもいいから、 どこまで自分を追求していけるのかに人生を使ってみたい。 相手がどうとかではないし、これまでの環境に原因があるとそれらを責めるのも違う。 今のこの自分の状態は偶然ではなく、自分が自分でつくりあげた世界であると、 そこへの甘えはもう捨てていこうって。 今日は、そんなふうな、大事な思いをクラスの仲間と話し合えたことが、 とても良かったです。 はじめに「思い」があります。 その思いが強くて清らかなものであれば「思いつき」だって向こうからやってくる。 その思いつきを、何の根拠もなく信じてやる。 不安になったら「私」は全然そうは思っていないことも思いだそう。 自分を知るためのカードの数々。 今の自分にどんなものが必要でまた不要なのか、 特別な場所ではなく、毎日の生活の中でそれらを散りばめていこう。 瓶ドンって楽しくておいしくて感動!

両方の部屋に入ってみる

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ずーっと気になっていたことがありました。 お墓参り後のお花の片付けって、 皆さんどのタイミングでしているのでしょうか? 遠方でお盆にしか行かないという方は、 一年後だったりしても仕方ないと思いますが、 私の場合、父親のお墓は車で10分もかからないところにあります。 3月のお彼岸に行ったきり、 いつかの午前中に片付けに行こうと思って~、数か月経過。 今日こそは片付けに行こう・・・かな? 境内にある親戚のお墓のお花もそのままになっているし、 と一瞬思ったけれど、今朝は小雨が降っていたこともあり、 夫も休みだからどうしようって(それは別に大した問題ではないが)、 またしても、もんもんとしていました。 お墓に父がいるわけではないにせよ、 枯れたままの花がそのままで放置され、 雑草やなんかもボウボウになって、墓石もかなり汚れてあろうことは想像に難くない。 親戚のお墓も同様(自分しかもはや動ける者はいない)。 今日を逃すと、またいつになることやら・・・ そして、もう一つの気がかりは、 お店の割引券3,000円分があと数日で期限切れになってしまうことです。 これまでのお買い物してきたサービス券です・・・使わなきゃもったいない! しかし、このお店は思い立ってすぐに寄れる場所ではなく、 車で1時間半近くかかる沿岸のお店。 わざわざこの割引券を使いたいがために行くのもなあ。 でも幸いにも、行けば行ったで夫のご先祖様のお墓参りができます。 こういう時は、久しぶりにあの方法だなって思い、 それぞれの部屋「行く」と「行かない」の部屋に入ってみました。 「お墓掃除をしに行く」部屋に入ると、 すがすがしさ、軽さ、穏やかさを感じます。 そうじゃない部屋は、どんより、胸のあたりがもやもや。 「ドライブしながらお店に行く」部屋に入ると、広がり、落ち着き、 ちょっとわくわくもあるかな。 そうじゃない部屋は、何だかしょぼーん、ため息が漏れます。 直感での結果はあきらかで、いかに頭で考え続けていると決断できないのか、 ちょっと分かった気がしました。 そして、自分の変化も今回感じられました。 もしかして、思考を使わないようにしてきた練習のたまものなのか? 以前よりも、頭で考えようとせずに、 ちゃんと感じられている自分がいたように思います。 というわけで、 今日は曇り空の下どちらも決行! お墓参りってやはりいい...

禁句、禁止

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普段自分に向けて投げかける言葉に、禁句を設けています。 禁句って絶対に使ってはだめってことだから、今までだったら、 どっちでもいいとか、楽にいこうよ~って、 自分に向ける言葉の方が多かったので、これは真逆の挑戦です。 「自分って、そういうのが苦手」「そういうのは昔からできない」「だって、頭悪いから〜」 「やったことないから~(だからできなくて当たりまえ)」「絶対自分には無理」「それが自分なんだし~」 などなど・・・ こういう類いの自分に対しての信頼や自信のなさが見える言葉は、 もう使わないと決めました。 他にも、思考の禁止も練習中です。 と言っても何でもかんでもではなくて、 パターンであるのにいつまでも考えているときは、禁止ということ。 本当にこれ、癖になっているんですね。 思考で頭がぐるぐるしている・・・その結末は、 大していい考えなどは浮かんでいないのです。 だからもうそれはストップさせたい。 そういうことを少しずつやってみて思うのは、 もうその言葉を使えないとなると、 潔く、違う自分が顔出してくるように思いました。 もう言い訳もできませんから、 あきらめて(明らかに認めて)、ひたすら前を向いていこうとする自分です。 小学生の頃に担任の先生から、 「どうせ〇〇だからー」って言葉は使ってはダメと言われたことがありました。 すごく厳しい顔をして、 とにかく、ダメって言ったらダメ・・・だと。 子ども時代の先生というのは、間違ったことを言わないと思っていますから、 いまだに、「どうせ〜」は自分の中で滅多に出てきていない言葉のように思います。 いつもいつも言い訳があって、本当にできるとは信じていなくて・・・ それはできない理由を無意識に考えるパターンがいるからです。 ということは、自分に自分で限界を毎日せっせと作っていると同じことなのだ。 心の限界をなんの疑いもなく作っている。 これは、かなり損なパターンだと思いました。 根底にこんなことを信じていては、自分の老後も危ない・・・ でも、その手にはもう乗らないと決めた今、 きっと少しずつ変わり始めているに違いないと思います! ヘラルボニーのカフェには、素敵な作品たくさん見れます!

今日の幸せ

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寝る前に、一日を振り返って小さな幸せに浸っています。 ささやかな喜びを感じたことや、良かったなあとしみじみ思ったこと、 誰かに何かに感謝したことを思い返しては、 そういう一日を過ごせたことにお礼を言っています。 今日は二つほどあって、 一つは、急な仕事が入って少しの時間を自分が受け持つことになり、 来週ある仕事の予行練習のようになったということ。 来週の仕事というのがちょっと重荷だったのです。 正直相手がどういう感じなのかがわからないし、どんな感じに進むんだろう・・・って、 つまりは想像することができず、不安もあるしやる気も起きなかったのです。 でも、そんな自分を目覚めさせるかのように、 今日急に入った予定のおかげで、それらが少しイメージすることができたのでした。 誰かのためになるということがはっきりと今日わかった感じがあったので、 誰かのためになるのならば、ちゃんとしたものにしたいと、 スイッチが入った気がしました。 そしてもう一つは、母とのおしゃべりです。 いつものように夕飯作りに実家へ寄ると、 母はめずらしくソファでうたた寝していました。 ちょうどご飯ができあがる頃にむくっと起き上がって私に気づき、 「今日はね、外歩いたから疲れちゃったのよ」 と、私が来ていたことに気づかず寝ていたことへの言い訳をしたかったのか、 何度もそう言って笑っていました。 その笑った顔で、デイサービスのご飯がおいしい話、 今は誰も住んでいない近所のお友だちの家まで歩いて行った話、 リハビリに男性スタッフさんが来て、案外いい人だったという話、 ケアマネさんとはもう長いつきあいだという話、などなど。 たくさんおしゃべりしたことが本当にうれしくて楽しかったです。 他にもいろいろあったけれど~ 今日はこの二つの体験が、 いつでも自分は幸せの中にいるよということを教えてくれました。 そうしてまたこの幸せを感じる心が、 明日の自分を創っていくのだと思います。 今お気に入りのノート(ツバメノート)

どんな自分がやっているのか

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今日も朝から、もやっとしたり、イラっとしたり、 何かしらのパターンが引っかかっていることがわかりました。 今言いそうになったのは完全にパターンだな・・・とか。 そう分かったので、黒で何かを言うのはやめたりする。 パターンに引っかかってもいいし、 パターンで言動してもいい。 だけど、それでは一向に今までと変わらない自分であるため、 パターンだと気づいたら、黒から白へ選び替えるということをやっています。 (語りかけもちゃんとやる) その選び替えが表面的なことなのかどうかは、 誰がそれをやっているのか?というところです。 いじけた自分がやっているのか? 相手をぎゃふんと言わせたい自分がやっているのか? はたまた、お利口さんに見せかけた自分が聴きわけよくやっているのか? ここでの自分というのはすべて黒パターン。 そうではないということは、 「私」を機能させて、失敗を恐れず常に観察して何度もやっていくしかない。 14日のチャグチャグ馬っこルート

その隣りにいる人

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突然ですが、「支援」って何だろう。 調べると、「他人の行動や取り組みに対して、うまくいくように力を貸して助けること」 って書いてました。 13年ほど支援者という仕事をやっていて、 いまだにそれがどういうことなのか、分からないのが正直なところ。 支援者ってとても嘘くさいと思っています。 心の中では、相手にそうなってほしいと思っていなくても、 それ以上のことがわからないからベストだと思ってする、っていうことがあるように思うから。 他人に力を貸して、うまくいくように手助けする? うまくいくって何?誰にとってのもの? 本人にとってそれが一番いいこと・・・なんでしょうが、 それは本人でさえも分からないんじゃないかと(誰もわからないって!) 時々もんもんと思います。 もっと長い長い時間をかけて、 あの時、ああなって良かったのかもしれないって、 そう振り返るときが来たら、 その人はちょっとだけあの人(支援者)と出会って良かったなと、 そう思って懐かしむことがあればそれでいいのかもしれません。 支援者も、支援という仕事の中でしか学べない自分がいて、 たまたまこの仕事に縁があってやっていることに気づきたい。 支援する側とされる側。 そういう線引きをしているつもりはなくても、 この言葉がすでにもう、上と下の関係を作っている。 何か違う言葉はないかなと考えていたら、 「その隣りにいる人」っていうのが浮かびました。 一緒に悩んだり、怒ったり、笑ったりしながら、 何かに向かって一緒にただひたすら歩くような関係。 共感はするけれど、そこに依存はない。 もっと言えば、出会えて良かったなあ!と思える関係です。 この仕事の良さは、それが何年も経った後にわかるところなんだと思う。 ヘラルボニーの青!365日、盛岡のおいしい水が飲めます

忙しいとき

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仕事の予定がたくさん詰まっていて、 今月のカレンダーを見ただけでも、 ちょっと大丈夫かあ自分・・・って思ってしまった。 そこで「予定がいっぱい」という、 仕事が忙しいというところでの意味付けを考えてみる。 「予定がいっぱい」という事象は、単なるその言葉通りで、 そういう一つの体験だということなのですが、 そうは受け取れない今の自分がいます。 (すでに、大丈夫か?と心配モードに入っているから) この状況は、例えば経営者ならうれしい悲鳴かもしれないけれどー 一般的にはマイナスの意味付けが最初に出てくるのではないかと思います。 「予定がいっぱい」のマイナスは、 ・忙しくて疲れる ・体調を崩すかもしれない ・時間に追われてゆとりがなくなる(自分の時間もなくなる) ・気持ちが焦る ・たくさん考えなければならないことがある ・どっかでミス(へま)しそう これらはすべて、 自分自身の過去の体験を通してすりこまれた捉え方。 それによってネガティブな感情がわいてます。 でも、ここから、 これらマイナス体験を通して自分は何を学んできたのか? という捉え方で一転、プラスの意味付けを考えていきます。 プラスは、 ・体を休ませる工夫をする(体調に気をつける) ・よりリラックスしてやろうと試みる ・自分が過ごしやすいように一日を組み立てる ・慌てず丁寧に仕事する(人と関わる)努力をする ・次のスケジュールの立て方を考える ・こういう時こそ自分と向き合う こうしてあげると、心なしか平常心に戻ってくるので不思議です。 予定を一つ一つ丁寧に取り組んでいけば、 もしかしたら、今まで知らなかった別の世界を知るのかもしれない。 そんな明るい先の見通しも感じられました。 楽しんでやっていけばいいよ、って。 本来は、予定がたくさん入っている。 たったそれだけのことなんですが・・・ 今月は、このプラスの意味付けに背中を押してもらおう。 こちらのさつきも可愛い

平たく言う

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近くの公民館でさつき展が開催されてました。 若い頃は、こういうポスターを見ても素通りでしたが、 丹精こめて育てた盆栽をちょっと見てみたいなと思い、寄ってみました。 さつきとツツジって同じような低木でどっちがどっちなのか、 どこが違うのか全然分かりませんでしたが、 花が咲くと、さつきの方がツツジより小ぶりな花なんですね。 昔から家の庭にはたぶんどっちかの花がいつも咲いていたので、 (時期的には先にツツジが咲いて、後からさつきが咲くそう) なんだか庶民的な花というか、身近で親近感があります。 この、庶民的で身近な感じ・・・、 昨日のセミナーで言われたことを思い出しました。 質問されて、答えを探そうとするんですが、 考えても考えてもしっくりくる言葉が出てこなくて、 声がつまってしまいました。 やっと何とか浮かんだ言葉も、 自分でもこういうことを言いたいんじゃないんだけど・・・って思うような、 質問の主旨とずれているような、かみ合わない言葉。 背伸びしているわけでもないんだけど、何か違う。 「もっと身近な言葉を使って」 「平たく言えば、それってどういうこと?」 先生から突っ込みが入ります。 もっと自分らしい身近で適当な言葉って何だろう。 自分でもそういう言葉を探しているのですが、 うっかり口をついて出てきた言葉は、 ああ、私、こういうのが苦手なんだよなあ・・・と。 すかさずそこも指摘されました。 もう、苦手とか言ってる場合じゃない。 ボキャブラリーが少ないとか、全然できないとか、思い浮かびませんとか、 そう言っては許してもらおうとしてきた自分の歴史に、いい加減さよならです。 平たく言うって、分かりやすくシンプルに言うということ。 ここにとても難しさを感じます。 わざわざ小難しい言葉ではなく、普段使わないような飛びぬけた言葉でもなく、 かと言ってありきたりな表現でもない。 もっと等身大の自分にふさわしい、聞いた相手にすーっと届くような、 そんな言葉があるのだと思います。 そこを選べるようになるまでは、 いろいろ変な、よく分からない言葉が出てくるかもしれないけれど、 たくさん失敗しながら自分で考え練習していこうと思いました。 (さつき展の話からここまで来ました~) ここは昨日の日記とは打って変わって、 よーく頭を使って考えたいところです。 こんな可愛いさつきもありましたよ!

考えることを止める

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今の自分とはどんな自分なのか? ここがちゃんと見れていないと何も始まらない。 ということを教わりました。 自己観察は、 現実の自分を、ゆ・が・み・な・く見ること。 ただ見るだけではなく、 もう一歩踏みこみ、 冷静に厳しさや鋭さをもって見ないと、ゆがんでいるのかどうかが見えないのだと思いました。 いろいろなプライドがパターンたちを操作しているので、そこも手ごわいです。 自分の状態がどうなっているのか、 ちゃんと知ろうと思ったら、半端な気持ちではできないことなんだな。 自分が今何をしようとしていて、 その動機はどんなものであるのか? パターンでやっていることがあればそこへ語りかけをし、 そのパターンを甘やかすプライドの声には耳を貸さない、という強い意思を使おう。 時々、パターンだと気づいた後にも何かぐだくだと考え続けている自分がいます。 心に引っかかるものが明らかにあるのに、パターンをそのままにしていたり、 または、本当にまったくパターンだとすら気づいていないこともあり、 そういう時は、今起きていることを頭で何とかしようとしているのでした。 だからもう、考えることをまずは止める(私の場合は、です)。 考えれば考えるほどに、頭の中をぐるぐるさせるたびに黒パターンを大きくしているということ。 そして、本当の「私」が育たないようにじゃまをしているということ。 ここら辺にやっと少しずつ気づき始めている自分がいます。 気付いたのだからもう「できる」と信じてやっていこうと思います! 割りばし割るのが下手!

今はこれでいこう

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朝、目が覚めたときに、 本当は何も心配しなくていいのかも・・・と、ぼんやり思いました。 このまんま、全てが成るようになっていく・・・のかもなあって、 そっちの方がなんかいい。 軽さがあって、明るい。 なんの無理も力みもない・・・そっちが静かだなあって。 そう感じたときのこの静けさや軽さが、 ああ今はこれなんだなと、これで行けばいいんだなと教えてくれてる気がします。 こんなふうな曖昧な感じはよくあって、 何となく大丈夫だとか、 何となくこんな感じでいいとか、これは違うとか、一瞬ですが・・・確かに「私」は感じている。 これって特別なことではなく、 それをいつも思考がじゃまして感じられないようにしていただけなのかも。 今日から2日間、楽しみにしていた岩手クラスのセミナー。 この軽さを持って、ピンときたものをつかんでいきたいな。 前回の茅ヶ崎セミナーでは、 このピンとこなかったよく分からないことが、多数ありました。 頭の上のあまりの?マークの多さに頭がもう重かった(笑。 分からないのが今の自分なんだなあと思いました。 あれから・・・ 自分には分からない、とは決めつけずに、 少しずつ薄っすらと時間をかけて、 何となくこういうことなのかなと感じられるようになったものもあります。 それを今回はまたちょっと確かなものに近づけて、 濃いものにしていけたらいいな。 遠くに白鷺(シラサギ)、手前の黒いかたまりは山鳩でした!

最近の健康について

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鍼灸院に通うようになって半年。 昨日は一日中だらだらと過ごして、前日の治療の続きのつもりで身体を休めました。 治療中はだいたいぼんやりと眠くなり、気持ち良くなって本当に寝てしまう時もしばしばあります。 帰る時にはすっきりして身体がちょっと浮くような軽ささえあるのですが、 翌日の朝は決まって全身だるくなります。 これが・・・結構きつい。 でもこのだるさは身体が回復しようと調整を図っているからだそう。 私はこの「調整中」という言葉が好きです。 一旦バラバラになったものが自然治癒力で自ら整っていこうと細胞たちが動き出す。 そんなイメージがあって、そこをじゃましないように私自身も昼寝をしたり、 体が重いうちはだらだらと過ごして協力しています。 先日、この10年でかなり体重が増えたこと、二重顎を何とかしたいことを先生に訴えたら、 それは太っているのではなく、むくんでいるのだと言われました。 体から本来出ていくべきものがちゃんと出ていかなくなっているという状態。 3食食べたらその分出す、飲んだら出す、汗をかく、解毒もしていく。 つまりは体にたまりに溜まっているものがあって、それらを内臓の老化と共に出せなくなってむくんでいる(それが太るということじゃ)というお話でした。 太っていることを気にしてましたが、「むくみ」と呼び名が変わると、 自分の体をもっと大事にしたいと思うようになります。 腹八分目ならぬ七分目が本当は良いそう。 私は肺機能のこともあるのでなおさらで、 自分の無知と欲望(食欲も欲なんだなあ)でここまできてしまったのだから、 これからは少しでも労ることをしていこうと思いました。 体力をつけたいとやっていた歩きやヨガも、先生に言わせれば私の体には不要で、 とにかくたくさん寝て温かくして休んで下さいと言われます(これは個人差ありの話)。 それを言われた時は、え!運動しなくていいんですか?とびっくりしつつも、なんだかやっと安心できた自分もいました。 もしかしたら、普通に家事をして仕事をして、それだけでいいのか。 先生曰く、老化は毎日進んでますから頑張らないように。 日本人の働き過ぎ(社会構造)と若い頃からの睡眠不足の習慣が「老化」にも気付けない鈍感な体を作っているそうで、 昼寝や目を閉じて静止するだけでもいいようです。 それらは心のゆとりにも全部つながっているのでしょうね。 ...