場数を踏む
苦しいと思うことの場数を踏んでいく。
苦しいと思っているのは本当の「私」ではなく、自分の中のパターンがそう感じています。
ということは正確には、パターンが苦しいと思っていることの場数を踏む、について感じたこと。
自分が苦手としていること、好きではないことに対してやらなければならないことってある。
この苦しいけれど、やらなければならないことの場数を踏むって、
「私」がやろうとするのかパターンでやろうとするのかで、
そこまでの過程も結果も当然のことながらすべてがらっと変わってきます(場数を踏んでいるのって誰?)。
何度も経験を積んでいけば、少なからずスキル的なものやスムーズなやり方、コツなど、
感覚的に上手になっていくものもありますし、
度胸とか、失敗に対しての免疫?も確かに備わっていくので、
表面的には慣れてきたようなふるまい(そつなくやる)になっていくということはあります。
けれど、
どんな気持ちでそれをやるのか、そこにいる自分はどうなっているのか、というところが本当はとても気になっている。
苦しい、苦手、これ本当にいや・・・と思っているパターンが主役になってやってしまうと、
パターンは楽したい、早く終わらせたい、適当に済ませたいという方向に向かって進み、
又はその逆で、失敗したくないためにあらゆる手段を頭に詰め込み、しつこいくらいガチガチの準備をしたり、
心の中は暗く重く固く、いずれにしても苦しさの中でやっていることには変わりありません。
この苦しいという感覚は、今パターンでやっていますよ~というサインなのですが、
良くも悪くも場数を踏んで状況はましになってきてはいるために、
パターンのケアが先延ばしになってしまっているということがあるのだと思いました。
毎回苦しさを感じながらも、終わればまあいいか・・・という感じで。
本当の「私」は、どんな感情も受け入れられるので、それもありだと言えばありですが、
〇もうそれを、苦しいものと決めつけなくてもいいのかもしれない
〇もうそこから(苦手なもの、嫌なことだと思い続けることから)自由になっていこう
〇自分のために楽しんでやってみよう
等々、「私」が選ぶものならばもっと気持ちが軽く、楽に、たんたんとやれるものになります。
結果、そこに何かを求めるということがなくなっている、
という大きな心の転換はパターンでやっているうちは決して行きつかないところ。
この軽くて晴れやかな気持ちでやれたとき、
もうパターンにさせてはいけないなあとやっと思うことができる。
もう済んだこと、苦しみが去ったこととせずに、
その時に確かに感じていたものをちゃんとケアしてあげたら、経験は全く違ったものとして自分の実になっていくのだろうと思います。
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