枯れてもなお

若い人ならば、
この先その人がどういう形であっても何かしら成長していくことを想像できるけれど、
年老いた人が成長していくことってあるのだろうか・・・と思っていた。
年老いて、動作もたどたどしく、目も耳も悪く話し言葉もなかなか出てこない。
そんな明らかに残りの人生が長くないとわかる人が、老い先短いその人生に、
何かを得て自分自身が変わっていくことってあるのだろうか・・・と。

ものすごく失礼な話なのかもしれないけれど、成長は止まってしまうと思っていたんです。
もうそれ以上、何かから学んだり自分を変えたりということはなくなって、
寿命が来るその日まで、ただ楽に穏やかに、
その人自身だって、悩むことをせず苦も何もなく生きていきたいと思うのではないか。

どうしてそんなことを思っていたかというと、
認知症になって老人ホームで暮らしている父を見ていると、
日々の出来事に対して何か感じたり考えたりする瞬間はあったとしても、
その事自体を記憶することがない。
それって、今を生きていくだけの人生であり、
今を生きることが苦手なわたし達からすれば、それは究極に尊いことだけれど、
そこに進歩や成長はほとんどないように見えるからです。

だけど・・・
進歩や成長を自分自身感じることができないとしても、
周囲の人たち、関わる人たちに対しての何かを問いかけること、
何かを与えることはできるのかもしれないと思うようになりました。
むしろ、自分の年老いた身体をもってしか『経験』を与えることができないものを、
父のような年老いた人たちはそのために寿命を使っている、
または存在していると思えてならないです。

紅葉した森の木々を見ていると、
枯れ葉は、他の木や植物たちがもっともっと生き生きと育っていけるように落ち葉となって役目を変え、
命を削って森を育てていきます。
人間もそれと同じで、
枯れ葉でなければ周りの人へ影響させられないものがあるんだと。
そしてまた、枯れ葉の中でもさらに時間とその環境の中で、肥料としてふさわしい葉っぱに進化していく・・・
これってなおも成長し続けているということ。

父の頭の中の世界のことは想像できませんが、
自分が見ているものの世界とは全く別の異次元での世界の中で、
今も何かしらの経験を積んでいるのかもしれないです。
母も同じように、
もう年をとったから悩みや苦しみに向きあうようなことは無理だと思っていましたが、
生きている以上、そこに向き合おうとする魂があり、
母なりの落としどころで価値観を変えてみたり考えてみたりしながら、
最後は自分がそれでいいと思えるところの気持ちで、自分が決めながら生活しているように見えます。

両親だけでなく、
たくさんの大、大、大先輩方が成長をやめずに生き続けている様を、わたし達は見せつけられているわけですから、
わたし達まだまだ若い者は、
もっと果敢に自分と向き合い、自分を知り、自分を大事にすることができたら・・・
それ以上に自分以外の者へ自分を捧げることができたら・・・そこを目指したいと思ってしまいます。
ものすごく壮大な夢ですが、
自分も最後は枯れ葉となって人生をまっとうできるように今を生きたいです。










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