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感情の波

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自分が見ているものは、自分の心の状態によって変わるといいます。 いつも見慣れている景色が、とてつもなくきらきらと輝いて見えるときもあれば、 何の変哲もない、いつも通りの景色そのままだということもある。 自分の心次第で、見える世界が一変する・・・ ということは、 今、自分ってなんて不幸せなんだと思っていても、 もうその何秒後かには幸せを感じている、ということも当然あり、 毎日忙しいほどにいろいろな感情があれこれ湧き、そこに振り回されているのが人間です。 では、どうしたらこの感情の波をコントロールできるのか。 できることなら、いつも安定した穏やかな心で過ごしたい。 どうしたらそうなれるのだろうか。 その一つの方法として、 安定していないことも、穏やかではないことも、 最悪だと思うことも、不幸せだと思うことも すべての感じる心(感情)をそのままに観察してみるということをしています。 自分を見るというのは、 そこに何も付け加えることをしないということ。 いろいろな解釈をせず、意味を持たせず、何かの理由を付けず、 本当にそのままの自分の気持ちにOKを出す、ということなのだと思います。 ・・・それって結構難しい、と思うかもしれませんが(自分も思っているが)、 難しいなあと思うその気持ちも、 そう思ってはいけないとか、前向きに考えようとか、 自分は選ばれし人間だとか、 とにかくいろいろ変換や装飾せずに、 そのまんま「難しいなあと、もんもんとしている自分」でいい、ということなのです。 この観察が、いつしか自然に「感情の受容」というものに変わっていくような気がしています。 ただただ観察し続けていくと、 なぜか、そこにその感情に対しての抵抗が薄れていくような感覚が出てくるのです。 人としてあるべきもの、あっていいもの、 自然なものとして受けいれてしまうことがあるのかもしれません。 感情という荒波を行ったり来たりする極端なパターンたち。 そのパターンたちを観察しているのが、本当の本来の「私」。 だから心の安定、心の穏やかさは、「私」の力量が問われるところなのです。 それは感情を押さえつける力ではなく、消し去る力でもなく、 コントロールする力でもないのです。 そのままでいいとすべてを包み込む力。 そういうことを毎日やるために、いろんな事が起こるんだなあと思います。

ノートに書く

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なんだか頭がストップしているような気がします。 語りかけワークがちょっと進みません。 恐ろしくスローな感じになっています。 自分がどんな感情であるか。 ここはあまり思考を使わないところですので、 感じるまま「○○な気持ち」というふうに言葉に出てきます。 でも、その先が問題です。 どうしてそう思ったの?というところで自分の頭はストップしているのです。 久しぶりにノートに書いてみようと思いました。 腹が立った、悲しい、むなしい、胸がつまる感じ、つらい、等々 それらに対して、どうしてそう感じたのかの理由を書いているのですが、 思ったほどにすらすらと書けないでいます。 なおさら、何のパターンが自分の中に潜んでいるのか、そこにたどり着いていません。 一つに絞れない・・・ぴったりな言葉が出てこない・・・。 ある意味、とてもゆっくりと感情に対しての正直な理由をさぐっているかもしれません。 いろいろ複雑に考えてしまうと、はじめの感情からかけ離れたものになってしまう。 はじめに引っかかったことは何だったのかを思い出し、そこに言葉をあてはめて見ますが、 まだしっくしきていない感じがあります。 どんなパターンがあるのか、 考え過ぎるとパターンがパターンを作ることにもなる。 (こんな風に思ってはいけないとか、そんなパターンがある自分はダメだとか) 紙に書くというのは、それだけで心が落ち着いてくることもあります。 逆に、何か違うなあ~と、書いた文字を見て気づくこともあり・・・ 嫌だった出来事を書き、それへの不満を書き、自分を責め、他人を責め、 そうしてやっと悲しくなった理由がわかってくる。 本当は何に腹が立ったのかがわかってくるのです。 書き綴るとき、PCよりも、スマホよりも、断然ノート派。 まずは何でもいいので書いてみよう。

どうせ私なんか?

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ちょっと疲れたなあと思うとき(かといって寝てばかりいるのもかえって疲れるようなとき)、 こんなときは読書がいいです。 最近、あまり新しい本も買っていなくて、夜もすぐ眠くなってしまうため、 久しぶりのごろ寝での読書。 母親が以前読んでいた本をもらってくるのですが、その中に瀬戸内寂聴さんの本がありました。 秘書まなほさんが聞き手となって寂聴さんのお話をまとめた本。 (今を生きるあなたへ~SB新書~ 寂聴さんが亡くなってから完成した本のようです) 目に留まった個所に、今の自分へ必要なことが書かれてあると感じます。 そういう個所を見つけると、読むスピードを落とし、 じっくりとかみしめるように、繰り返し目で追いながら自分の中へ落とし込みながら読んでいます。 まなほさんが口癖だった「どうせ私なんか・・・」という言葉。 滅多に怒るということのない寂聴さんから、もうその言葉を使うな!と、 ものすごく叱られたエピソードがありました。 自分という人間はこの世にたった一人しかいないのに、 まずその言葉には、自分を産み育ててくれた親に対しとても失礼だということ。 そしてそれは自分をバカにしていることと同じこと。 自分を粗末にしていること・・・と書かれてありました。 自分にも小学6年生のときの担任の先生から、同じようなことを言われた思い出があります。 たしか、児童会の何かの仕事を投げ出そうとしていたとき(やけくそになっていた)、 自分にそんな言い方をしてはいけない、逃げるな! ということを先生は言っていたように思います。 やはりまなほさんのように、こっぴどく叱られ、 そんなに怒ること?と思ったけれど、それ以来、優しかった先生が言うのだから使ってはいけないんだ、 と何となく信じてきたように思います。 今の自分が、この言葉に引っかかったのは、その思い出があったということもそうですが、 まさに逃げたいと思うようなことがあったからだと思いました。 思うようにいかないことに対して、 その根底を見ずに、 そんなちっぽけな人間ですよ~どうせ!と卑屈になって駄々をこねている状態でした。 口では言いませんが、心の中ではそう思う自分がいたのです。 思い通りになっていかない状況を、そのまんま受けとめればよいのですが、 「ど・う・せ」という言葉を使うことで、 自分の能力を下げ、価値を下げ、だから仕方ないんだと思うこ...

自分は、ダメなのか

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話がまだ終わっていないところで口を挟まれ、 ばっさり話が終わり、 えーーー、な、なんで・・・とても傷つきました。 自分がすごく粗末に扱われたような、 自分の存在を否定されたような、 腹も立ったけれど、後からとても悲しい気持ちになってしまいました。 こんなふうに感じてしまうのは、 自分を粗末に扱ってほしくない、もっとちゃんと大事にされたかった自分がいたからなのです。 自分の話す内容がどんなものであっても、最後まで言わせてくれる、聞いてくれる。 それが自分を大事にしてくれている証(あかし)だと思っているので、 そこをばっさり切られてしまったと、パターンは深く傷ついているのです。 そう、これがパターンというもの。 こうしてほしい、こうするべき、こうされないと嫌、普通こうしないはず、こうするのが正しい、こうするのはいいこと。 強い決めつけのもと、常識すらある意味その時代のパターンであるのに、 あたかも自分という人間が傷ついた、かのように感じてしまうのです。 そんなパターンのことを冷静に見ている本当の「私」は、いつもすごいなあと思います。 決めつけや常識、こだわるところが一切ない世界の住人なのですから。 でも、パターンが感じていることには心配無用だと言います。 どんなパターンであっても、何も心配することはないと。 傷ついた自分は全くもって『ダメではない』からです。 本当にこのいたってシンプルな『自分はダメではない』ということについて、 何度も何度も一つのパターンをめぐり、それは必ずダメな人間であることを思い起こさせます。 歴史は繰り返される・・・ではないですが、 しつこいほどに繰り返し、思考がどうしてもそこへめぐるのです。 「やっぱり自分ってダメだ~」 「いや、ダメってことはない(そうそう)」 「いいや、ダメすぎるでしょ(ここまで来たらもうダメ)」 「いやいや、それでもダメな人間などこの世に存在しない・・・(信じなさい)」 と、永遠に頭の中でやり取りが続いていくのだと思うと、ちょっと冷静になると笑えますね。 自分はダメな人間ではないけど、パターンは傷ついた。 というところかもしれません。

自己開示の練習

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今日は岩手クラスの勉強会でしたが、かれこれ10年を超えるおつきあいの友たちに、 やっと10年という月日をもってはじめて言えるものがあるんだと思った会でした。 何を言われても、どんな話を聞いても、もうおどろかない・・・かと言えば違います。 もう毎回、おどろきの連続で、 特にこの数か月のところで個人のパターン話にあらためて興味関心が注がれています。 自己開示をしよう!という目標を立て、 特に、今から開示します・・・という感じで話すでわけではないですが、 みなさんとても心の引っかかりを話すようになりました。 引っかかることの気持ち悪さを10年かかってわかってきた、ということなのかもしれませんが、 開示の仕方も、話す動機も、とても不快感がなく(あったとしてもOKで)、 話し方が本当に慣れてきたように思いました。 さて、自分はどうか?と言えば、よくわかりませんが、 ただ、思ったことを正直に言えると、言えたということと共に、 自分の心が洗濯されたかのように何だかすっきりと、真っ白に、心が澄み渡り晴れるような気がします。 自分のパターンで言うところのダメダメさ加減を、 もう一人の「私」が微笑んで眺めているような気がして、 話すほどに心がほぐれていくのです。 今日は、褒められることが当然だと思って生きてきた自分(パターン)の、 褒められなくなって落ち込んだ話をしましたが、 それはそれは傍から見たら聞いたら、 なんてうぬぼれた人、性格悪い、自信過剰な、あなた大人でしょうよ、 と聞いてられない話・・・と思うかもしれません。 そういう話ができることに、本当に自分は感謝しかないと思いました。 みなさん、自己開示、これからもスムーズにできるまで練習おつきあいください。 よろしくお願いします!