どうせ私なんか?



ちょっと疲れたなあと思うとき(かといって寝てばかりいるのもかえって疲れるようなとき)、
こんなときは読書がいいです。
最近、あまり新しい本も買っていなくて、夜もすぐ眠くなってしまうため、
久しぶりのごろ寝での読書。
母親が以前読んでいた本をもらってくるのですが、その中に瀬戸内寂聴さんの本がありました。

秘書まなほさんが聞き手となって寂聴さんのお話をまとめた本。
(今を生きるあなたへ~SB新書~ 寂聴さんが亡くなってから完成した本のようです)
目に留まった個所に、今の自分へ必要なことが書かれてあると感じます。
そういう個所を見つけると、読むスピードを落とし、
じっくりとかみしめるように、繰り返し目で追いながら自分の中へ落とし込みながら読んでいます。

まなほさんが口癖だった「どうせ私なんか・・・」という言葉。
滅多に怒るということのない寂聴さんから、もうその言葉を使うな!と、
ものすごく叱られたエピソードがありました。

自分という人間はこの世にたった一人しかいないのに、
まずその言葉には、自分を産み育ててくれた親に対しとても失礼だということ。
そしてそれは自分をバカにしていることと同じこと。
自分を粗末にしていること・・・と書かれてありました。

自分にも小学6年生のときの担任の先生から、同じようなことを言われた思い出があります。
たしか、児童会の何かの仕事を投げ出そうとしていたとき(やけくそになっていた)、
自分にそんな言い方をしてはいけない、逃げるな!
ということを先生は言っていたように思います。
やはりまなほさんのように、こっぴどく叱られ、
そんなに怒ること?と思ったけれど、それ以来、優しかった先生が言うのだから使ってはいけないんだ、
と何となく信じてきたように思います。

今の自分が、この言葉に引っかかったのは、その思い出があったということもそうですが、
まさに逃げたいと思うようなことがあったからだと思いました。
思うようにいかないことに対して、
その根底を見ずに、
そんなちっぽけな人間ですよ~どうせ!と卑屈になって駄々をこねている状態でした。
口では言いませんが、心の中ではそう思う自分がいたのです。

思い通りになっていかない状況を、そのまんま受けとめればよいのですが、
「ど・う・せ」という言葉を使うことで、
自分の能力を下げ、価値を下げ、だから仕方ないんだと思うことでほっとしたかったのかもしれません。
そして、誰かをも非難したかったのかもしれません。
でも、結局は自分自身を傷つけ、自分自身を非難していることになっていたんですね。

寂聴さんがまなほさんへ言った言葉は、
「どうせ私なんか」ではなく、
「私こそは」と言い続けなさいということ。
私ならば大丈夫、私ならできる、私なら乗り越えていけるかもしれない。
あなたがこうしてここに存在しているだけで、本当は簡単なことではないのだと、
だから私こそ、私にしかない人生を歩けたんだということ。
自分を大事にするというのは、そういうことなんですね。

今の自分って、これまでの簡単ではなかったことをやってきたから、在る自分、です。
そこには自分を大事にしないこともあったとは思うけれど、
これから先は、自分を大事にすることだけを選んでいくこともできます。
それには、「どうせ私なんか・・・」はやっぱり要らないです。










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