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11月, 2025の投稿を表示しています

パターンを嫌うパターンは大事

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今日のクラスの勉強会では、パターンを嫌うパターンについて話しました。 パターンがただそこにあるという状態を、 毛嫌いしている(拒絶反応がある)パターンがあります。 これは、今年に入ってからうすうす気付きはじめ・・・ いざ見つけてしまったらもう逆に納得がいくというか、 だから苦しくなるんだな、疲れてしまうんだなと、 結構な体へのダメージがあることを感じています。 うまくいっている、その調子だ、いい流れだ、などど思っていると、 パターンを嫌うパターンが出てきて、 なぜか単なるパターンの登場よりも深刻な扱いをしてしまう傾向があります。 パターンを嫌うパターンも、他のパターン同様、 単なるパターンにすぎないのに・・・そう、すぎないのに、 意外と気付かれずにうまく隠れていたりするので、要注意なのです。 みんなそれぞれに自分の今生の課題(テーマ)が見つかりはじめているので、 そのパターンが出てくることにいらだったり、 落ち込んだりするのかもしれません。 自分が向き合うことは、コレなんだってわかっているから、 それがまだまだだ~って知ると、パターンはがっかりしちゃうんでしょうね。 語りかけをするパターンが多くなっていっても、 「私」なら、たんたんとやれるのだろうと思うのです。 一度落ち着いた、パターンを嫌うパターンも、 定期的に語りかけをしたいと思いました。 朝晩の肝油ドロップ なんか楽しい

良くなる感じはあるか?

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先日、 頭痛の話 をしましたが、 ふだん数か月に一度お薬をもらいに行っているクリニックがあって、 そこの薬局の薬剤師さんから思いがけず、 他のクリニックの話を聞かされました(そっちをやんわり勧められた)。 「これを飲んで、良くなっている感じはありますか?」と聞かれ、 そうなんだよなあ、あんまり良くはなってはいないんだよなあって思っていたことを、 薬剤師さんのこの質問ではっきりと認識したのです。 そして、対処法の薬ではなく治療としての薬を飲んだ方がいいという話をされ、 頭痛って治療ができることをはじめて知ったのでした。 痛くなったら飲む。そういうものだと思っていたのが、 これこそ思い込み、決めつけ、だったんだなあと。 これを飲んで良くなっていくという、 白い部屋に入ったときのあの感覚のようには・・・確かになかった。 早速、お勧めされたクリニックへ行ってみると、 DRから、こんなことあんなことは今までありませんでしたか? とたくさん質問され、 そうそう、そうなんですよーーー、何でわかるんですか!と。 まさかそれが原因の一つだったとは知らなかったし、 その症状は痛みの前兆だったんだとか、飲んでいた薬が合っていないとか、 いろいろ自分の状態を言い当てられて、 診察でこれほど腑に落ちることってなかなかないなと思いました。 まだ治療は始まったばかりで何とも言えませんが、 これは一つの自分の体への観察になりそうです。 記録をつけるように言われたので、 ついでにパターン(何に引っかかり、その後どうしたのか)の方も、 記録していこうかなと思いました。 薬剤師さんは、かつて私と同じような症状があり、 仕事をするのもつらかったそうです。 ずっと鎮痛剤だけを服用していたけれど、 良い専門医と出会ってからは劇的によくなり、 今は痛みも自分の体調も、把握できるようになったと教えてくれました。 こっそり教えてくれた勇気に感謝です。 (いろいろ立場もあったと推測されるので・・・) もし今後も、そのクリニックに通うことになったとしても、 あの薬剤師さんがいる薬局にまた行きたいなあって思います。 今日は母を美容室へ クリスマスの飾りつけ始まってました~

先日お電話くださった方へ

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今日はこの場を借りて伝言させてください。 ――――――――――― 先日お電話をくださった方へ ご連絡ありがとうございました。 そして、折りかえしの電話ができず大変失礼致しました。 こちらからショートメールを送らせていただきましたが、 もしかするとメールが届かなかったのかも、と思い・・・すみませんでした。 またよろしければ、ご連絡お待ちしております。 メールでもよければ、 ★ ←「お問合せ(ご予約)」と書いてあるこちらからでも大丈夫です。 よろしくお願いします。 ありがとうございます!!

私の推し 

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ETV特集「ねちねちと、問うーある学者の果てなき対話ー」を見てから、 ずっと気になっている京大の宮野公樹さん。 はじめての私の推しと言ってもいいのですが・・・ ちょっと恐れ多いし、そう軽々しくも言いたくないけど推してます。 宮野さんから発せられる言葉が今の自分にもう響きまくっています。 今日は、現代思想という雑誌に掲載されていたものを読みました。 10月号は「学問の危機」という全く自分の日常に関係のないテーマ。 でもそこで語られている「社交としての産と学」という内容が、 ちょうど人との付き合い方について何かしらのパターンがあることを感じていた自分へ、 あ~そういうことなのかと、 新たな言葉を使って諭してもらった気がします。 ―――――――――― 深く考えなくてよい。産と学は、まずもって互いに「社交」から始めよ。その過程において、「わかってきた」ないしは「この人となら仲良くやれそう」なら共同すればよい。そう思わないのなら別に無理に共同しなくてもいい。なぜなら、「他人は己を理解する鏡である」という言葉のとおり、社交には大いなる学びがあり、契約に至らなくともその意義は本質的な自己認識に接続されるものなのだから。 (中略) 自信がないのであれば、あなたの日常に「社交」を組み入れてください。自分が如何に狭いかがよく分かることに加え、なによりアイディアやセンスというものはアウェーでこそ磨かれるのですから。 ――――――――――― テーマありきではなく、人ありき。 そしてその過程において感じたものを信じて次を決めればいいのかもしれません。 至ってシンプル。そして、その選択はどちらでもいい。 どちらにも大いなる学びがそこにはある・・・と言っています。 とても勇気がわいてきます。 自信がない自分だからこそ交わることに飛び込んでもいいのだ。 しかもアウェーの環境に! その方が自分が磨かれていくのかもしれないと思えば、 ちょっとわくわくするような面白いようなそういう軽さも感じられてきます。 本文はあくまで学問の危機について宮野さんの哲学が書かれたもので、 他にもたくさん、うなるような深い内容の箇所があるのですが、 自分の目に飛び込んできたものはここだった。 これも、自分が気になった人のところへ素直に従った結果です。 この体験がまさにテーマではなく人ありき、なんだなあと思いました。 宮野さ...

無視は禁物

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思考がぐるぐるしています。 ということは~ パターンが主導権を握り、思考に突っ走っているのですが、 まだ、はっきりと何のパターンなのかタイトルが決まらず、 これかなあと思うものが、今少し浮かんできています。 こんなふうな頭ぐるぐるのとき、 はじめに感じた強い感情をみます。 その感情がわいたときの出来事は、あまり思い出したくないような、 なえる出来事で、もう済んだことにしたいのですが。 語りかけも一度しただけで終わっていたのです。 それでも日常が進んでいくから、 目の前のことをやりながら、いろいろ人と話したり仕事したり、 夕飯作ったりして時間が過ぎていったのだけれど、 やはりまだもやもやしている自分がいました(これにはウソつけない)。 もう一度、その時にもどって語りかけをしていこう。 戻ればいいだけだ。 パターンに無視してごめんねと言っていたのに、 もう無視をしていました。反省・・・ 肴町商店街も模様替えしてました

自分のレスポンスを聞く

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クライアントさんの話を聴くときに、 単に傾聴だけではなく何かしらレスポンスをしていきますが、 これって、うまくやるものでもないし、テンポよくするっていうことでもないし、 なかなか奥深くてむずかしいものだと感じています。 (っていうか、全然できているとは思っていません) スポーツと同じで検証と練習が必要です。 どういうレスポンスが相手の話しやすさにつながり、こちらも理解が深まっていくのか。 感覚的なものだと思うのです。 この頃は録音させていただくことをお願いし、 自分がどんなふうにクライアントさんと話しているのかを聞くようになりました。 聞いてみて・・・ 自分が何をしているのか、もうホントによ~~く見えてくるのです。 録音ってすごいです! 今の自分の現実が見えるのです。 録画だったら、もっとよくわかるでしょう。 これにはごまかしも気のせいも一切なく、 ただただ自分がしていることがそのまんま見せられます(聞かされます)。 以前、カウンセリングの先生が、 そもそもレスポンスって楽しいものだって。 むずかしく考えないで慣れていけば大丈夫だと。 でも、はじめて録音した自分の声や自分のレスポンスは聞くに堪えないものでした。 何をそんなに焦っているのか、何をそんなに怖がっているのか。 聞くべきところを聞かず、言わなくていいものを言い、 自分でもわかるのですが、クライアントさんがこのやり取りで、 話をちゃんと聞いてもらった、良い時間だった、って思うだろうか?と。 反省することばかりですが、 1回目に聞いたものと、また2回目に聞いたものでも大事なポイントが変わります。 これが正解ということはないのかもしれませんが、 自分という人間がクライアントさんの中に映し出されていることを、 その場でもっと感じられたらいいなあと思いました。 そこから学んでいきたい。 ご協力いただいた皆さまありがとうございました。

アンコンシャス・バイアス

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市の広報紙にアンコンシャス・バイアスという言葉がありました。 略してアンコン。 直訳すると無意識の思い込みです。 ●リーダーなんて自分にはできない ●仕事と家庭の両立はむずかしい ●地域活動は自分には合わない などといった決めつけで、自分自身の可能性や活躍の場をせばめていませんか? と書かれてありました。 ただの思い込みだと気づけば、新しい選択肢や挑戦が見えてきますよ、 というように地域活動にも一歩を踏み出してみましょうと続きます。 心理学でもバイアスという言葉がよく使われますが、 アンコンの種類として分けているところが、 その心理学用語の知識に重きを置くようで、なんだか難しさを感じます。 (それって全部パターンなのだし・・・) アンコンがあるとどうなるのか? 他者に不快な思いをさせたり傷つけたりということがあると。 社会的な影響として、自分や組織の可能性をせばめる問題へと発展しかねない。 というような、どちらかというと自分自身よりも他者や組織、 人間関係や社会活動への影響があるという捉え方です。 小さい頃から刷り込まれてきた無意識の決めつけについて、 個人というより地域や企業といった単位で、 その色メガネを外していこう、変えていこう、 違う可能性(黒パターンの反対にあるもの)を見つけていこうという視点は、 多様性を大事にしていこうとする社会にはもしかすると、 逆にわかりやすいのかな・・・。 パターンもその影響は自分だけでなく、 他者や社会といったところへも良くも悪くもあります。 でも大きな捉え方の違いは、 やはりパターンに気づくとき、それが自分自身を知ることそのものである。 というところだと思いました。 パターンが自分のあり方さえも教えてくれているのです。 パターンもアンコンも意味は似ているところがありますが、 パターンはそれがあることで自分を理解できることだけでなく、 本来の自分「私」がそこに愛を注ぎ守っていくことで、 「私」は大きく育っていくという理解こそが、パターンが重要性を持つ理由です。 また、パターンならばケアをしていく、受容していく、 ということになりますが、 アンコンはあることに気付いたら(ここまでは同じ)、 解消していく、軽減していく、外していくなどという表現が多くあり、 違う見方や考え方をしていこうという、 修正の思考に走っている感じがあるかなと...

パターンの影響

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今日は仙台出張で、 運ぶ荷物もあったので社長と2人、車で行きました。 家を出るときに頭痛薬を忘れたことに気づき、 戻るにも時間がなく、持たずに行くことにちょっと不安がよぎりました。 というのも、 最近、気圧の変化にめっきり弱く、 出発時のお天気を見て、もしかしたら頭が痛くなるかなあ~ と思ったからです。 そうでなくても、慣れない場で気を遣ったり、緊張したり、 いろいろパターンも騒ぎ、その後も思考に走り続ければ〜 もっと頭が痛くなりやすいだろうな(って想像できてしまうのもパターンか?)。 ところが・・・です。 そういうことは全くなく、 緊張や疲れは多少はあったにせよ、 フラットな感情でいられたことが不思議でもありました。 普段、自分の変化ってほとんど感じることはないけれど、 もしかしたらこういう時にわかるものなのかもしれません。 なんか自分は変わってきている。 楽になっている。 変化や成長というより、 少しずつ自分をとり戻していっているのかなって思いました。 疲れるっていうのも、パターンです。 パターンが出てきても、ああパターンね!と気付いて終われるのか、 それともそこに思考を挟み、 いつまでもどういうことだったんだろう?と考え続けるのか。 そこから受ける体の影響があることも体験として気づいてきたのかもしれません。 だから、気圧で頭痛になることも決して防ぎようがないわけではなく、 準備は必要だとしても、決めつけてはいけない。 パターンを大事にするのと体を大事にするのは繋がっている。 パターンのケアで体調も整えていきたいなって思う。 新米食べました

独り言を聞いていたのに

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ずっと行ってみたいと思っていた 劇団わらび座 の公演。 内舘牧子さん原作・脚本ということで、 「秋田は何もない」を観てきました。 タイトル通りの面白さに笑いました。 そして何と言ってもミュージカルなので歌がすごかった~ 迫力があって、どの役者さんもみんな声量があってみんな歌がうまい。 観終わってお土産屋さんに寄ると、 さっきまで同じものを観ていたと思われる女性の方が、 何かぶつぶつと「あ~良かったわ~」みたいなつぶやきをしています。 私が売店限定の秋田犬のぬいぐるみを見ていると、 隣りから「可愛い~~~」と興奮して話しかけてきました。 その女性は「秋田犬って、ほんとかわいいですよね!」と言ってきます。 何度か相づちを打っているうちに、 これ以上返事をしていけば何かもっと秋田犬の話や、 なんならいろいろ話が止まらなくなりそうな状態でした。 でも私も私で犬好きなので、 その方の犬の話にかなり相づちを打っていたと思います。 「あ、写真見ますか?うちの犬」 え?とこちらが驚いたかどうかもわからないほど早く、 「な~んて言ってはいけない・・・あ~ダメダメ。そんなことしてはいけない・・・やってしまうとこだった」 と独り言のように言ってバックから出したスマホをまたバックにしまいました。 私もぬいぐるみからは離れ、 その後は別々にお土産を見て、その方は何か買い物して一人去っていきました。 なぜ自分はあの時、 「え~そうなんですか!お写真あるんですか!」 と言えなかったのでしょう。 ものすごくモヤモヤしたものを感じました。 自分が飼っていた自慢の秋田犬を、 もう、見せたい衝動を精一杯おさえ、 見知らぬ人にそんなことを気軽にしてはいけないと、自分を律していました。 でも、そんなの律しなくたっていいことだったのではないか。 同じ犬好きの匂いをかぎ分け話しかけたのですから。 なんなら私の方から、「その愛犬のお写真見せてください!」 というべきだったと思いました。 別に急いでいるわけでもなし、一人だったんだし、 ちょっと写真を見るくらい良かったのに。 とても後悔しました。 先ほどまで会場が一体となって楽しんだミュージカルのように、 その方も、そこにいる人(私)と、 楽しさをただ分かち合いたかっただけではなかったのだろうか。 あ~それなのに、 その方が律する独り言をちゃんと聞いていたくせに、 ...

まだ見えていない世界

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今の自分には、今の自分以上のものは見えていない。 あたり前の話ではあるけれど、 違う世界にいかないと、 ずっと見えないままなんだろうなあって思いました。 すごいなあ・・・って驚く話も、 もちろん完全に理解していないと思うし、 どうすごいのかも自分の経験値での想像にすぎません。 ここからさらに成長したり発展していくには、 自分で創造するということかもしれませんが、 自分がまだ見えていない世界から創るってできるのだろうか。 今の自分だったらこうするというものではなく、 絶対やらないとか、これ避けたいとか、 そういうものの中にあるのか? ちょっとあり得ないようなもの(これってどうなんだ?) って思うような常識外れで、 今までの自分では思いつかないようなものがそれなのか。 そういうものが浮かんだらやってみたいと思いました。 イベント物々交換は、 ほぼ金銭のやり取りが発生しません。 でも、いつもお金以上のものを私はいただいている気がします。 信じられないような人生の話とか、 すごくバカげた話とか、いたってまじめな話とか、 身も知らぬ人と語り合うって、そこに今の自分が写しだされていくんですね。 こういうことの中にも今までとは違う自分の感覚がありました。 とても貴重な体験をさせてもらっていること。 この土地の神さまに感謝です。

なるようになる?

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今、とても思うことは、 なるようになる、でやっていこう!です。 なるように流れがなっているのなら、それでいいんじゃないかと、 抵抗せずに流れてみようかなと。 でも、そこに行くまではちゃんと「私」でやっていく姿勢が 大前提となりますが・・・ 絶対に無理はしないって思うような年齢になってきていても、 やはり少しの無理はすることもあります。 無理と決めつけてやらないよりは、ちょっとやって様子を見る。 そういうことの繰り返しがあって、 それなりにやってみるというのもいいのではないかって思いました。 そして、このそれなりにやればいいという感覚は、 完璧なものは何もないし、 妥協するということよりは、自分の器(自分のパイプ)でやっていくことなのかもしれません。 さらけ出すという感覚でもあるし、さらけ出せば何も失敗はそこにはないということ。 そこに、ほっとするようないつもの自分がいたと思いました。 明日は友人と今年最後の物々交換イベントです。 私はちょっとしか参加できませんでしたが、 少ない体験であってもそこでの出会いは、 とにかく私の先生となって現れた方々でした。 なるようになっているというのは、 いろいろなことがつながっていくこと。 初めての人、寒さ、運転、おでん、雪、温泉、疲れを癒す、熊・・・ 明日も感謝をして過ごします。

すでに変わっている

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昨日の日記で定年のことでいろいろぼやいてしまったのですが、 こういう時に新しい仕事が現れるということが、 今までもあったな~と思いました。 正確に言えば新しくないのですが、 自分があらためて、 こういうふうにやっていけばいいんだなって、 そう思ったら、それは新しくなった今までとは違う仕事ということ! 役に立つのかどうか?という視点がパターンにとっては重要なことで、 そこにどんなものを持ってくるのか? 役に立てる仕事の中身を考えていたように思います。 でもそうではなくて、 今与えられているものを自分がどう使っていくか? これらのものから、何を自分は成していくのか? そう思ったら、 やはり今を見ていくだけなんだなと思ったのでした。 今やっているものが自分の大事にしていくもの。 その感覚がとても新しくて、最近の定年を考えてもやっとしていた自分から、 ちょっと脱皮したような、新世界に移行したような、 そんな感じがします。 このままでいいのか?と考えるとき、 このままが続くことに意味を付けようとしていましたが、 そう考えたこと自体がすでにこのままではなくなっている(変わっている)。 なんだかうまく言えませんが・・・ あ、すでにそこにあった!という感じです。 それを楽しんでいこうと思った今日です。 落ち葉の上 ふかふか~

定年を考えたら

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帰りにちらちらと雪が降ってきました。 昨日と同じくお風呂に入りながら、 今日は何のパターンがあったかな~と回想します。 今日はもやっとしたことがありました。 何にもやっとしたのかというと、 自分がこれからどんなふうに働いていきたいか?という問いにです。 もう定年退職まで数年です。 そんな自分が何か若い人たちに言うことなど何もないのですが、 何もない以上にじゃまをしたくないと思っている。 でも、自分ができる限りの役に立てることがもしあれば、 一生懸命にそれをしたいという気持ちがあります。 だけど、その役に立つことって何かあるのか? とふと思ったら、何だかもやっとしてしまいました。 胸がきゅーっと締め付けられるような、苦しさ。 本当は害になっていないだろうか。 いない方がのびのび仕事ができるのではないか。 いや、自分がもうここでやれることは体力的にも能力的にも、 そして精神的な面でも何かいて良かったと自分自身が思えることがあるだろうか。 そんなことを考えても、 今は辞めるという流れに向かってはいないのだから、 その日まで、誰かのために働いていきたいと思いました。 いやいや、誰かではなく自分のために・・・です。 これ、自分がやりました~って、 わざわざ自分がしたことを見せたいわけではないのに、 でもどこか心の一点に、誰かの役に立てたなと、 そう思いたいパターンがあったら、それが嫌なんだと思いました。 そういうパターンを持ちたくないなって。 (久しぶりに登場、パターンを嫌うパターン) そして、そのパターンが出たおかげで、 自分がここまでよくやったなと納得できるような、 そんな働き方ができなかったとしても、 それでもやれるところまで(働かせてもらう日まで)がんばっていく。 それだけでいいと思ったのでした。 もやっとするってことは、 パターンがあるなとわかるってことで、 それを確認することが大事だな。 冷凍ピラフにイカの塩辛

自分にふさわしい相手であってほしい

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今日は寒~い一日でした。 月曜日って、なかなか事務所の中も建物ごと暖まらず、 縮こまったまま仕事をしていました。 今から暖房の設定温度を上げるのもどうかと思い(みんなの暖房だし)、 つい我慢をしてしまい、その結果、 帰る時間になっても手は冷たいまま・・・ もうホント寒かったーーー! ということで、 先ほどお風呂に入って暖まりました。 昨日見つけた直球のパターン。 ●自分にふさわしい相手であってほしい その相手に、自分が学ぶことがたくさんあると思わせるような、 自分にとって気づきをたくさん与えてくれるような、 そういう人であってほしいと要望するパターンにお風呂で語りかけ。 肩書にふさわしい人であるべきというパターンかなとはじめは思いましたが、 もっとストレートに言えば、 この自分(このわたくし)につり合うような、 少しでも尊敬に値するような、そんな人格者であってほしいと。 パターンが望む肩書。 またそうじゃないと、自分自身がその程度の人だということにになってしまう。 だから自分にふさわしい相手であってほしいとパターンは言うのでした。 「もしかしたら、自分にふさわしい相手であってほしいって、 もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・」 とエコーをきかせて語ってみる。 そう決めつけなくてもいいんだと思ったら、体も温まりほっとしました。 明日も暖かくして過ごそう。

どのパターンに語りかけるのか?

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忘れた頃にやってくる・・・ 相手を自分の思い通りにしたいというパターン。 特に肩書を持つ人に対して、 厳しい目で見るパターンが自分にはあるなと思いました。 社長、上司、リーダーといった肩書がついている人には、 パターンはそういう役割が与えられているのだから、 ちゃんとこちらが尊敬できるような人間になるのが当然だと思っている。 肩書ついているんだから、それなりの相応しい振る舞いをするべきだと。 では、何もついていない人に対してはどうなのか。 振り返ると確かに、強い怒りを感じることは少ないように思います。 つまり、反応するポイントはやはりここなんでしょうね。 でも、もし自分が肩書を持ったとき、 周囲から評価されるような人間でなければならないのか? と問われれば、それは違うと思っている。 「そんな完璧な人間なんかいないよ」と、堂々と答えると思うのです。 結局のところパターンって、 その時の自分の都合に合わせて考えているにすぎないのですね。 そして、さらに正直に言えば、自分自身にも肩書がほしいというパターンがあります。 あれば周囲からの評価も変わるだろうとか、 あれば何だか自信が持てる気がするとか、 何とも浅はかで打算的ですが、これも立派なパターンです。 いっぱい出ました~パターンの数々。 どれも当てはまるし、どれも同じくらい感情がゆさぶられます。 でもやっぱり、はじめの感情を引き起こしたパターンが、 自分にとっての核心なのだと思う。 おそらく、かなり直球なパターンが出てきそう。

心が閉ざされる感覚

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昨日の心を開いていきたいというのは、 「これはパターンだ」と気づける、認める、 ということでもあるなと思いました。 相手を前にして、感情が何かしら湧けば、 それは何のパターンなんだろう?って探す。 パターンだったなと気づいたら、 じゃあこれから自分という「私」はどうありたいのか?と問う。 そうやって心が開かれていくのかもしれません。 気づいた自分がいるだけで充分。 (そこから語りかけはしますが) あれこれ考えだすと、心が途端に閉ざされていく感じがあります。 思考に走っていくと、完全に閉じていくこの感覚。 心と頭の関係性。 もうクリスマスモードかあ~

心を開いて~

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心を開く。 今朝思い出すように浮かんだ言葉で、 そうか、今日会う人にそうしていこうと思いました。 相手への敬意もこめて、心をさらけ出すことを相手より先に自分がする。 年齢が上がってくると、会う人たちがみんな自分より年下も年下。 自分の子どもよりも若い・・・ということがざらにある。 でも、年齢というのは、 本当にまったく何にも関係ない数字。 若くても自分のエゴをよくわかっている人もいれば、 年を取っていても我先にと自己中な人もいる。 しょこたんが年齢のことを「レベル」で表現していたように、 今私はレベル57ということで・・・半分くらいのレベルなんだなあ っていうよう伸びしろがすごいあるわ~っていうふうにも受け取れます。 それで言えば、今の若い人たちは、 自分に正直に生きているレベルは高いのかもしれません。 周囲の顔色をうかがうとか、 相手にどう思われるかを気にするとか、 自分の機嫌とは関係なく目の前のことをやれたりするとか。 レベル57の自分にはむずかしいことを簡単にやっている人が多い。 っていうより、そもそも自分に正直であることが土台にある。 そういう時代に生まれているのかもしれないなあと思いました。 そんな人たちへ、心を開くと言っても、 大したことではないのかもしれないし、 心を開こうが閉じようが、関係ないのかもしれない。 自分がどうありたいのか?だけですから。 心を開いていきたい自分だったんだなあと思います。 香炉さんのスパイスカレー♪

比較する毎日

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いろんなところに他人との比較が潜んでいます。 この人が嫌い、気に入らないというときも、 相手のどういうところが自分とは違うのかと比べては、 好きになったり、気に入ったりするのだと思います。 だから、この比較さえなければ、 半分以上のパターンは穏やかにいられるのではないかと思う。 いいとか悪いとかが始まったら、 誰と比べて言っているの?と今度聞いてみよう。 かなり無意識でやっているんだな、これが。 大谷翔平さんもWBCのとき言っていましたよね。 (比べるではないけど)憧れるのをやめましょうと。 憧れも、うらやましく思うのも比較。 それがあると自分は自分「私」でいられなくなる。 自分を満たそうと必死になるパターンは、 言葉を変えてはいますが、そのままの自分では満足しないんですね。 明日また人との比較をしていたら、 ああ、あなたは比較しているんですねとパターンにすかさず言おう。 まずは「私」と「パターン」を分離させたら次に、 「私」はそうは思っていないけどね、と言おう。

心のカラクリのお話とミニ・カウンセリング体験

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昨日は眠気に勝てず・・・ブログをお休みしました。 訪問してくださっている方にはごめんなさいでした。 (そんな毎日訪問してくださっている方はいないと思うけど…念のため) 今日は、元気なうちに書いております。 今年も残すところ『はじめて講座』もあと2回となりました。 なんて、さも盛大にやっている感を出していますが、 こじんまりとやっているだけですので、 どんなものなのか気楽にご参加くださいませ。 今日は、お部屋を取っているやはぱーくにチラシを置きに行くと、 楽しみにしていたカフェ888(ヤミー)さんがお休みで、 ローズマリーのクッキーが食べれず残念でした。 (このクッキーを超えるものがいまだない) いつもやはぱーくに行ったときの楽しみなのです。 カフェはあきらめて帰ろうとしたら、 カウンセラー仲間のFさん のチラシを発見しました! とても可愛くて素敵なチラシでした。 それで思いついたのは、 心のカラクリのところ、同じ説明だとしても、 私とFさん、どちらの会にも参加してみるといいかもしれません(Fさんも了解済です)。 心の仕組みは普遍的なもの。 けれど、一人一人魂の宿題が違うように、 それぞれの経験からまた伝わり方も違うと思うので・・・ ということで、 よろしければどっちもお試しくださ〜い。

それだけのこと

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今日は久しぶりに鍼灸に行ってきました。 先生はこの数週間中国へ行っていたということで、 ちょっとそのあたりのお話も聞けたらいいなと思いました。 中国には先生の師匠がいて、 ちょうど行ったときにまさかの風邪をひいていたそうです。 なんかすごいエネルギーを持った御方だと聞いていたので、 そんな御方がひく風邪って、風邪菌もすごいものなのかもしれませんが、 ずっと行動を共にしていた先生はすっかり移されてしまったとのこと。 お~、先生でも風邪ひくんだ・・・ と私としては少々びっくりしました。 鍼灸院には定休日というものがなく、 一体いつ休んでいるんだろうと思うほど予約もびっしりで、 先生は本当にいつも元気。 年に数回、中国に行くときだけはまとまったお休みを取るので、 そのときにゆっくりされているのかなと思うほど。 それで、中国どうだったんですか?と聞くと、 いや~、風邪をひきっぱなしで大変でしたよと、 それが一番の話だったようです。 ニコニコ笑う姿を見て、なんか私はとてもほっとしてしまいました。 先生と名がつく方を勝手にその道の成功者というか、 手本になる人、間違えや失敗はしない人というイメージが多少なりとも作られています。 確かにずっと体を整えるプロとして、鍛錬し続けているのだと思う。 でも、体調を崩すことだってある。 そのことが何だか、ああそれだけのことか!と感じました。 まるで、 パターンに引っかかった、ああそれだけのことか!みたいに。 (私のカウンセリングの先生もいつも言っている、あのことだー) 何事も、そこに意味を持たせずそれだけのこと。 いい悪いもない。 あらためて納得できた気がしました。 それにしても鍼灸の後の、この体の軽さといったら~首と肩がすごく楽になりました。 この良い感覚をできるだけ持続させたい。 そのために夕飯は腹八分にして今日は早めに寝まーす。 東京駅南口の天井 こうなってた!

謙虚さを欲しがる理由

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このところ、「謙虚さ」がマイテーマとなっている気がします。 先日の日記 を書いた後、 なんで私はこうも謙虚になりたいんだろう?って思いました。 「謙虚さ」についての意味付けワークをやってみます。 まずはプラス⊕の意味付けから~ ・いつもそこに感謝がある ・思いやりの心がある ・相手を尊重している ・自分よりも他人を優先できる ・人から慕われる ・人間関係がうまくいく ・人として素晴らしいこと マイナス⊖の意味付けは~ ・自分を大事にしなくなるかもしれない ・自分を後回しにしすぎて大変になるかも ・(自分のしていることに)酔いしれる、うぬぼれる ・周りから妬まれるかもしれない ・しらじらしく見えることもある ・誤解されることもある ・謙虚じゃない自分が受け入れ難くなる 本来はプラスでもマイナスでもない、ただ一つの体験としてあるのが謙虚さです。 こうして出してみると、 謙虚な人間になりたい理由は、 プラスであげられたような人間になっていけば、 自分自身が楽になれると思っているからではなかろうか。 楽になるというのは、 もうそれ以上がんばる必要がないような感じもあるし、 それで人格形成は達成されるのではないかと思っている。 だから、早くそうなりたいし、なって早く楽に生きたいのかも。 なりたいというところの動機を見るのはとても大事です。 自分がまずはどこを目指して日々の魂の学びをしていくのか。 その指針があれば、迷ったときに戻れるのだと思う。 もしそれが、かたちだけであることがわかれば、 それはまた違うということがわかるし、 自分を見ていくことを続けていくことで、 本当の謙虚さとは何なのかが少しずつ見えてくるのかもしれません。 謙虚って、相手に対して持つ姿勢だと思っていましたが、 もしかすると、自分自身へ向けるものなんだろうか? 他人の前にまずは自分・・・ その方がちょっとしっくりくるような気がします。

新たな自分のペース

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職場の人と一緒に出張でした。 普段、東京へ行くときは一人のことが多いので、 久しぶりに他人と一緒に行くというので少々心配なことがありました。 私は肺機能が弱いため急いで歩くのがホント苦手なのです。 ひどいときは呼吸困難にもなるし、当然疲れやすくもあり、 相手の方に迷惑をかけてしまうなあと思うと、 なかなかこれは気を遣わずにはいられません。 事前にそのことを伝え、少々ゆっくり歩いてもらいました。 そしてなんとか、具合が悪くならないで帰ってくることができて、 本当にありがたかったです。 自分一人ならば何も問題ないことでも、 一緒に歩くという状況があると、 息があがってくるのを隠そうとして余計に苦しくなっていました。 そういうことを我慢するのはもうやめよう。 がんばって相手に合わせなくてもいいのかもしれない。 そんなふうにやっと思えるようになったと同時に、 なんでこんなふうな体になってしまったんだよーって、 そこへ苛立つパターンとも共にいられるようになったことを最近感じます。 以前、お医者さんに、 「肺機能としては80代ぐらい。今からそう思って付き合っていくといいですよ。」 と言われたとき、本当にショックだったのですが、 でもその時言ってもらって良かったなと今は思う。 何事も知ってさえいれば、そこへの準備ができるのですから。 そして、自分には無理というパターンではなく、 体に合わせてやっていこうと思うことが自然になりつつあり、 それがこれから、新たな自分のペースになっていくんだと思う。 今月はあと一回ほど出張があって、今年はそれで終了(たぶん)。 そのたびに私は自分の体の扱い方を覚えていっている。 なんだかんだで毎回無事に帰ってこられているので、 それは自分一人の力ではないなあって。 何かに守っていただいていることをいつも感じます。 じゃーん!

なぜ、そうなりたいのか?

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もしかしたら、反応がほしいって、もう決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ この白パターンを選ぶと、 肩の力が抜けて大丈夫かもしれないなって感じられてきます。 昨日の講座はいつものごとくカミカミでしたが、 伝えたいことはまずまず伝えられたような気がしました。 ただ・・・反応がほしいどころか、 途中で一生懸命に聞いてくださる方々の表情が見えたとき、 自分が何かとても偉そうなことを言っているんじゃないかと思い、 そう思いはじめたら、 しゃべりづらくなってしまいました。 なんでこんな風に言い切るのか? わかったようなことを言って。 ほんと何様なんだー。 自分の態度というか話し方というか。 真摯に聞いてくださる方々に向けて、 こんな自分ではなく、もう少し何と言ったらいいのか〜 謙虚な態度で話せないものだろうかと思いました。 あの時のモヤモヤは、 偉そうにするべきではない、謙虚になるべきというパターンだったと思います。 ああ、謙虚な人になりたいなあ。 でも、そうなれていない自分。 そこに執着するパターンが見えたとき、 パターンを許さないパターンは徹底して評価をしたがります。 形だけでも変わらなければとジタバタしたのかもしれません。 謙虚になるってどういうことなのか。 なんでそんなになりたいのか? 今一度見ていこうと思います。

黒のカードの次

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黒パターンを選び行動したとき、 次に引くカードはしっかりと白を選んでいかないと、 もっと大きな黒として複雑になっていきます。 パターンは、自分が選ばれたと思えば力を保持し(自信をつける?)、 どんどん助長しようとしていく。 次の一手も、パターンで考えたまま それがさもあたり前のように、さっさと流れを作っていこうとする。 パターンってそういう力があるんだと思います。 だからといってパターンが悪いということではなく、 選ぶ側の「私」の問題。 ドツボにはまった・・・っていうときも、 ここから仕切り直しができるのだから、 落ち着いてパターンを見ていきたいです。 たとえ黒のカードを引いてしまったとしても、 次は白を引こう! ここを意識していこう。

反応がほしい

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 ●反応がほしい、というパターンがあります。 今、そのパターンに引っかかり不安と恐怖でいっぱいになっています。 パターンは何と言っているかというと、 反応がないと自分は否定されたように思い、怖いのです。 話がおもしろくない人、無能な人だと言われているようで、 反応があればなんとかかんとか安心できるとパターンは思っています。 かといって、反応ならどんなものでもいいというわけではなく・・・ こちらが言っていることに対してわかるように共感してほしいとか、 さらに突っ込んで聞いてほしいとか、 ちょっとはウケてほしいって思うんですね、パターンの理想は。 って、自分の機嫌を取ってほしいということか! そんなパターンと一緒に明日は講座を一つやります。 以前の自分であれば、ここは、 「苦手な講座をやりまーす」とかなんとか、 ”苦手な”をわざわざ付けて言いたくなるところですが、 もうそこは言いません。 〇〇な自分だけど~ 自分って〇〇なんですけど~ 等々、気持ちの悪いセリフは言わないと決めたのです。 自分がどういう人間であるかの決めつけを もう宣言する必要はないと思いましたので・・・ あいかわらず緊張モードに入っているなと思い、心をのぞくと、 ●反応がほしい、っていうパターンが堂々と鎮座していました。 なんとか見つけられて良かった。 スーパームーンって明るい!

家族になった理由は知らないけれど

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兄が久しぶりに帰郷しました。 今週末は私が東京へ出張なため、その間だけでも母をみてもらいたいなあ と自分の都合で思っていたら、 グットタイミングで帰ってきてくれました。 私の中では、兄という人は、 勉強ができて英語が話せて、何気なく描く絵もうまいし、 本当に才能豊かな人で尊敬しています。 いつも元気で笑うことが好きで、感動屋さんでもあるので話もおもしろい。 私の話もよーく付き合って聞いてくれます。 (身内びいきが入ってます) 母は母で、兄が帰ってくると断然元気になりますので、 息子の効用はすごいものだなと毎回思います。 家族は、自分が選んで決めて生まれてきたと言われ、 自分にとって多くの学びを得やすいように、 しかも簡単に縁が切れないし、常に至近距離でもある。 だからこそ、どんな学びをここから得ようとしているのか・・・ 家族として仲間に入れてもらった私は、 仲が良いからこそ大きな学びの一つは「別れのつらさ」ではないかと、 今から推測しています。 考えたくないことを、あえて考える。 (量子力学的に、考えておくことは大事) もしかしたら他にもつらいことはあるかもしれないし、 今は想像できないような悩みがこれからあるのかもしれません。 どんな悩み(学び)であっても、自分が家族に選んだからには 目をそらさずに向き合っていきたいなと思っています。 家族になった理由はあの世にいかないとわかりません。 なんでこんなことを急に思ったのかもわかりませんが、 お互いに年を取り、思い通りにいかない体にもなってきたことを実感すると、 こうして遠く離れたところから帰ってきてくれるということにも 感謝だなあと思いました。 心の準備は早すぎるっていうことはないそうなので~ 今から思い残すことなく、 家族にはたくさんありがとうの気持ちを魂へ向けて伝えていこう。

やってみてわかること

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仕事で使うパワーポイントを作っています。 内容はほぼ決まっているもので、 あとはいかに伝えたいことをシンプルにわかりやすく作るか、 というところなんですが~ この手直し永遠に続くような気がします。 パワポを作ることが目的ではないし、 内容がそもそもどうなのか?というところの方が大事なのはわかっている。 でも、作るということを通して、 そこに自分の情熱とか見る人への思いやりとか、 いろいろなものが形になって現れていくんだなあと思いました。 そして、聞いてくださる方々が(何となくでも)そういうことか! と思ってもらえるようなものにしたい。 そういう気持ちで自分は作っているんだなあということも知った気がします。 そうやってこの数日間あれこれ時間を割いてがんばってみて思ったのは、 もうパワポがどうでもよくなってきているということです。 (これまでの時間は何だったんだーーー!) 目で見たほうがわかりやすいところはそれでいいとして、 後は自分が伝えたいこと、聞いてくださる方に聞きたいこと、 そういうことをその場で直接問いかけながら対話しながらやっていこう! というところに着地しました。 これも、没頭したからこそ出た答えというか、 あらためて発見させてもらったこと。 無駄な時間も相当あったと思うけれど、 この大したことのない自分というキャラでやっていこう~ と思ったのは何かとてもいい感じがしています。 気持ちが軽くなりました! この感覚ですね。

「私」に意識を向ける

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パターンにいてほしくないというパターン。 ということは、具体的にはどういうことなのか? まずは感情が騒いだときにパターンだと気づく。 気づくということは「私」ではないということを自覚することでもあります。 そうかあ、これはパターンが思っていることで、 「私」はそうは思っていないんだなあって。 でも、これはパターンだとその時は思うのだけれど、 その後の「私」へ向ける意識が弱いとあれこれ思考が始まってしまいます。 いつの間にかパターンが主導権を握ってしまい、 パターンにいてほしくない第2のパターンが登場。 自分という「本当の私」と、「パターン」しかない世界。 だから「私」でいることに意識を向けると決めてやっていうと思いました。 そして、パターンのケアはたんたんと。 パターンがあっていいんだと無理に思い込もうとするのでもなく。 そうやってパターンはそのままに「私」を育てることをやっていこう。 午後のアメリカン

パターンが複雑になっていく前に

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パターンが騒ぎ、しばしパターンで思考し、 そして語りかけをすることもなく、 パターンのままで話してしまったことがありました。 もちろん、その後味の悪さといったら・・・ じわじわ自分をむしばむように不快感でいっぱいです。 そりゃそうだよなあって。 わかっていて、やってしまうのは黒パターンの力が勝っていたということ。 どう思われているのかを気にするパターンがあり、 そのパターンが支配して冷静さを失いました。 そして、その後やってしまった~と、落ち込むのですが、 そうやって落ち込んでみてわかったのは、 自分が白を選べなかったことへの後悔の強さです。 なんで白を選べなかったんだと責める気持ちは、 どう思われているのかを気にするパターンを嫌うパターン。 パターンに引っかかったことが嫌なのです。 こんな黒を選ぶなんて!と思っている黒を受け入れられないパターンです。 完璧な人間関係を築きたいとパターンは思っているので、 黒パターンで話してしまったパターンを許したくないのだ。 今回はそこへ、プライドのパターンまで重なってくる前に気づけて良かった。 もやっとした感情が複雑になっていく前に、 一つずつケアしていこう。 今年植えた菊が咲きそう!