生きている限りは
今日は休みだったので、母の朝食を作りに行きました。
そしてデイサービスの日でもあったので、いろいろ準備をしなきゃと思っていたら、
すでに玄関のところに持っていくリュックが置いてありました。
今年の1月に骨折をしてから入院、手術、退院後のリハビリ、
一時的な私との同居、デイサービスを変える等々、
認知症はこういう環境の変化に一番弱いのですって言われてましたが、
今は、何かちょっと進行が遅くなっているような気さえしていて・・・
こういうのももしかしたら、そうなるという思い込みがあるのかなと思いました。
訪問看護の看護師さん、リハビリの理学療法士さん、主治医の先生、
ケアマネさん、週2回のデイサービス。
そこに私と家族、結構な人が毎日何かしら出入りするようになったことが、
変化は変化でも、母の脳内へよい刺激を与えているのではないかと思います。
生きる中で人との関わりが大切なのはとてもわかる気がします。
それが良い関係性ならなおさらですが、
そうでもない関係性やネガティブな出来事があっても、
母を見ていると、どちらも必要なんじゃないかって。
老人だからといってみんながみな親切丁寧に接してくれるわけではないし、
母も嫌な思いもして不安定にもなる。
私たち家族も常時、笑顔と優しさだけで一緒に過ごせるわけでもありません。
でも、どういうときがあっても、
自分一人で生きているわけではないっていう感覚はあるように思うし、
そこには、なんとか生きていけるという経験から、
安心とあきらめも同時に積み上げているのではないだろうか・・・
母の体重がかなり減ってしまい、
顔のシワも深く刻まれて、手足は冷たく、体は枯れ木のようで、
私は心配で、とにかく食べないことの弊害を母に切々と説明したことがありました。
(食欲がないのに、食べろ食べろと言われるのもつらいと思うけど)
そうしたらぽそっと、
「はあ、そうなんだね。
生きている限りは、こうやって生きなきゃ(食べなきゃ)なんないんだわね」
と笑って母が言っていたのです。
そんな姿をみて、
なんか仏様を見ているような気持ちになってしまいました。
この感覚は父のときにもあり、
実はもうこの世界には半分しかいないような、
あとは私の心の準備のためだけに生きてもらっているような・・・
今こうして一緒に過ごせる時間は、限りがあるゆえにとても尊いものだと思う。
明日は、お菓子を買いに行きたいそう。
敬老の日に毎年子供会で子どもたちがお年寄りの家に訪問し、
記念品を配ってまわるという行事があるらしく、
その子供たちへのお返しのお菓子を準備したいのだと。
このあたりもすっかり子どもが減ってしまいましたが、
そういうささやかな習慣は、ぜひ失くさないでほしいなあって思います。
まだまだ夏の花も咲いてます |
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