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9月, 2025の投稿を表示しています

どんなプライドなのか

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孤独を感じているとき、 ここにもプライドが壁となって出てきたなと感じました。 どんなプライドなのかというと、 自分は一人でいても(孤独だなと感じたとしても)、一人ではないし、 話そうと思えば周囲とも話せるし笑えるし、 今のこの状態は全然平気です~という平気なふりをするプライドかなと思います。 本当は、一人でいることなど平気ではあるのだけれど、 周囲からどう思われているのかが気になっていたり、 もっとみんなと仲良くした方が良い人でいられるのかなと、 パターンは思ったりしている。 一人でいるという状態がはたからみて、どうなのか? どう見られているのかがなぜ気になるのか? だったら、一体自分はどう見られたいのか? 何のパターンがあって、 そのパターンをどんなプライドがじゃましているのか。 そこをみる。 鍬ケ崎の漁港

目について、別の視点から

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おかげ様で、目の充血も痛みも大分ひけました。 今日はなるべくPCを使わないような仕事を選び、 目をかばいながら一日を過ごしました。 たった2日間でしたが、 スマホは極力使わず、PCは開かず、テレビも相撲だけは見たけれど・・・ 外に出たときは遠くの景色を見たりもしました。 それだけでも、何だか目が休まったような気がします。 どこか体の一部が不調になると、 スピリチュアル的な観点でその原因を考えるということもあるかもしれません。 転んでケガをしたり、事故にあうことさえもちゃんと理由があって、 そこに意味を付けたがる自分もいたのですが、 今は、そういうところとはまた違うものを感じます。 「シントラ声明」に書かれてある、 目についての箇所を読んでみました。 ―――――――――――――――――― また、人間の目は、何かをもう見たくないと思う時、力を弱める。 機能を壊さないために、自動制御が働く。 その見たくないものは何なのか。 やっかいな頼まれごとか。 汚れた部屋か。 こじれた人間関係か。 すさんだ自分の姿か。 それを感じるだけで、ああ、それかと思うだけで、痛みは弱まる。 なぜ目が疲れ、痛むのか、自分が納得することで目はうるおう。 目薬を差すより、よほど効果がある。 肉体は意識の反映なのだ。 ―――――――――――――― 自分が今、見たくないと思っていることを感じるというだけで、 ああ、あのことか~と思いをめぐらすだけで、痛みは弱まり目はうるおう。 と書かれてあります。 まるでパターンを見つけ、語りかけをしただけで、 そこへの苦しさが薄まる。 というのと同じ。 いっぱいいっぱいになっている自分を見たくない。 と思っていたかもしれませんし、 いろいろな、目には見えないエネルギーを感じ取って自分が飽和状態になり、 見える分以上に背負っていたということもある。 そして何よりも今回感じたのは、 実際に普段から毎日、 目が疲れるものに囲まれて生活していること。 ここも自覚して気をつけていきたいです。 こうして体の不調はいつも自分に必要なこと、 今大事にしていかねばならないことを教えてくれるんだなあと思いました。 ドライブ中は遠くの山を~

目は大事

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朝起きたら目が赤くなっていて、 午前中のうちにどんどん右目に痛みが走りました。 目を開けていられなくなって眼科に行くと、 結膜炎と角膜炎が同時になっているとのこと。 普段コンタクトをしていますが、 もう激痛なので外して眼帯をかけ、その上からメガネをかけるという、 なんともトホホな状態になっています。 そんなに目を酷使していたつもりはなかったけれど、 このところの疲れもあって、弱いところに響いたのかもしれません。 ・・・ということで、 しばらくはPCから離れ、スマホからも離れ、 大事に続けてきたブログですがしばしお休みします。 目を休ませて早く治したいと思います。 うさぎの目のようになってみてはじめて~ 目の白いところが白くあるって、 ありがたい状態なのだなあと思いました。 両目が充血すると、なんか痛々しいのを通り越して、顔が怖い・・・ですっ! 皆さまもどうぞ、きれいな目を大切にしてくださいね。

張り合った末に

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昔はよく、いろんなところで張り合っていたなあと思います。 あからさまではなかったと思うけれど(たぶん)、 マウントを取りにがんばっていたと思う。 何をそんなにがんばっていたか?と言えば、 あらゆることにです。 ママ友には、自分の子どもの方が優しいとか、運動神経がいいとか、 入った高校でも内心張り合っていたと思う。 子どものこと以外にでも、 少しでも暮らしぶりが裕福でゆとりがあるかのように見せることも、 いつも他人とくらべて張り合っていた。 職場では、これは自分の手柄だとか、自分の成績だとか、 自分がどれだけ優れていて、好かれていて、仕事ができているかどうか。 まだまだいっぱいあったとは思うけれど、 今はむしろ逆になっていて、 そう見られたくはないし、そう思っていない部分ばかりです。 そんなことをしてどうしたかったのか? その頃の自分は、結構本気で、 そこが満たされれば自分が安心できると思っていたのだと思う。 そこが周囲から認められれば、 自分は幸せを証明できたかのように感じていたかもしれません。 一瞬の満足の後は、より一層もやもやするし、 全然幸せではないし、ただただ疲れるだけでした。 でも、そういう張り合った経験から10年以上が経過して(まだそれくらいしか経っていない)、 そこまでではないにしろ、 他人と比べそうになるパターンは今もいる。 でもそれを完璧に無くそう!というのも、また違うんだな。 無くそうとしたくなるのはパターンであって、 本来の「私」がすることではないからです。 「私」の存在は小さく、なんの主導権もなく、機能不全だったんだなあと思う。 海藻たっぷり蕎麦

季節の変わり目

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だいぶ涼しくなってきました。 いつも、寝るときは丁度良い感じなのに、 明け方にかけて寒くて目が覚めます。 でも、そのまま小さくなってがんばって寝ていたりもします。 そのせいか・・・ 今朝は風邪っぽく、頭痛があって、喉がイガイガして、 だるいまま一日を終えました。 こういう時は一刻も早く寝るに限ります。 季節の変わり目の体調で自分の今の状態がわかる、と言いますが、 今、まさにその時期であり、 過信せずに大事に過ごしていこうと思いました。 体を暖かくしていこうと思います。 今日も一日お疲れ様でした! 仏様にあげたお花 束にしてパシャリ

心の栄養と休息

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今日はお彼岸のお墓参りの後に、 娘と近くをドライブしました。 たまに行きたくなる、無人駅。 ここの駅には、地元のスーパーが出している野菜が売っていたり、 雑貨や手作りお菓子なども置いていて、 電車を利用している人以外にも待合室をのぞくお客さんがいます。 駅の雰囲気も素朴で、どこか懐かしい。 写真を撮り忘れましたが、 熊よけの鈴というか、ベルも売っていました。 (ここなら熊出るだろうな・・・) 駅を見たり、電車を見たりすると、 本当にわくわくするし、楽しくなるし、ほっとします。 こういう感覚に浸るというのは、 心の栄養、そして休息になっているのだと思います。 いつまでも残ってほしいなあ

単なるパターン

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先週、美容室でヘアカラーをしたのですが、 シャンプーが終わって鏡を見たら、 これはやってしまった・・・と思いました。 思っていたよりもかなり明るく染まってしまって、 派手なおばさんになってはいないか?と不安になりました。 派手もそうだけど、これが自分に似合っているのかどうか・・・ 美容師さんは褒めてくれましたが(そりゃねー)、 その後一週間、誰からも似合いますねとは言われませんでした。 ですが今日ついに、 すごくいいですよ!その髪の毛の色! と初めて言われて、やっと染めて良かったなと思いました。 他人に言われて、安心するって、 これってパターンだよなと思った。 でも、そんなことよりも、 だんだん自分でも見慣れてきたということがすごいと思いました。 この頃、恥ずかしいとも何とも思わなくなってきていて、 もう髪の色などどうでもよくなっていました。 つまり~何を言いたいのかというと、 「見る」ことを続けていると、 その現象に対して肯定的になっていくのではないかと思いました。 目が慣れるというのは、脳がもうそこを特別視しなくなっていくのかもしれません。 それが自然なことになっていくような感覚。 だから、パターンも始めは、 やってしまった・・・と思うけれど、 無視しないでちゃんと見ていけば単なるパターンだったのか~っていうように、 脳が見ることに慣れていくのではないかと思ったのでした。 本当にあの日、染め直そうかどうしようかと迷ったことがウソのように、 今鏡を見ても何も感じない自分がいるのが不思議です。 ホントに慣れるってすごいな。 絵画みたいだけど、お盆です

向き合いたくないもの

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今日のクラスの勉強会にのぞむまで、 約1か月間、パターンのケアをしてきました。 前回、パターンが騒いだことはわかって開示をしましたが、 それが「私」ではなくパターンで開示をしていたんだと思いました。 そこにまずは気付いていなかったというか、 これまでも似たようなことが起きてもスルーしてきたことを思い、 今回は以前より目を背けなくても向き合える自分が、 多少なりともいるのではないかと信じて、 いくつかパターンを見つけて語りかけをしました。 クラスで学ぶということに意味がある。 と思うようになったのは、他のクラスに参加してからです。 カウンセリングは本来一対一でするものですし、 個人で学ぶ良さを充分にわかっているつもり。 でも、一緒に学ぶというのはそこに比較が生まれ、優劣ができ、 クラスの仲間に抱く感情もこんなに出てくるんだなと。 だから、そこに向き合っていくことが、 自分のためになるだろうなあって思ったのでした。 でも・・・言うは易く行うは難し。 クラスの仲間の言動で引っかかるパターンに対してケアをするというのを、 この10年以上もの間、数えるくらいしかしていないように思います。 今回、自分が否定される(とパターンが思っている)ことに対して、 実はとても恐怖を覚えていたんだと気がつきました。 自分は間違えていないと思っているのに、間違えたことをやっていたとしたら、 もう、そこを指摘されたもんなら、 怒りと、恥ずかしさと、失望と、落胆と、そこに引っかかるパターンが、 その場には居られないと思ってしまうほど嫌なことだったんだ! と思い知ることになったのでした。 自分は間違っていないはず(正しいはず)というパターンと、 否定されたくないというパターンと、見下されたくないというパターン。 自分が一番いろいろ頑張っているし、 自分の言うことに賛同してもらえないなんてありえない・・・ ってパターンは思っていました(傲慢さがすごい!!)。 だから、今日のファシリで、 もしもそういう否定が、この安全であるべき場所で起きたのなら、 もう自分は耐えられない・・・ダメージが強い・・・絶対嫌・・・傷つく。 というようにパターンは思っていたんだと知りました。 本当に、今、そこに向き合えたことがよかったと思いました。 一番やらなければならないことをしないまま、 違う方向へ進もうとしていたかもしれ...

否定さ・れ・た

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否定されたと思ったら感情が騒ぎました。 腹が立つ、悔しい、悲しい・・・ざわざわと騒ぎました。 たぶん、自分が大事にしていることや、 これは正しいんだと思っていることに対して、 けなされたり、全否定されたり、邪険な扱いを受けたり、 ということがあれば、そのことに対してではなく、 自分の存在そのものを否定されたと、パターンは飛躍して受け取ってしまうからなのでしょうね。 でも、「否定された」というのは、何をもって否定だというのか。 とても不確かな事象で、判定しにくいものです。 相手が意図してそう言ったのであったとしても、 冷静に考えれば、自分の存在までを否定しているわけではないと思うし、 ずっと死ぬまでそうさせられているということもないでしょうし。 「〇〇さ・れ・た」という言葉には、 自分がそう受け取った、そう解釈した、そういうものだと自分が決めたという、 相手側ではなく自分側の問題であるように思いました。 自分(パターン)がそうしているということ。 クラスの勉強会のときに、 相手の発言に引っかかった自分のパターンがあるとき、 自己開示として、 「その言葉に引っかかりました。でもそれはあなたのせいではありません。私がパターンのケアをしてこなかったためです。だから、教えてくれてありがとう!」 みたいなことを言ったりするのですが、それに似ているなあと思いました。 まさにその、あなたのせいではない!のです。 そして、この後、だから私のせいなのです!とまでは言わないけれど、 100%自分の責任ですね・・・ 腹が立つのも、悔しい気持ちになるのも、悲しくなるのも。 その感情を持つことが悪いのではなくて、 全部自分がそこの引っかかりと向き合ってこなかったということ。 否定された、見下された、怒られた、言われた、注意された、冷たくされた・・・ これら、「された」が付いたら要注意だなあ。 自分の受け取り方のゆがみをみていこう。 糀の甘さでできた甘くないチーズケーキ 初体験の味!

こっぱずかしい

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自分には能力がないと決めつけているパターンは、 ちょっとでも満足にできないことがあれば、 「ほらね・・・」って、 やっぱり自分は頭が悪いんだ、バカなんだーーー! と落胆もしているけれど、腹も立ってきます、自分に。 「やっぱり」「だって」「どうせ」と言うことで自分を卑下して、 そういう自分なんだからしょうがないよねと言って納得させようとしたり、 また、そういう自分なのによくぞここまで頑張って生きてきたんだと、 自分で自分をなぐさめてきたという歴史もあります。 パターンはいつもネガティブなことを言った後に、 それを全否定してほしいという別のパターンも同時にいるんですね。 本当は、そんなことないよ!って誰かに言ってほしいのだ。 以前、その誰かに否定してほしくて、 自分が言ってほしい言い方、返し方をしてくれたらどんなに安心するだろう・・・ さぞかしスッキリするだろうなって思っていました。 あなたは素晴らしい人だよ あなたは他の人とは違うよね あなたってすごい あなたのようになりたい 等々。 しかし、こうして口にしてみると、 安心するどころか、 あ、もういいです・・・もう、もう言わなくていいです・・・ って何とも言えない恥ずかしい気持ちになるのでした。 ということは、 そういう言葉をもらいたいと思っていたのはパターンであって、 本当の「私」は、本当にまったくそうは思っていないという証拠なのだと思います。 言ってほしいのはパターンであって、「私」ではないんだと。 そのこっぱずかしい感覚は大事にしたいです。

準備電位が動く

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今やっている仕事がひと段落したら、 自分の時間と、自分のペースと、自分のやり方で、 これからの仕事をしていきたいなあと思いました。 ・・・って考えはじめると・・・、 もうすでに少しだけですが、自分の時間を創り、ペースを図り、 自分のやり方で試し始めているのではないか?と思いました。 以前、教わったことの中に、 自由意思でなんらかの動作をしようと思った0.2秒前にはすでに、 「する準備」が始まっている「準備電位」の話がありました。 本当の自分として楽しく充実していれば、 自分をサポートしようと思っている存在と共鳴しあい、準備電位が発動し、 直感やインスピレーションというかたちでアイディアなどが降りてきたりする。 というような内容だったと思います。 こういう話は、ちょっとわくわくします。 ますますどういう気持ちでいるかが大事なことになってくるし、 その逆もしかりなんだなあと思うからです。 自分の状態一つで、自分の時間を創り出していくことができるということだから! ほんのちょっとの時間の変化を感じたことで、 以前に学んだことを思い出したのだから、 そういうことも大事なんだよって、また教えてもらった気がしました。 何回でも必要であれば、自分の中の引き出しをあけて、 自分のために、いろいろ使えるものを見つけていけるのだ。 大地の恵み!

感情を大事に

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今日の 先生のブログ に書かれていたことを、 私も偶然ながら本当にそうだなあって思うことがありました。 感情を感じるって、本当に大事だ。 すぐに何か原因を考えたり、 物事の起きたことを深堀りするかのように、すぐに意味を考えてしまったり、 とにかく頭が働いていないということがない人の方が多いと思うのです。 そういう時って、 そこに「気持ち」があることにも気づかないのかもしれません。 昔、なぜかよく言っていた、何も考えてませーん・・・という返答。 いつも頭がぐるぐるしているはずなのに、聞かれると、面倒でこう答えてしまっていた。 これも、今考えるべきことを考えていないだけで、 どうでもいいことをあれこれ考え続けている、っていう状態だったなと思います。 こういう話をすると、 思考することが良いことではないかのように聞こえるかもしれませんが、 そうではなく、思考には、「私」がしている時と、パターンがしている時があり、 後者はいつまでもいつまでも同じループを歩き続け、 進化しているように見えて進化していないのだと思う。 だから、自分はいつまでも考えているという状況は、要注意なんですね。 以前は、感情というのは何かやっかいな感じがあって、 それは丸裸にされるような、知られたら(自分が知るにしても)ちょっと怖いようなものだったと思います。 でも、今は自然にそこが大事だと思える自分になったことが良かったなと思う。 人間は感情の生きものだから(肉体だけではないから)、 逆にそれをなくしては、みな魂は生きづらいのかもしれません。 このところ、怒りや苛立ちをよく感じている自分がいます。 単純に仕事に追われて余裕がないというのもあると思うし、 やはり大きなパターンがあって、そこへのケアも今、不十分だったなと思う。 それでいて、パターンが顔を出すと、 それを嫌うパターンが怒ってイラつくんです~ でもこの感情を知るから、次に進めるっていうことなんだな。 明日もどんな感情、感覚を抱いても、 それを大事に感じていこう。

ほとんどが~

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日々成長したいと思うのは自分の願いです。 そのために、いろいろもがきながらワークを覚えた日々もあり、 そのワークがさらに、やり方間違っていた・・・ということもあり、 そしてさらに、全然わかっていなかった・・・ ということがあって成長していくのかなと思います。 ワーク以外にも、 自分に起こることのすべてが、今必要なものだと捉えたり、 ここに目を向け、逃げずに、その意味を考えたり、 または、あれこれ考えずにもうそれはやめよう、捨てようというものもあったりします。 だから、起きていることが必然であると素直に受け取り、 じゃあ、あなたはどうしたいの?と問いかけよう。 そこにほとんどの場合、パターンが関係していることが多いから、 だから、まずは、ワークやろう~ってなるのだと思う(私の場合)。 久しぶりの若園さん(お蕎麦屋さん) 落ち着きます

八幡様の秋祭り

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連休中は盛岡八幡宮の秋祭りでした。 大通り方面に行くと、ばったり山車と遭遇! (遭遇したくて、そっち方面へ行きました~) いいですね~お祭りって。 普段は静かな街中も太鼓や鐘の音があちこちで鳴り響き、 元気な子どもたちの掛け声や、 「○組」と書かれたはっぴを着た人たちを見かけるだけで、 わくわくしてきます。 何年か前は確か平日にお祭りがぶつかっていたような・・・ 会社の近くを山車が通りそうなものならば、 仕事を投げ出し外へ飛び出していった私。 そのうち、外へ出ても怒られないと知って、 調子にのって追いかけていくこともありました。 本当にあの音を聞いてしまうと、 居ても立っても居られなくなる性分みたいです。 秋祭りが終わると、だんだん秋本番になって~ 稲刈りも始まります。 今年は何とか平年並みになりそうだということですが、 新米が出たら感謝して食べたいです。

AIと似ているところ

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世の中で騒がれているAIですが、 私というと、いまだ使い方がよくわかっていません。 それでも初めて文章作成をお願いしたら、 あっという間にそれなりに出来て本当にびっくりでした。 AIを使いこなしている人からすると、 以前より断然、時間にゆとりができて、 その分を仕事のアイデアだったり、 人との交流に時間をあてられるようになったという話を聞きます。 また一方では、 自分が思い描くような仕事ぶりにはならず、 さほど仕事が楽になったわけではないという話も同じくらい聞きます。 AIの使い方をちゃんと正しく知っているか? ここの違いなんでしょうね。 自分という人間も、ちゃんと理解して、 どんなパターンをもつ人間であるかを知ることで、 より良く生きることができる。 どう使っていくかというところが似ているなあと思いました。

語りかけの点検

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今ケアをしているパターンは、これまでも何度となく出てきていたもの。 もしかしたら、パターンと向き合うことが少し怖かったのだと思います。 (って言ってるのも、パターンだけど) ちゃんとやれていなかったなと思いました(パターンよ、ごめんなさい)。 だからこそ、これは自分にとって根深いものであるのかも・・・しれません。 パターンが「在る」ということに対して、 それを嫌がるパターンで語りかけをしないように、 そこを時々点検をしています。 その点検の主となるものは、 王としての「私」が言っているものであるのか? というところのチェックです。 そして、パターンを早く何とかしたいという思惑で、「こなれ感」でやっていないか? そういうところを見るようにしています。 クラスの仲間が、実際の王様の姿をかたちとしてイメージして、 それで語りかけをしているというのを聞いたので、 早速、自分もやってみると、 イメージとしてぴったりくる王様の画像を見つけました。 王って、民のどんな気持ちも、訴えも、理解しているし、 それを聴くことができる。 だけど、王自身は民と同じようには感じてはいないという、 そこに別世界にいる威厳さを感じつつも、 柔軟性や包容力や懐の深さもあるだなあと思いました。 これなんだな・・・王って。 そして、いろいろと策略せずに、 また複雑化しないように、 素直に感じたから(キャッチしたから)ケアをしよう。 というシンプルさ、無心さ、規則的でもあり、自然の流れのようでもあり。 気づいたら目を向けていく、でいいんだと思いました。 やっていると、これじゃなかったなとか、 こっちがしっくりくるなとか、そこはワークだから熟考していくところです。 もっと自分のパターンが言いそうな言葉で代弁して、平たく言って、 そしてカラッと感を持ちながら~ いっぱい点検項目あるな。笑 涼しいを通り越して、小寒い一日でした

生きている限りは

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今日は休みだったので、母の朝食を作りに行きました。 そしてデイサービスの日でもあったので、いろいろ準備をしなきゃと思っていたら、 すでに玄関のところに持っていくリュックが置いてありました。 今年の1月に骨折をしてから入院、手術、退院後のリハビリ、 一時的な私との同居、デイサービスを変える等々、 認知症はこういう環境の変化に一番弱いのですって言われてましたが、 今は、何かちょっと進行が遅くなっているような気さえしていて・・・ こういうのももしかしたら、そうなるという思い込みがあるのかなと思いました。 訪問看護の看護師さん、リハビリの理学療法士さん、主治医の先生、 ケアマネさん、週2回のデイサービス。 そこに私と家族、結構な人が毎日何かしら出入りするようになったことが、 変化は変化でも、母の脳内へよい刺激を与えているのではないかと思います。 生きる中で人との関わりが大切なのはとてもわかる気がします。 それが良い関係性ならなおさらですが、 そうでもない関係性やネガティブな出来事があっても、 母を見ていると、どちらも必要なんじゃないかって。 老人だからといってみんながみな親切丁寧に接してくれるわけではないし、 母も嫌な思いもして不安定にもなる。 私たち家族も常時、笑顔と優しさだけで一緒に過ごせるわけでもありません。 でも、どういうときがあっても、 自分一人で生きているわけではないっていう感覚はあるように思うし、 そこには、なんとか生きていけるという経験から、 安心とあきらめも同時に積み上げているのではないだろうか・・・ 母の体重がかなり減ってしまい、 顔のシワも深く刻まれて、手足は冷たく、体は枯れ木のようで、 私は心配で、とにかく食べないことの弊害を母に切々と説明したことがありました。 (食欲がないのに、食べろ食べろと言われるのもつらいと思うけど) そうしたらぽそっと、 「はあ、そうなんだね。 生きている限りは、こうやって生きなきゃ(食べなきゃ)なんないんだわね」 と笑って母が言っていたのです。 そんな姿をみて、 なんか仏様を見ているような気持ちになってしまいました。 この感覚は父のときにもあり、 実はもうこの世界には半分しかいないような、 あとは私の心の準備のためだけに生きてもらっているような・・・ 今こうして一緒に過ごせる時間は、限りがあるゆえにとても尊いものだと思う。...

おばさんのいいところ

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今日は鍼灸治療に行ってきました。 仕事帰りに寄ったので、最高にお腹が空いてました。 行く前にちょっと飲みものを飲んで、多少の腹ごしらえをしたつもりでしたが、 施術をしている間、結構な音でお腹がキュルルルルって鳴ってしまいました。 あおむけになって寝ていると(おへその辺りにも1本打たれている)、 余計にお腹が鳴りやすい感じ。 そして、私が寝てる隣りのベットには、 声の感じからして明らかに若そうな男性が入ってきました(カーテン越しで顔は見えない)。 マズい。頼むからお腹鳴らないでよねと、めいっぱい力を入れる。 しかし、あおむけで力を入れても、 かえってそのキュルルルルは部屋中にまたしても大きく響き渡ったのでした。 時間が経って・・・ 今度はうつ伏せになります。 やっとのこと下に押されたお腹は、しっかりガードされておとなしくなりました。 ああ、これで静かになった~今からはやっと寝れるな。 そう安心したのもつかの間、 今度はなんとなんと、自分のいびきで目が覚めました。 ふがっ~ おじさんがするような、怪獣のような音を2回ほど立てて本日の治療は終了。 なんか久しぶりに、ああ、恥ずかしい~~~ って思った出来事でした。 その後、何事もなかったかのように着替えをし、 先生にお腹がさんざん鳴ったことも、いびきをかいたことにも何にも触れず、 とっとと帰った自分が後から可笑しくなりました。 そこはもう済んだことになっている。 しっかりおばさんだなと思ったのでした。 担々麺にきざみアーモンドがのっかってておいしい!

知らないことを聞く

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仕事で病院に行くと、いろいろな職種の方と会います。 DR、看護師、作業療法士、臨床心理士、精神保健福祉士 といったメンバーと関わることがあります。 会社にも担当というものがあるけれど、 病院ってただの担当ではなくて、その分野の「プロ」だという認識があって、 話にとても説得力を感じることがあります。 たぶん、この人が言っているのだからそうなんだろうなあって、 いわゆる肩書(有資格者)の通り、そこに見合った信頼できる人がいるという印象です。 でも自分はどうかというと、肩書はあるけれど、 全然見合っていないなあといつも思っていました。 正直、専門の知識などがそんなにはないと思うのです。 経験から知ったことだけで、後から知識が少しだけ役立って、 そういうことだったんだなあって知るくらい。 だから、知らないことがあるとすごく緊張するし、そんな自分が情けないというか、 自信のなさを以前は自分に感じていたのですが(←これぞパターンなのだが)、 いつのまにか、今はそこはあまり気にならなくなってきています。 それは、開き直りとも違うような・・・ 何があってもなくてもどちらでも私は大丈夫なのかもしれないと、 根拠はないけれど大丈夫だなって思ってやっているような。 知らないことがあれば聞けばいいだけなんだと。 そういうちょっとライトな感じが、 以前の自分とは違うのかもなあって思いました。 洋梨がなってました!

現実を見よ

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たまに会うだけの人とのパターン。 会ったときに、あ~まだ自分はここに引っかかるんだなあと、 思うことがあります。 パターンが顔を出すことを残念がる気持ちでです。 残念な気持ちになるということは、 そのパターンを嫌うパターンがあるということ。 そのまま、変わらずそこにいていいと「私」は言っているのに、 出てこられると見たくないと思ってしまうのは、 「私」じゃなくて「パターン」がパターンへ語りかけをしていたんだなと気づきます。 何にも引っかからない落ち着いた心が欲しいと、パターンは思うのだ。 でも、そういうことを目指したいわけではないことを忘れてはいけない。 こんなに学んできたのに・・・って思うのもパターン。 まだまだパターンを嫌うパターンがあるんだと、 何にも引っかからないことを理想にしていたんだと、 まだまだそういう自分なのだ。 この現実をちゃんと見ていこう。 こういう本は何も考えずに読めます…

「私」は自立している

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昨日、語りかけの文章を作ってみました。 教わったように、空を見ながらカラッとした明るさをもって、 声に出してみたところ、 ああ、これはパターンであって、 本当に「私」ってパターンのようには思っていないんだなあって感じます。 どんなに、そうだよね、って言っていても、 「私」はそうは思っていないけどね・・・と心の中で言っている。 このセリフを聞くたびに、 本当の「私」はパターンの気持ちはわかっているけれど、 それとこれとは別!っていう、そこに共感はしていません。 そうだよね~って言いながらも、 「私」はそうは思っていないけどね!って思っているって、 なんか、その「私」のスタンスってすごいな。 自立しているな~

似たようなパターンに引っかかる

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 一つの引っかかりを無視していると、 また似たようなパターンに次も引っかかります。 あるパターンの語りかけをしました(ここはカラッと)。 しばらく無視していたパターンだったので、丁寧に意識して語りかけをやってみると、 ●自分には能力がない という自分の中の大きなパターンにつながっていることがわかりました。 やはり、ここの関連のパターンが自分には根強くあるんだなと思いました。 ただ、深刻さとはちょっと違う、発見!という感じでもありました。 明るくカラッとやってみた語りかけらしく、 そうか!そういうことか!と、パターンを見つけられて目の前が開けていくようでした。 そして、能力がないとパターンは思うからこその行動を取ってきたのだと思いました。 そこへの自信がまったくない。 自信がないことを何とか隠そうとしていたんですね。 でも、本当に自信がないと認めていたのなら、 もっと謙虚になってもよさそうだけど・・・ そうじゃないのが、これも自分のパターンです。 自信がないことを隠したい、抵抗したい気持ちも相当なものなのです。 そうしないと、怖くて緊張して震えて何もできなくなってしまいそうだから。 恐怖と不安に支配されてしまうから。 これが根底にあるから、パターンは強くなっていくんだな・・・ どんなパターンがいても、 「私」はいつも大きく手を広げてそこにいる。 こっちに意識をもっていこう。 玄関のまわりをここ数日うろついているカマキリ

夏の終わり

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家のベランダから見えた打ち上げ花火。 暑かった夏も終わりですね。 今年の夏は、盛岡も35℃近くまで気温があがり、 自然な風が好きな私も、 さすがにエアコンなしでは生きていけず、 本当にお世話になりっぱなしでした。 今年の夏は、盛岡だけでなく、 秋田、茅ヶ崎、東京、埼玉と、いろいろ滞在したので、 今思うと、いろんな暑さを体験して楽しかったです。 でも、今年はかき氷を食べていないことに気づきました。 あんなにアイスを食べたのに・・・ やっぱり、氷はちょっと苦手なんだなあ そして夏に似合う生ビールも飲んでない。 日本酒は大好きだけど、ビールは苦くていまだ飲めないんだなあ ありがたいことに夏バテすることなく、 食欲旺盛なまま、秋に突入します! ゆったりとしたカウンセリングをしていきたいと、この頃思います。 知りたくて急いでしまっている時があります。 「知る」という楽しさに、 もう少し「ゆっくり知る」という時間を創ってみよう。 何も焦ることなどないよ~ って、自分に言い聞かせています。 心していこう。 秋もゆっくり味わっていこう。 今宵は満月でした

そういう時間の世界

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昨日書いた日記のインナーチャイルドは、 はじめから話ができたわけでは全然なかったです。 顔もうっすらで、下を向いていることが多かったので、 避けられているような感じもありました。 20代のあの頃の私は、病気のための治療を終えて、 秋田県の玉川温泉という地で湯治して静養していました。 その後、自宅での療養生活に入るのですが、 ステロイドの薬の量がなかなか減らず、顔はパンパンに膨れ上がり、 毎日どこかが具合悪く、苦しく、 心が晴れることはありませんでした。 今、かろうじて助かったけれど、みんなのような20代のキラキラしたものは自分にはない。 そして、今後もないだろうって・・・ 何のために生きているのか、これから何をどうしたらいいのか全くのお先真っ暗。 だと信じていたときです。 縁側に座っていたのは、 その時に飼っていた子犬と遊んでいたり、 本当は外にも出てみたいけれど、近所の目を気にして出られず、 縁側までが精一杯だったからです。 「どうしたの?」と何度か話しかけ、 何回目だったかに、「あのね・・・」ってこんな自分が嫌だと泣き出し、 とにかくずーっと泣いていました。 あの頃よりももっと、その子は声に出して泣き続けました。 ふかふかのバスタオルを肩にかけると、それで顔を覆い、涙をふき、 そのタオルが「気持ちいい」って言いました。 やがて、 「コーラが飲みたい」と言われて買ってきて一緒に飲み、 (本当に自販機でも買ってきた) その頃から、何かふっきれたようなすっきりした表情になって、 ああ、もう大丈夫なのかもしれないって感じたのです。 最後の方はもう会いに行っても黙って座っていることがなく、 犬をかわいがったり、硝子戸をあけてサンダルを履いて庭に出てみたり。 そして、お出かけして行ったのでした。 これが自分にとってのはじめてのインナーチャイルドとの出会いです。 もっと会話がある子もいるでしょうし、 いろんな遊びを一緒にしたい子もいるでしょう。 全然無反応な子もいるかもしれません。 (それは、もしかしたら今の自分でそこに行っていないのかも) 過去の自分と遊ぶなんてどうやって?とはじめは思っていましたが、 本当にそこに生き続けている子なので、できるんですね。 そういう時間の世界なんだと思う。 もしも、突然自分の小さい頃の場面が浮かんで出てくるようだったら、 そこに、その子がいる...

インナーチャイルドの変化

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毎日、 道場の仲間のブログ を読むのが楽しいです(日課です〜)。 読むとなんだか、セミナー後のあの学ぶ気満々の空気感がよみがえるよう。 そして、なるほどなあと、みんな自分の先生なんだなと思います。 昨日はFさんの日記を読んで、はたと思いました。 あ、最近インナーチャイルドに会いに行ってなかったなと。 一緒にコーラを飲んだきり、 ちょっと間があいてしまいました。 久しぶりに行ってみると、その子はいつもの縁側に座ってはなく、 私のことなど関係なく外に出かけるところでした。 「ちょっと行ってくるね」 え、私が会いに来たのに? 当時よく、青いチェックのネルシャツとジーンズをはいていました。 中にタートルを着て厚着をしています。 それが冬から春へと季節が移り、夏に近づき、 その子は白いカットソーと白パンツに変わっていました。 身軽な服装とともに表情も明るくなり、 だんだん顔のむくみも取れているような気がしました。 そして、今は、笑顔がとても自然な感じになってうれしそうです。 抗がん剤で抜けた髪の毛もすっかり伸びて、 坊主頭ではなく、おしゃれなベリーショートになっていた。 ちょっとだけ、自信が出てきたような感じなのかな。 インナーチャイルドは自分の中に確かにいます。 もう大丈夫だと思っても、どうなんでしょう。 また少し経ったら、こちらからまた声をかけたくなるのかな。 傷ついたままの自分が長い年月、当時のままでずっといて、 それが少しずつ感じることができてきてはじめて、 他の子たちも待っているのではないかと思いました。 その子たちの話をたくさん聞きたい。 今日は、いよいよ・・・と言ったらいいか・・・ 会いに行ってみようかなって思う子のところに行ってみます。 明日から雨予報

やるしかない

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今日で精神保健福祉士の実務実習の受け入れが終わり、 ちょっとほっとしています。 たった1人で、知らない事業所に来て約3週間の実習を体験しなければならず、 初日の緊張感はすごいだろうな〜って思う。 学生さんは福祉事業所や病院での実習を終えると、 今度は冬に行われる国家試験が待っています(同時期に卒論もある)。 息つく間もなく、これからそこに向かって突っ走るのだろうな。 そんな、 やるしかない! という時期が人生にはあるように思います。 若いうちにというのもあると思うし、 50代のうちに、60代のうちに・・・ そして80代のうちならまだやれるだろうってものがあるのかもしれない。 でも、今日が人生一番若い時なので、 今やるしかないって思っていた方がいいって思いました。 何か大それたことをやるわけではなく、 他人から見たら、そんなことか~って思うようなことでも、 自分にとっての一歩であるなら、それはすごく大事なこと。 今年残り、4か月あまり・・・ 毎日、パターンに気がつき、パターンへの語りかけを1回でいいからやっていこう。 自分を救い出すためにやるのだ。 そこへ向かう勇気、プライドを捨てること、 そして自分で自分を押し上げる力を使っていこう。 見えるかー まっすぐ飛行機!

凡人っていい

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自分は本当に凡人だなあとこの頃よく思います。 凡人とは、優れた性質とか変わった性質を持たない、ごく普通の人。ただの人。 以前、「あなたは凡人なのよ」って言われて、 え~そんなあ・・・って認めたくない時もあったのですが、 今となってはそれはまだマシな方! 褒め言葉でもあるなあと思うくらいです。 こういう自分だからこそ、 パターンがどうしたこうしたと(教える先生に失礼ですが)、 心を見ることをやっているのだし、 語りかけとか、いろんなワークを屈指して自分を知ろうとしているのだと思う。 何かに秀でて、才能豊かで、自分に自信があったならば、 こんなに自分の心を見ようと思わなかったかもしれません。 それらがまったくないから、心のカラクリに感動したのだと思うし、 こんな人生は嫌だって思うから、地味~な学びを続けてきたのだと思います。 才能がある人、人脈がある人、地位を確立させている人、優しい人、 エネルギッシュな人、お金に不自由していない人、家庭が円満な人、 健康で体力がある人、いつまでも若々しい人・・・ 他人が見て羨むようなものは、 自分には実は見合わないということもあるかもしれません。 自分にはその学びは必要ないから、こっちの試練が来るとか、 そういう力はなくていいから、こういう現実が与えられるとか。 自分のためにセッティングしているということもある。 だから、凡人で良かったなと思います。 (何度も言うけど、凡人って言うのも褒めすぎ~) シフォンのフルーツサンド byちひろさん

バトンを渡す

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昨日の24時間テレビの密着を放送していました。 年々温暖化になっていく地球で、 この時季のマラソンはとんでもなく辛いものだと思うですが、 今年は横山裕さんが走っていました。 24時間走ることについて、 無謀だとか偽善だとかいろいろ物議を交わしているところもありますが、 そういうのはちょっと置いておいて… その姿には、ただただ胸を打たれます。 アイドルも何も関係なく、 汗だくで、真っ赤な顔に涙をいっぱい流して(私も泣く)、 最後はメンバーたちに支えられて無事ゴールしました。 華やかな世界だけに生きている人はいないし、 暗闇の中だけに生きている人もいない。 いろんな不平等の中に、平等な命があって、 その命をどう使っていくのか・・・ テレビを見ているたくさんの人に、 幸せのバトンを渡してくれたのだなあって思いました。