ご褒美をもらう

私の父が暮らしている老人ホームへ行ってきました。

ここのスタッフの皆さん、本当に声かけや接し方が素晴らしく、いつ行っても家族のように(いえ、それ以上に)自然体で接してくれているのが本当にありがたいです。

こちらも全く気兼ねなく行けるので、(と言い訳をして)すっぴんで、ぼさぼさ髪を束ね、若干いつもよりだらしのない格好でしたが、寄りました。
父はたぶん、私だと気づいていないようで、
「はい、こんにちわ」と他人行儀のあいさつでした。
気のせいかもしれませんが、ちゃんと化粧をしてきちんとした格好をしていくと私だとわかるような・・・
私はなんとか、娘だよーということをわかってほしく、母の話題を出したりしましたが、「ほう・・・」と言うだけで全くピンときていない感じです。

父の認知症を今は大分受け入れられるようになりましたが、ときどき自分のことをわかっていなかったり、目の前にいるのに全く視線が合わなかったりするとやはり悲しいような寂しいような気持ちになります。
私はまだ、父と話がしたいのだと思います(こうなる前はそれほどでもなかったのだが)。

話は全く通じませんが、とても不思議なことに内容の喜怒哀楽?というか、うれしい話なのか困った話なのか、愚痴っている話なのか、どうでもいい話なのかという雰囲気だけは何となくわかるようです(これは、認知症の方のご家族の皆さんなら、わかる感覚かなと)。
ですので、一緒に笑ったり、眉をひそめたり、うんうんとうなずいたり、はたから見るとまるで普通に会話しているかのように見えるかもしれません。
特に父の場合、笑いにつられるという特技があり、たいてい私が爆笑すると、父も欠けた歯を全部みせながら爆笑するので、そこはいつもありがたく思っています。

今は、父が認知症になったことで私たち家族は、いい経験をさせてもらっていると思うようになりました。年をとっても、いまだ身をもって教えてくれるんだなあ、と。
そういう心境になるまでは、変わってほしくないというパターンがあり、なかなかこのパターンは変わりゆく父を認めてあげられませんでした。

でも、今は父だけでなく、お年寄りが困っているときに、ただ年だから~ではない見方を持てるようになり、認知症の方への伝え方や話し方など父のおかげで少しは上手くなったかなあと思います。

過去にこだわりなし、未来を思いわずらうことなし。
今この瞬間に生きるだけ。
何だかすごい・・・究極な生き方。

父がまだ自宅にいたころ、
「俺は、なんにも心配事がないなあ」と言っていたことを思い出します。
これは、私がカウンセリングを勉強し始めたころ、こうなれたらどんなに幸せか!と思っていたことで。
今では心配事という言葉すら忘れてしまっている父だと思うのですが、
これは、神さまからのご褒美なんでしょうね。