ずれた会話

たとえ話をして、理解が深まるということがあります。
はじめに聞いた話では、ぴんと来なかったことも、
自分の中で咀嚼し、しっくりとくるもので表現できれば、
なるほどそういうことか!と自分自身がしっかりイメージでき、腑に落ちた~となります。

でも、そのたとえ話が、何かちょっとずれている・・・ということもあります。
自分の話を相手の方がたとえ話でいい替えたときに、
ちゃんと内容が通じていたと思っていたけど、
理解と共感があったと思っていたけれど、違っていたんだ、ということがわかる。
こちらの伝えたいこと、真意は通じていないんだなっていうこともあります。
「えーと、そうじゃなくって~」
そういうときは、思わず訂正スイッチが入ってしまいます。
そしてご丁寧に説明をし直し、分かってもらうまでがんばってしまうのです。

こういうことって、これまで何度かありました。
その度に、相手のたとえ話を訂正させてもらい、あらためて理解してもらったということもありましたし、
誤解がすっかり解けて、そういうことだったのね!と、
霧が晴れていくようにすっきりとした状態にお互いがなることもあります。

でも、こうならないときもあるのです。
相手の方がわたしのその訂正に、なにか腑に落ちないような、
余計に分からなくなってしまったような、
ぽかーんと振り出しに戻ったような(何も聞いていなかったかのように)、
そういうこともあります。
こうなると、心が動揺してくるのです・・・
わかってもらうということが、こんなに気持ちの悪いものか?と思うほど、
それがパターンがやっていることだということに、やっと気がつくのです。

他人の解釈と自分の解釈が一致していないことで、何か問題でもあるだろうか?

たとえ、ずれた会話であっても、
相手の方のほっとしたような、安心したような感じがそこにあったらどうでしょう。
それ以上に何か自分が言うこと(訂正すること)って必要だろうか。
このかみ合ってない会話が、とても平和だ、ということもある。
「そういうことか~」
とその方の中で決着がついているのに、なぜそこをわざわざ、
「違うんだってば~」と否定する必要があるだろうか。

こちらの意図するまま受け取ってもらえたら、それはそれでいいのだけれど、
少し意味合いは違っていても、そのことで誰かに迷惑がかかるということでもなかったので、
その方の受け取り方でいいと思いました。
自分も相手の方もそれで安心したように笑顔になったので、それでいいって。

『安心する』というのは、暮らしの中でとても大切な部分なんだと思います。
正しいのか、そうじゃないのか、というところをはっきりさせることよりも、です。
自分が、みんなが、安心して過ごせるのはどっちだろう?
と考えてみると、自分の本意が、本当はそれほどのものではなかった(重要ではない)ということがあるようです。
本意にこだわる理由は、
単に相手にも「そうですね」と共感してもらいたかったり、
内容がスムーズに通じると、何かその話した事柄がうまくいっているような気になるからかもしれません。

以前、認知症の方と接するときに、
「正しさを伝えるのは意味がない」と言われたことがあったのを思い出しました。
忘れていく病気であるのに、
さっき言ったでしょ、そうじゃないんだよって、
どんなに丁寧に正しく話をしたとしても、
大事なのは、理解してもらうことではなく、
その方が今、困った顔をしているのか笑っているのか、ということだけなのです。

ずれた会話、かみあっていない会話でもいいのかもしれない。
そういう捉え方で安心して落ち着いて、決着がついたような、腑に落ちたような感じがあれば、
それで、お互いが笑えたらもういいのかなと思いました。











コメント