また逢えるときまで
母の姉である叔母のことを、わたしは小さい頃から大好きでした。
どうしてこんなに自分のことをかわいがってくれるんだろう?
と思うほど、いつも気にかけてくれ、楽しませてくれ、時に叱ってもくれ、
また大いに自分のことを褒めてくれる人でした。
会いにいくたびに、「まーちゃん、よく来たね」
と満面の笑みで喜んでくれるのですが、その喜び方がすごくて、
もしかして自分はおばちゃんの子どもなんだろうか?
と思ったりもしたほど・・・物心ついた頃からずっと変わらず可愛がってくれたのでした。
叔母は田舎町で美容師をしていました。
お盆に泊まりにいくと、よく白無垢の花嫁さんをつくっていました。
今思うと、なぜお盆に結婚式?と思うのですが、
田舎では、成人式もお盆に行われるので、
おそらく親戚が集まりやすいこの時期に、お祝い事をする習慣があったのかもしれません。
わたしは叔母がつくる花嫁さんのお化粧を見るのがとても好きでした。
特に、襟足を白くきれいに塗るところと、真っ赤な紅(べに)をちょっと小さめにふっくらと塗るところ。
慣れた手つきで化粧用の刷毛を動かし、時々冗談を言ってはリラックスさせて、
その人に合った色を使って美しく仕上げていくのです。
今でもはっきりと覚えていますが、それはそれは『魔法』でした。
思えば夏休みといえば、毎年叔母の家で過ごしてきました。
母親も一番年の近い叔母とはとても仲良しで、
もしかするとわたし以上に母も、可愛がってもらっていたのかもしれません。
わたしは、美容室というお店にいて遊ぶことが大好きでした。
お客さんが途切れたときは、すかさずお店の大きな鏡の前に座り、
椅子をくるくると回しながら遊んでいました。
鏡の中に手鏡を合わせると、永遠に続いて見える自分がそこに映し出されます。
鏡に背を向けて、手鏡を使ってはじめて自分の後ろ姿を見たときは、
自分ってこんな頭の形をしているのね~と、横顔を見たり、斜め角度から見たり、
変なクセのある襟足や、何度とかしてもしても分かれてしまうつむじとか、
鏡に映っている自分にとても興味津々でした。
でも、何より楽しかったのは、
カーラ―で髪の毛を巻いて、通称オカマに入り(昭和の美容室にはかかせないスタンドドライヤー)、
くりんくりんの髪の毛にセットしてもらうこと。
こんな楽しい経験は、普通はなかなかできないもの。
子どもながらに、この特別な時間へのお礼をしなければと、
床の髪の毛を履いたり、パーマ用のペーパーのシワ伸ばしをしたり、お手伝いもよくしていたように思います。
そんな、ねこっかわいがりしてくれた叔母が、
一度だけわたしに強く反対したときがありました。
それは、美容師になるために東京へ行きたいと言ったときです。
てっきり喜んでくれるかと思っていたのに・・・
数年後、体を壊し岩手に帰り入院することになったわたしを、何となく予感していたのかもしれません。
あの時止めればよかったと、何度も言っていました。
自分にしてみれば、人をきれいにする、喜ばせるという仕事に就きたいという思いがあったのにもかかわらず、
その道に、自分は選ばれなかったんだなと思う気持ちと、
叔母への恩返しのつもりで選んだわけではなかったのですが、
同じ道を進み、叔母のような人間にどこか憧れていたのかもしれないなあとそのとき思いました。
先月、叔母は89歳で静かに天国へ旅立ちました。
自分はその恩返しというものが何一つできていなかったことに、本当にいまさらながら気づかされました。
もっともっと会いに行ってあげて、たくさん綺麗なものを見せてあげたかったし、
いろんな面白い話をして、わたしはもっともっと一緒にいたかったんだなと思いました。
人が亡くなるたびに、少なからずこういう思いは必ずといっていいほど湧き起ります。
後悔しないようにしたいと思っていても、やはりしてしまうのです。
今できることしか人はできないのかもしれませんが、
それでも、もう少しだけ、寄り添って側にいてあげたかったな・・・と思います。
楽しかったことを思い出しながら、
こんなにも自分は愛されていたんだなあと思いました。
叔母に返すことはもうできないけれど、
違う誰かを通して宇宙のはてに、これからの人生で届けたいと思います。
また逢えるまで・・・そのときまで。
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