感情を出さない人
いつも感情を出さず、淡々とした口調で事務的に話す人。
感情を出さないというより、
もしかして機嫌が悪いのかなと思うくらいの無表情さ。
あるとき、その方と接したときの自分の側の感情が変化していることに気がつきました。
「あの人、何を考えているのかわからない人だよね」
と言われてみて、
ああ、確かに、初めて会った人はみなそう思うだろうなあと思った(自分もかつてそう思ったことを思い出す)。
顔にも口調にも態度にもどこにも、今何を感じているのか?ということが見えないので、
感情が読み取れないって、こんなにも相手を理解することが難しくなるんだと思いました。
何を考えているのかわからない、ということは、
考えていることがわかりたい自分がいます。
だから自分の側に、すっきりしないものがあって、不安な気持ちになってしまい、
わかりやすいことが良いこと(正直だとか表裏がないのが良いこと)だと思ってしまいます。
考えていることがわかるというのは、感情を隠されていないということなんだと捉え、
相手から信頼を得られているように感じてしまうものがあったと思います。
ですから、わかりにくいというのは、その逆ということになり・・・
その人がどうのこうのというよりも、
そうされている自分は(考えていることがわからないように隠されている、と思っている)、
どこか信頼されていないような、受け入れてもらっていない感があったのです。
話す内容や、している行動だけを見ているのではなく、
表れる喜怒哀楽を見てはじめて、自分がどう思われているからそうなってしまうのか、
余計に『感情を出さない人』ではなく、
『感情を(自分に)出してくれない人』になっていました。
こうなってくると、いかに自分はパターンで人を見ているか、ということがよくわかります。
そんな一方的な捉え方から、
目に見える部分だけで人を判断し、理解しているわけではない、
ということも感じられるようになってきました。
もっと全体的なもの、総合的なものからその人が見えてくるというもの。
部分部分ではなくて、その人の持つ雰囲気、その場の空気感も含めてです。
パターンでみることをやめると、
もっと感覚的な、ぱっとひらめくような直感的な感じ方が、
たとえ感情を表に出さない人であっても、何かわかる部分もあるように思いました。
そんなことは言ってないし、そんな態度にも見えなかったけれど、何となくそう感じた・・・という感覚。
感情が表れにくい、わかりにくいというのは、
こちら側のセンサーとしては、とても鍛えられます。
あ、今うれしそう
あ、今焦っている
あ、今疑いをもっている
あ、今それでいいと確信している・・・
というような微妙なところを想像するようになり、
ちょっと例えが変かもしれませんが、
職人さんが指先に触れるほんのわずかな感覚だけでモノを作りだすような、
そういう繊細なセンサーが、『わかりにくさ』に何度もふれることで鍛えられていくのかもしれません。
自分自身の微妙な心の動きに気づくというのは、
そういう意味でとても大事なことなんだなあと思いました。
どんなに感情を表に出さないようにしていても、
相手の内にあるものにも、まったく同じような微妙な動きが必ずあるからです。
そこを感じ取ることは、とても興味深く・・・
また同時に、どんなパターンで人を今見ているのか?
と他人以上に自分を観察することに、面白さを感じている自分がいます。
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