形だけの傾聴
先日、ものすごく夫を怒らせてしまったことがありました。
何に怒ったかというと、わたしが話を聞いていないということにです。
それは自分にとっても、最近人の話をちゃんと聞けていないという自覚があり、
いつかここに真剣に向き合わないと後悔することが起きるのではないかと思っていた矢先のことでした。
たまたまその怒られた時の直後に、心理学を学ぶ時間があり、テーマはどんぴしゃの『傾聴』。
講師の先生が言う「一番近しい人にこそ、傾聴はできていない」に、耳が本当に痛かったです。
職場でも何かにつけて出てくる、傾聴という対人間での基本的姿勢。
まだその人のことを知らないうちは一生懸命話を聞いているけれど、
特に家族に対しては、もう性格も考え方もやっていることもだいたいわかっているという思い込みで、
右から左に聞き流すことが多かったと思いました。
そして話の内容によって、これは大事なこと、これはそうでもないことと振り分けていたんだと思う・・・。
形やスキルをおよそ身につけているだけに、たちが悪く、
しかも、それを自分でもうすうす自覚していたのに、直せなかった。
どんなに話を聞いたと思っても、
聞いたことを忘れてしまうということが自分にはよくあると、今まで思っていました。
年のせいもあるかもしれないけど、
わたしって、忘れっぽいよな~、抜けているよな~、まあ仕方ないか~と。
でも、それはちょっと違ったのかもしれません。
ちゃんと聞いていたけれど忘れてしまったことと、
はじめから聞こうとしていないから忘れていることの違いは、
相手にはわかるのだと思いました。
もちろん、後者だったので怒られたということなのです。
後悔先に立たずですが、猛烈に反省しました。
また、話を聞いてもらっていないことがどんなに腹立だしく悲しく寂しいことであるか、
夫の怒りで教えられたように思います。
パターンが何度も顔を出しているのに、
一向に「私」から話しをちゃんと聞いてもらえていないと思うとき、
パターンは話しを聞いてもらえたと思うまで、いつまでだって訴えてきます。
そして理解してもらえていないという寂しさは、いずれ怒りとなって爆発する。
それと似ていると思いました。
その日から、
話を聞くときはなるべく手を止め、テレビがついているときはテレビに集中しないように、
聞き逃しはスルーしてごまかさず、しっかり聞いたぞと、その時自分が思えるようにやっているのですが・・・
思ったよりも話を聞く(傾聴)ってむずかしいなあと、今更ながら感じる毎日です。
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