自分が引き受ける

ある方が病気をする前、
休日出勤はあたり前で、帰って寝るだけの日もあって、
上司が月末になると売り上げのために無理難題を言ってきて大変だった、と言っていました。
しんどいなあと思いながらも「わかりました。やってみます」と言って期待に応えようとして頑張っていた。
働き方改革があたり前の風潮になりつつある今、
その方も「こんな働き方、今の人には信じられないよね」と笑いながら、
あの頃はできませんとは言えなかったし、しかも上司からの頼まれごとならば断るなんてあり得なかったと言う。

わたしは話を聞いているうちに、
それだけ無理して働いていたのなら、上司の方は倒れたときに少なからず責任を感じたのではないかということを話しました。
わたしの受け取り方は、その方が何十年といた職場を否定するような感じだったのかもしれません(働きすぎて、病気になったんじゃないかと言いたかった)。
また一方では、そこまでして仕事を断らないのは、自分がよく思われたいという気持ちが強かったからではないかということも言いました。
わたしは感じたままに話した後、とても後悔をすることになります・・・。

話をさえぎるようにその方は、
「私っていつも人に恵まれているんですよ・・・」
と言うのです。

どれだけ大変な仕事かということを上司はわかっている。
承知の上で、自分ならばやってくれる、という上司からの絶対の信頼が自分にはあったから。
今回は無理かもしれないとわかっていて、
でもそれをあきらめずに黙ってやろうとするのが自分だということもわかっていた。
だから「いつも申し訳ない」というねぎらいのことばがあったし、
それを達成できたときは、本当に喜んでくれて、褒めてくれて、また次もみんなでがんばろうってなる。
よくご飯も食べに連れていってもらった。
「あ~もう疲れた~」と思うときもあるけど、なんかすごく楽しかったんだよね・・・と言っていました。

この話を聞いて、
本当に一生懸命生きてきたんだなあとわたしは敬意の気持ちでいっぱいでした。
たとえ、それが病気を発症する一因だったかもしれないとしても、
あの頃の自分を誇りに思い、
今でも自分は人に恵まれていると感謝し続けていることがこの方自身を支えていると思いました。
そこには後悔などないのかもしれない。
自分が確かにやり続けてきたこと、それが自分そのものだったと言えることがあるってすごい。
その当時の自分も、今の自分もどちらも引き受けて生きているんだと思う。
そういう話をしているときにわたしは、この方の持つパターンのことも頭をよぎりました。
でも、何かそこじゃないようなものも感じていました。
それは、その方が昔の自分に起きたことを語るときの潔さ、清々しさを感じられたからだと思います。

病気になったときに、
ああすれば良かったとか、あれをしなければ病気にならなかったとか、いろいろな思いがあると思う。
原因探しをして、周りにいる人たちが病気になった本人を責め、傷つけることもあるでしょう。
けれどそれら全部を含めて、それがあって、病気があって、また今の自分があって・・・
とまだまだ人生は道半ばであるのだから、最後の最後にならないとどんな人生だったかなどわからない。
自分がただ引き受けていくしかないのだ。
自分の人生はこうだ、と決めつけるには全然早いということかもしれません。














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