見ているものの違い
数字が苦手という方はいると思いますが、わたしは『超』がつくほど苦手です。
結婚してから付けている家計簿も、ほとんど意味をなさないほど適当なものだし、
当然のことながら学生時の数学は散々なもので、
子どもには申し訳ないくらい算数でさえもちゃんと教えてあげられませんでした。
そんなわたしが、職場では現金管理を任されていて・・・
月末はいつも「今月も合うわけがない」という前提のもと、伝票と現金を照らし合わせ、数日格闘が続きます。
なのに・・・、ここのところ状況が変化してきました。
「あーなんでこうも計算が合わないんだろう」とぼやいた時に同僚から、
「合わないなんてことはあり得ないですよ」という一言があったのです。
この何気ない言葉に、とても衝撃が・・・。
まるで1+1=2以外に答えはありますかと言わんばかりの、何寝ぼけたこと言っているのかと言われたような、
自分の見ているものって何なんだろうと感じたのです。
『お金』ではなく、『とてつもなく自分を混乱させるもの』だった。
この時から、現金管理への苦手意識はまぼろしだったかもしれないと思うほどに、数字が合うようになっていきました。
たぶんこのからくりは、
声に出してパターンのケアをしたわけではないのですが、
●計算が合うはずがない、というパターンの話を聞き理解し、
〇計算は合うもの、というパターンを選び変え~とここまでを瞬時にやったのではないかと思うのです。
そして、選び変えた落ちついた気持ちでコツコツと日々の照らし合わせを行っていったら、
ぴたっとイーブンで数字が揃うことが当然になっていった(そしていちいち驚かなくなっていった)。
こういう現象が起きたのだと思います。
このぴたっという感覚は、とても気持ちがよくて、ほっとします。
この感覚を持ってお金を数える、電卓をたたく、伝票をめくる、支払いをするといった作業はことさら楽しさまで感じられます。
こうして取る行動がパターンの選び変えの前後で変わっていないとしても、
結果を導くその行動への動機と姿勢はあきらかに変わったのではないかと思いました。
たかが計算だけど、
「私」が見ている数字はもしかしたら、
パターンで(苦手意識を持ったまま)見ていた数字とは違うものなのか???
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