安心感か優越感か

人から愚痴を聞いたり、不満を聞いたり、思うようにいかないことを聞くとちょっと安心するということがあります。
自分が何かつらい状況、大変な状況にあるときにそういったふとした会話で、
自分一人がつらいわけじゃないんだ~と解釈して気持ちが楽になる感覚です。

少し飛躍しますが、他人の不幸は蜜の味・・・のことわざのように、
自分に強いコンプレックス(こうなりたいという強いパターン)があったり、
他人より優位に立ちたいと思うパターンがあったりすると、
自分と同等かそれよりも大変そうな人を見ると、その人よりわずかでも優位に立ったような、自分が感じている大変さの捉え方が変わることがあります。
そういうパターンがあまり大きくない人ならば、ただの話(相手がそう感じている話)として受け取り、
自分がほっとする~なんて気持ちにはならないのだと思う。
でも、人間でいる以上ほとんどの人が普通にもっている感情で、
人と比べることで、自分の状態(幸か不幸か)を無意識に決めてしまうことはあります。

自分がどう?ではなく、
相手と比べてどう?もしくは相手から見た自分ってどうよ。

そこで得られるのは安心感というより優越感であって、
優越感というのは完全にパターンが喜ぶものでもあります(心が安らぐというより、心が舞い上がる感じ)。
これは、麻薬のようなものかもしれません。
手っ取り早く安心(優越)も得られるが、切れると不安にかられてしまうもの。
いっとき気持ちよく楽になっていく自分もいるのだけれど、
心の底ではもやもやしたものが確実に蓄積され、
そのもやもやを早くどうにかしたくて、また他人から自分を楽にしてくれる言葉が発せられることを期待さえしている。

自分がどんな人と付き合うのか、誰と話すのか。
どんな考えを持つ人が多くいる職場を選び、
どんな感覚を持つ人たちと関わっていきたいのか、
また、自分が望んでいない環境の中でどういう在り方で自分はやっていきたいのか、
時々立ち止まって考えていくことは大事だと感じます。

今ある自分をとりまく環境(人間関係)は自分がつくってきたものだといいますが、
全てではないにしても、
自分が選んでいる黒パターンで、その黒パターンが言いたいことを口にしていると、
そこにとても見合う人とつながっていく。
仕事の中では、あえて今はこの言葉を選ぼうと決めて話すこともあるでしょうから、
自分の中で意識的に今はこれを選ぶという選択をしているところがあればいいのだと思います。
ただ、そこがいつまでも継続していくようだと、黒パターンでのつきあいしかできなくなってしまうということ(本意ではない付き合い方)。

言葉って、よく考えるより感じ取るより先に、反射的に使ってしまう感じもありますが、
その言葉を発するみなもととなっているところ(魂)がどうありたいのかは、
いつも自分という肉体(細胞の一つ一つ)にもしみこませておく必要はあるかもしれません。
とっさによく出る言葉というのは、使ってきた歴史が長くて使い慣れていて、
またわたしの場合だと、すぐに反応したいというパターンがあるために(うまく返したい話したいというパターンなのかな)、
より一層意識的に自分のあり方、言葉は選べるんだ、ということがまだまだ習慣付いていないです。
これからも、練習していきます。









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