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10月, 2019の投稿を表示しています

悲しみの中にさえも

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先日、 仕事でお世話になった方とのお別れ があったばかりなのですが、 その数日後に、私たち夫婦にとって20年来の友人とのお別れがありました。 この短い間に、大切な人たちが旅立ってしまった。 最後のお別れのとき、 これまでの感謝の気持ちを心から伝えることができたとは思ってはいるのですが、 今もまだふとした時に、生きていたときのいろんな思い出がよみがえり、 心の中に、寂しさや悔しさを感じることがあります。 あちらの世界に往った方たちは、 守ってくれる方々に導いていただきながら(そういう方がそばにいると思うから)、 魂の学びの続きをしているのかなあと思ったりします。 その学びの続きを、こちらにいる人間がじゃまをしないように、 静かに意識を今生きている人たちに向け、自分に向けていきたい。 だから、寂しさと悔しさも感じることはあっても、 そのことはいつも胸にとどめていきたいです。 死んだ後のことは、生きている間はやはり分からないものだと思います(生きることについても分かってはいないのかもしれないが)。 その人なりの哲学で、今を充実させ、後悔なく生きていけるものであれば、どんな受け止め方でもいいと感じます。 人の死は、少なからずそれを考える時間を与えてくれるものかもしれません。 おだやかな顔をして眠っている友人を見たとき、私はなりふり構わず泣きました。 声を出していろいろ話しかけながら、 悲しみにくれるご家族と一緒に、涙は止まりませんでした。 でも、その晩のご飯を普通に食べている自分がいました。 呆然としながらも、冷蔵庫を開けてデザートも食べた。 こんなにも、どうしようもないくらい悲しいのに、お腹はすくんですね。 何なんだろう。 悲しい感情とは別の自分がいる。 悲しんでいる自分とは違うところの存在を、そのとき感じとったような気がしました。 別の存在というのは、それはもしかしたら、 本当の「私」・・・なのかもしれないと、 今少しずつ感覚として感じています。 この存在を確かに感じ、使い、そこで生きたいと思うからこそ、 だからこそ、私は生きていけるのかもしれない。 こういう話を友人が聞いたらきっと、 「生きているんだから当たり前だべ。ちゃんと食べろ」 って、ばっさり言うんだろうなあ 生きれていれば、腹がす...

発達障害と自分

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最近、発達障害をテーマとしたTV番組が多く放送されているようです。 発達障害の方の就労支援に携わるようになってから、 あ、こういうことだったのね、 と、自分にも、そして誰にでも何かしら該当することだと感じます。 特に幼少期からさかのぼると、 未だに続いている、自分でもどうしてこうなってしまうんだろう・・・ という謎の特長が私もあります。 あきれるほどの忘れ物の多さ(目の前に置いてあっても気づかない) じっと座っていられない(どこかを動かさずにはいられないし、立って歩きたい) ものごとへのこだわり(恥ずかしくて書けない) 家電への過敏さ(わずかな光や音が気になる) みんながわかる会話の意味がよくわからないことがある(天然か)等々。 大人になって必要に迫られ変わってきた部分もありますが、 あげたらきりがないほど、該当していきます。 小さい頃から、そうだと理解していれば、状況も変わってくるのでしょうが、 ちょっとそそっかしいから、ちょっと元気が良すぎるんだよね、 ちょっと神経質で、ちょっと人が苦手、ちょっと変わっている・・・ この、ちょっとそうだよねで、学校時代を何とかやり過ごせたということもあると思います。 障害と診断がつくには、本人と周りが困っている、 という何かしらの辛い状況がきっかけになることが多いようですが、 それには「働く」ということが分岐点になっているかもしれません。 働いたときに(働こうと思ったときに)、今までずっと思ってきた「どうしてこうなってしまうんだろう」が、 自分の強味(良さ)として生かせるかどうか、 またはそこが壁となってしまったときにどうしたらいいのか、ということ。 そう考えると、就職するときに始めから起こりうることを伝えたり、 自分も周りもすぐ相談できる環境がほしいならば、 診断をもらったほうが(もし、発達障害ならば)働きやすくなるということがあります。 自分で自分のことを伝え、誰かに助けを求めることができる方であれば、 診断名がついてもついてなくてもいいし、 働くうえでは、発達障害という診断名の使い方(どう生かしたいのか)になってくるのかなと感じます。 誰にでもどこかしら該当する特長(特性)ではあるのに、そ...

何度でも その2

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昨日のつづき。 できない自分を認めたくなかったし、 できない人と思われたくなかった(パターンが)。 そしてもしあの場で、あのやり取りを見ている人がいたら、 きっとパターンは、その人たちにもできないと思われたくない、 って結局、全ての人を対象に思ったと思います。 ということは、自分自身にも、思った。 自分に対してやっていることは、 やはり他人に対してもやってしまうんだと思いました。 本当は、あなたの説明がすごいと思ったし、 自分のあの言い方ではダメなんだと思ったのに、素直にあのとき言えなかった。 そういうごまかした自分がすごく嫌だなと思った・・・ 少し涙声になってしまいましたが、謝ることができました。 あ、そうだったんだ。 でもちゃんと相手もわかったみたいで良かったよね。 とさらっと言われ、 ふ~っと肩の力が抜けていき、固いものが溶けていくような感じがしました。 そう、あの時は、この感覚の真逆だった。 この時感じたのは、 謝るということは、相手を『信頼すること』なのかもしれないと思いました。 はじめに、信頼したい、という気持ちがちょっとだけあって、 そこから行動に移しながら信頼を築いていく、という感じでしょうか。 そして、自分も信頼する。 パターンとの関係を築く・・・ちゃんとわかっているよって、そしてごめんなさいと伝える。 信頼していないがために出てくるパターンってたくさんありそうです。 謝れなかったり、思っていることを伝えられなかったり、反論したり。 そういう頑ななもの(がちがちに固まってしまったもの)。 感情的にもそうですが、肩に力が入るという、体の感覚でも教えてくれている。 今日は、これからヨガに行ってきます。 肩のあたり、まんべんなくほぐしてこようと思います。

何度でもやっていく

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今日、自分は最低だ、と思いました。 昨日の日記では(→ ★ ) 正直に素直になって、こじれた部分と向き合って・・・ 的なことを宣言したばかりなのに。 (昨日の話とは別の話ですが) 相手に説明しなければいけない、ということがありました。 でも、相手にうまく伝わっていかず、 うまく話せていない私の代わりに(私を見かねて)、 わかりやすい言葉に変換し、説明を代わってもらった場面があったのです。 相手は「わかりました」とやっとその説明に納得した様子でした。 「もっと、遠慮しないではっきり言ったほうがいいよ。あれじゃわかんないから」 私は、遠慮ではなく、どう言えば伝わるのかがわからなかった。 なのに、その伝え方がわからないということを隠そうとして、 「でも、ああいう風に言ったほうがいいかなと思ったんです」 と、心にもないことを言ってしまいました。 これが、まず最低(と思った、これもパターンなのだが)。 このとき、パターンは三つくらいあったでしょうか。 はじめに、うまく話せていない自分を認めたくない。 話せないことを相手に知られたくないし、 無能だと思われたくないし、 本当は話せるのに、と言っています。 二つ目は、うまく話せないと思われたくない。 これは、説明を代わってくれた相手に対してです。 こんなこともできないのかと思われたくないし、 無能だと思われたくないし、 下に見られたくない、と言っていました。 だからごまかす(言い訳をする)、というパターンでの行動をとり、 結果、それはそれは気持ちの悪いものでした。 そして三つ目が、パターンで行動した自分はダメな人間だ。 みっともないと思うし、 成長していない証拠だと思うし、 パターンで行動するなんて最低でしょう、と。 この一連の出来事、 このパターンたちすべて紛れもない自分の一部分。 無くてはならないもの。 消しては、無視してはいけないもの。 大事なものなんですよね。 そして、自分がうまく伝えられなかったことに言い訳をしたことについて、 代わりに説明してくれた方へ謝りたいし、あの時の本当の気持ちを伝えたいです。 できるかな・・・でも、そうしたい。 たくさん出てくるパターンたちに、心底耳を傾けたいです。 素直さ、正直さ、受容、愛情、実践...

こじらせたもの

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あるパターンについて考えています。 どうして私は、何にひっかかっているんだろう。 こじらせてしまったかもしれない・・・ でも・・・見る勇気を持ちたいです。 あるメンバーで集まると、そこにいないAさんの話が出てきます。 そのAさんと、私は久しく会っていませんが、他の方たちはよく会っているので(全員Aさんのことは知っている状況)、共通の話題だと思ってその話になるのかもしれません。 傍からから見るとその話は、 Aさんの良いと思う変化や悪いと思う変化など(すべてパターンでの話ですが)、 悪口なのか、ただ事実を言っているだけなのか。 結局何をみんなが言いたいのか、よく分からないまま聞いています。 聞きながら、時折り胸のあたりがざわざわしてくる自分がいるので、 そのパターンは何なのか、ということ。 悪口や不快に思っていることを言ってはいけない、ということではない。 そこではなくて、その悪口っぽい話の後に、 おつきあいが続いているという『行動』に違和感を感じている。 嫌だと思っているのに、なんで?って。 そういう気持ちを持ちながら、頼っていくのはなぜ? 曖昧な感じ、核心がはっきりしないことが気になってしまうのかもしれません。 不快感、胸のあたりのもやもやする感じ、イライラ、少し悲しい感情が湧き起ります。 その感情を引き起こしているものは、何のパターンなのか? そこで、どんな気持ちなの?とみんなに聞けない私は何なのか。 もっともっと正直に素直に、こじれたこの部分に向き合いたいと思います。

向いているかもしれない

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利用者さんが今通っている、 職場実習先の介護施設の方から教えてもらいました。 そばにいる・・・というコミュニケーション。 同じテーブルで一緒にご飯を食べ、一緒にテレビを見て、 たまに話しかけ、笑いかけ(相手に反応がないので、独り芝居のように見えるが)、 何かをしてあげるというより、そばで見守っているという状態。 何も話さない(話せない)お年寄りの方がいて、 会話がないからと言って一人にしていい(そばに行かなくもいい)、というわけではない。 誰かがそこにいる、そばで何かしているってとても大事なことなのだそうです。 やることがたくさんある介護の仕事の中でも、この仕事を怠ると、 お年寄りの方たちに落ち着きがなくなったり、また無気力になったり、 不安定になりやすいのだそうです。 そういえば、私の父がいる施設でも、 よく職員の方が、父の隣りで業務記録のようなものを書いていて(隣りで仕事している)、 父は、ここは自分の居場所だといういう風に落ち着きを放って座っている・・・ という光景を見かけます。これですね。 就労訓練をしている利用者さんのほとんどが、 コミュニケーションは苦手だと思い込んでいます。 そのために、働くことに対して自信を持てない方もいます。 介護職の向き不向きを、 何をもって決めるのかわかりませんが、 お年寄りの方と、何の違和感もなくごく自然にそばに居られる、 会話になっていなくても、さほど声がかけれなくても、 となりにずーっと座っていられる方って、向いているのではないかと思います。 沈黙が全く苦痛じゃないって、これも才能ですよね(沈黙は苦痛というのはパターン)。 家族にとって、介護施設で暮らす親の、何が心配かというと、 寂しい思いをしていないだろうか・・・ それに尽きると思います。 だから、そんなふうに接してもらったら、本当に嬉しいし、ありがたい。 本人も、お家にいたときのように、 誰か(家族)がいるような気配を感じられることができたら、 それはとても安心なことでしょう。 職場実習ということもあり、体に触れる業務はあまりできないので、 このような仕事に限定されるということもあります。 でも、この状態が自然にできる方は、 そばにいる・・・という心の在り様が伝わるコミュニケ―ション...

もう一つの目的

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好きな本を持ち寄ってその本の感想を自由に話す という会に、 再び参加( ★ ←前回の様子)。 今回は、10代の学生さんが来るかもしれないということを聞いていたので、 自分の娘よりも若い子に、お勧めできる本って何がいいかなあと、あれこれ考え、 考えたわりには、なかなかピンとくる本が思い浮かばず、 結局、当日の朝、目にとまった本は・・・ 『卵の上の私Ⅱ~幸せに生きる私になるために~』 伊藤洋子著 郁朋社 私のカウンセリングの先生の本(人生指南書と言える本)でした。 何十回と読んできた本ですが、 人に紹介するには、やはりちゃんと準備が必要だとわかりました(先生ごめんなさい)。 どんな内容の本なのか、伝わったかどうかは分かりませんが、 それでも、自分の思い(本当の「私」で生きたいということ)は話せた気がします。 これは私にとって、相手がどう思うかより何倍も大事な、 意味ある行動だったと思います。 参加した皆さんは、人生の先輩として、 どこかうれしそうに伝えている感じがありました。 前回もそうでしたが、ありのままで表現し合う、豊かな時間でした。 経験したことを人に伝える、という行為は、 以前はどこか上からものを話すような、自信過剰のような、 いわゆる『なった気』と言われる恥ずかしい行為だとパターンは思っていたのです。 聞かれたら、話すけど、聞かれないのに話すのはちょっと・・・という感じで。 ですが、今は、『なった気』ではなく、 『本気』でためらわず伝えるっていいなあと思うようになりました。 経験を積み、そこからさらに唯一無二の自分のものとなる。 そして、その素晴らしい経験の価値を理解できるからこそ、 その経験をさせてもらったことへの恩返しをするように、 誰かに伝え、誰かに役立ててもらう。 それはもう、自分一人のものではなくなって、 自分の手から離していくものなのかもしれません。 本について語る時間ではありますが、 ただその本を媒体にし、自分の人生経験を次に継承していく。 そんな思いが、ここに集まる皆さんに込められていることを感じました。 私も、「卵の上の私」で生きてみたいな、と思う方たちに伝えていきたいです。

同じ歩幅で歩く

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先日の台風の洪水被害が、いまだ復旧しないまま明日の天気予報は雨。 被害がさらに悪化しないことを切に祈るばかりです。 職場でも洪水避難訓練を行いました。 避難場所の確認へ、みんなでぞろぞろと並んで歩いて行きました。 利用者さんの中には、足が不自由な方がいて、 私はその方と一緒に、列から遅れて歩いて行きました。 こうして、ゆっくりと相手に歩幅を合わせて歩くというのは、 とても久しぶりのように思います。 もし、自分の足が不自由になったら、 本当にもどかしく、不便で、やりきれないのではないかと思いました。 やりきれない・・・いえ、そんなキレイな言葉ではなく、 最高に腹が立ち、悔しくて悲しくて変になりそうだって思うでしょう。 早く歩きたくても、思うように足が動かないのですから。 かといって、急ごうとすると転んでしまう危険もあります。 だから、ただただゆっくりと、 足場の良いところを確認するように、 足の運ぶ先を選びながら歩いていく。 「疲れました?」と聞くと、 「全然大丈夫です」と明るく返す。 急ぐことはできないけれど、時間さえかければ、いくらだって歩けると言うんです。 「どのくらい歩けるの?」 「2~3キロは平気ですね」 すごい。私ならその距離は迷わず車。 一歩一歩、相手と同じリズムで歩き続ける帰り道、 「ここだけの話ですけどー」 と、プライベートのお話。 こういう話をするには、ちょうど良い速度なのかもしれないと思いました。 すたすたと歩いては、話の内容もどこか省略的になったかもしれないし、 このゆっくりした動きが、時が止まりそうで止まってはいない感じが、 話がよく伝わってきて、もっと知りたいなあという気持ちになりました。 相手が話しやすいように(歩きやすいように)、自分が少しだけ意識するだけで、 こんなにも同じ世界が目の前に広がっていくんですね。 自分のペースで歩いていては、決して知ることのない世界。 また一緒に歩きたいです。

一期一会

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仕事でお世話になった方と、突然のお別れがありました。 その方のお話は、いつも無駄がなく、的確で、質問してくる内容にするどさがありました。 こちらも、うっかり曖昧なことは言えないと、 事前の準備や質問されたことの意図がズレないように聞き取ることに集中。 そんな緊張感がありました。 かといって、完璧な感じへのプレッシャーは不思議になく、 それは、時々垣間見える、 シャイで、好奇心いっぱいの少年のような表情にあったのかもしれません。 いつも忙しそうで、早口で(歩くのも早かった)、 エレベーターの前で出迎え、エレベータのドアが閉まるまで頭を深く下げて見送る・・・ そんな礼儀正しい方でした。 いつもその方とお会いするときは、一人で訪問するということがないのですが、 最後にお会いしたとき、たまたま自分一人で、要件も早めに終わったのでした。 それから、お互いにちょっとひと休み~という雰囲気で、 その方は椅子の背もたれに寄りかかり、くつろぐような体勢に。 今の仕事に関わる話の中に、その方の個人的な気持ちや、 その気持ちをどんどん話しながら、何かおもしろがっているような感じが見えました。 私も可笑しくて、本音を伝えると、 「あ、やっぱりそうですか~」とまた笑って、さらにリラックスした体勢になり、 気づいたら、30分近くもおしゃべりしていたのでした。 一年ほどのおつきあいの中で初めてでした。 こんな風に無邪気にふざける人なんだあ、とすごく人間味があって、 この方と仕事をさせてもらえる幸せを感じました。 そんな矢先だったので、 もう会えないということがすごく悲しいです。 私はあのとき気になったことがありました。 時々、額に汗をかいている方ではあったのですが、 その日は汗が止まることなく、何度もハンカチで汗をぬぐうほどで、 それがとても気になったのですが、 「大丈夫ですか」と言えませんでした。 私はそのことに触れるのが何か失礼かなと思ってしまっていました。 「大丈夫ですか。ちゃんとお休みとっていますか。」 と言えばよかった。 「何かあったら、私に話してください。」 とまでは、さすがにあのときの私には言えなかったと思いますが、 でも、こんなことになるのならば、そう思った自分の気持ちを伝えればよかった・・・ 自...

男だって・・・

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今日は 「魂の道場」 盛岡クラスがありました。 茅ヶ崎クラスから渡邊優さんがゲストで来て下さり、 それぞれのパターンを開示しながらの、とても新鮮な時間となりました。 ★ ←渡邊さんのHP(ブログ)とても正直な文章に引き込まれます 自分に必要なものをしっかり見聞きしようとする貪欲さや、 一方で、場を和ますリアクション、 どこか都会的なエネルギーも感じました。 また、いつもの女性だけのクラスに、男性が一人入ると、 これが人類のあるべき姿なんだあ(男がいて女がいるという)。 同じ魂の成長を目指す仲間として、とても自然な感じがします。 男性が悩みを抱えたとき、何でも話せる友人が身近にいたとしても、 どこか本心のところは、人には言えずに抱え込む方は多いようです。 悩みをうちあける=弱みを見せること 男性は強くあるべきという本能に近いものが、 じゃまをしていることはあるかもしれません。 何十にも重なった鎧をまとい、弱みを見せるくらいならば人知れず苦しんだほうがマシ。 と思っている方もいるでしょう。 そんな、簡単には本心を見せたくない(見せるべきではないと思い込んでいる)男性が、 今よりも少しでも、本当の姿で楽に人生を歩いていけるために、 カウンセリングがその手段の一つとなること。 男性も一人で悩まず、堂々とカウンセリングに行っていいと思います。 そのために、渡邊さんのようなカウンセラーがもっと増えてほしいと思いますし、 そうなっていく時代がきたと感じました。 そう、男性こそ、これまでしてこなかった、 自己開示や、カウンセリング、相手を分析する前に自分と向き合う作業が必要なのかもしれませんよね。 弱みを認め、弱みと共に生きることもできる。 そんな勇気ある大人たちが、自分に向き合う行動をとっていく社会になっていったら、 子どもたちにも、きっといい影響を与えていくのだろうなあ、と思います。 自分を大事にし、自分を他人のために使える人の強さは、 お互いに通い合うあたたかさと、やさしさにあふれているものですね。 渡邊さん、ありがとうございました。

長寿の秘訣

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健康長寿の秘訣は? という番組がありました。 よく聞くフレーズではありますがー 50代に入り、長生きとか、健康の秘訣とかいうものに耳が反応します。 まだ若いと思っていても、確実に歳はとっていくものだから、 今からおばあちゃんになった時のことを考え、準備していても悪くはないのかなと思います。 番組で登場していたのは、なんと夫婦で200歳。 お互いの老化を認め、できなくなったことを受け入れ、 もし相手が自分のためにしていることがあれば、遠慮せず感謝の気持ちを伝える。 お互いが今の暮らしで十分だということを知っているため、 いつも「ありがとう」を自然に口にしている関係でした。 子ども達も、両親が助け合いながら暮らせているうちは このまま多少の不便があり、心配ごとはあっても、環境を変えず、 ときどき顔を出して見守っているようでした。 耳の遠くなったおじいちゃんの代わりに、電話はおばあちゃんがでます。 子ども達からの電話の内容を伝え、おじいちゃんの言葉も子供たちに伝えていました。 食事は、お肉もお魚もしっかり食べていました。 おじいちゃんが作ったご飯を(おばあちゃんが台所に立てなくなったため)、 「おいしいか?」 「おいしいよ~」 とちゃんと言って食べるおばあちゃん。 近年の長寿研究では、今、幸せを感じている老人は、 幸せを感じていないと答えた人よりも、 長生きしていることが明らかになっているそうです。 夫婦でなくても、一人であってもそれは同じ。 見知らぬ人のために、動物や植物のために、この命を使う・・・ 何かの誰かの役にたって生きることは、 それがそのまま生きる力となって、さらに幸せを感じる力になるかもしれませんね。 お年寄りが言うことって、どこか説得力があって、 それでいて、強引さがなくてやわらかく心へ響く感じがします。 若さゆえに、その教えが届かないとしても、 大丈夫、大丈夫。と言ってもらえるような寛大ささえあります。 この夫婦のようにはまだまだ到底及びませんが、 歳をとってからじゃなくとも、 今ある幸せを十分かみしめていくことはできるかなあ、と思いました。

ラグビーW杯

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皆さんの地域では、台風大丈夫だったでしょうか。 被害が大きい地域もあり、復旧が少しでも早く行われていくことを願います。 昨晩は、盛岡でもすごい風でした。 どこかで何かトタンのようなものがバタバタと音を立て、 次第にその音が大きくなっていき(いかにも、そのトタンが飛んで来そうな感じで)、夜中目が覚めました。 台風を実感し、とにかく怖かったです。 昨日は、台風に備え、一日中家でTV。 ラグビーWカップの今日のスコットランド戦に向けての特番がありました。 選手一人一人のラグビー人生とインタビューなどだったのですが、 一流になる人の努力って、本当に一線を越えている・・・すごいです。 今あるその精神力も肉体も、技術も人柄も、納得できるものです。 何度も何度も試練があって、 それは個々のものだけでなく、チームとしてのかたちに表れてくる。 個人が周りに与える影響力(その逆も)って計り知れないなあと思いました。 自分が前に出ないと、ボールを渡せないルール。 ラグビーのひたむきさ、我慢強さが際立ち、これを考えた人すごいですね。 直に体をぶつけあって、ボールを奪い合って、走って。 あんな遠くのゴールへキックも信じられません。しかも楕円のボールを。 はじめは、見た目に外国人メンバーが多く、 日本代表としてどうやって一つになるんだろうと思っていましたが、 日本の歴史を学びながらチームを作りあがてきたところが、 (異国の文化がまじりあうことで、理解しあい発展させてきた日本があるということ) ファンとしては、応援したくなる理由の一つなのでしょうね。 私が小学生だった頃、新日鉄釜石(現在は釜石シーウェイブス)がとても強くて、 日本一7連覇のときは、興奮しながらTVの前で応援したのを覚えています。 あの松尾選手の8の字サイン(実際は8ではなかったようですが)。 今またラグビーの歴史を振り返る番組でたびたび出てきて、何度見ても背筋がぞくぞくしてしまいます。 今日は、釜石鵜住居復興スタジアムでもW杯の試合があったのですが、 この台風で中止になったそうです。 先日の釜石での新日鉄を彷彿とさせる歓喜と、たくさんの方たちの感動の涙を思うと、 とてもとても残念です。 ですが、緑あふれるスタジアムで (世界的にもこんなに自然あふれるスタジ...

暴走

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パターンが暴れまくっています。 ※パターンとは、多少ですがHPで解説させていただいています→ Rowing まるで、暴走族のように、 まるで、暴れん坊将軍のように(どちらも例えが古い)、 自分の心の中でそれは主役となって、 自分の口から発せられた言葉も、行動も、顔つきも全てにおいてパターン全開でした。 そして、その後味の悪さといったら・・・ 暴れたパターンの一つは、 ●自分の言うことを聞くべき これは、当然自分の言った通りにすると思っていた相手が、 違うことを主張してきた(そしてその主張を曲げない)ときのパターン。 何とか相手に考え直してほしくて、 こちらの主張の正しさを威圧的に訴えていました。 当然、結果は自分の言う通りにならず、イライラが爆発してしまいました。 もう一つは、●偉そうな態度をとるべきではない これは、相手がお願いをしている立場なのに、 まるで感謝の気持ちがなく、偉そうな態度で言いたいことを言ってきたときのパターン。 相手に謙虚さを求め、逆に相手を責めるような言葉を言い放ちました。 その後、相手が少しへりくだった言い方をしてきたので、 そこでパターンは少し落ち着くことになりました。 まずはその場で、 「そうだよね、あなたは自分の言うことを聞くべきだって思っているんだね」 次のイライラには、 「そうだよね、あなたは偉そうな態度をとるべきではないって思っているんだね」 と最初の声かけだけしました。 この最初の声かけが、あるのとないのとでは、 パターンの暴走具合が大分違ってくるように思います。 思考に切り替えて、心にもない、大人の対応をするよりも(これ、まさしくパターンでの行動)、 声かけの沈黙の時間を一瞬でも作りながら、 胸のあたりにいる「私」に意識を向けていく。 そうして、分離感を出して、そうかそうかと、何度も確認。 今日、その場でやったのはここまででした。 その後、ケアすることになりますが、 いつも、その場の応急処置がとても大事で、無視をしないことが大事で、 黒パターンのままでもいいから、「私」が黒パターンを選んでいることの自覚が大事。 とても難しいことでもあるし、でも、それだけだから簡単とも言える(すぐできる)。 今、誰が言っている? 誰が思っている? と、...

宇宙にとどくような

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録画していた歌番組を見ました。 昭和、平成を通しての男性歌手とバンドの、ゴールデンヒット曲。 歌える曲がたくさんあって、この手の歌番組大好きです。 当時の映像も流れ、最近のカッコイイとは違うかっこよさがありますね。 自分が若かったときに聞いた曲だからなのでしょうか。 懐かしさ、せつなさ、恋愛のどきどき感もよみがえって、 キューン・・・とする感じです。 このキューン・・・って、年齢は関係ないのかもしれないですね。 たぶん、もし自分が80歳になっても同じように感じるような気がします。 一瞬でいろんな時代の自分に戻れるって、歌の力はすごいですね。 物心ついた頃から、自分の人生の中に、たくさんの曲が登場し、 そのたびに、いろんな感情が湧き起こり・・・ その感情は、年齢と共にとても複雑になります。 悲しいんだけど、辛いんだけど、なんかそれがかっこいい。 せつないんだけど、このままでもいい。 さみしいけど、ほんのちょっと幸せも感じている。 そういうのを、歌詞の世界から感じ取っていった、ということもあるかもしれません。 歌を聞いて、泣けてくるってありますよね。 それは、自分の中にある、何かのパターンが泣いている、ということなのでしょうか。 歌詞が、パターンの言いたいことを代弁しているような。 そうそう、そうなの。 それを言いたかった。分かってくれた?・・・って。 それとも、もっとシンプルなことでしょうか。 美しい景色を見たとき、心地よい風を感じたときのように、 歌がそのままですーっと本当の「私」に届くような。 自然で、まっすぐで、純粋なものが、魂へ届き、 振動となって涙が出るのでしょうか。 もしも、歌がうまかったら、すごく気持ちいいだろうなあ 高い声がぐーんと伸びて、響いて、宇宙に届くような感じで。 生まれ変わったら、ぜひうまくなりたいです。

あまくない

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今朝はポスティングをしました。 想像以上に、疲れました。 結構日差しが強く、風が強く(飛んだ帽子を追いかけながら)、足が重く、息が切れました。 こんなに大変なんだー 200軒ほどの戸建てのお家が集中しているところを回ってみました。 家の敷地から、玄関(ポストの場所)を探しながらですが、 アプローチが単純でなかったり、リビングがまる見えの前を通って行ったりと、 完全に、「おじゃまさせていただいております」 と、思いながら入っていく緊張感。 玄関までたどりついたら、お断りの貼り紙があったり、 不思議なことにポストがなかったり、というお家も結構ありました。 庭先にいる方にびっくりして挨拶をし(目がポストに行っているので気づきにくい)、 自分もポスティングの方に対して、こんな近く(庭)にいるのに何で黙って行くんだろうと思ったことがあったなあ。 そういうことか、と思いました。 今日の目標200枚に届かなかったチラシを眺める。 世の中そんなにあまくないな・・・ そんなことを思いながら、 公園でパンとコーヒーをいただく。これ自体も、 「大して働いていないのに、もう食べるのか・・・」 と情けない気持ちになりました。 ちょっと休息をして、少しエリアも検討しながら、 まだまだ始まったばかりだ、と気を入れ直す。 またコツコツやっていこうと思います。

Birthday

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今日は51歳の私の誕生日でした。 言動も体型も、おばさん街道、順調に進んでおります・・・(どちらかというと、良い意味で)。 今朝は、夫の顔を見たとたん、特に意味はなく、 「今日、私の誕生日だ。」と口に出てしまいました。 「あ~あ、なんで先に言うんだよー」 と、夫は残念がっていました。 かといって、何かあるわけでもない(ケーキやプレゼントの用意は無い)のですが、 「おめでとう」を自分が先に言ってから、 「あ、そっか、誕生日だった。ありがとう!」 などというリアクションが欲しかったのかもしれません(毎年こんな感じだから)。 でも、結局夕飯は、夫が回転寿司を食べたいと言ったので、 お寿司とデザートを誕生日っぽく食べてきました。 でも、一番嬉しかったのは、アパート暮らしの娘からお花が届いていたこと。 植物をいつも枯らしてしまう私を思って、ブリザードフラワーでした。 娘は、中学2年生くらいを最後に、 誕生日や母の日に、何かプレゼントをくれるとかほとんどなくなったのですが、 家を出てからは、よく私にプレゼントをくれるようになりました。 しかも、喜ぶツボをちゃんと知っている・・・ 物だけでなく「ありがとうね」と言ってくれるところが、本当に優しい子だなあと感心します。 娘とは、血のつながりはありません。 自分は出産の経験がないので、昔はそのことで不完全な女性であるような、母親として持つべき何かが欠けているような、そんな自分を責める気持ちがありました。 私が娘に、感情的になって怒ることがあると、夫から、お腹を痛めていないから、子どもの気持ちが分からないんだと言われ(最悪な夫に聞こえてしまい、夫ごめん)、私だけが他人のような寂しさが心の底にありました。 でも、そんな私の気持ちとは関係ないところで、 ずっと娘は、変わらず私を大事に思ってくれていたように思います。 こんな母親らしくない母親に(●母親とは、というパターンが自分にあった)、娘がいろんな経験をさせてくれて、親として人として育ててくれたのだと思う。 よく他人から、雰囲気が似ていると言われるのですが、性格はかなり違います。 この「違い」を理解し、というより、「違い」があることを認められるまで長い時間がかかりました。 親子だから、同じ価値観を持って欲しいと思ってしまうことも...

チラシできました

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Rowingのチラシが完成しました。 プリントを千葉の印刷会社にお願いしていたのですが、 今回の台風で、一時は連絡が取れなくなってしまい、 どうしたらいいものか、また一から作り直しているうちに、 やっと先週工場再開になりました、と連絡が入りました。 長期間の停電で、大変だったのは、工場の方々のほうだったと思うのですが、 丁寧に割引券までいただきました。 これはもう、工場の方々が頑張って刷ってくれたもの。 だから大事に、一件一件お届していくぞー ・・・で、実際に完成したものを見ると、 あれだけいろいろ試行錯誤をしていたにもかかわらず、 うーん、これでカウンセリングしたいと思う方がいるだろうか。 はたして、悩んでいる方の目にとまるだろうか。 何か、ダサくないか(印刷会社の方は悪くない)。 かといって、どうすれば満足いくものができたのかも分かりません。 きっと、今の自分らしさ(自分はダサい)が出たのだということで、 この2パターンのチラシでお届けしようと思います。 「魂の道場」の仲間のブログを読んでいると、 皆さん、チラシまきにドラマがあるようで、どきどきします。 どんなアクシデントが待ち受けているのか、 不安もありますが、少し楽しみに思っているところもあります。 足腰には全く自信がなく、 一体どれくらいの量をどれくらいの時間で配れるのか、見当もつきませんが。 そんな未知の世界へ突入していきます。