パターンのケアの手順

嫌なことがあって、この気持ちを理解してほしいと、
誰かに共感してもらえたら少し楽になるだろうなあ・・・と思うときがあります。

大多数の人たちがそう思っているという一般論をベースにして、
さも自分のパターンの問題ではないかのように、「普通はこうじゃない?」
って話すときがあります。
パターンでの視点はいつも自分が正しくて、それは一般論で考えると正当化されることが多いように思います。
だから、「そうだよね」「大変だったね」「それはひどいことされたね」等々言ってもらうことで、
パターンはやっぱり自分は悪くないんだと、少しほっとして満たされる感がある。

でも、それは一瞬の快楽といったらいいか・・・
本当に望んでいるのは、そこじゃないというのもわかっています。
パターンがほっとするその心地良さと、紙一重の心地悪さ、両方がそこにはあります。
その心地悪さを感じられるセンサーがあれば、
相談したことがきっかけで、さあ自分の問題だから自分でケアしていこう!と
他人ではなく自分の内側へ向かっていけるときもあります。

でもこれはちょっと遠回りのケアだな、と最近思うようになりました。
遠回りというより、結果的に複雑にして先延ばししているような感じ。

パターンがさわぐ→パターンがあることを自覚する→自覚しつつ、誰かに話を聞いてもらう(パターンで話す)
→パターンが満たされる→満たされた後、やっぱり違うなと実感する→パターンのケアがしたくなる・・・

この一連の手順で、
『パターンだと自覚しつつ、誰かに話を聞いてもらう』というのをちょいちょいやっていたなあと思いました。
せっかくパターンだと自覚したにもかかわらず、またパターンを強化するようなことをやってしまっていたのです。
黒パターンにとことん浸ることが必要なときも、確かにありますが、
黒を選ぶという行為がいまいちぼんやりしているときは、極力やめたいものです。

相談するとき、人に話すときって、
やはりどこか自分のパターンだと認めたくない部分があるからするのかもしれません。
本当に自分はどういうパターンを持っているのか?
そこと向き合うために必要な事実を知りたいとか、何か確かめたいことがあるとか、
パターンのケアをより深めていけるためのものにしたいですね。

こうしてみると、
本当に何のパターンがあるのか、しっかり見極めていくことが大事だと思いました。
あるのはわかっていても、具体的じゃないとケアができません。
そして、ケアの手順も、なるべくシンプルにしていきたい。

パターンがさわぐ→出来事として何が起きたかを知る→何のパターンか探す→ケアをする・・・
「私」のすること見ていることは、単純で明快なんだと思います。
毎日のことなので、こういう部分も見直すことができて良かったのかなと思いました。










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