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3月, 2021の投稿を表示しています

気になるお店

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天気予報が見事にはずれてくれました。 雨がやんでグレーがかった海から、ちょっとずつ薄い青が見えてきました。 早朝は霧が濃く真っ白で、養殖だなのブイも何も見えなくなってしまうほど。 そっか、こんなふうに海っていつも青く見えるわけじゃないと思い出しました。 海は青く、海らしくあってほしい・・・とどこか思っていたんですね。 2日目は、陸前高田に新しくできた 発酵食品のお店 に行きました。 去年はじめて自家製味噌を作ったことをきっかけに、糠漬けとか塩麹とか、 気づくと発酵食品が我が家に増えて、毎日なにかしらのものを食べるようになりました。 そんな脇役的な食べ物が、まさかこんなおしゃれに目立たたせてもらっているなんて、びっくりです。 木材をふんだんに使った建物もかっこいい。 気仙町というところは、醤油や味噌、お酒など醸造業を営むところが多いそうです。 今泉という地名の通り、地下水がとても豊富。 震災で町のほとんどが流されてしまったのに、こうしてまた醸造に携わる人たちが再建しているというのは、 この土地で獲れたものを食べてきた風土が根付いているからなのでしょうね(今日も、ブラタモリか?)。 その土地でその季節に獲れたものだけを、その土地の調理法で食していれば病気にはならない。 と昔の人は知っていたようですが、自分もそういう食生活が結構好きです。 でも、たくさん美味しいものにあふれている現代ですから、添加物も化学調味料も季節外れのものも、外国産のものも食べています。 だから、たまに遠出をした時くらいは、 その土地に感謝して、そこで作られたものだけを口にしたくなります。 沿岸だけをずっと走った旅の最後は、 今回の目的地、革かばんの工房に行きました。 かばんは生活の道具でもあるから、使いやすさと丈夫さと飽きないことが大事なんだそうです。 なるほど、道具かあ。 若い女性の職人さんから革の手入れを教えてもらいました(お肌のお手入れと似ていた)。 だんだん使っていくとこんな風に変化していきますよ~と、 自分が望む変化にならないこともあって、革の癖にもよるし、使い方にもよるし、 どうなっていくかが結局わからないというところがおもしろいなと思いました。 命あったものですから大事に使いたいなと思います。 家に到着すると、それはそれでほっとしました。 行った先々で美しいものをたくさん見られたこと、...

海づくし

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夫と三陸沿岸をまわっています。 思いつくまま車から降りてぶらぶら歩いていると、宮古の鍬ヶ崎で元気市というのをやっていました。 ずらーっと出店が出ていて、大漁旗があちこちで風に吹かれ、たくさんの人でにぎわっていました。 市内のメイン通りになんか全然人がいないね、なんて話していたのですが、 ここに集まっていたんですね。 魚市場とつながるこの地域は、震災前は古くからの商店も多く活気があって、 老いも若きも宮古弁が標準語? 地元出身の夫が宮古弁で説明してくれました。 見慣れたいつもの漁港は、ちょっと見ない間に埋め立てされて広くなっていました。 盛岡から宮古までの三陸道が開通し、いくつかの新しいトンネルを通ってきましたが、 その際に出たあの大量の土がここに使われているのかもしれない、と推測。 なんか、ブラタモリみたいになってるなあ。 それにしても、 山もいいですが、海はさらにいいですね。 毎日、パソコンに向かい、人に会っているときは良いけれど建物ばっかりで、 たまに遠くの山を眺めるときもあっても、 ほとんど目の前のものを見て過ごしているような気がします。 だから、海を見ていると、 気持ちが解放されて、世界は本当はこんなに広かったんだと気がつきますね。 そして、わくわくします。 この地平線のかなたにアメリカがあって、地球って丸いんだよなとか、 夫ともう何十年、海を見ればおんなじ話をしていることか。 毎回のことだけど、新鮮な感動がいまだあるってことですね。 今日の宿は、大船渡温泉です。 ここからの眺めがもう最高なんです。 以前来たときは雨だったので、もう一度来たいなと思っての今日。 またしても、夕方から降り出しての雨。笑 それでも潮の香りがして、波の音がして、カモメかウミネコの鳴き声が聞こえています。 もし晴れていたら、青い海と青い空が広がっているんだよなーって想像すると、 やはり海っていいなあ。 晩御飯はもちろん海のものづくしと知っているので、 この日のために一週間、お魚や海藻、シーチキンすら食べずに準備してきました(この我慢がまた楽しかった)。 お刺身とホヤと、マグロのかぶと煮(頭の部分)がすごく美味しかったです。 食レポしながら、お腹がはち切れそうなくらい食べました。 明日も大雨の予報ですが、 今回の目的地に行きます!

これも一つの事実

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昨日、褒められたという出来事について触れましたが、 褒められてうれしいと思った自分に、それからどうしたの?と、 何か変化があるのかどうか、今日も観察していました。 実は今日もまた別の人から別のことで、褒められるということがあり、 そんな事実があるのか?と、自分がしたことをふりかえってみています。 褒められたというところで、幸せな気持ちにはなります。 ぽかぽかした春の陽気のように気持ちが温かくなるわけですが(昨日もそうだっだ)、 自分の内側はそこで満たされたようで、思ったより、落ち着いているなと感じます。 お腹が空いていたところに、おにぎりをもらって満足しているような、そういう感じに近い。 ただ、話してくれた相手の人に対しては、 そんなところまでよく見ていたんだな~と、 自分の小さな心の動きと、その反応と、それに伴っての行動と、その動機などを観察していて、 これは自己分析ではなくて他己分析ですね。 細かいところをよくスルーせず、観察力が鋭いということなのかなと思いました。 自分よりも他人のことを観察したり分析したり、 自分より他人のことの方が何だかよくわかる、見える、っていう方は多いと思います。 以前自分もそう思っていましたし、 自分のことは考えれば考えるほどよくわからないと思っていました。 でも、それは考えることではなく感じてわかることだったんだと、今は思います。 どう感じるか?で、どうしたいと思っている自分がいるのか、 また、本当はどうしたいのか、どうなっていったら、気持ちは広がっていくのか・・・ 感じるところから理解ははじまるため、 考えても考えてもわからない、というのはある意味当然です。 他己分析をしてもらって、 自分が見ている事実とまた違った視点での事実を知ることができ、とてもありがたいと思いました。 人はほとんどパターンで物事を見ていますので、 その方のパターンで見たわたしであるかもしれませんが、 それでも、一つの事実ではあります。 自分を知る材料の一つとして、「褒められる」ということがあったのかなと感じました。

お褒めのことば

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今日、めちゃめちゃパターンが喜んでいました。 認められたい、褒められたい、理解されたいというあたりのパターンだったのかなと思いますが、 まさか、褒められるとは夢にも思っていなかったから、本当にうれしかったんですね。 その後のパターンの取りたがる行動としては、 図に乗る、さらにほめられるような話を追加する、 又は、あえて謙虚さをふるまう、あえて否定する、謙遜する・・・ となっていくところですが、 「あ、ありがとうございます」と口から出たのは、 パターンかもしれないしそうじゃないかもしれないし、正直よくわかりません。 そして、 あ~そうなんだ、これってそういうことなの? よくぞそんなところに気づいてくれました、言ってくれてありがとう・・・ と、話してくれた相手にとても感謝の気持ちがわきました。 感覚としては、春のぽかぽか陽気に似ています。 そして、この機会にあらためて自分のことを自分からも褒めてあげたいなと思いました。 面白いと思ってやっていたことでしたが、その延長にもしかして成長ってあるのかも?と思いました。 苦しいことをしているから成長する、というわけではないのかも。 自分を褒めてくれた人も、 わたしからすれば、すごいなあって感心することが多々あって、 それを思うだけでなく、ちゃんとこれから伝えてみようと思います。 そうやって陽気なエネルギーをお互いに交換しあえたら、いいなあ。

美容師あるある

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美容師あるあるの話になりました。 「こんなふうにしてくださーい」と言って、 そうなった試しがないっていう話をしていました。 前髪をぱっつんと短く切って、芸能人やモデルのように思いきってやってください! と言っているのに、 全然ぱっつんじゃなくて、やや長めでむしろ自然な前髪になっている。 また、ぐりんぐりんにパーマをかけちゃってください! と言っているのに、 パンチのきいたぐりんぐりんじゃなくて、優しい感じのふんわりパーマになっている。 自分もあります、そういう、あれ?っていうのが。 派手に髪を染めたい、メッシュをいっぱい入れたいって言っているのに(八神純子ふうに)、 痛んでいるように見えないよう、ワントーンおさえたカラーで品よく染めてくれてます。 やっと毛先が理想の明るさになってきたなと思いきや、 ここでも色をおさえた方がいいですよと、 せっかくの明るさをわざわざ暗くしてくれるときもあり・・・ この一連の話は、すべて男性美容師さんの話。 プロとしての仕事をしてくれている美容師さん。 自分がお世話になっているところは、シャンプーも力があってとても気持ちよくって、 行くたびに癒しをいつももらっています。 そして、帰って寝るだけのために、 きれいにブローしてトリートメントやヘアケア剤をつけてくれます。 「乾かしてくれるだけで充分(何なら生乾きでもいい)」 と思っている自分とは、髪の毛に対する愛というか、意識が違いますね(そして自分担当の方も男性美容師さん)。 女性は、たとえ似合わないと思っていても、 そうしたい願望があって、気分でヘアスタイルを変えたくなります(急に長い髪をばっさり切ることもやるし)。 冒険したい、変わりたい、という時折大胆にはじけたくなるような、 衝動的な感情を何となく女性美容師さんの方が理解できるのかなと思います。 女心をよくわかっていらっしゃる。 でも男性美容師さんは、似合うかどうかが大事で、自分の作品?と思うところもあるのでしょうか。 スタイル以上に、髪の輝きとつや重視。 健康的でナチュラルなへスタイルで女性を美しくしてあげたいって思うのでしょうか。 女性だから男性だからというと偏見になってしまうかもしれませんが、 男性の方が異性に対する、こうなってほしいというパターン(理想)が強いのかなあと・・・ 男性美容師あるあるだね~ということで落ち着きまし...

本日の心得

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今日はクラスの勉強会の日でした。 ファシリテーターのKちゃんがホワイトボードへ、 ①カウンセリングマインドで話を聞く ②パターンで話していないか?(意識する) ③パターンに引っかかったら開示する と今日の心得を書いてくれました。 これを読んだ途端、まず、緊張が走りました。 Kちゃんが、突然持ち物検査をしようとする先生のように見えました。 できていない自分があばかれる時間となるかもしれない、という緊張感だったと思います。 ①については、 皆さんをクライアントさんだと思って聞いてみました。 この発想はよかったと思うんですが・・・ なんと、途中からすっかり忘れてしまっていました。 ②については、 「え、それ違うんじゃないか?」と突っ込みたくなるところを、いったんは横に置いておくのですが、 その後に自分が発した言葉を自分の耳で聞いて、これ、自分のパターンだよねと思う場面多々あり。 ③は、先日引っかかったパターンを開示してみました。 開示して思ったのは、 語りかけをして白を選べた感覚があったもの、過去形になっているもの、 そういうパターンの開示は結構抵抗なく話せるんだなと感じました。 ケアできたから、次もそうやってみようという軽さがあるからでしょうか。 でも、今いまの、引っかかった出来立てほやほやのパターンを開示するというのは、 ちゃんとケアができていない時点で伝えるわけですから、 ●うまく伝えられない(相手を不快にさせる言い方しか思い浮かばない) ●開示してみんなから嫌われたくない ●こんなことで引っかかってはいけない そんなパターンが顔を出し、ブレーキがかかってしまいました。 これだけ違う感性を持って、違うパターンを持って、 それぞれの課題があって、それぞれの魂の目的で集まった縁のある仲間。 ここでこの3つを意識せずしてどうする。 と、あらためて意識的にすることの大切さを感じた一日でした。 明日からは、①と②を日常でも試していきたいです。

震災を思い出す

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先ほど、宮城県沖震源の震度5強の地震がありました。 沿岸に住んでいる方たちはさぞかし怖かったことでしょう。 盛岡は震度4でしたので、家の中も特に被害はありませんでしたが、 今後も余震には注意です。 その地震の真っ只中、母とわたしは回転寿司で大好きなウニを食べていました。 そう、ふたりともお寿司の中で一番好きなウニ・・・が、期間限定で約3倍盛り。 それらを味わう間もなく口いっぱいに詰め込み(まるでハムスターのように)、 さあ、もう帰りましょう、と家路を急ぎました。 やはりあの日の地震を母は思い出すようです。 津波でたくさんの方が亡くなった南三陸町の漁港へ、あの日母はバス旅行に行っていました。 予定の時間よりも市場を早めに出発し、港を離れたバス。 その5分後に地震が・・・ 高速道路も封鎖し、信号機も点灯せず、自宅に着いたのは夜遅くでした。 母と連絡が取れるまで、本当に生きた心地がしなかったです。 ラジオでは三陸沖に6メートルの津波がきているというし(実際は約16メートル)、 余震が何度もあったし、とんでもないことになったと思った。 そのころ父は認知症がはじまっていて、 なかなか帰ってこない母を心配して、何度も外へ出たり入ったりしていました。 真っ暗な家で、さぞかし不安だったと思います。 でも父は、玄関に飾ってあったお気に入りの花瓶が壊れたことも、地震があったことも、 母が昨夜やっとの思いで帰ってきたこともすべてを忘れていました。 たった一日しかたっていないのに・・・ もう話が通じなくなっている父に母はいら立ち、一方的に怒っていたことを覚えています。 忘れてしまうんだからしょうがないよ・・と思った自分ですが、 もし、自分もあんな怖い経験をしたのに、 一番理解してほしい夫が、怖かったねっていっぱい言って欲しいのに何も覚えていないとしたら、 その悔しさというか、悲しさというか、やりきれなさは いくばくのものだったんだろうと思います。 その時の母と同じように、 自分も今、母に対して悲しい気持ちになることがあります。 さっきまで何とか普通の会話ができていたのに、 家に帰って母からの電話に出ると、また同じ話を繰り返し聞いてくるということがよくあります。 そんなとき、しょうがないなあ~と思いながら淡々と話せるときもあれば、 話が通じる母でいてほしいというパターンが顔を出し、 悲しくな...

今やること

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今日も●責められたくない、のパターンが騒ぎました(続くなあ~)。 時間がたってから、相手が自分のことを責めたわけではなかったと知り、ほっとしましたが、 怖かったという気持ちがまだ残っていました。 これは違ったからいいということではなく(ほっとしたのはパターンだから)、 怖いと思った感情が出たということで、パターンに語りかけをしました。 責められると、自分はどうなってしまうんだろうって胸のあたりに手をあて、感じてみる。 なんでこうも、びくっとしてしまうの? パターンは、 だって、責められた自分はかっこ悪いし、みじめでしょ。 自分はダメ人間だってことでしょ、って言っています。 かっこ悪く、みじめでダメな人間である自分は許されないのだ、と。 そして、責められている他人を見たときにも、恥ずかしい気持ちになっていたことにも気づきました。 かわいそう、見たくない、って苦しくなってしまうのです。 ダメな人かもしれないけれどそんなに責めないで、許してあげて、とも言っています。 そして、その恥ずかしいという感情を持ったパターンがやることは?というと、 そのみじめさを隠すために、 平気なふりをする(その他人を見なかったことにする)、 自分は悪くないと表明する(その他人をかばうようなことをする)。 怖い感情、つらい感情を隠す、ということもやっていました。 ぐっと息をのみ込むように・・・ そのパターンがあること自体も許すことができないから、そうしていたのです。 それはもうやめたい、終わりにしたいです。 黒パターンのままに思い、口にし、行動していくことは本当に苦しいこと。 だから、少しづつですが、白パターンを選んだ感覚がどんなに楽で、 そんなことだったんだと気が抜けてしまうようなことであるかを、 何度も何度も思い出しながら、 〇責められてもいい、という行動をとっていきたいのです。 「私」が白を選ぶ、選ぶ、選ぶ・・・。 今、こんなに登場回数が多いパターンを見ていると、 今、ちゃんとやれよ、と天から言われているような気がしてなりません。

手をとりあう

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先日の岩手クラスのセミナーでは、 陰は陰の役割を、陽は陽の役割をそれぞれが担っているということを学びました。 宇宙に存在しているものすべて何らかの役割があるからそこにあり、 だから私たちが成長できているということになります。 そこから得られたエネルギーは自分のためだけでなく、 たくさんの人へ光をもたらしてくれるものです。 一日の中で何度も、陰と陽でバランスを取りながら学んでいたんだなあと思います。 セミナーでたくさん学び、終わった後の焼肉会で笑い、晴れ晴れとした朝を迎える。 この時、自分からは陽のエネルギーがかなり放出されているように思います。 なるほど~と感動し、発見と楽しさがあって、 心は軽く広がりを持ち、生きる力になっているからです。 しかしながら、そんな生きるエネルギーも数時間後には何ということか。 パターンに引っかかり、むっとしたり、不安になったり、 意気消沈してもう投げ出したくなっている陰のエネルギーでいっぱいになっている自分がいます。 かと思えば、 ふと我に返り、 「私」「私」・・・と本当の「私」に意識を向けてみたり、 パターンでつぶやいたその後に、「私」は全然そうは思っていないけど・・・ と言っては、また光に目を向けていたりするのです。 そうやって、何度も暗さと明るさ、重さと軽さ、不快と快、陰と陽を行き来しながら、 そのふり幅を少しずつ小さくしていきたいと思いながら、 「私」である中庸を目指しています。 ここを目指すためにも二極の体験(役割)は無くてはならないものだと思います。 二極は反対にあるものだから、反発するものとイメージしていたかもしれません。 陰は陽を嫌い、陽は陰を遠ざけようとしていたような感じに・・・。 でも、はじめて、この二つは手を取り合っているかのように、 それぞれの成すべきことをただやっているだけなんだと、ちょっとずつ感じられるようになりました。 となると・・・ 目の前の苦手とする人、パターンにがんがん引っかかる人、嫌いな人というのは、 そういう役割を持って、実は「私」と手をつないでいるのだろうか? 何だかすごく不思議です。

その根拠は

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先日の日記で、 ●責められたくない という大きなパターンが出てきた話をしましたが、今日もこのパターン登場。 登場するときには必ず胸のざわざわが発動し、 それが動悸となって全身に緊張が走り、不安と恐怖心がじわじわとやってきます。 でも今回は、〇責められてもいい、という白の軽さを味わい選んでいたので、 責められているなあと感じながらも、あの軽さを思い出すようにしていました。 そして、相手の言っていることの何に自分は反応しているのか?観察をしていました。 すると、「その根拠は何?」 と聞かれることが自分は責められている!とパターンは受け取っていたのです。 なるほどな・・・ 根拠をうまく説明できていない自分。 なぜ?理由は?その根拠ってどこにあるの? と聞いてくる相手に反応するパターンなんだと知りました(今回の場合は)。 しかも、 今年2021年のわたしの目標の一つ でもある、 何とかやっていかれる、根拠はないけれど・・・というもの。 なくてもいいと言っているところに、逆行するようなことを言われている。 根拠ってあった方がいいのか無い方がいいのか、使い分けしなければならないことが起きているとは。 〇責められてもいいという軽さをできる限り持ちながら、 自分なりにどうしてそう思うのかという根拠をふりしぼって考えてみました。 自分はこの説明というところが苦手です。 たぶん説得力も何もなかったとは思いますが、 今自分が言える部分のことを短い言葉で話してみました。 「それじゃあ、誰も納得しないよ」 再び●責められたくない、のパターンはざわついていましたが、 でも、全く話せないわけでもないかも、ということもちょっと分かりました。 今は自分がその説明をきちんと話せる力がないんだな、 ということを認められることの方が、自分にとって大きなことでした。 根拠がなくてもやっていかれる・・・という「私」の感覚はとても大事です。 そのこととは別もので、現実社会では、きちんと話せないととても困る場合も多いですね。 少しでも伝えられるようにするという訓練も自分には必要だと感じました。 責められたくないという感じるパターンが、何を持って責められたと感じるのかはその場面で違ってきます。 間違いを指摘されたとか、他人から悪く言われているとか、責任を取らなければならないように感じるとか、 何に怖がっているのか、...

答えを見出す

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「答えがあるって言っても、そう簡単にはわからないよね~」 と知人に言われ、 そうそう、簡単ではないけれど・・・わかる・・・と思った自分。 自分の中にすべて答えがあると言いますが、本当にその通りなんだと思います。 もちろん、試験に合格できるだろうか、結婚できるだろうか、家族みんなが幸せになれるだろうか等々、 未来に起こること、自分以外の人の答えはわかりませんが、 自分の今の思いとその行動は、自分の中を観察していくことさえできれば、 自分を知ることはできるし、見失ってしまうということはないと思う。 もし自分がわからない、どうしたらいいのかわからない、 というような感覚におちいったら、 これまでうまくいかなかったと思われるものに頭がとらわれいる状態かもしれません。 こうなったら怖いとか、 こうなったら自分は耐えられないとか、こうなったら自分は終わりだ~とか。 ネガティブに反応してしまう自分を見たくないというとらわれもそこにあります。 自分の中に答えを見出すというのは、 そんな自分の感情を受けとめるというところから始まるのだと思います。 「怖くて仕方ない・・・怖い、怖い、もういやだ」 と思ったら、どうしてそう思うのか、とことん自分に聞く。 何が怖い?どうしてそれが怖いの?どうなるから怖いの? そうなってしまったら自分に何が起きるの?人生は終わってしまう?本当に?本当に?・・・ という感じで自分にしつこいくらいに淡々と聞きまくっていくと、 はじめはそこに抵抗したり、なかなか本当のことを言葉に出なかったりしますが、 必ず何だかこの気持ちを「わかってもらえた」という感覚が出てくる瞬間があります。 そのほっとするような、涙が出てくるような、 ああ、これが自分の本当の気持ちだったんだな、 これが本当にしたいこと(とりたい行動)だったんだなと答えが出てくるのです。 と簡単に話していますが、 自分がはじめてやってみたとき、誰が誰に聞いているものなのかさっぱりわかりませんでしたし、 「とにかく怖いんだってばー」で終わらせてしまっていました。 それくらい、聞く、答える、ということに慣れていませんでした。 でも、それでもいいのです。 本当の「私」が、怖いと言っているパターンに聞く。 パターンは「私」に恐る恐るでもいいから答える。 実践するってそういうことなんだなあと思います。 よくはわからない...

10年前に感じたことと、これからしていきたいこと

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今日は3.11。 10年前のあの日、 どんなにお金持ちでも、どんなに偉い人でも、 どんなに優しい心があっても、どんなにいいことをした人であっても、 津波の前には人間は為すすべがないということを知った日。 あの時間が来るまで、 今、ありがとうを言えなくても 今、ごめんなさいが言えなくても、 今、大好きと言わなくても、あとで言えばいいと思っていた。 そんなたくさんの後悔をたくさんの人が抱いた日だったと思う。 沿岸に住んでいる人と、内陸に住んでいる人、 家族を失った人と、家族が無事だった人、 被災地をひとくくりにニュースで取り上げられることに後ろめたさを感じたこともあった。 住む家があって仕事があって家族が元気でいるのに、 こんなに恵まれているのに、それだけでは幸せを計れない人もたくさんいた。 10年たった今、 どんな思いでいるかなど、複雑すぎてどこから話したらいいのか分からないかもしれない。 見えている部分だけでは本当のことなど誰にもわからない。 でも、自分の人生をそんな壮絶なものに設定し、 前を向いて生きていくこと、そこから学び変わっていくことを選んだ人たちがいます。 その人たちは、どれほどのエネルギーを私たちに注ぎ、力を与えてくれたのでしょう。 名前も知らない人たちとつながってきたその思いは、今も変わらずあります。 そして今日は岩手クラスのセミナーの日でした。 進行役のKちゃんが、 今日もここで共に学べることに感謝し、一期一会の気持ちで学んでいきたい・・・ 自分も全く同じ思いでした。 茅ヶ崎から先生が来てくださることが奇跡のように感じ、 本当にこの時間がありがたいと思いました。 少しでも自分が選ぶ陽のエネルギーを、 自分の周りにいる人へと注ぎ、日本の大地に注ぎ、地球に注ぎ、宇宙に返していきたいです。

●責められたくない

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あれは確かに、自分の力不足だった・・・ と何年も前のことを思い出していました。 スキルがない、知識が不十分、経験値が足りない、精神的にも未熟。 そのときはそれが精一杯だったから仕方なかったんだ、と自分を納得させていました。 でも、『力不足だった』というその事実は、どこか置き去りにされていたような気がしました。 だから、その時、迷惑をかけた人たちに、 「自分は一生懸命、精一杯やったんですよ」 ではなくて、 「自分の力が足りなくて、本当に申し訳なかったです」 と言えたらどんなに良かっただろう、と思いました。 ●責められたくない あの時のパターンは、他人からはもちろん、自分のことも責めたくなかったのかもしれません。 否定されたくなかったし、自分が悪いと言われたくなかったし、思いたくなかった。 そこからとても逃げたかったのです。 自分が正しいとは思ってはいないし、 自分のやり方が良かったとも思ってはいないのですが、 せめて、責められるようなことはしていないと、そこだけは正当化したかったんだと思います。 確かに、一生懸命に頑張っていた自分もいましたが、 残念ながら、自分では用が足りなかったのだと思います。 それなのに、必死で自分でもできるのではないかと、 自分を大きく見せたかったんですね。 そんなプライド(これもパターン)が、 仕方ないよ、やるだけやったんだし、神様じゃないんだから、そううまくはできないよ、 あなたはその時持てる力で頑張ったんだから、あなたは悪くない・・・ ●責められたくない、と声をあげていた。 さらにパターンと同じことを言ってくる、周囲からの励まし?優しさ?も入り交じり、 〇責められてもいい、という白を選べなかった自分(たぶん語りかけをしただけで終了)。 あれから随分時間がかかってしまいましたが、 パターンが出てきてくれて本当によかった。 今の自分にはこれが精一杯だと感じたら、 同時に、それ以上の力が今の自分にはない、という事実も認めたい。 どっちも現実なのだと思いますが、何かに引っかかるものはないか? そこにパターンが隠れていたら、ちゃんとまたケアしてあげよう。

お顔剃り

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お顔剃りをしてきました(シェービングエステというらしい)。 マスクをするようになって、顔に無頓着になっていたこの一年。 ファンデーションはおろか、日焼け止めも「ま、いっか」と省略していました。 眉毛を描き、目にパウダーをはたいて、朝の化粧は1分で終了。 そんな手抜きがたたり、 マスク着用で紫外線を浴びていないはずの顔が何だかくすみ、シミも濃くなり、肌もゴワゴワ固くなってしまいました。 美肌になるためのターンオーバー(お肌の生まれ変わり周期)は、 28日間と言われていますが、なんと50代に突入すると100日近くかかるそうです。 しかも、ちゃんとスキンケアをしてお顔剃りをしている人の場合ですので、 わたしの場合、もはや生まれ変われずにゴワゴワと角質が何層にも固まっていたのではないだろうか・・・と想像(げげっ)。 むかしむかし、床屋さんで顔を剃ってもらったときのあの爽快感を覚えています。 肌障りがガラッと変わり、産毛がないってこんなにもつるつるするのかと、 自分の顔を撫でてはとっても気持ち良かったのを覚えています。 母方の実家が床屋さんでしたので、よく小さい頃は剃ってもらっていました(子どもだからしなくていいのだが)。 おじいさんとおばあさんが営む小さな店に、常連客のおじさん達が散髪が終わっていてもまだおしゃべりをして帰らず、 わたしはそのお客さんたちがいなくならないと顔剃りをしてもらえないので、 あ~まだかなあって、首を長くしてじっと待っているのでした。 シェービングブラシにふわふわの泡をお顔いっぱいにつけるときの、あの温かくもくすぐったい感じが大好きでした。 あれから、うん十年・・・。 今は理容室に行かなくても、美容室の中にある個室で、ゆったりとリラックスしてやってもらえるお店が増えましたね。 ちょっとおしゃれに、でもエステより断然安い。 本当に贅沢です。 こんな贅沢、自分だけしていいのか~ ついでの肩もみや頭皮マッサージがまたとても気持ち良かった。 気分もすっきりしてお肌もやわやわになり、思いきって行ってみて良かったです。

今年の目標

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ここ最近、気づくとたくさん考え事をしていて、 忘れてはいけないこと、やることリストのようにこの2~3日中にしなければならないことを眺めては固まっている自分がいます。 そのメモを見て、終わると消し、また追加して、 気づいたこと、思い浮かんだもの、何でもその場で書きなぐる手帳もあります。 そうやって、携帯と手帳が欠かせないものになっているのですが、 忙しい毎日の中、ふと、今年の自分の目標ってなんだっけ?と思いました。 何でもメモに頼っていると、ちゃんと覚えようとしないというのもありますね。 それにしても、 年の初めに決意した自分にとって大事な指針を、こんなに早く忘れてしまうとは・・・。 まだ2か月しか経っていないのに~、軽いショックを覚えました。 そして、携帯を取り出し(これもメモに頼っている)、 あーーーーーそうだった!これだよ、これ。 4つほど目標を立てていたのですが、 その中の一つ、目に飛び込んできたのが、 『パターンでしゃべらない』でした。 これが考え事が多くなってくるとそうなるよね、と思いました。 考えることは必要だけど、考えすぎて、気づくとパターンがただただ頭の中でしゃべりまくっていた、ということがよくあります。 意識は頭に行っていて、感じ取らない自分(微妙な感情や感覚を考えることで消している)になってしまうのだと思います。 その結果、頭はパターンに染まり、パターンが考えていることが口から出ていく・・・という事態。 もっと胸のあたりに(「私」をイメージしやすい場所)意識を下げて、何を感じているか、 クールダウンしていくことが必要だなと思いました。 この目標を立てた時の、新たな気持ちも思い出しました。 『なんとかやっていかれる(根拠はないけれど)』というところに、パターンを入れていかないようにするために、 この『パターンでしゃべらない』という癖をつけていきたいと思ったのでした。 自分の目標は、自分をそこに連れていってくれるものでもあります。 考えてみれば、立てたその月にもう忘れかけていたかもしれません(とほほ)。 そのときの張り切って宣言した素直な自分に申し訳ない・・・ 今日からまたやっていこう!

排除

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どんなふうに学んでいきたいのか、 どんなふうに成長したいのか、 それを強く願うようになっていくうちに、 理想のようなものが膨らみ、その理想に沿わないもの、他人を排除しようとしていた自分がいました。 排除・・・というと何か強烈な言葉ですが(他の表現が見つからないので今は)、 そういう頑なになってしまったものが、自分の中にあったように思います。 自分自身の問題であるのに、 その問題と向き合うのに他人がじゃまになるということはないです。 他人の存在そのものや他人の言動が、自分の成長の妨げになるということもないし、 むしろ、そこから見えるのは自分のパターンであるため、 もっと学べる、もっと理解が深まる、世界が広がる・・・はず。 楽して学びたいと思っていたのか? 何かスムーズに、これがわかって、あれがわかって、 そしてそこに喜びがあって、楽しさがあって・・・ 自分の課題を一つずつ取り組んでいく時に、そんな環境の中だけでは学べないように感じた。 もっともがくようなことがあっていいし、 もっと思い通りにならないことがあっていいし、 もっと他人がわからないような、もやもやがあっていい。 だからこそ語りかけがあって、白を選び続ける練習ができる。 その過程を省くようなことをしようとしていたのではないか? 自分が苦手としている人、自分と違う考えや価値観を持っている人を遠ざけようとしていたかもしれません。 距離を取るということも場合によっては必要なときもありますが、 いつかは向き合うときがくるということも、心のどこかで分かっているのだと思います。 自分のことを知って、 自分のことを許し、 自分のことが愛せるようになっていくことと、 そこに他人は含まれない、というのはやっぱり違うような気がしました。 自分の中に排除した方がいいものなんてあるだろうか。 パターンだって無くなっては困るものですしね。 また新たな気持ちで、 誰かの言動に引っかかることがあったら、 そのパターンから目をそらさずにケアすることをやってみたいと思います。 また明日から、何度でもやっていこう。