きらい、と言えるまで

出てきてくれたパターンを忘れないように、いつもスマホにメモしています。
ちょうど去年の今頃(6月)は、5つくらいのパターンが書いてあり、その中の一つに、
●○○さんがきらい、がありました。
そして一昨年の今頃はどんなパターンがあったのかなと思ったら、
●○○さんが大きらい
ただの『きらい』に『大』が付いていた。

カウンセリングを学んだ当初、他人をきらっているパターンが自分の心の中にあるということが信じたくない、というより、
知られたくない、隠したい、見たくないという気持ちが強くあった。
道場で学ぶ仲間にさえも、
他人をきらっているというパターンがあるということは、言いづらかったし(他のパターンはうちあけられるのに)、
口に出してしまったら、認めてしまったら、何かとんでもなく醜い自分を見せつけられるようで、
自分にはこのパターンはケアできないんじゃないんだろうか、ととても怖かった(そう思うのもパターンなのだが)。

あれから、ずーっときらいなことを受け入れたり、受け入れられなかったり、
大丈夫かもしれないと思ったり、やっぱり無理~と思ったり、
いろいろな波を経験しながらも、ずーっとケアしてきました。
そうやって続けてこれたのには理由があって、
自分自身を少しずつ楽にしてあげたい、ということもそうだけど、
いつか、『きらい』と共にいられる世界、そこから見える景色はどんなだろう、
そこへ行ってみたいと思ったから。

そして、パターンが言う『きらい』の理由も月日と共に変化。
はじめは、もうとにかく相手のやること成すことがイヤと思っている。
相手に原因があって、そのせいで自分の感情が振り回されていると思っていたのが、
相手のここに傷つく自分がいるとか、
ここに自分は耐えられないんだ、
といった自分を中心に置いて、自分側にあるものへ目が向かっていく。
相手をこんなにまできらうほど、一体何に自分は恐れを抱いているのか。
この恐れや不安の理由の中に、『きらい』の本質がある、と少しずつわかるようになりました。

自分に向き合いはじめると、不思議なほど、『きらいな人』が増えるんです(あ、わたしだけか?)
カウンセリングの先生にそれを告白したとき、
「あ~そうそう、いい感じね」とやさしく笑って返されたこと、覚えています(言われたわたしは引きつっていたと思うが)。
そう・・・それでいいのだ。
今ならわかります、あたり前に人としてある感情がやっと顔を出せた。
自分をちゃんと好きだ(許せる)と思っていないからだし、
自分のきらいな部分(許せない部分)があるから、当然他人の嫌な部分が許せない。
それを、他人を鏡にして気づきはじめたということ。

今月のスマホのメモには、●○○さんがきらい、は書いてません。
ですが、また出てきたとしても、またケアしていこうと思います。










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