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6月, 2020の投稿を表示しています

いい日わるい日

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いい時もあれば、わるい時もある・・・のが人生と言われますが、 一日の中でもそのことを幾度と感じながら、心地よい疲れとともにぐっすりと寝た。 これは、実はとてもとても幸せなことだと思った。 いろんなことがあって大変だなあ、ということとは違う。 いろんなことがあるというのは、とても豊かな人生を送っているということなんだなあって思いました。 朝から少し体調が悪くて、どんよりしている曇り空のようでした。 そのまま仕事がはじまり、訪問先では頭を使い、言葉を選び、曇り空の雲が分厚くなったような感じでした。 「今日は、おとなしく過ごそう」 パソコンに向かって、文字を打つことに集中していると、エネルギーが少し充電されていくようだった。 その後、ちょっとしたハプニングがあり、冷や冷やしたけれど、 なんだか微笑ましい気持ちになった。 どんよりぎみの今日、はじめての明るい色(オレンジとか桃色とか)が自分に加わった感じがした。 夕方、このひと月ほど、ずーっと悩んでいたことがやっとひと段落を終える出来事があり、 心の中の霧がすーっと晴れていくような、澄んだ気持ちになった。 そういう一日をわたしは味わったということ。 お布団に入ったときに、今日一日自分をふるに使ったものが(これは、今日必要とされた資質)細胞に染み渡っていくような感じがしました。 体験一つ一つが自分の血となり肉となる、という感覚。 そんな、自分自身に、 今日もありがとう、お疲れ様~と声をかけたくなります。 いい日とかわるい日とか、ないのかもしれない。 自分のためにある一日を今日も一つ一つ体験していきたいです。

思い通りにしたかった

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昨日の続き ですが、 ●思い通りにしたい というパターンに、何をどう自分の思い通りにしたかったのかを聞いてみた。 すると、 自分はその相手にだけ伝えたかったんだ、話したかったんだ、とパターンは言っていました。 そうか・・・ あなたは、その人だけに、話を聞いてもらいたかったのね・・・。 思い通りにしたいというと、あまりにもざっくりしすぎて、 考えれば、全てこのパターンにあてはまる日常だったりします。 相手の反応、自分の状況、起こる出来事、できれば自分が思っていることから大きく外れずに、 感情の波が立たずに機嫌よく過ごしたい、とパターンは常日頃思っています。 だから、どのへんが自分の思い通りじゃなくて悔しかったのか、 相手がどうしてくれたら自分は落ち着いていられたのか、 そこを詳しく掘り下げていくのが、すごく大事だと、今回のことでまたパターンから教えてもらいました。 先日の出来事は、 相手と自分だけの話で終わりたかったと、少し特別な感じにパターンはしたかったのかもしれません。 自分が話した内容も、その相手に話すからこその話し方、伝え方だったし、 その自分の微妙な特別感が相手にもわかってくれているとパターンは思っていた。 そして、その人だからこそ、思い通りの反応でなかったとしても全然許せるけれど、他の人だったらちょっと違うなあって、 そのあたりはパターンらしく、この人にはいいけどこの人にはだめといったものがあったんだと思う。 パターンの『思い通り』の状態(望んでいたこと)って、結構詳細なこだわりで、 そんなところまで思い通りじゃなきゃいやだったのね、と本当に小さなこどものようです。 もしも、あの時、 「○○さんにだけに、ちょっと話しておきたかったんです」 と言えたらどうだったかな・・・。 そして、結局他の人にも同じ話をしなければならなくなったとしても、 〇思い通りの反応でなくても大丈夫 という選択をしてから話す、という「私」を意識することができていれば良かった。 黒パターンのままで行動すると、すぐに違和感を感じる。そう、すぐ。 次にまた同じようなシチュエーションになったとき、 違う選択があるということを思い出し、再びチャレンジしていきたいです。

思い通りにいかなくてもいいと思ったけれど

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はじめから、こうなればいいという形があったわけではないし、 相手の反応に対しても、何も期待していなかったのですが、 結果として、まったく自分が望んでいない方向へ展開してしまい、もやもやしてしまった、ということがありました。 「今日こんなことがあったんです(ちょっとした感動話)」 自分にとっては報告のようなもので、話した相手にとっては知らないことだったので、伝えておこうと思っただけでした。 ですから、相手も自分と同じように別に感動しなくても全くいいと思っていた。 たぶん、話の前後もいろいろあるので、たとえ共感してもらわなかったとしても、自分は良かったのです。 でもなぜか、 相手としては、わたしとその人だけの話で終わらせずに、 他の人たちへもその話をふっていったのでした(みんなにもその話、聞かせてあげて~というように)。 結局、わたしは、同じ話を相手を替えて3回もすることになってしまい、 感動した内容もすっかり冷めてしまった自分がいました。 きっと、聞いた人たちは、その話のどこがいいのかよくわからなかったと思う(だって、話す本人がもう冷めているんだから)。 この一連の出来事を、 「まあいっか~・・・」 とはならなかったのは、何かのパターンが引っかかったから。 自分がその人に初めて話したときのように、 2回目、3回目も同じように生々しく話せなかったことが悔しかったパターンがいました。 しゃべり過ぎて何だか安っぽくなってしまうくらいなら、自分の胸に留めて、話さない方が良かったかもしれない・・・。 そして、もし相手も共感して本当にみんなにも聞かせたいと思ったのならば、 自分から話してくれても良かったんじゃないか、と思うパターンもいました。 別にどう感じてもらってもいいと思って話したことだったのに、 結局は、自分の思うような展開にならず、 ●思い通りにしたい やっぱり最終的には、自分の思い通りにいかないといやだ、ってパターンは思ったようでした。 「別に、まあいっか~」とならなかったことは良かった。 思考で片付けることなく、このパターンには語りかけをしていきたいです。

氷川きよし

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去年の大晦日に話はさかのぼりますが、 紅白歌合戦でアニソンを歌った、氷川きよしさんを皆さんご覧になったでしょうか。 わたしは、あの時ものすごい衝撃を受けました。 ずん、ずんずん、ずんどこ♪き・よ・し♪ こぶしをきかせてズンドコ節を歌っていた、あの演歌界の王子が、 全く別人のビジュアル系ロックな人になっていたのですから・・・。 さらにその変身は、 一夜限りの演出なんかではなく、それが彼の本来の姿だったというのがまたまた驚きでした。 別人になってから、 クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』を日本語カバーで歌う姿は、凄みがあって愛があって、彼の本気を感じます。 デビュー21年目にして、本当の自分がやりたかった音楽をやる。 21年かかったというより、そのくらいの年月をかけて磨きあげてきた声があるからこそ、好きな音楽を自分のものにして歌えるのだと思う。 中性的な衣装もメイクも、迷いを一切感じられない、いさぎよくて、自然で、すごくいいなあって思います。 着たい服を着て、マニキュアして、アイシャドウして、 ああ、これが自分だ・・・って思ったそう。 自分だけにわかる喜びと幸せ。 そして、自分らしく生きていくんだ、もう自分はやるんだっていう決心を感じます。 氷川きよしファンにとって、彼の変身と挑戦はどう映っているのか、いろんな意見はあるのでしょうが、 人間に生まれてきて、自分のやりたいと思うことを思い出せずに、やらずに一生を終えることは悲しいことだと思う。 だから、この変身と挑戦が彼の本当にしたい音楽だったならば、本当に良かった。 『ボヘミアン・ラプソディ』(クイーンと、そのボーカル、フレディ・マーキュリーの活躍と孤独を描いた映画)を何度も見たという方は多いようですが、 彼自身も、何度もこの映画を見て、この曲を聞いて、 フレディ・マーキュリーって、こんな思いをしたんだと思ったら、 涙が出てきたそう。    真実なんて目には見えない    真実なんて誰にもわからない    ただ風が吹くだけ という歌詞があって、 自分の真実を見つけられた人は強くもあり、優しくもあり、はたから見れば大胆不敵で時に滑稽にさえ見え、 でも、当の本人にはそんなことはどうでもいいくらい、自分で生きることの幸せを感じているのかもしれません。 ...

失くしもの

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失くしものをして、今日でちょうど一週間。 探して探して、いろんなものをひっくり返して、もう見るところがないくらい探したけれど見つかりません。 日を変えて、気持ちを落ち着けて、あらゆるところを探すのですが、出てこない。 いつから見なくなってしまったのかすら、定かではなく、 信じがたいけれど、うっかり捨ててしまったのだろうか(だとしたら、大バカ者)。 記憶を懸命にたどりながら、どうしてこんな事態になったのかを、ずーっと考えています。 考えていて、後悔で涙が出てきました。 自分がすぐに物を片付けようとしないこと、 元あった場所へ正確に戻していくことをしなかったこと、 失くしたら大変なものなのに、大事なものだという認識が足りず、扱うときにも無防備だったかもしれないこと、 要するに自分がだらしないばっかりにこんなことになってしまったと、悔しい気持ちでいっぱいになりました。 もう二度とこんなことがないように、 これからは、早く物を片付けよう、ちゃんと元の場所へ戻そう、大事に扱おう、そこへ意識を向けようって誓いました。 そうしても、 失くしてしまったものは出てきません。 そうだ・・・ ご先祖様へ、お願いしよう・・・(わたしの師匠が言っていたことを思い出す)。 もうこれしかないと思い、昨夜真剣にお願いをした。祈った。 失くし物を発見するのが得意なご先祖様、どうか、○○を見つけてください。 これからは大事に大事に扱っていきます・・・と。 すると、 今朝、な、な、なんと、 見つかったのです。 見たはずの場所からひょっこり出てきました。 本当に本当にうれしかったです。 感謝感激、心からお礼を言い、祈りました。 願いを聞いてくださるなんて、ご先祖様ってすごい。 これまでもきっと助けられたことは数知れずあったと思う。 ご先祖様、助けてくれてありがとうございました。 そして、いつも見守ってくださり、本当にありがとうございます。

この土地の良さ その2

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自分が住む場所をだんだん好きになっていくって、 自分を好きになることとちょっと似ているなあって思いました。 地元の良さが分かり見えてくると、他の土地のいいところ、おもしろさもより見えてきます。 またそこから帰ってきて、一度行った場所への思いがぐっと深まりつつも、 自分が今いる場所で暮らせることがどんなに幸せか、と気づいたりします。 過去の体験(思い出)は変わらないけれど、その捉え方が変わっていくということはある。 変わっていく風景に対しても、 変わらないことを大事にしたい気持ちと、 変わることをそのまま受け入れていきながら、 さみしさや懐かしさと共に、今を力強く生きていきたい気持ちと両方あるように思う。 自分の中でふるさとは、昔のままであるだけではない、 進化していくんだなあって思いました。 首都圏で暮らす盛岡出身の方たちが集まり、 帰省を我慢している人向けにマップを製作していました。 GoogleEarthで見る『Kozukata(こずかた)』 https://drive.google.com/open?id=1NdBh_bpACqsKvtjPLznCoDSOZJZvrXFM&usp=sharing ※パソコンからが見やすい 空から見る日本。 県境などなく繋がっている、美しい緑(沖縄も海で繋がっている)。 いつも思うのですが、日本列島って人のかたちしていますよね。 マップには、わたしが定期的に食べたくなる、北山お寺通りの『喜六そば』が紹介されてありました。 お蕎麦には、わたしの別腹を満たしてくれる、一口おしるこ(へっちょこ団子)がついてきます。 ここのお店、メニューはお蕎麦が熱いか冷たいか、だけなんです。 店内に入ると、ぼそっと 「あっついの一つ・・・」これで注文完了。 恥かしがりやで口下手と言われる岩手県民のコミュニケーションが、 こういうところで垣間見れるかもしれません。 いつも、県外の方にどこがおすすめなのかパッと答えられなかったのですが、これを見ていたら、結構ありました。 盛岡にいらっしゃった際にはご案内しますので~ ぜひ行ってみたいところあれば、お申しつけ下さいね!

この土地の良さ

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盛岡駅から歩いて2~3分のところに開運橋という、盛岡に着いたらほとんどの方が一度は通る橋があります。 その橋のたもとに、北上川を見渡せる『木伏(きっぷし)緑地』があります。 去年整備されたばかりの川沿いの公園ですが、食べ物屋さんのコンテナ店舗が並んでいて、ちょっとした憩いスポットになっています。 いつか車ではないときに行ってみたいなと思っていましたが、 本日はお日柄もよく、うきうき気分で行って参りました。 青空の下、昼間っからお酒を飲む~、って 一度やってみたい、と思っていたんです。 地元蔵元の日本酒を冷やでいただき、せっかくだから、地元産と書かれたものを選んで注文。 ぜんぶうまーーーい。 今まで、普通に外国のものを食べ、季節外れのものを食べ、大人になるまで見たこともなかったものを食べ、 お金さえ払えば何でも食べられていました。 これからもそれは変わらないでしょうし、そうやって食べる楽しみがあって全然いいと思う。 それでも、自分たちが暮らしてきた(ご先祖様も暮らしてきた)この土地のものを食するということは、 一番それが身体に合っていて、口に合っていて、 長く食べ続けていても飽きないものなんだなあって思いました。 その土地で昔からとれる季節のものを、自分たちが食べる分だけつくり、 その土地の風土にあった食べ方で料理するって、とても理にかなっているし、 それを食べてこそ、その土地の気候の中で、元気に暮らしていけるのでしょうね。 若い頃は、岩手の良さをあまり実感したことがありませんでした。 とにかく寒いし、雪が多いし、暗いし、閉鎖的だし、すべてにおいてなんか地味・・・。 でも、歳をとるほどに、魅力満載になっていくのです。 どんなにがんばっても都会にはなれない、『田舎者』の精神?もまたいいのではないかと思えたりする。 自然だけは変わらず豊かで、 ささやかな生活の中に、ささやかながら芸術や文化も取り入れて質素に暮らしてきた。 そういう良さがわかるようになってきたことが、うれしいです。 自分の中にも、この土地に住んでいるからこその自分、という在り方があるのかもしれませんね。

気遣いか、プライドか?

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父の暮らしているホームも、やっと家族訪問が解禁になりました。 約2か月ぶりで会った父は、また少し歳をとったような感じがしました。 手を握ると、そのままわたしが離さなければずーっと握ったままでいます。 その手はいつも冷たいので、しばらくさすってあげるのですが、 ついでにポロシャツのめくれた襟を整えたり、髪の毛を整えたり、伸びた眉毛も鼻毛も気になって切ってあげたり、 といろいろやっていると、だんだんうっとおしくなってくるのか、わずかに表情が固まってきます。 その固まった表情を見ていると(機嫌を悪くする一歩手前という感じ)、 あ~まだそこまで手をかけられたくないというプライドのようなものが残っているのかなあって、 妙にほっとしたりします。 わたしは小さいころから、この歳になるまで家族、親戚から『まーちゃん』と呼ばれているのですが、 もう久しく父から、そう呼ばれたことがありません。 一年くらい前までは、呼んでいたように思うけれど、ホームの職員さんがいくら「娘さんの名前なんだっけ?」と言ってくれても、 笑っているだけ(一応わからないことを、ごまかしているつもりか)。 そしてわたしも、父がわたしのことを娘だとわからなくなってしまった、とはまだ認めたくない・・・。 だから、今日はわからなかったけど、今度来たときは思い出してくれるかもしれないって毎回思ってしまいます。 でも、父は気遣いがあって優しい人なので、きっとわからないとは言わないんじゃないかと思います。 誰なのかも、名前も、全部忘れてしまったことを、 父なりに、はっきり相手にわからせてはいけないと思っているような気がします(それは失礼にあたると思っているというか)。 もしかしたら、目の前にいるこの人たち(わたしと母)を傷つけてしまうのではないかと思っているかもしれないし、 わからないっていうのがバレるとかっこ悪いと思っているかもしれないし(まだ少しプライドありそうだから)、 それとも、本当はわかっているけれど、それを地球人の言葉ではもう話せなくなっているのかもしれません。 理由はともあれ・・・ 生きていてくれるだけでいい。 家族のことを忘れても、父の世界の中でおだやかに過ごしてもらえたら、それが一番だと思っています。 言葉が交わせなくなったことは、とても寂しい。 で...

なんでもない一日

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ある日の休日、いつものように『朝の宣言』。 「今日は目についたもの、思いついたことをやって過ごします!」 さっそく真っ先に目についたものからやってみた。 テーブルの上に出しっぱなしになっていたものを片づけた。 棚のほこりをはらって、クイックルワイパーの替えを交換した。 水だし麦茶をつくった。 洗濯機をまわしている間、服をたたんだり、しまったりした。 家計簿をつけた。 両親の介護サービスの書類を整理した。 洗濯ものを干して、お花に水をやった。 遅い朝食に、冷やし中華をつくって食べた。 眉毛だけ描いて、外出(所用を済ませた)。 喉が渇いて、スタバでチャイを飲んだ。 イオンで「ミシンの修理、見積もりします」とあって、ずーっと気になっていた動かなくなったミシンを家に取りに戻った。 ミシンを出した後、たこ焼きを買って帰った。 家に帰って、たこ焼きと今朝つくった麦茶を飲んだ。 『魂の道場』のプリントを読み返した。 ブログをかいた。 筋トレを10分やった。 夫がまだ夕飯はいらないと言ったので、朝ドラ『エール』一週間分の録画を見た・・・。 ミシンを直す機会に恵まれたのは、ラッキーな出来事でした。 冷たい麦茶とアツアツのたこ焼きにも感動・・・ といった、なんでもない一日を今日も過ごせた喜びがそこにあります。 目の前にある特別じゃないことを、一つずつ味わいながらやっていると、 それが次にまたやれることを生み出し、また次、そのまた次って、 一日が今の自分にちょうどいい感じに流れていく。 それは、なんでもない一日から、しあわせな一日へと変わっていくのだと思う。 同じ24時間を、以前よりもかみしめ、本当にしたいことを考えはじめた人が増えているように思います。 だから、今日も明日も、宇宙レベルの大きな気づきを与えてくれるきっかけを作ってくれたコロナにも感謝です。

信頼関係

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以前、ある方が、自分の障害ゆえにひどく傷ついてしまった出来事がありました。 そのときわたしは、何かもう少し自分にもできることは無かったか、とても責任を感じ、 何とかしたい気持ちでいっぱいでした。 その方は、起きた出来事だけでなく、過去にもあった似たようなつらい経験や、人への不信感や苛立ち、 消化できない怒りをぶつけてくるようになりました。 今思うと、もうこれ以上は自分には話を聞くことも対応することもできないと、 限界寸前の「転移」「逆転移」という現象が起きていたと思います。 もし、今日もまた敵意を向けられ、耐えられなくなったら、担当を代わってもらおうと決めていました。 がしかし、その日を境に、ほんの少しですがその場の空気が静まっていくような感じがありました。 ●○○さんが怖い ●うらまれたくない ●もう傷つけられたくない など、その日感じた感情をもとに、自分のパターンへの語りかけをし、 そのパターンを救うことだけに専念するような日々があの頃続いていたと思う。 信頼関係を築くということは、ただ相手のことを思うだけではつくれない。 そのときの正直な自分を受け入れること、 自分の成長を止めないことがとても大事だと、その方から教えてもらったように思う。 相手を何とかしたいという気持ちは、それこそ大きなお世話だった。 相手からぶつけられた気持ちに対して感じた自分の気持ちを、ただただ見ていき、 そんな気持ちになっている自分を許すということ。 魂の道場での学びがあって、本当に救われたと思いました(と、感じたのはずっと後のことですが・・・)。 今、なぜそんなことを思ったかというと、 その方が、本当の怒り(小さい頃から抱いていた家族や他人、世間への怒り)を話しながら、 誰に遠慮することなく正直な気持ちを口にし、 それでも生きていかなければならないと、折り合いをつけたかのように話していたからです。 いやなことがある、じゃあ、自分は何を選択する? といつも問いかける。 そうすると、時には自分が我慢すればいいということだったり、 時には相手に伝えてみたり、時には黙って行動を変えてみたり・・・ と模索しているうちに、あきらめがついたりするのだそう。 このあきらめは、明らかに自分を認めるという、自分を知ること。 こんなふう...

挨拶へのパターン

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同じ事実を目の前にしても、何かを感じる人もいれば、そこまで感じない人もいる。 挨拶をして返してくれなかったとき、 自分の存在までも否定されたとか、何て失礼な人なんだと怒る人もいれば、 あれ、聞こえなかったかな、何か今日あったのかなと相手の問題と感じる人もいる。 ただ自分が挨拶をした、それだけで終わる人もいる(返事を返されようが返されまいが関係なく)。 挨拶がちゃんと交わされなかったときに、 そのとき自分は心が騒ぐのかどうか・・・という点だけなんだと思う(この時の相手は関係ない)。 毎日職場でも、利用者さんたちがどんな挨拶をしているのか、 またどんな感じに返しているのかと他人とのやりとりをチェックしては、心の中で、 あ~もう少し元気いい方がいいな、目線が合ってないよ、今もしかして返さなかった?それは最低だ、などと心が騒ぐ。 観察して、直したほうがいいなと思うと、言い方をとても考える一方で、 伝えることそのものに迷いを感じる自分もいました。 せこい、細かい人間は嫌われる、あら探しがうまい、 相手をキズつけるかもしれない、そこまでちゃんとやらなくてもいいのかも等々。 こう考え始め、次に何をするかというと、 気にしていない振りをするという行動をとり、挨拶に関してのパターンを無視し続けてきたように思う。 近所の子ども、家の前に立っている自分に挨拶をする人、しない人、そこにも意識がいく(不快感の大なり小なりを感じる)。 ●挨拶はちゃんとするべき というパターンが毎日登場してはいたのに、見ようとしてこなかったんだなあって思いました。 相手のことだけでなく、自分も挨拶しそびれたり、迷ってしなかったりということがあると、その後もやもや感が残っていました。 挨拶をされなかったことよりも、自分がしなかったことの方がずっとこのもやもや感があることに気づいたので、これは、 〇自分のために挨拶しよう、という白を選び、実行しています。 自分がする、それだけでOK、終了~。 やってみたら、単純で簡単なことだった・・・。 利用者さんへは、就労を目指していくわけですから、これからもタイミングを見ながら伝えていこうと思っていますが、 そこに以前のような感情は起こらなくなっているという違いは大きいです。 した方がいいことはわかっていても、声が出...

パターンが落ち着くはずがない

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最近、見つけたパターン。 ●このパターンが落ち着くはずがない、というパターン。 パターンのケアをするということは、 そのパターンを認め、あなたは何も変わらずそこにいていいと語りかけをし、 充分に「私」とパターンが信頼し、新たな生き方を望むとき、選択したものを中心において行動を変えること。 そうやって行動が変わっていっても、またふとしたときにパターンは騒ぐ~ なんてことは自然にあることです。 でも、その間隔は少しずつ長くなり、 いつしか、あ~なんだか楽だなあ、落ち着いているなあって、 心が軽くなったことを実感する日が多くなっていることに気がつきます。 なのに・・・ この軽さが、落ち着きをはらった感覚が、いつもより長い間続いていることに対して、 あれ?どうしてこんなに楽なんだろう、 こんなに落ち着いていていいのだろうか、 自分が白を選び続けられるようになるなんて信じられない、と思っているパターンがいた。 まだまだ、許せるようにはならないはずだし、 まだまだこのパターンのケアには時間がかかるはず。 だってあれほど強力で存在感があるパターンだったのだから、騒がないはずがない、 と信じてやまない自分(パターン)がいたとは・・・。 このパターンの存在を見つけたとき、そう思っているんだねって語りかけをしました。 今ようやく、この白を選ぶことの心地良さをただただ純粋に味わっています。 この感覚をこれからもできるだけ選びたいし、 もう本当に黒を使い過ぎてきたから、お休みさせたいなあと思います。 そしてこれが本来の「私」の姿なんだと思う。 パターンが落ち着く、ということを今許せている自分がいる。

おたがいさま

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自分が障害のある方と関わる前までは、精神疾患と聞くと何か怖い、って思ったし、 発達障害って、どこまでが性格でどこまでが生まれつきの障害なのか、 精神も発達障害も、どう接したらいいのかまったく検討もつかない、という戸惑いだらけでした。 今、こうして、楽しく話しをしたり、一緒に出掛けたり、関わりをもっていられるのは、 そういった障害がある方が、恐る恐るだった自分にゆっくりと付き合ってくれたおかげだと思う。 わたしのような、おっかなびっくりの人間の気持ちを察する能力が長けているように思うし、 そこを包み込む優しさ、大らかさに助けられることばかりだった(今でもそう)。 疾患があることも、生まれつきの障害特性があることも、ぜんぶが個性。 わたしはこの個性にとても魅了されている。 自分に発達障害の傾向があることで、なんでこうなるの、とは思わず、 だってそうなっちゃうんだもんね、って共感する部分がたくさんあることが自分自身とても救われた思いがした。 時々、話が通じないこと(自分が理解できていないこと)もありますが、それはおおよそ自分の側に原因があるときだと、 パターンの存在を知るようになって、ようやく府に落ちた感じがありました。 ●相手を思い通りにしたい このパターンで話しを聞いているときがそれです(これがあると、相手がシャッターを降ろすような気がしてならない)。 自分の態勢次第だということが、身につまされる。 本当は、サポートする側がされる側の何倍も、自分に欠けているものを埋めてもらっているんだと思う。 自分に優しくできないから、相手に優しくする。 自分を認めてあげたいから、相手を褒めて勇気づける。 自分にできないことを、いつか自分にできるように、相手にさせてもらうことで、疑似体験させてもらっている・・・ そう感じるときがあります。 自分が教える側、助ける側、支える側、導いていく側だと思っていたら、 結果的に、その人にとって自分にとって良い道へと導いてもらい、助けられたのはこちらの方だったということもある。 もうどちらがサポートする側なのか・・・どっちでもあるし、どっちでもないかもしれません。 もし自分がこれからの人生の中で、病気になったり、どん底の出来事に見舞われたり、障害を持つことになっても、 助けられる側だけにいる...

ちゃんと生きていれば、なんとかなる

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 テーマは『お金』。マイナスとプラスそれぞれの意味付けを出しあい、お金に関するパターンについても話し合いました。 お金は、親の考え方や、育ってきた環境に影響されて確立されていく部分が大いにあるようでした。 自分にとってのマイナスな意味付けとしては、 ・人を惑わすもの ・偏見をもちやすいもの ・無駄使いをしてはいけないもの 特に、多ければ金銭感覚がにぶり、身を破滅し兼ねないとか、少なければ卑屈な人生を送ることになるかもしれないとか、 お金に振り回されてしまって、判断を誤ってしまうのではないかという、あやうさがあるように思いました。 また、『お金』より『お金持ち』に対しての妬み嫉みで、偏見もあったなあと思った。 プラスの意味付けとしては、 ・家族を守るために必要なもの ・暮らしを便利にするもの ・街を元気にするもの ・人を変える原動力 ・人の成長に役立つもの ・人の本質が見えるもの マイナスよりもあまり考えることなく出てきました。 自分にとってお金は、良いものだと感じているんだなあって思った。 小さい頃、父親から、 「普通にちゃんと生きていけば、お金は何とかなるから。心配しなくていい。」 そう言われたことを、わたしはいまだに信じているように思います。 子どもだったから、泥棒したり、欲張りすぎたり、怠けたりしたりしなければ、 ちゃんと神様は見ていて、困らないようにお金をあたえてくれるんだろうなあって思っていた。 「もしお金に困るようなことがあれば、自分の中の何かが間違っていると思いなさい。」 単にお金の使い方だけではない、生き方のことを言いたかったんだろうなあって思います(まだ、父は生きてますよー)。 帰宅してから思い出したのですが、 6月に入ってくるとちょっと騒ぎ出すお金でのパターン、ありました。 ●ボーナスをもらってみたい、です。 わたしはボーナスに縁がないみたいで、これまで働いてきたところ全てで出ませんでした。 だから『ボーナスSunday』とか『今年の平均ボーナス額』とかTVで聞いたり、お店の店員さんから『ボーナス払いもOKですよ』とか言われると、 あたり前にみんなに出ていると思うなよ~って、パターンが騒ぐのです。 ボーナスが出ない会社でしか働いたことがない...

心と身体のつながり

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今日は朝から青空が広がり、窓をあけていると爽やかな風が入ってきてとても気持ちがいいです。 先日まではっきりとしないお天気が続き、急にかみなりが光り、どしゃぶりなったり、 と思ったら、場所が少し変わっただけで道路が乾いていたところもありました。 一刻と変わるお天気は、心のようだなあと思う。 激しく感情が動くことも、昔と比べれば随分これでも少なくなってきているようには思いますが、 毎日人と接しない日はないですし、仕事をしていれば面倒なことも普通にあって、お天気のようにいろいろ変わります。 それでも、いろいろなことが日々起きてはいるけれど、 なんというか、喜怒哀楽が少~しだけ、ゆるやかになったような気がするのです。 他人から見れば、それは、ちょっと冷たい人とか、可愛さに欠ける人とか、 年齢なりに落ち着いてきたとか、もしかしたら、マイナスな印象をあたえていることもあるかもしれません。 でも、このほんの少しのゆるやかさって、とてもいいなあって思います。 ここを感じるようになって、身体がなんとなく動きやすくなっていることにふと気づきました。 前より疲れにくくなって、朝の目覚めがとてもいいのです。 体重は変わらないけど軽くなったような気分になる?という感じで。 感情と身体はとても直でつながっているんですね。 よく、「平常心でのぞみます」とスポーツ選手が言うのを耳にしますが、 平常心に近ければ近いほど、身体がその人にとって一番いい状態でいられるということ。 ちょっとわかる気がしました。 こんなふうに、心と身体のつながりをこの時期に実感できたこと、 健康な肉体を両親からご先祖様からいただいたからこそです。 ありがたい。 どこか一ヵ所だけ何とかしたい(治したい、よくしたい)っていうわけにいかないものなのかもしれませんね。 心の学びをしていると、思ってもみないことが起きたりする。 そんなサプライズ、ときどきあります・・・。

きらい、と言えるまで

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出てきてくれたパターンを忘れないように、いつもスマホにメモしています。 ちょうど去年の今頃(6月)は、5つくらいのパターンが書いてあり、その中の一つに、 ●○○さんがきらい、がありました。 そして一昨年の今頃はどんなパターンがあったのかなと思ったら、 ●○○さんが大きらい ただの『きらい』に『大』が付いていた。 カウンセリングを学んだ当初、他人をきらっているパターンが自分の心の中にあるということが信じたくない、というより、 知られたくない、隠したい、見たくないという気持ちが強くあった。 道場で学ぶ仲間にさえも、 他人をきらっているというパターンがあるということは、言いづらかったし(他のパターンはうちあけられるのに)、 口に出してしまったら、認めてしまったら、何かとんでもなく醜い自分を見せつけられるようで、 自分にはこのパターンはケアできないんじゃないんだろうか、ととても怖かった(そう思うのもパターンなのだが)。 あれから、ずーっときらいなことを受け入れたり、受け入れられなかったり、 大丈夫かもしれないと思ったり、やっぱり無理~と思ったり、 いろいろな波を経験しながらも、ずーっとケアしてきました。 そうやって続けてこれたのには理由があって、 自分自身を少しずつ楽にしてあげたい、ということもそうだけど、 いつか、『きらい』と共にいられる世界、そこから見える景色はどんなだろう、 そこへ行ってみたいと思ったから。 そして、パターンが言う『きらい』の理由も月日と共に変化。 はじめは、もうとにかく相手のやること成すことがイヤと思っている。 相手に原因があって、そのせいで自分の感情が振り回されていると思っていたのが、 相手のここに傷つく自分がいるとか、 ここに自分は耐えられないんだ、 といった自分を中心に置いて、自分側にあるものへ目が向かっていく。 相手をこんなにまできらうほど、一体何に自分は恐れを抱いているのか。 この恐れや不安の理由の中に、『きらい』の本質がある、と少しずつわかるようになりました。 自分に向き合いはじめると、不思議なほど、『きらいな人』が増えるんです(あ、わたしだけか?) カウンセリングの先生にそれを告白したとき、 「あ~そうそう、いい感じね」とやさしく笑って返されたこと、覚えています(言われた...

うまくいっているなあと思うとき

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パターンに引っかからない日はないけれど(特に、悲しい、さみしい、やる気が失せる、頭にきたといった感情)、 さほど引っかかるようなことがなかった、いつもよりは感情が動かされることがなかった、という印象の日があります。 また、一つのパターンのケアがされていって、何だか少し心が軽くなってきたなあって、ちょっと嬉しく思う日もあります。 淡々とした時間が過ぎ、今日は何も起こらない(感情が高ぶることがない)平和な日で終わりそうだなあって、 何だか『とてもうまくいっている』と感じるとき、 このままパターンが落ち着いていくのではないかと(もう騒がないのかもしれないと)思ったりします。 そういう時って、小さなパターンを軽視してしまう、ということが起こりやすくなるような気がする。 うまくいっている感じがするから大丈夫だ、 ちょっとざわっとしただけだから(パターンのうちに入らないんじゃない?)・・・ と省略してしまうところがあるのかもしれない。 パターンが騒がないことが平和だと、思うようだったら、 それは明らかにパターンが言っていることで、本当の「私」ではない。 わたしはそこを、本当に本当に観察できているかな・・・と思った。 どんなに、いろんなパターンが出てきて、だだをこねても、そのままでいいよと一緒にいられることが、 『うまくいっている』『いい感じ』ということ。 そして、うまくいっている感じがするときに陥りやすい、小さな小さなパターンを粗末にしてしまうこと、 ここも、一緒にチェックしたいです。