正直に生きるって

人の心は複雑です。
頭にくること、くやしいこと、悲しいことがあっても、
何かの拍子にちょっと笑えたり、ほっとしたり、そして思いきり幸せを感じることもできます。

感情が大きく動くのは、パターンがなせるわざ。
小さな心の波も、パターンであるため、放っておくとしっかりとその存在感を表し、
ああ、これってパターンだったんだと後から気づくこともあります。

パターンを、本当の自分だと思って生きている人はあたり前にいます。
むしろ、パターンだとか本当の「私」とか、分離させなくても自分は前向きに生きているから大丈夫と思っている人もたくさんいると思う。
そう、知らなくても生きていける・・・

生きてはいけるのだけれど、
ではなぜ、
人には感情(頭にくる、くやしい、悲しい、可笑しい、ほっとする、うれしい等々)があるんだろう。
そう感じたことはないでしょうか。
人間にだけ与えられた、感情(動物にもあるが、ここは割愛)。
自分の中に存在している感じるという生きもの、そこに目を向け、観察し、認め受け入れていくことで、
人として成長していくこと、生きる意味までもがここに隠されている、と考えてみたら...。

この感情をコントロールできれば楽に生きられる、と思うかもしれませんが、
コントロールすることを身につけると、本来そこにあるべきものが抑圧されていくことに鈍感になります。
頭の中で感情をすり替えていくことにも、違和感を感じなくなってしまいます。
たとえば、
「自分の気持ちに正直に生きています」
とても自然体で無理のない生き方に聞こえますが、
それをやっているのは、本当の「私」ではなく、
パターンがしていた、パターンの言い分に従うことが正直さだと捉えていることがあります。
毎日よくよく自分の心の動きを観察し続けていないと、ただの我欲だった、自分に都合よく生きていた、ということもあるかもしれません。
そして、正直に生きられないことを責めるパターンに気づかない、ということもあるでしょう。

もしここで、パターンと「私」の分離がされていたとしたら、この心のからくりに気づくことができます。
今何かの感情がわきおこったのは、本当のあなたではなく、パターンというものですよ、
本当の「私」は別にちゃんといますよー、
という、離す(区別する)という感覚がとても大事になってきます。
正直に生きたいってどうして思うのだろう・・・とちゃんと「私」が感じてから、「私」で考えることができるのだと思います。

最近では、感情はコントロールするものではなく、受け入れるものだと、そう言っている人も多くみられますが、
受け入れるという行為をパターンにさせていないだろうか、という観察がとても大事になってきます。

複雑な心は、たくさんのパターンにあふれている。
その心を(どのパターンも)、取りこぼすことなくすくいあげていきたい。
そこをやるのが、できるのが、本当の「私」です。
そして、たくさんのパターンがあっていい(全くもって複雑でいいのだ)というところに「私」の愛を感じます。












コメント