離れていても大丈夫

今日はオンラインで岩手クラスの勉強会をしました。
久しぶりにみんなの顔を見ながら話しができて、なんだかすごくうれしかったです(結構、みなさん、はしゃぎましたね)。

話題は、やはりコロナウィルスでした。
自分がコロナにかかってしまうことよりも(自分が死ぬことよりも)、
誰かに移してしまうこと(誰かの命を奪ってしまうこと)への怖さを感じている方が多かったです。
だから、できる限りのことをして気をつけながら暮らしているんだと。
家族だからといって、その考え方は微妙に違うでしょうし、
その中で自分の気持ちを伝えていくことは、今この不安なときだからこそとても大事にしていきたいです。
離れて暮らす家族がいれば、普段よりもそうしたい気持ちになる。

現実的にどんな行動をとっていくかで、その人の考え方、人生観が垣間見え、
そこにどちらが正しいかとか本当に宇宙レベルになってしまうと、判定は出せない。
でも自分の身に、誰かの身に危険を感じたら、それをはっきり伝えたり、回避への協力を求める意思表示も必要になってくると思う。
緊張と安らぎのバランスをとりながら、どちらかに偏りすぎないように毎日を過ごしたいです。

それにしても、オンライン上で一度にみんなの顔がいっせいに見えるためか、
声を発していないときでも、自分はここにいる、ということを感じました。
今日気づいたのですが、
わたしは話している人がいれば、その人以外の方の表情って、あまり見ていないんだなあって思いました。
本当はどんな顔をして聞いているのか見たいけど、人の顔をじろじろ見るのは良くないと思っているパターンがあったのかもしれないです。

そのパターンとは反対に、人の顔を見るのが好きなんだわたし、という発見もありました。
顔に集中しているため、たまに話の内容がまったく入ってこなくて、困ったことがあるなあと気づく・・・
日常を振りかえってみても、わたしのあるあるでした。
また、画面には、話しているときの自分の表情を見ることができるので、
化粧変だなとか、口がへの字になっているなとか、
結構うなずくんだなとか、結構ふき出すな(笑ってしまうな)とか、思いました。

仕事ではよく使っていますが、
はじめて仲間うちでやる、今日のこれは、まったく気分が違っていました。
すごく精神的な距離間が近いというか、その話の中に入っていく感じがあるなあ、と。
自分がこの時間、どういう目的でやっているか(参加しているのか)、
オンラインという方法が良いとか悪いとかではなく、すべてそれを使う、こちら側の動機なんだなあと思いました。
味気ない感じが嫌だったけど、そこも思い込みだったんだと気づいてよかった。

コロナが消息したら、青空の下での勉強会もしてみたいです。
地球に、日本の大地に、感謝しながら、建物を出て風を感じながらやってみたい。
そうやって、いろんな方法で、人と関わったときの感じ方をみてみたいなあ。
みなさん、いつもありがとうございます。







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