共感できなかったときは

一日の中でコロナの話題が出ない日はありません。
その話題になると、少し前までは、ただ自分が感じているままに話していたのですが、
この頃は、相手が感染について、どのような捉え方をしているのかを探るようになりました。
そこを知らずして、自分が思っていることを話すと、場の空気感が重くなったり、ピリピリさせていたりすることを感じたからです。

普段、会話の中で、たとえ共感できなかったことがあったしても、
そんなに相手を構えさせたり、苛立たせたり、不安にさせたりすることってあっただろうか、
と思うほど、コロナの話題は、この共感するかしないかということにものすごくフォーカスされているように思います。
少しでも共感していないことが伝わったり、対策が不十分だったりすると、
『分かっていない人』『非常識な人』『無責任な人』という扱いになってしまっているような感じさえ受けます。

恐怖心と正当化って、どこか似ている。
情報を人より多く持ち、話し、相手より自分の方が知っているというだけで、自分の方が正しい、になっているような・・・
自分の考え方に、じわじわと相手を誘導していこうとする人もいます(そうかな?とは言わせない)。
最もらしい言葉で、自分の恐怖心をやわらげているつもりなのかもしれません。
恐怖の中に一緒にいることが、安心だったり常識であったりするかのように、変な団結が組織の中で生まれているような気がします。
もちろん、経営者の立場ならば、会社を存続させるためというそもそもの観点の違いはあるかもしれません。

どっちが正しくてどっちが間違っているということも、大きな意味でいうとない。
あたえられた肉体があっての人間ですから、コロナでなくとも病気の予防はとても大事。

でも、今思うことは、
自分は今どう感じているのか、本当はどうしたいのか、という感覚だけは大事にしたい。
誰かに合わせることもしなくていいし、違うことをアピールする必要もない。
もし、他人に合わせなければ、組織の中で生きられないというのであれば、
『ここでは、最低限の話を合わせる』という選択を本当の「私」がすること(自分もやった!)。

日本人は特に田舎では、村八分にされる(非難され、仲間外れにされる)ことが最も恐れることではないかと思うのです(これ、自分のパターンかもしれないが)。
その恐怖心があるということ(パターンがあるということ)を、ちゃんと理解し見守り、怖いということに蓋をしないでいたいと思いました。

岩手県の感染者なし・・・一人目になりたくないというところのパターンは、岩手県民かなりの人が持っていると思う(自分にもある)。
それは、どうしてなの?というところが正直に見れるかどうかだけなんだと思いました。




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