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3月, 2020の投稿を表示しています

何を選ぼうか

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今日は、夫と同伴の病院予約の日でした。 食事指導 されたことの途中経過をチェックしてもらうためです。 本来は数か月先だったのですが、食事がうまくコントロールできない人はそれ以前に一度来てくださいと言われていたのでした。 今朝になって、「やっぱり、予約取り消そうかな」と夫が言ってきたので、 今の状況を考えれば、病院へ行かない方が自然な流れだなと思い、そうしました。 食事のチェックって、 病院へ行かなければチェックできないものではない、と薄々気づいていた夫とわたし。 毎日つけている食事ノートもあるし、 ノートを見なくたって、ちゃんとやっているかどうかなど、誰に聞かなくても自分のことですからわかります(自分には嘘つけない)・・・。 それを、「どうやったらちゃんとできるんでしょうか」と聞きに行くのって何かおかしくないか? しかも、今大変な状況におかれている医療機関にわざわざ行って、自分のしたことを確認するってどうなんだ・・・ということで、 急遽、素人なりに二人で食事をふりかえり、自宅にて反省会と激励会(このままでいいのか、を問う会)を行いました。 すべてが自分の選択と行動にかかっている。 自分に向き合うって、こういうことだなあと思いました。 誰かに言われてやらなきゃ・・・は、実は自分のものになっていない(パターンがやっているもの)。 しかも、この気持ち悪さは自分自身が一番よく知っている。 「~しなければいけない」「~するべきだ」から、 「~したい」又は「~するだけ」という世界の中で生き続けていくことを、本当は選びたいのです。 だからここを、何度も挑戦しながらやっていきたい。 社会の一員としての役割としてやる、を選ぶ 家族の中で自分が一番適任だからやる、を選ぶ 仕事として自分ができることだからやる、を選ぶ これらの逆もありますよね。 そうやって、本来望んでいることとは違うけれど、「今は、これを選ぼう」と決めて行動することが、 仕方なく何となくやってしまう時とは、まったく違ったプロセスをもたらします。 待ったなしの日常についてはこんなふうに対応し、後からじっくり自分に問いかけていけばいいのだと思います。 結局は、自分の選択と行動のおさまるところには、嘘がないというこ...

真実はどこにあるのか

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先週の日曜日に放送されていた、新型ウィルスに関係するNHKスペシャル。 録画したままになっていて、今日やっと見たのですが・・・ (なぜこれほどタイムリーなものを、今日、だったのか) 今更ながら、すごく怖いと思いました。 すでに一週間前に(放送される時差を考えるともっと前に)、今日の状況を、 感染症の専門家チームが、言っていたからです。 オーバーシュート(爆発的な患者の急増)とロックダウン(都市の封鎖)があっという間にやってくる、と。 こんなに毎日、コロナコロナとTVでは言っているのに・・・、 肝心の、真実の情報はなかなか入ってこない。 東日本大震災(福島の原発)のときと似てる、と思いました。 起きていることの、正しい情報がまったく入ってきていなかったということ。 そして、被災地から遠い地域の人たちが自分のことに置き換えて、ことの重大さを実感するのは、むずかしかったこと。 それと同様のことが、今たまたま感染者がまだ出ていないだけの岩手の人たちに起きていないだろうかって。 感染が起きている首都圏の人たちと同様、無駄な外出をやめて、できる限り接触をさけ、感染予防に徹した行動をとっていくことへの意識が、 まだまだ足りていないような気がします。 数少ない感染者のいない県として、残れば残るほど、大丈夫か岩手?・・・と思うし、 そう言っている、自分も意識が低かったと思いました。 それにしても、どうして、このような事態になったのでしょう。 なぜ、今だったのでしょうか。 人類の生命をかけて、人が目を覚まさなければいけない時にきているのか。 そして何より、 自分自身は、一体どこへ向かおうとしているのか。 問いかけられているような気がしてならないです。 新型ウィルスそのものへは、いろいろな受け止め方があるでしょうが、 この事態が一人一人に向けられている真の意味は、みんなそれぞれ違う何かがあるのだと思います。 それでも、怖さですべて覆ってしまうのではなく、でも平和ボケでもなく、 自分ができることをやって、そしてからこの地球へ祈りを送りたいという思いをあらたにしました。 だから今日は、とても現実的に、免疫アップの料理を作り、ちょっと運動をし、家でお笑いを見て笑い、美容室の予定をやめて髪を家で染めてみました。 明日は季節が冬に戻っ...

楽しく生きるために

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本当の「私」で生きたいから、人生を楽しく生きたいから、 パターンではないところで話したい、行動したい、と思っている。 だけど、「私」を信頼し、「私」の存在に意識を向けないと、すぐにパターンで生きていることになってしまう。 それほどパターンって、気が抜けない存在・・・ねんきが入っている。 はじめは本当の「私」ってどこにいる?と胸に手をあてながら、このあたりにあるという感覚をイメージした。 もう何十年と、これが自分だ、と信じてきたパターンたちのことを、 胸のあたりに存在している(と自分はイメージしている)「私」が、自分なんだ、ということをちゃんと感じていく。 そして、パターンの言いたいことを聞きながら、「私」があなたたちを守っていくよ、ということをパターンたちにも知ってもらう。 これが、パターンと「私」の出会い。 ぼんやりとしていた(まだ少し頼りない)「私」の存在と、強烈な主張をしてくるパターン。 お互いの本来の役割を理解しながら、語りかけによって両者の関係性を築き、 「私」という大きな存在を、はっきりと実感するようになっていく。 このプロセスは、宇宙規模のゆっくりとした動きではありますが、これほど確実で安全で、わかりやすいものはないなと思います。 そうやってきて、本当に少しずつですが、 支配させっぱなし、活躍させっぱなし、働きっぱなしのパターンたちをもういい加減休ませてあげたい。 さも本当の自分がしているかのように、パターンで話すとか行動するとか、もう、もう~充分やってきたんじゃないか・・・ そこまできてはじめて、今までとは別の存在がいると、それが「私」なんだと意識する、ということもあるかもしれません。 そしてさらに、気がつくとあれほど意識的に感じていた「私」の存在が、少しずつ大きくなっていき、 いよいよもって「私」が自分の人生を創造しはじめる。 わたしはこの魂の成長をめざすカウンセリングをしながら、この方法で人生を楽しく送りたい、って思っていますが、 この方法(カウンセリングやワークをしていくこと)でなくても、さまざまな経験を通して、本当の自分を生きている方たちもいると思うのです。 そうやって、たった一人の生き方、あり方が地球をこえて、宇宙全体へと広がっていくという...

どんな環境でもいいわけではない

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ヨガ教室が再開しました。 家でも普通にヨガはできるはずなんですが、 温度湿度が管理された空間で、リラックスできる音楽を聞きながら、呼吸に集中し精神統一。 そういう環境で〜、やりたいんですね。 インストラクターの先生の華麗な動きが見れたのも(自分も華麗に動けているかのような気分になり)良かった。 自分のための心地よい空間、 自分のための時間、が守られている安心できる環境でやれるヨガを、心底わたしは満喫したいのだろうなあって思いました。 気持ちのよい汗をたくさんかいて、疲れたけれど、動けることの幸せを感じました。 空間が及ぼす、心と体への影響も今回感じました。 新型ウィルス対策で、消毒はもちろん、何度かドアをあけて換気。 ドアをあけたときの、外から入る風が気持ちよかったり、 いつもより、音、におい、温度、明るさ、空気の流れ、人との距離感などを感じ、 五感をふるに使っているんだなあと思いました。 人はいろんな神経を、四六時中使い続けているのでしょうね。 だからこそ、五感が休まる環境に身をおいてみるって、いいことかもしれません。 それは、自分のパターンにひっかからない環境? とも言えるかもしれませんが、 五感に何かがひっかかったとしても、本当の「私」が今日ここでやろう、ここで体をほぐそう、と選んで決めてやってみる、 という意思が、さらにいい環境を作り出すのだろうと思います。 理想は、どんな環境でもいい(やれる)、になっていきたいですがー 「私」を発揮できる環境ってどういうところなのか、と考えてみるのもいいですね。

工房蟻さんの服

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『工房蟻』さんでつくられている洋服が好きです。 とても着心地がよいです。 もし、自分が金持ちだったら・・・蟻さんの服だけをいっぱい買いたい・・・くらい好き。 リネン生地は、肌ざわりだったり、風合いだったり、 痩せていても太っていても体型に左右されずに、丁度よくなじんでくれるところがたまりません。 着心地が良すぎて、着ていることを一瞬忘れてしまいそうなほどなんです。 そんな、バカな~って思うでしょうが、 本当にボトムなどは「あれ、今日、下履いていたよね。あー、履いてたあ。」 って思うくらい(実際履いていなかった、ということはないが)、着ていることのストレスがない。 しかも、蟻さんのボトムはほぼゴム入りなので、忙しい朝も、さっと履いてきゅっとひもを結び、じゃぶじゃぶとお洗濯できてすぐに乾きます。 この扱いやすさもいい。 リネン特有のしわは、仕事着にはどうかなとはじめは思っていましたが、 今では、多少しわしわでも着たい・・・という方が勝ってしまい、 休みのときも、お出かけのときも、仕事でも着ています(毎日ってことですね)。 これまで何度か、実際につくっている蟻さんとお話をしたことがあります。 ナチュラルな服のイメージとぴったりな、森に住んでいるような方です(工房は盛岡市内)。 さすが、自分がつくったどの服も上手に着こなしていて、立ち姿勢の美しさからなのか、バレリーナのようなイメージもあります。 やさしい雰囲気で、お話するととても楽しい方なんですが、やはり職人という感じは漂いますね。 このシンプルさの中に計算された形(体にほどよく添うシルエット)を生み出すだけあって、きりりとした精巧な感じもあります。 ものづくりをしている人、いいものを作っている人って、目が違うように思います。 本物を見分ける目、誠実に仕事をする目、着る人を思うやさしい目、服がとても好きだという純真な目、とてもきれいな目です。 これからも、いくつになっても着られる大好きな洋服たちをつくり続けていただきたいです。 蟻さん、いつもありがとうございます。

他人より劣っている その2

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先日の 『他人より劣っている』 という言葉に、ざわついた自分と対話しています。 はじめに引っかかった、随分はっきり言うなあということ。 失礼な言い方だと思ったこと(本人の目の前で言ったわけではないが)、 人として尊重していないような感じがあったこと、なんか、上から目線だなあって思いました。 でも、その後すぐに、違う考えに転換していきます。 わたし自身、何かデリケートな話題のときでさえも、 クッション言葉というのでしょうか、 前置きのことばとか、気持ちとか、コミュニケーションでのマナー的部分を省略して、 伝えたいことを直球で言ってしまうことがあります(これは永遠に、練習中)。 そう思うと、逆の立場であったら、 口からでた言葉は直球かもしれないけど、 言わんとしていることは汲み取ってくれるだろうと期待し、言ってしまうことってあるな、と感じました。 苦手なところ、時間がかかってしまうところ、努力で解決するには難しいというところ等々、いろんな意味が含まれていると察することもできる。 わたしとその方との関係性ができてきたからこその、遠回しではない言い方だったのかもしれません。 そうなると、そこまで上から目線ではない、ということか。 と・・・状況の分析をしてしまいました。 一般的にはこうした分析をして、頭で納得して終わってしまうことが多いです。 でも、これは全部思考での対処なので、本当の解決ではないのです(解決、というのもまた厳密には違うのだが)。 ざわついた、という感情は存在したまま。 大事にするところ、見るべきところは、存在しているパターンは何かということをちゃんと見なければいけなかった。 わたしはあの時、自分自身に言われたような感覚になっていた・・・と思いました。 上から目線で言われたというのも、自分が上から言われたんだ、と受け取ったのです。 だから、とても緊張してどきどきして・・・ ●自分は劣っている というパターンが、「そんなこと言わないでよー」って悲しくなってしまったのでした。 ああ、そうだったんだね。 あなたは、自分は劣っていると思っているんだね。 自分に向けられた言葉でなくても反応してしまうほど、パターンの存在感は大きかった。 ●自分はダメだ という似たようなパターンもありますが、 このパ...

他人より劣っている

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はじめから、ここが他人より劣っていますと言ってもらった方が、スムーズにいくことってあるんです・・・ 発達障害のある方を企業実習へとお願いしたとき、担当者からいわれた言葉。 『他人より劣っている』 そ、そ、そんな随分はっきり言う人だなあと思いました。 ですが、この言葉、いいも悪いもなく、ただ事実を教えてほしいということなんだと思いました。 人は、さほど頑張らなくても優れている部分と、どう頑張っても劣っている部分があります。 だから、優れているところはより発揮してもらえばいいとして、 問題となる部分は、はじめから対策を取っておきたい、接する側にも心の準備がほしい、 ということなのでしょうね。 障害を理解しようという姿勢があるのは、企業担当者よりも自分の方だ、というのも思い込みなんだと思いました。 その人らしく働いていくには、弱点よりも得意なことに目を向けたほうが良いと思いますが、 弱点をしっかり認めていて、ちゃんとできないことを伝えられるということは、その方の強みになっていくと思いました。 そして、今回『他人より劣っている』という言葉に反応した自分のパターンは何だ? 劣っていると言ってはいけない・・・みたいな感じだったと思う。 緊張が走り、もの悲しさを感じ、そう言われた方へ同情する気持ちになった。 ●劣っていることは恥ずかしいこと または、 ●上からものを言ってはいけない ●人は対等でなければいけない そして、先日、日記を読んで 恥ずかしいと感じた ・・・ということについて、いろいろ思う自分がいました。 ●偉そうにしてはいけない こういうたぐいのパターンもあるかもしれない。 障害のある人に対しての偏見はなくても(ないと思っているだけなのか)、 要領良くやれる人、頭がいい人、できると言われる人、などへの偏見をもっているのかもしれません。 うーん、このあたり胸がざわざわします・・・

これが、今の自分

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自分の書いた、ある日の日記を読み返し、無性に恥ずかしい気持ちになりました。 そのときは、思ったことを素直にそのまま書いているつもりなので気がつきませんが、 何にこっぱずかしさを感じるかというと、 偉そうな言い方だなあとか、わかったようなこと言っているなあとか・・・ と思う内容にです。 本当に文章ってむずかしい。 もしかしたら、ブログを書いている方ならば、一度は、自分の書いたものを全部消してしまいたーい、 と思ったことないでしょうか。 人からどう思われているのか、まったく気にならない訳はないです。 かといって、それを気にしているとまったく何も書けなくなってしまう。 書くという行為をしてみて、はじめて分かった葛藤。 でも、自分って、これ以上でも以下でもないのも分かる気がします。 それは仕事でも何でも同じで、結局はわたしらしさが出るだけなのでしょうね。 今の自分の意識の持ちようが、そのまま相手を通して表れ、結果となり、評価となり、課題となっていく。 本当にそれだけなのですが、 ちょっとだけ等身大の自分よりは良く思いたい、というのはパターン。 ときどき、気持ちの良いくらい、自分を飾らず、でも謙遜もしすぎず、 相手に余計な気を遣わせることもなく、ごく自然体で話をする人っています。 それは、経験の積み重ねで得たものなのでしょうか、それとも、ご本人の資質でしょうか。 話しをしたときの、さっぱりした感じっていいなあと思います。 正直さが軸になっている感じです。 そう、この正直さがあれば、恥ずかしいと後から思うことはないかもしれません。 これからも日常で感じたことを書いては、こんなことでいいのだろうか・・・ と感じることはあると思う。 そういうときは、 「これが、今の自分だ」と自覚しながら、 「大丈夫、そのまんまでいこうよ」と声をかけながら、書いていく。

この時期だから

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新型ウィルスのために、いろんなことが制限される日々。 できるだけ控えるようにとか、できればしないほうがいい、やってはいけないとか言われると、 今までしなくても別に平気だったことが、妙にやりたくなってしまいます。 例えば、映画館で映画を見ること、カラオケをすること、友だちと飲みにいくこと、温泉に入ること、ヨガ教室に行くこと、東京に行くこと等々。 ダメと言われるとしたくなる、あまのじゃくですね。 やるなとか、やれとか何の誰の影響も受けず、やること(やっていること)って何でしょう。 今の自分で考えると、家族の幸せを願う祈り、がまずは毎日していることの一つかなと思いました。 それから、目の前で困っている人がいたら、助けること。 それから、自分(パターン)への語りかけ。 今、思い浮かんだのは、これらです。 祈ることは、自分にとって、宇宙への感謝の気持ちを伝えることでもあります。 そして、わたしにとってではなく、一人一人にとっての幸せを願いたいです。 また、困っている人を助ける、というのは、 助ける方法もいろいろあるでしょうが、純粋に自分ができることはしたいと思うのです。 そして、語りかけは、呼吸をするような感じ。 自分(パターン)への理解は、とても自然なくらい、自分には必要なものになっています。 自分の内面の世界は、今見えている世界よりもずっと広いようです。 周りばかりを見て、限りなく観察し、時に批判し、分析したりする時間があるならば、 自分の気持ちを見つめ、そんな気持ちになる自分を理解し、自分が本当は選びたいと思う選択をさせ、 それにともなう行動を取っていけるようになりたい。 だから、語りかけはどんな事態になっていても、変わらずやることの一つ。 さあ、自由に動き出していいですよ、と言われる日までの楽しみ方もいろいろあると思います。 この数週間で、家でつくるご飯がちょっと丁寧になり、ご飯の時間も特別な時間に感じます(丁寧につくった分、かみしめて食べるからか)。 どういうわけか、寝る時間も長くなりました。 全体的に質素だけど、安心して家で過ごせているのでしょうね。 温かい家でぬくぬく過ごせること、この家の良さも、今回しみじみ分かった。 緊張と緩和、恐怖感と安心感、危険と安全・・・バランスを取りながら、なんとかやって...

愛おしい年代

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50代の女子会しました(女子と言って良かったか?)。 40代のようにのりにのっているとか、まだまだ吸収力があるとか、失敗してもぎりぎり若さで許してもらえるとか、 そういうことが通じなくなっていく50代。 一般的には、経験と知識がものを言う・・・はずなんだけど、 どんなに経験や知識を積んでも、できないこと、なれないものがあるということも知っている。 結構、険しさを感じます。 定年まであと何年と数えながら、意欲的に働くか、黒子的に働くか、惰性的に働くか。 惰性的になるくらいならば、違う道を選ぶこともできるのでしょうが、 経済的なことも考えると、さあ、現実をどうしようか・・・と悩む方は多いのではないでしょうか。 働くということ以外でも、 家族のかたちが大きく変化したり、地域の人たちとの関わりが出てきたり、 一人で過ごす時間も以前よりまして大事になってくる。 「これからの生活、どうする?」 この言葉に正面から悩むことができるのが、50代なんだと感じます。 誰しも、人生悔いがないように生きたい、と思うでしょう。 では、悔いがないように生きるにはどうしたらいいのか。 ふと思ったことは、 『今を大事にすること』それをまずやってみようかな。 目の前のことをコツコツとやり続けていった先にあるもの。 それが何なのか、まだわかりませんが、 今、すでに用意されてある流れに乗りながら、 もしくは、流れに乗れなくなるまでは、やり続けていいのかなと思いました。 女子会では、同じように悩み、もがき、笑い、涙し・・・ありのままでいられる、 何かとても愛おしく感じる50代。

与えられたことの中で

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9年前、震災が起きたとき、 電気・水道はとまり、ラジオから、三陸に7メートルの津波が押し寄せていると聞いて、 これはとんでもなく大変なことが起きたと思いました(実際には15メートル)。 数日後、電気が復旧し、テレビではじめて、津波が町をのみこんでいく様子を見て愕然としました。 どこか遠い外国で起きているかのような、信じられない光景だった。 夫は仕事としてすぐに被災地へ応援に行きましたが、 自分の生まれ育った町の変わり果てた姿に、仕事以上に何かしたいという気持ちでいっぱいだったと思います。 その後も、沿岸に足を運び、当時手に入らなかったガソリンを分けてあげたりしていました。 毎年、少しずつ変わる町の様子を見に、ご飯を食べにいったり、地元の名産品を買ったり、本当に微力ですが買い物で応援をするようになりました。 最近は、と言っても年に一度ではありますが、被災地のどこかで宿泊をしては、震災当時から今までことを聞いたり、夜は地元のおいしいものをたくさん食べ、朝は美しい日の出の海に感動し、 やっぱり海はいいなあって、もう、応援という隔てたものではなく、自分たちが癒されに元気をもらっています。 あの日があったことは、ずっと忘れることはないですし、 自分たちのふるさと岩手にはたくさんの山があって、川があって、海があって、この大自然の中でこれからも生かされていくんだなあと思っています。 被災した東北をひとくくりにして、「大変だったでしょう」と言われることがありますが、これにはいつも複雑な気持ちになります。 実際は、内陸と沿岸では被害がまったく異なり、 沿岸でさえも、津波での被害がある無しや、家族が無事なのかそうでないのかで、自分が支援をされていいのかと思う方は多くいたと聞きます。 どちらが大変で、どちらが不幸で、そんなことを比べたくはないけれど、 自分より困っている人がいると、知ったからには黙っていられない。 だからこそ、あんなに大変なことがあったのに、みんな助けあいながら励ましあいながら、泣いたり笑ったりしながら今日まできたのだと思う。 成長したい、前進したい、人の役にたって生きたいという気持ちは町が変わっても変わらないのかもしれません。 わたしも沿岸に住んでいたころがありますが、 そのときにもし震災があったなら、自分は何かを真剣に...

お互いに気を遣っている

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今日は、久しぶりに夫と休日が一緒でした。 朝、わたしは早く起きて、確定申告のためにパソコンに向かっていました。 夫が、「今日の朝ごはんは何かなあ」と言っていたような気はしたのですが、 それに答えたかどうか分からないほど、わたし、集中していました。 その後、頭が疲れてきたので、さて朝食をつくろうかなあと、 鮭を焼いて、カブの味噌汁をつくって、玄米を混ぜたご飯と、昆布の佃煮と納豆を朝食に。 「すごい日本人の朝食って感じ。おいしいね~」 と自画自賛しながら食べていたとき、 食事制限しているはず(ご飯は少なめの一膳まで)の夫は、おかわり三膳していました。 そして「ごちそうさまでした。腹くるしい~」とソファに横になる夫に、わたしは、軽く叱りました。 その後の夫の言い訳がすごかった(おもしろい)。 朝、わたしのじゃまをしないように、お腹が空いていると言えずに我慢して待った。 お腹が空きすぎたから、食べるつもりが全くなかったご飯を食べ過ぎてしまった(空きすぎていなければ、おかわりしなかった)。 さらにそのことで怒られて、気を遣った結果こうなるなんで、なんてかわいそうなんだ、自分。 ・・・ということを言っていました。 いつも気を遣うのは、わたしの方だった若い頃を考えると、 今は、もしかすると夫の方がわたしの行動に合わせて生活してくれているのかもしれないと思いました。 おなか、すごい空いてるから、って言ってくれれば良かったのにと言ったのですが、 そんなわたしから『じゃまするなオーラ』が出ていたそうです(確かにそうかも)。 いつから夫が、そういう空気を読むようになったのかわかりませんが、 わたしにしてみれば、どんな理由があっても夫のためならば(健康のことが今は大事だから)、ご飯くらい先につくったのにと思うのです。 これからは、遠慮しないでまずは言ってみることにしようねと話し合いました。 言ったほうが断然良かった、なんてことを後から(何十年もたってからとか)気づくのは、なんか悲しいよねって。 そういうわたしも、映画館で見たい映画が今あるのですがー それは、99%夫は興味ないだろうなあと思うので、言っていません。 でも本当は一緒に見たいんだけどね、くらいは言ってみようかな。

楽しいときの理由

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誰かと一緒にいて、とても楽しくて、たくさん笑って、ゆったりリラックスした気持ちで安心して話ができている。 そんな状態を楽しんでいるのは誰なのか・・・と思うときがあります。 純粋に、本当の「私」がそこにいて、ただその時間をあじわっているのか、 それとも、黒パターンの望むことが満たされて、よろこんでいるのか? 心が軽い感じ、その時間の後に何も残らないフラットな感じ、 また、風通しのよいさわやかな感じとか、春の日差しのようなぽかぽかした感じとか、 気持ちの良さがどんな種類のものなのか、観察です。 これは、違うかもしれないなーと思うのは、 そこへ自分が苦手とする人はいなくて、普段から気の合う人だけがいて、 その苦手な人がいなかったばっかりに、あ~楽しかったなあと思ったときです。 そう、「その人がいないから・・・楽しい・・・」これです。 もしいたら、自分はこんな話はしなかったとか、 もしいたら、こんなふうに笑わなかったかもしれないとか、 もしいたら、はじめからその場は安心できる場じゃないって、条件付きのものだったと思うときです。 結局、自分のパターンにひっかかる人がそこにいなかったから、存分に楽しむことができたというだけのこと。 本当ならば、自分のパターンにひっかかる『苦手な人』がいても、普通にそこにいられる自分になれたらいいなと思っている。 苦手だと、嫌だと決めつけない自分になっていきたいなあって。 自分の人生に登場してくる人たちを思うと、 なぜこの人と出会い、関わっていかなければならないのか、と思うことがあります。 でも、深~いところで、すべてが自分に必要な人だということもわかっている。 誰がいるからできるできないではなくて、 一切の決めつけのない世界で、そのときを楽しんだり、学んだりしていきたいです。

他人が気になるときの気持ち

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他人のことが気にならない人はいないと思います。 気になるというのは、『私』ではなく、『パターン』が他人をみて何かしら引っかかっている、ということ。 自分の感覚や感情に目を向ける、ということに慣れていないと、 本当は気になっているのに、その感覚や感情をスルーしてしまうことに慣れすぎてしまった結果、感じていない(気になっていない)と思い込んでいる、 ということがあります。 また、本当は気になっているのに、思考で対処してしまい、気にならない自分を頭の世界でつくりあげている(嘘の自分を本物にしようとしている)、 ということもあります。 「自分は他人のことって、気にならないんだよね」 と言っている方は、ほぼ、感情無視か思考対処か、という違っているようで実は同じ理由。 感覚とは、体の感じ方や実際におきている体の現象をいいます。 胸がどきどきする、頭に血がのぼる、息苦しい、震える、食欲がない、涙が出る、具合が悪い等々。 感情は気持ちです。 悲しい、さみしい、腹立たしい、悔しい、不快感、焦燥感、絶望感等々(マイナス感情でいうと)。 特別なことは何もなく、誰にでもあるものです。 なのに・・・どんな気持ち?どんな感覚になっているの? という質問に、わたしたちはびっくりするほど慣れていません。 どう思っているの?という問いには、答えられても、 気持ちと聞かれると、自分が考えていることを話したり、他人の言っていたことを話したり、 そこには、質問に対する正当な答えを、またしても考えてしまうのです。 気持ちを感じとる(口にする)ことは、 とても無防備で、自分の弱みを見せてしまうことだと思ってしまうのかもしれません。 「感情的になってはいけない」とよく言われることばにも、 感情を見せないようにすることがいいことで、 感情がないほうが、冷静に物事がうまく進んでいくような、どこか理性的で知的なイメージすらあるのかも・・・ 自分の考えをまとめたり、考え方の整合性をとったり、ということをほとんどの方が日常的にやっています。わたしもある。 一方で、自分の気持ちを観察し、どんな気持ちであるかを正確に正直に話せる人はとても少ない。 はじめに考えありきではなく、感覚と感情ありき。 ここから他人が気になる自分なんだということがわかり、パターンをみつけ...

どうして認められたいのか

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●褒められたい ●認められたい などといった、他人からよい評価をしてもらって、 ちゃんとそれを言葉で言ってほしいと思ってしまうパターンがあります。 どうして、そういうパターンがあるのか。 これらのパターンを持っている人みんなが、同じような経験をし、育った環境が似ているとは限りません。 人それぞれ、パターンが誕生した経緯は違います。 小さいころ、わたしはとても活発で、体育や運動会で大活躍をするタイプ(今ではそのかけらもないが)。 お勉強の方も可もなく不可もなく、いわゆる、まあまあの良い子だったんだと思います。 両親からたくさんの愛情をもらい、ことあるごとに褒められて育ったように思います。 今思うと、周りの大人や親戚、先生からも同じように、若干ちやほやされていた感じがあります。 そうして中学、高校、社会人となって、 自分より認められみんなから尊敬され、すごいねと言われる人達が世の中にはたくさんいることを知ります。 それでもまだ、何かしたら褒められて、認められてあたり前なんだ、と思っている。 しかし、自分が思うよう欲しいような言葉は次第にもらうことが無くなって、あったとしてももの足りなくて、 どうしてなんだろう、褒められないことへの居心地の悪さを感じながら、評価されないことへの不安(悲しさ、寂しさ、怒り)がつのっていったのだと思います。 子育ては褒めて伸ばす、ということが一般的になっていますが、 それだけでいくと、もしかしたら、こんなパターンをつくりあげてしまう可能性があることも考えなければならないと、自分を振りかえり思います。 他人から与えられてあたり前、になってしまうと、 与えられないことへの不自然さ、違和感、不快感が、どこまでも評価される言葉を求め続けていく・・・ これは、本当の「私」ではないのだ、パターンなのだと気づくまで、 そうしてくれない他人を責め続けます。 褒める、認めるといった評価を他人に求める人間になってしまうと(パターンでの話しだが)、永遠に満たされることがないですから、本当に苦しいです。 でも・・・ 幸にして、パターンというものは、苦しさを生み出すものだけで終わりません。 ●褒められたい、のとなりには、〇褒められなくても大丈夫 ●認められたい、のとなりには、〇認められなくても大丈夫 とい...

主人公で生きていく

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いいも悪いもない、ただ経験していくだけ。 これはいい出来事、これは悪い出来事というものは何もなくて、 死ぬまでにどれだけ多くのことを経験していくのか、経験し続けていくのが人生ということ。 今日、お会いした方が言っていました。 本当にそうだなあと思います。 その方は人生の大先輩で、 いつも明るく、やさしく、ユーモアあふれ、お話しているだけでこちらが癒されてしまうような方です。 商売をされているので、とても現実的なところもありつつ、 「どっちでもいいのよ。そうしたいと思った方でいいのよ」 と言って笑う、アバウトなところもわたしは好きです。 人生談義?がとてもおもしろく、神秘的なお話もたくさんあって、 でもそれは特別なことではないよ、というところも、逆に興味深く聞いてしまいます。 その方がまだ若かったころ、どうしても行きたいコンサートがあり、 思い切って子供たちも連れ、家族みんなで行ったのだそうです。 大好きな曲が流れたその瞬間に、 自分がいて、その歌手がいる・・・ 自分がいて、そして世界がある・・・ ギターの神様エリック・クラプトンが目の前にいるのに、そっちが主役ではなくて、 わたしがわたしの人生の主役、主人公なんだとわかったそうです。 そして、家族ひとりひとりも、みんなそれぞれ自分が主人公で生きているんだと。 一流のミュージシャンから、その日会っただけの人まで、 人生のいろいろな場面で、そのときに必要なメッセージを受け取りながら、私たちは導かれているのかもしれません。 人を介して、音楽を介して、芸術を介して、自然を介して、 そこから自分を中心に世界が広がり、自分が自分の人生の主人公として、たくさんの経験を与えてもらっているような気がします。 今日は、「たくさん作っちゃったから持っていって~」と、 わたしからおじゃましたのに、お赤飯とお煮つけをいただきました。 とっても味が深くて、丁度よくて、本当においしかったです。 こういうご縁をいただいていることに、心から感謝。