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完璧にできる人になりたい

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自分のミスで怒られるということがありました。 自分が悪かったので、怒られてしまって当然で、言われた内容は本当にその通り、怒った相手の言うことに間違いはありません。 ひたすら謝罪するわたし・・・次は本当に注意していかなくては 。 ●完璧に仕事ができる人になりたい パターンになぜそう思うのかと聞くと、 だって、完璧にやれれば怒られることもないし、責められることもないし、自分が楽でいられるし、苦労しないですむから。 他人からとやかく言われることがいやだと、 言われたら、自分はとても傷つくんだとも言っています。 だから、完璧にやることができれば、自分は傷つく確率が減る。 つまりは傷つくことに恐れを抱いているから、パターンはどうやったら傷つかないかと考え、仕事ができる人を求めていったのだと思う。 もっと 深く掘り下げていくと、 傷ついたらもう自分は生きていけない、誰からも相手にされない ・・・ 人から見放され、何の魅力も持たない自分を妄想しているのです(なんと、極端なことか)。 完璧を目指せば目指すほどに、何をもってこれでよしとするかがとても曖昧です。 その曖昧さを求めるのですから終わりがないし、それはむしろ苦しくて努力ばっかりで、 自分が楽でいられると思っている世界とは真逆の方向へ行ってしまう。 完璧さを求めてがんばるのは、 傷つきたくないという恐れが発端になっているので、向かう先は休まることのない世界です。 〇自分のできるところでやっていこう 自分が今もっている力で精一杯、周囲の助けや見えないものの力を借りながら、今やれることを誠実にやる。 それが自分の仕事の仕方なんだ、それで大丈夫なんだというところを選ぶと、 肩の荷がおりて、ほっとして仕事を楽しめる余裕、失敗から学べる意欲が生まれます。

本当の「私」とパターンの区別

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いつも何かしらの不安があって、いつも何かにおびえていて、 ちょっとしたことで心臓がばくばくして、胸がしめつけられて、やっぱり自分ってダメだ・・・ 人前ではどんなに平気を装っていても、 本当の「私」は、こんなに弱く情けなく無力な人間なんだと思っていた。 この弱く情けないほどに無力だと感じているのは、本当の「私」ではなく、パターンと呼ばれているものなのだけれど、 どうしても、そんな自分との付き合いが長いばっかりに、 これは本当の「私」ではないのです、と言われても~ ・・・パターンとの区別がつかない時期がありました。 先日、ある方が、とても人の目が気になってしかたないと言っていました。 人の目やどう思われているかも気になるけれど、そうやって気にせずにはいられない自分はもっといや。 「このままじゃいや。でも変われない」と言う。 この、気になるということも変わりたいけど変われないと思う気持ちも、どちらも本当の「私」だと捉えているととても苦しいです。 本当なんだから、これはどうしようもないというさらなる絶望感(よく言う、性格は変えられないというのと一緒?)。 「本当の」という言葉には、「裏の顔」みたいな意味をイメージしてしまって、 優しいけれど本当は意地悪とか、 落ち着いて見えるけど本当は怒り狂っているとか、 余裕をみせておいて本当は死ぬほど怖いとか。 後者の表現のような悪いこととされるものが本当の「私」だと思った方がしっくりきていたかもしれません。 もちろん、パターンも自分の一部であるのでそれも自分ということで間違いではありませんが、 自分のケアをしていくうちに、 優しかろうが意地悪かろうが、 それさえも問題視しない全てを包みこむ神のような大きな存在が自分の中にあることを、 少しずつ実感として感じられるようになっていきます。 このプロセスは、3歩歩いて2歩下がるくらいの本当にかすかな実感から始まりますが、 不思議なほどに、体験したことは忘れられません。 そしてまた、本当の「私」とパターンという2つの存在を理解するというのは、 論理的に考える癖があると難しいのかもしれないとも感じます。 なぜかというと、頭での理解で完結してしまうことがあり、 体感の部分が省略されても(行動を起こさなくても)頭での理解を「経験できた」「わかった」とみなしてしまうことがあるからです。 どうやらそんな...

意識を高くもたない

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休日はゆっくり過ごしたいと思うのですが、 そのために何をして過ごしたらゆっくりできるかなって考えるのが自分は苦手です。 ゆっくり過ごしたいというのは、それだけ休日という時間でないとゆっくりできない性分ということかもしれません。 これでも大分ましになったとは思うのですが、以前は手の抜き方がよくわからなくて、 好きなことに対して過集中になってしまい(これは、気になっていることに対しても同様)、 本当にふらふらになるまでエネルギーを注ぎがんばってしまう性格でした(倒れるまでやる、みたいな)。 家に帰ればスイッチが切り替わるのですが、 そのスイッチの効きが微妙に切り替わっていかないときがあり、 身体こそ動いていないけれど、だらだらと頭をずーっと使っているということもあります。 何かわかるまで考えぬきたいと思ってしまうパターンがあるようです。 そんな日々が続くと例外なく、疲労がたまり、睡眠の質が低下し、目の下にくまが出没し、頭痛がしたり、首のヘルニアが再発したり・・・ といったわかりやすい身体の症状が表れてくる。 そして、もっとわるいことは、 今日の休日は本気でゆっくりしないとやばいと感じてしまうと(疲れがピークを感じると)、 『ちゃんと休むこと』に意識が向いてしまうこと。 何をしたら、どんな時間の使い方をしたら、最高に自分はゆっくりできるのかを考える。 午前中はこんな感じで、昼は何を食べて、あそこに今日こそ行ったらいいか、それともこっちに行った方がいいか、 夕方は何時には家に戻ってゆっくりした方がいいか、頭を使わない本なら読んでもいいか等々。 いい一日にしたい意識がハンパない・・・。 何をしたらベストかをいちいち考えて頭を使い過ぎて、また忙しくなっていたり。 これは自分にとってあまりいい兆候ではないです。 もっと、意識を低~くもつ方がいい(休日に関しては)。 朝ご飯を食べたら何となくまた布団に入ってごろごろして、 お風呂に入ったりしてもまたパジャマを着る。 何もしないうちに夕方になって、 ぶらっと目的もなくドライブをしたり、 やらなきゃならないことはできる限りやらずに、 本当に無駄だと思えるどうでもいいことをして何時間も過ぎていた〜 こんな休日を無意識に送っていた時の方が、明日への活力へとなっていくという事もあります。 これをやりたいとか、ここに出かけたいとかいう楽しみや、...

続けること

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昨夜、テレビをつけたら、志村けんさんのドラマが放送されていました。 いまだに亡くなられたことが信じられなくて、『8時だよ全員集合』時代から『志村動物園』、朝ドラ『エール』、まだまだテレビで会えるんじゃないかと思ってしまうほど、 その大きな存在感とユーモアと温かい人柄が大好きでした。 わたしは志村さんが共演する方たちに言った「続けていれば・・・」という言葉がとても胸に響きました。 続けることって、自分も含め現代の人たちにとってとても難しさを感じる言葉ではないのかなと思うのです。 続けるためには、もっともな理由、モチベーション、続けられる時代背景と環境、その先に到達できるものがあるのかどうか等々、 いくつかの条件のもとに成り立つものだと考えてしまうから。 続けるのかやめるのか、誰にでも迷う時ってあると思う。 やめたとき、じゃあどうなる。 続けることへのメリットって何?と、いろいろなことを天秤にかけながら考えます。 その先にある自分の姿が想像できないために、何の確約も保障もないまま未来に進んでいっていいものなのかどうか。 戻るなら、やめるなら、変わるなら、少しでも早い方が若い時の方がいいのではないのか、とも思ってしまう。 何か一つのことを一度しかない人生において、選択するのは自分であって、その自分が下す判断は間違っていないのだろうかと、 自分自身に自信を持てないから迷うのだと思う。 でも、自分に自信を持って生きている人などいないし(物事によっては自信をもっていることはあるかもしれないが)、 そういう自分でいるからこそ、悩むことができて、迷いの本質をみようとする機会が与えてもらえるのだと思う。 「続けていれば・・・」の先に言っていたのは「いいことがある」です。 いいことというのは、自分が得をしたり、誰かに認められたり、ハッピーで飛び跳ねて喜ぶこととは少し違って、 もっと静かでじわーっと、ふとした瞬間に感じられる自分が生かされて生きていることへの感謝の気持ち、なのではないかと思うのです。 また、見たことがない自分自身への発見かもしれません。 それは執着することや、意地や惰性ではないところで、 続ける自分をきわめてみようという、カウンセリングへの探求心にも似ていると思いました。 知ってしまったらつまらないし、簡単にわかったと思ってしまえば成長はそこで終わる。 自分も他人もまだま...

相手のためか、自分のためか

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働くことってあたり前ではない。 特に、コロナ時代になってから、就職までの平坦ではない道のりを経てがんばってきた人たちが、そこを辞めなければならない事態になるのは、 本当にやるせない思いがしています。 その一方で、その道のさなかにいる大変な人たちと、その人生の一部にかかわれる自分は、 疑似体験としてもう一つの人生を体験させてもらっているような、かかわらせてもらえることへの感謝の気持ちがあります。 どうやったら今のその人の状況を変えていけるのか(無職という状況だけではなく)、 働くと一言でいっても、障害や病気を持ちながら、またその人のこれまで目を背けてきた部分までもが見えてくる中で、 まさしく、模索する・・・のです。 その苦しさを体験しているのは本人でしかないのだけれど、 その苦しみを生み出しているものはどこからやってくるのか観察をしていく、それ事態が、 本当の「私」が自分の心の中のパターンを観察しているように、わたしがその人を観察していると思うことがあります。 自分のことではないので、100%の理解はもちろんできませんが、理解できてなくてもいいという前提でかかわりははじまる。 謎解きをしていくかのように、自分の心にひっかかったところ(わからない点)をひとつひとつ解いていきながら、 相手を知りたい、その一心でわたしはいるのだと思う。 単に情報を集める、調べる、制度を使う、という現実的な部分よりも(そこも大事だが)、 日々ゆれ動く人の感情、そう思った感じた表れた部分の元となっているものって何だろうってその人や、関わる人たちの心に注目していく。 そこから見えたことで、自分がサポートして変えられるものがあれば行動に移していく作業。 この一連の作業が自分は好きなんだ、とも思う。 でも、この作業は、自分のパターンでやってしまうと全く別のものになってしまうので、 パターンのケアが常に必要・・・ 人とかかわっていく中での自分の感情をキャッチしていくことが、結局のところ、 その人の問題が解決していくことへとつながっていく。 これは、一見関係ないことに見えるがゆえにすごいことだと思います。 相手、相手、と相手のためにと進んでいるときは何だかうまく進まず、 その人とかかわっていくさなかでの自分をケアすることに徹していくと、 いい感じで必要なものが与えられ、背中を押され、運も味方につけ、スム...