本当の「私」とパターンの区別

いつも何かしらの不安があって、いつも何かにおびえていて、
ちょっとしたことで心臓がばくばくして、胸がしめつけられて、やっぱり自分ってダメだ・・・
人前ではどんなに平気を装っていても、
本当の「私」は、こんなに弱く情けなく無力な人間なんだと思っていた。

この弱く情けないほどに無力だと感じているのは、本当の「私」ではなく、パターンと呼ばれているものなのだけれど、
どうしても、そんな自分との付き合いが長いばっかりに、
これは本当の「私」ではないのです、と言われても~
・・・パターンとの区別がつかない時期がありました。

先日、ある方が、とても人の目が気になってしかたないと言っていました。
人の目やどう思われているかも気になるけれど、そうやって気にせずにはいられない自分はもっといや。
「このままじゃいや。でも変われない」と言う。
この、気になるということも変わりたいけど変われないと思う気持ちも、どちらも本当の「私」だと捉えているととても苦しいです。
本当なんだから、これはどうしようもないというさらなる絶望感(よく言う、性格は変えられないというのと一緒?)。

「本当の」という言葉には、「裏の顔」みたいな意味をイメージしてしまって、
優しいけれど本当は意地悪とか、
落ち着いて見えるけど本当は怒り狂っているとか、
余裕をみせておいて本当は死ぬほど怖いとか。
後者の表現のような悪いこととされるものが本当の「私」だと思った方がしっくりきていたかもしれません。
もちろん、パターンも自分の一部であるのでそれも自分ということで間違いではありませんが、
自分のケアをしていくうちに、
優しかろうが意地悪かろうが、
それさえも問題視しない全てを包みこむ神のような大きな存在が自分の中にあることを、
少しずつ実感として感じられるようになっていきます。

このプロセスは、3歩歩いて2歩下がるくらいの本当にかすかな実感から始まりますが、
不思議なほどに、体験したことは忘れられません。
そしてまた、本当の「私」とパターンという2つの存在を理解するというのは、
論理的に考える癖があると難しいのかもしれないとも感じます。
なぜかというと、頭での理解で完結してしまうことがあり、
体感の部分が省略されても(行動を起こさなくても)頭での理解を「経験できた」「わかった」とみなしてしまうことがあるからです。
どうやらそんなすごい「私」が生まれたときから存在しているっぽいという、想像の中での「私」にすぎない(初めはそれでもいいのだが)。

その存在は、いいとか悪いとかなくて、
ただの事実や体験としてだけ捉え、感情に振り回されることがありません。
その存在は、何の裁きも評価もなくありのま(優しい自分も意地悪な自分も)そこにいていいということを、
自然に受け入れられるものです。
その存在は、恐れや不安、葛藤や迷いはなく、ただただ今に在る事ができるものです。

では、本当の「私」だと、どうやったらわかるのでしょう。
これはわたしの体験ですが(手軽にわかる方法)、
何でもいいので美しいなあと思うものを見る、感じる(自分の中に染み渡らせる感じ)。
また、大自然の中に身をおき全身で地球を感じる。
動物好きな人は、動物をなでているときとか、
かわいい赤ちゃんを抱っこしているときとかもあるかもしれません。
美しさに、大自然(地球)に、生き物に、人間に、
あ~素晴らしいなあ、ありがとう・・・
というようなごく自然にわきあがるやさしく温かく静かな世界が広がる感覚です。
すごく簡単なんですが、忙しい1日の中でそういうひと時がなかったりするので、
パターンとの区別がよくわからないと感じたときは、こんなふうに味わってみるといいかもしれません。

一生かけて、その存在(本当の「私」)を大きくしていけたらいいなと思う。












コメント