初心という心

引き続き「禅マインド」を読んでいたら、
だんだん頭に内容が入ってこなくなり・・・
それで、読み進めるのはやめて最初のページに戻ってみました。


禅の修行は難しいとよくいわれます。しかし、その理由については、誤解があるようです。禅の修行が難しいのは、長い時間ひざを組んで座る座禅の姿勢を保つのが難しいからでも、また悟りを得るのが難しいからでもありません。それが難しいのは、私たちの心を、根本的な意味で、混じりけのないものにしておくこと、そして、修行も混じりけのない、純粋なものにしておく、ということが難しいからなのです。


今の自分の状況を教えてくれるようなことが書かれてありました。
自分はこの本を読んでいるうちに何かここから得たいとか、
自分が知っていることと共感をしたいとか、
今度は最後まで読み切りたいとか思っていたことに気づきます。


修行の目的は、この初めての心をそのまま保つことにあります。
たとえば、たった一度の般若心経を唱えたとしましょう。その時とてもよく唱えられたかもしれません。けれども、2度目、3度目あるいはそれ以上唱えたときはどうでしょう。だんだん初めて唱えたときの心を忘れていきます。同じことが、禅のほかの修行でも起こります。しばらくの間は初心者の心を保ち続けますが、2年、3年と修行を続けていくうちに、向上するところもあるかもしれませんが、初心の持っている無限の可能性を失いやすくなるのです。

ー中略ー

禅の修行で一番大切なことは、「二つ」にならない、ということなのです。私たちの初心は、その中にすべてを含んでいます。それはいつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。これは心を閉ざすという意味ではなく、常にどんなことも受け容れる用意がある心です。心が空であるとき、、それはどんなことも受け入れる、どんなことにも開かれている、という状態であります。初心者の心には多くの可能性があります。しかし、専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。


この「二つ」というところは、
「私」と「パターン」という解釈ができます。
読書すら、時間の経過と共に「パターン」で読んでいるということがわかります。

自分がこの学びをしたときの心は、
純粋とまでは言えなかっとしても、初心だったと思う。
知ることすべてに素直だったのではないかと思うし、
そのままを感じていた心が今よりはあったのではなかろうか。

一行一行、
初心の心でまたこの本の続きを読んでいこうと思います。



今年初めての花火





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