勉強会の意味

先日、岩手クラスの勉強会がありました。

『勉強会』であって『女子会』ではなくって~、魂の成長をめざしたい仲間が集まり、自分のパターンを考察する中での気づきを話しながら、またそこからのヒントを得て(又は、課題を見つけて)日常に戻っていく。普段自分が関わる人との間では、ほぼできないような話が主ですので(パターンとか何?ってことになるから)、言ってみれば心おきなく自分の成長のために突き進む姿勢を見せられる場所ということになるのかもしれません。

自分が勉強会に参加する理由の一つに、相手を鏡と見立てて自分の姿を確認したいということがあります。つまりは、勉強会のさなかに自分のパターンを見つけるということ。

今回の胸のざわざわは(パターン出現の合図)●自分でやるべき、というパターン(もしかしたら、人に頼ってはいけない、というパターンかもしれないが)。

自分で決めるよりも、自分以外の信頼している人が言うことの方が正解だと判断することに対しての反応(自分にもあるある、ですが)。一体、自分のこれまでの葛藤や自分に向き合ってきた時間は何だったのか、自分のためにならないよ、自分がやってこそ身になるんだからとパターンは言っています。背中を押してもらったり、自分への自信につながることはもちろんあるけれど・・・。

そして、ここが勉強会で見つけたパターンらしいと思ったのですが、ここに集まる仲間だから、というところ。もしも、普段自分が関わっている人が、同じような話しをしていたとしても、たぶん何も感じないと思うのです(とても客観的に見れる)。

たとえば、語りかけというセルフカウンセリングの中で自分を理解するというワークがありますが、それをやってあたりまえという感覚(悩みの大元を知るために)。また、これまで学んできたことを深めていくこと、活かしていくことで自分を成長させていきたいと思う、そこをやるのが当然で、やらないことはだめなことという決めつけが自分にあったのかもしれない。

前回の日記で起きたことのように、この目的で集まっているのだから、同じ方向を向いていなければダメ・・・みたいな感じです。いろいろな勉強会と称するたぐいのものは、そこに真剣に向き合えば向き合っている人ほど、この思いの不一致性に違和感を感じる人はいるかもしれません。

でも、このパターンのケアは自分がやるとしても・・・これでは勉強会の意味がないと思いました。自分でやってみて、ケアもしてはいるけれど(またはケアがどうしてもできない、もある)それでも腑に落ちていないとか、これでいいんだろうかとか、何だかよくわからなくなってしまったよーって思うことがあります。その疑問を投げかけられる場所、自由に話せる場所、助けて~と言える場所がここなんだ。

ワークで発見したこととか、行動してみて良かったこととか、いわゆるポジティブな内容もとても参考になるけれど、そうではない事柄に心で感じとりながら話を聞く、一緒に想像してみる、違う資質を使って考えてみる、そして、今日からやってみようと本来の「私」を取り戻す・・・そういう時間にしていきたいと今回とても感じました。

こんなふうに真摯に勉強会と向き合えるようになったのも、仲間のおかげです。

少しずつ少しずつ、発言が核心をつくようになり、核心をつきながらも大人の会話(今回の勉強会では、短く内容をまとめる力をつけようだった)を意識しながら、日常では体験しがたい時間を過ごす。次の機会に今回のわたしのパターンについて自己開示をしてみたいと思っています。

みなさーん、どうぞよろしく!







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